けむり、かおり、いのり。(事件後、本編前)

 自販機から取り出したばかりの煙草のフィルムを剥がし、指先で摘まむ。できるだけ平然と、なんでもないように。慣れた様子で火を付けることすら意識して、運ぶ。

 咽せないように気を配りながら、この味に執着しないのを意識する。頭を馬鹿にすることも体が拒絶する有害を取り込むことも好ましいとは思えないが、それでも山田は繰り返す。

 何度か口にしているが、馴染むことはない。匂いを付けるだけなのだから肺の中にまでは入れる必要などなく、しかし吸い方を忘れない程度には取り込むのが触れるときの常だ。サングラスで常に陰る視界で、赤がちらつく。

 は、と煙を吐き出したところで、ふと近づく人影に気付く。長身のシルエットに目を懲らし見ると、ああ、と山田は身構えたものを少しだけ自身の内側に戻した。安堵はしないが、警戒する必要のない人間だ。山田を見つけた男が近づく理由などないが、山田は特別動こうともしなかった。

 男のためにスペースを空けることも、立ち去ることも必要ない。吐き出した煙をスーツに染み込ませる。

 大股で歩くのに、その表情と同じく足先もロボットじみた規則性で動く。男はそのまま山田の隣で立ち止まった。

「……煙草」

 隣に並んだ男の平坦な呟きに、山田は答えない。じじ、とフィルタが赤く灯る。

「以前のものとは違うんだな」

 ふ、と山田は煙を前方に吐き出した。男は煙を追いかけず、山田を見下ろしている。

「次の男か」

「見当ついてるなら聞く必要もねぇだろ」

 煙の合間に言葉を返す。別に否定する必要も隠す必要もないが、男の言動にも意味はないだろう。揶揄するような山田の物言いはある一片では事実なのだろうが、しかし男は首肯しなかった。

「そこまでする必要はあるのか」

 静かな声はよく通り、しかし平坦だ。責めるような物言いになりやすいものすら感情を読み取らせない。別に読み取る必要もなく、山田は口角を持ち上げた。

「分かるかどうかで相手の状態も把握しやすい。勝手に仲間意識持てば上々だ」

 赤、白、赤。それらをしばし見つめ、男は息を吐いた。煙と違いそちらは形にならない。

 意図は読めないがしかしそれが男なりの主張だとわかり、山田は片頬を歪め笑う。

「吸うか?」

「吸ってほしいのか?」

「いや」

 くつり、と山田が笑みを音に混ぜた。男は平時と変わらず感情の見えない瞳でじっと山田を見下ろしている。それをどうでもいいことだと言うように、山田は指先で煙草を揺らした。

「吸わねぇならもう終いだろ? 俺の対象が誰かなんてわざわざ確認する意味もないと思うがね」

 こちとらしがない一般人ですよ。そう肩を竦めて笑ってみせる山田に、男はとん、と胸ポケットを指先で叩いた。

 とん、とん、とん。平時に伝える、聞けとは別のリズム。

 少しだけ山田の眉間がシワを作った。訝しむような顔を見返す瞳は、相変わらずのがらんどうで山田とて感情が読めない。

「そうだな」

 ややあって男が首肯した。訝しみはするが、山田は男の心中を探ろうとはしない。故に結局、もう一度フィルタを赤くする。

「煙草は好きか」

 のっぺりと男が問う。嘘を選ぶ必要などなく、「別に」と山田は答えた。

「ただの道具だ」

「そうか」

 それだけ言うと、男はするりと立ち去った。男の思考はその表情と同じくさほど複雑ではない。だが、その表情故にどこまでみているのかは男の発露による。

 読めないものを考える趣味はなく、また男は山田にとって安全牌でもある故に探る必要もない。

 山田が道を違えなければ、彼は刑事として立ちはだかりはしない。それどころか彼個人にしてみれば山田にとって情報というメリットがある。金のやり取りがない仕事は避ける山田が男とやり取りを続けるのは、奇妙なまでに愚直な相手の性情も大きいものだった。

 奇妙。それは本当にそのままの言葉だろう。山田は自身の見え方を理解している。法に触れずとも山田の行動は好まれるようなものではない。にも関わらず、男は刑事として、そして個人としても関わってくる。といっても個人については男が主張するだけで山田にとっては疑問だが――

 はくり。煙を内に飲み込んで、山田は深く息を吐き出した。

 無意味な思考だ。無駄で無価値。必要な情報は喋る男だし、喋らずに去ったということは山田が言ったように終いだったのだろう。短くなった煙草を灰皿に押し付ける。山田にとって煙草は嗜好品ではない。匂いが付けば十分だ。

「山田」

 灰皿から顔をあげれば、真っ黒い目が山田を見返している。立ち去ったと思った男の姿に、山田は少し眉を上げた。――それはすぐに顰められたが。

「なんですか刑事さん」

「プライベートだ」

 揶揄するような山田の言葉にのっぺりとした声が返る。いつもの問答だ。刑事という立場はデリケートなのか、山田の物言いに度々男はその言葉で訂正を示す。

 情報ではなくなんの為に男が戻ったかはわからないが、しかしプライベートと伝えるときの男の言葉は恐らく山田にとって害をなさない。だから、それ以上には成り得ない。

「俺はもう済だ」

「ああ、間に合ったな」

「……なんの用です」

 山田が促すように言葉を重ねた。男がおもむろに右手を差し出す。眉をひそめた山田の前で、くるりとガムが回った。

「最近これが好きだ。丁度切らしていたから買ってきた」

 それがどうした。そう言いたげな山田に、ガムが押し付けられる。

「やろう」

「いらねぇ」

「貰ってくれると嬉しい」

 まったくもって感情のない声で男が言う。山田が大袈裟に溜め息を付いても、男の瞳はがらんどうだ。

 しかし感情がないわけでないことも、山田は知っている。男が嬉しいというのなら、大抵は本当に嬉しいのだ。理解は出来ないが、しかし表情にでないからこそ言葉を選ぶ男を疑う意味などない。

「日暮刑事を喜ばす義理はないかと」

「プライベートだ」

「……喜ばせる義理はないですよ」

 刑事という言葉選びに律儀に言葉を重ねた男に、山田は面倒くさそうにもう一度言葉の後ろだけを繰り返す。繰り返した言葉に返る視線は変わらないままで、ぱかり、と表情を変えないまま男が口を開いた。

「嫌いか?」

 パッケージを見れば緑。青林檎味。口にするのに躊躇うこともない、無難なものだろう。

 は、と山田は息を吐いた。

「貰えばいーんだな」

 面倒だという態度のまま受け取る。別に押し切られる理由はないが、言うことを聞いて後々立場で問題があるような関係ではなかった。心を許しているわけではないが、刑事としての男に悪意がないのは知っている。そしてプライベートを主張する男もだ。山田が道理を外れない限り、または事件で直接関わらない限り。男は山田がどうであろうとも恐らく障壁にまではならないだろう。

 手の中のガムをそれでも一応、という体で確認する。未開封だからまあ問題はないだろう、と判断して包装の切れ目に指を沿わせる。問題ない。もう一度繰り返し、いや、と山田は短い否定を重ねた。

 そう自身を宥めるように思考を重ねる必要は、先からの思考通りまったくないのだ。そもそも今山田がガムに向ける警戒のような手段など、思考を割くだけ無意味だ。たとえ何があろうと男――日暮がそういう手段を選ぶ事はない。もし選んだとしたら、そもそも山田が見誤っただけでもある。

 隣で満足げに頷く日暮を横目に山田がパッケージを開く。小さなガムをつまみ、山田は日暮に手を差し出した。なにも躊躇わず、日暮はその下に手を差し出し返す。

 ころん、と手のひらには一粒のガム。フィルムを剥がして日暮が口に入れると、甘い林檎が香る。

「嬉しい」

「そうですか」

 これ以上言葉を重ねる必要はない。ガムをポケットに入れると、今度こそ山田は足を動かした。こういうときの日暮の思考ほど理解できないものはない。

 もごり、とガムを噛む日暮は相変わらずの無表情で、林檎を香らせていた。


(初出:2017/3/7 改訂・掲載:2018/1/21)

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