日暮雨彦は能面だ。(朝倉尚士+日暮雨彦/警察学校時代)

 涼しい顔、だと思った。余裕といっていい表情は、しかしそれ以上でもない不可思議な色を持つ。

 トップには及ばないがしかし優秀な男は顔色を変えぬまま、そのトップ層に食らいつく。まるでそれが当然の顔で。体力に限界がないのか、汗を流しながらも、息を切らしながらもその表情は変わらない男。

 ――だから、誰も気づけなかったのだろう。

「、」

 かけようとした言葉がでなかった。胃液の臭いが鼻につく。便所の縁にしがみつく姿は随分と窮屈そうだ。一八〇を越えた大男なのだから当然だ、と思いながら、動けない。

 吐瀉物の臭いとびちゃびちゃと落ちる水の音。そういえば多く走っていた。

 ひゅ、う、と呼吸になりそこなった、まるで肺の悲鳴のような呼気に腕がこわばる。その反射でようやく体が動いた。

ぐれ、くん」

 とってつけたような敬称は口にも耳にも馴染まない。そういえば名前を読んだことなどなかった、眺める方が多かった男に近づく。は、と今度こそ呼吸となった音が響く。

 ゆるりと持ち上がった顔がわずかにこちらを向いた。表情は全く変わらないが口からは唾液が伝い、冷や汗が首筋に浮かんでいる。少しだけ青白いように見えるのは蛍光灯のせいなのか本当なのかはわからない。

「まだ吐く、か?」

「……わからない、です」

 お互い言葉がちぐはぐだ。日暮は能面に似合った調子の変わらない声をしているから仕方ないかもしれないが、この状態でも能面だと言うことが少し薄ら寒く思えた。まだ誤魔化すのか、誤魔化せてしまうのか。焦燥に似た感情は、しかし遅れて認識できた「わからない」という言葉に困惑を示す。

 表情を変えず平然としたまま、大丈夫とは言わなかった。

「キャパオーバーだったんじゃないか? 余分に走っていただろ」

「……面目ない」

 静かな言葉は相変わらず感情を見せないのに、言葉だけ素直だ。躊躇いながらもしゃがみ、その背に手を添える。

「もう少し吐くか?」

「ぅ」

 漏れた声はなんの抑揚も示さないのに、五度ほど撫でると水音になった。

 胃液は喉を焼く。よくよく見ればほんの少し目尻に涙が見える。なのにそれは「泣いている」というよりは「目にごみが入っただけ」のような無感動な仕組みに見えた。貰いゲロをするようなタイプではないが、なぜか肺の内側が少し圧迫される。

「水、持ってくる。医務室は」

 くん、とズボンを引かれた。見るとがらんどうの黒い瞳がこちらを見上げている。

 感情もなにも見えない、こちらを写すだけの黒。

「すぐ収まる」

 のっぺりとした声に感情はない。自分の眉間に皺が寄るのを感じる。舌打ちしそうになるのを寸前で耐え、そのがらんどうを睨み付けた。

「体調管理も仕事の内だ。仲間の不調を見逃したらこっちまで悪くなる」

 はく、と日暮の唇が動く。端が唾液で汚れたままなのに何をいっているのだろうか。成績が下がる不安はわからなくもないが、なぜか無性に腹が立った。

 壊れるために学んでいるのではない。務めるための今だ。

朝倉あさくらくん」

 のっぺりとした声で呼ばれた名は名前以上でも以下でもないのに、なぜか懇願を思う。

「尤もだと思います。ですが、もう平気なので」

 静かに呼吸をして、日暮は自身の口許を手の腹で拭った。そうしてしまえば全て嘘のようにわからなくなる。けれども鼻につく胃液の臭いが、全てを曝す。

「そもそも、日暮くんが無理をするのが悪い。報告もかねて医務室には行くべきだ」

「しかし」

「その程度で脱落だと思うのか? 日暮くんは、よっぽど完璧主義なんだな」

 苛立ちがそのまま言葉になった。怒りを笑みに変えて吐き出せば、日暮の眉根がぎゅむりと寄る。

 他は無表情なのに眉だけがひそめられた表情は、やけに浮きだっていて作り物じみていた。

 馬鹿にしてるのだろうか。こちらの心配などどうでもいいといいたいのか?

 詰め寄りたい心地でその手を無理矢理剥がそうとするが、馬鹿力相手にままならない。

「完璧になれない」

 声は事実を伝える以上にならなかった。

 何故だろうか。なぜこの男はこれほどまでに感情を出さぬまま晒すのだろうか。

 何を晒しているのかわからないまま、なにかを晒されているという気まずさと目を離してはならないようなおかしな心地に肺の奥、背骨の手前がなにかで膨らむ。

 日暮雨彦という男は卒なき男だと思っていた。のに。

「もう、止まった」

 それは嘔吐についてだろう。そのはずだ、と思いながらも、完璧になれないという言葉が一緒に響いた。立ち上がろうとする肩を上から押さえつける。

「水分はいるだろう。水持ってくる。医務室いかなくても、とにかくここで待て」

 ぱち、と、瞬きが見えた。

 感情を伴わないそれはただの挙動でしかない。代わりに緩んだ手が、日暮の信を伝えるようだった。

「……すみません」

「いい。貸しにしとく」

「借ります」

 表情も声も何もかも変わらないのに、言葉に飾った様子はない。考えてみればあまり話をしない故の印象の薄さ含めこの男は自分を飾らなかった。

 誰かを馬鹿にすることも自分ができて当然とも言わず、それでいてそこが自分の場所というように、技術も知識もトップ集団にかじりつく。俺は運動を得意としないが、知識ではその集団だ。同じ塊の連中と少し違い後ろにピタリとあり続ける、どこでもそのひとつ後ろを進む男にうすら寒さを覚えていた。表情が変わらない点も含めて。なのに、今はどうだ。

(わかんねぇ)

 早足で自販機に向かう。なぜか無性にイラついた。何も感じないでも、取り繕うでもない。そう感じたのにずっとその顔色は変わらず、だからああして限界が来ないとこちらはわからないのだ。理解ができない。

がしゃん、と落ちたペットボトルを拾い上げる為に身を屈めると、あの丸まった背が浮かんだ。

(……殴ろう)

 調子を取り戻したら、明後日くらいには。決して曲がらず膝をつかないような悠然とした態度をとっているだろう日暮を思い浮かべ、はっきりと決意した。


(初出:2018/06/24)

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