現在(本編完結後)

甘い一日

 終わったという理解は久しぶりに浸かった湯船の暖かさだとか睡眠の深さだとかで実感となった。薄ら寒いような恐ろしい可能性に至らなかったことに感謝と、自身の恵まれた環境に頭を下げるしかできない結果。そういうものが、四肢を巡る。

 なにもかもが解決したわけではなく、横須賀さんに関してはこちらが諦めるだろうという想定があったにしても歓迎できるものではないことだってあった。人は他人を理解しきることが出来ないのだから、他人の行動に絶対は存在しない。そんなこと、あの人だってわかっているだろう。もし、山田太郎が横須賀一を選ばず逸見五月の妄執に固執したら、という想像を横須賀さんがしなかったとは考えにくい。

 そもそも逸見五月が死に、山田太郎という皮の内側には決意しかなかった。嘘も犠牲もすべて身に降りかかっていい、未来のない存在が山田太郎だ。だから、山田太郎の相棒を切り捨てる可能性だって、あった。たぶん横須賀さんはその瞬間、あの脅す行為を本当にしたのではないかと思う。嫌な想像だ。けれども彼は、山田太郎が過ちを起こさないための準備だけを周到にしながら、彼を守る一手は山田が自身を選ぶ信頼しか残さなかった。

 まるでそこで求められなければ仕方ないというような選択は、招いた原因が山田太郎だとしても肯定できない。選ぶはずだと信じられることは喜ばしいはずなのに、もう一歩、足りていないのだ彼は。

 切り捨てなかった安堵と、ようやく見えだした横須賀一の自己肯定感への好意を持ちながら、その危うさを忘れてはいけないとも思う。自身の罪であり、彼の罪だ。終わった今罰を受けることはないが、どちらも肯定できるものではない。

 髪をゆるりと梳きながら、沈む思考から浮上する。原因が消えた今、自身の性別を詐称する必要はない。だからこそ以前のような神経質さはなく、起きてすぐのサングラスだとか見目の整えばかりを優先する必要も無くなった。それでも、逸見として生きるには今の生活が馴染みすぎている。

 もともと柔らかい髪をポマードとワックスでがっちりと固める。髪型というのはだいぶその人となりが出ると思う。昔は長い髪を丁寧に三つ編みにしていた。柔らかいのでうまくまとめないと見目が悪く、朝早く起きてはゆっくりと梳いていた。面倒という気持ちはあまりなくて、けれども自分で出来るのに休日に母に結んでもらうようなことを好んでいたのも覚えている。母が丁寧に髪を梳き、逸見五月の語る言葉にくすくすと微笑みながらするすると編み上げる。自分より随分綺麗に手早くなされるのは魔法のようで、けれどももっとゆっくりでもいいな、なんて思ってもいた。あの手と声にふれられる時間は特別なご褒美のように考えていた節があり、中学三年生になっても休みにねだる娘に、母はいつも笑って櫛を持っていた。綺麗な髪ね、と褒めてもらえるたび、いつものことなのに何度だって嬉しかったのを覚えている。

 残ったのは髪質だけで、そんな時間はもう夢よりも遠い。けれども確実に存在した過去で、昔の面影のない自分が鏡の中で笑う表情は、嘆きとも自嘲とも違う。なんだかんだ、この二十年以上の時間は自分を随分変えて、それでいて厭うものばかりでもない。

 放っておくとおそらく穏和に見えてしまうだろう眉をつりあげた形に整える。最初の頃は中々こういったものを準備するのにためらったが、今は男でも化粧をするから気楽だ。――とはいっても、やはりコーナーを見て回るには目立つので竜郎さんに頼んでいるのが現状だが。

 アイロンのかかったワイシャツ、赤いネクタイ、喪服。男は喪服もビジネススーツもさほど違いがないのが便利だと思う。おかげでネクタイさえ変えれば調査の時葬式会場にまぎれやすい。コートを取り出すにはまだ早いのでジャケットを羽織るだけで良しとする。時計を見ても、まだ余裕があった。携帯端末に手を伸ばす。

 死ぬときは、なにもかも繋がりがない方がいい。そういって避けていたものをこうして手にしていることに、奇妙な感慨がある。スマートフォン、という携帯端末は電話と言うよりも小さなタブレットPCのようだ。ラインといってメッセージを送りあうソフトがあり、写真も動画も送れる。既読、という表示も中々便利なものだと思う。竜郎さんが使っていたし調査でも見ることがあったものの馴染みのなかったものは、竜郎さんから送られる小さなメッセージの意味を持つイラスト(スタンプ、というらしい)や花の写真、お酒の写真ですぐに慣れざる得なかった。山田太郎には可愛すぎるイラストは多分竜郎さんの趣味でありながら逸見五月が喜ぶと思ってのものでもあるだろう。そう思うと賑やかな画面が愛しいとも思う。迷惑をかけて、それでも許してくれて、こうして今も友人としていられることに感謝しかない。次いで連絡が多いのは横須賀さん――となりそうなものだが、意外にも別の人間だ。

 ポロン、とした小さな着信音にタブレットを指で撫でる。通知に触れて開くのは横須賀さんと三浦さんのグループだ。奇妙な縁だ、と思いながらも三浦さんから来た挨拶と時刻、集合場所の確認に了解とだけ返す。

「にっしてもケーキ、ねぇ」

 甘味を食べなくなってもう二十年以上経つ。意図して避けてきたもののひとつでもあった。苦手なもので山田太郎がぶれないように努力することはさほど難しくなかったが、逸見五月が好むものはできるだけ避けた。人の感情を理性で律しきれると考えるのは愚だ。それでも苦手なものなら顔をしかめるだけですむ。歯を食いしばることも難しくない。ただ、好意というものが不意に零れてしまった場合は別だ。山田太郎にその表情は似合わない。

 どんなに過去を嘆こうが人が死のうが悔いようが、人間はマイナスだけで成り立たない。傷つかない人間がいないように悲しみだけに浸るような人間もいないのだ。感情は波で存在する。だからこそ、好むものはすべて避けてきた。山田太郎に気の抜けた顔は似合わない。

 ――ただ、それはこれまでの話だ。山田太郎として生きる中で逸見五月を殺さなくても良いし、バレてもなんら問題はない。公言はしないが隠しきる必要もない。ただ探偵事務所をやっていくのに横須賀さんと逸見五月ではあまりに見栄えがよくないのも事実だ。今更あの平和きわまりない面構えに戻ることはないが、それでも山田太郎のガワを無くしてしまえばこのあまり良くない体格が目立つだろう。無理に隠しはしないが戻るつもりもないのが現状で、だからケーキを食べるのも別にいいか、という適当な判断だった。

(多分断られるかもくらいは思ってただろうがな)

 三浦さんの驚いた様子は、その表情だけでなく所作からもよくわかった。おそらく平時は大げさな感情表現を選んでいる人だろうとわかりはするが、中々愉快な反応ではあったと思う。

 通知音に再び画面を見る。場所と日時を復唱し、承知しました、よろしくお願いしますと続けているのは横須賀さんらしいマメさだろう。悪い意味ではない。返信代わりの画像が三浦さんから送られてくる。この人もこの人でやけに可愛らしい画像を送ってくるが、竜郎さんと違いどちらかというとこちらの警戒心を無くそうとする努力なのだろう。あまりまだ知っているとはいいがたいが、三浦さんは賢い人だ。

 だからこそ驚いた後、ああ、と納得の声を漏らしたのだろう。

(いや、賢さは関係ないな)

 好意的な解釈をする人間なら当然のことだ。三浦さんや深山さんたちを山田太郎は切り捨てようとしたのにこれだけ懐く相手なのだから下手に理由を探る方が無粋である。小さくこぼれ落ちた笑いの音は随分と楽しげで、ああ、と内心で息を吐く。

 それでいいと思える程度には、多くが終わったのだ。


 * * *


 体を縮こまらせ、きょときょとと横須賀さんが当たりを見渡す。三浦さんも大きいが、横須賀さんはそれよりさらに大きい。その長身で悠然とした態度をとればそれなりに迫力はあるだろうが、なんとも小動物じみた動きはある意味で横須賀さんの強みでもあるだろう。その体躯で威圧感を無くすことができるのは、一種の才能だ。

「今ちょうどイベントで普段よりファンシーですけど、落ち着いてておすすめなんですよー」

 落ち着かない様子の横須賀さんに、にこにこと三浦さんが笑って声をかけた。この人は長身を縮めはしないが、しかし顎ひげと筋肉質な体という外見の割に表情で穏和に見えるので可愛らしく飾り付けられた店内にもやけになじんだ。シンプルなショーケースに飾られる華やかな洋菓子、ポスターやバルーンの装飾、花の後ろにあるモダンな木目の色は言われてみると確かに落ち着いた本来の様子を感じられる。――といっても、アリスのお茶会をモチーフにした今はどうしてもレースやトランプ、動物の絵など賑やか可愛らしい印象の方が強くなるが。

 三浦さんの言葉に横須賀さんは頷くと、ふぁんしー、と小さく復唱した。不思議そうに馴染まない言葉を視線と一緒に巡らせて、それからもう一度頷き直す。

「だから、人形、とか、色がたくさんなんですね」

「アリスモチーフですからね。妹ちゃんがご機嫌でした」

 友人と行ったらしいと聞いてもいないのに説明する三浦さんは、あの部屋のまま弟妹にベタ惚れのようである。食事を邪魔しないように造花ではあるが机の上に飾られた花も時計ウサギの人形も、三浦さんの妹には好ましかったのだろう。頷く横須賀さんは三浦さんの笑顔につられるように笑っている。

「お待たせいたしました。ダージリンのお客様」

「あ、はい。俺です。有難うございます」

 にこ、と笑んで三浦さんが手を上げる。目の前で紅茶を淹れる、というのも珍しい店だろう。淹れる所作から楽しめるのは随分と贅沢だ。

 紅茶と一緒に菓子も注文したので、そのままテーブルに並べられる。三月ウサギのタルトと名付けられた菓子は、所謂ベリー系のタルトだ。木イチゴとブルーベリーはおそらくトランプをモチーフにしたもので、それらが積み上がった中央にはウサギのクッキーが立っている。洒落た形だ。

 紅茶を飲んだことがない、と言った横須賀さんには話を聞いてアッサムティーを薦めた。別に珈琲やジュースでも良いだろうが本人が興味深そうにしていたので三浦さんが積極的に話を聞き出して、の結果である。といっても横須賀さんにはあまり好みがないようだったので、よく飲む緑茶は渋みがあるからというあっさりとした理由でミルクティーではなくストレート。それに、アッサムならショートケーキに合うだろう。

 そう、ショートケーキ。横須賀さんが選んだのはイベントに関係する物ではなく、定番のケーキだった。といっても選べないから、というよりは、これだけは横須賀さんが望んだと言って良いだろう。

 食べたことがない、という人物は逸見五月の周囲には居なく驚いたが――キラキラと小さな黒目を輝かせ、じっと見つめる表情は随分と眩しい。

 しょーとけーきだ、と小さく零れた声に、店員が声に出さず笑ったのが分かった。三浦さんなんか弟を見るような目で見ているのでは、という態度で、なんとも奇妙な光景だと思いながら自分に差し出された紅茶に頭を下げる。

 別に隠しきらなくて良いのだが山田太郎の体裁を保っているので、一応可愛すぎる物、は避けたつもりだ。生クリームは正直好きすぎるのでまだ少し手を出しづらい。そもそも甘味が久し振りすぎるので、舌が変わっている可能性も否めない。オレンジピールの入ったガトーショコラは聞いたことがあるが、チョコクリームで飾られたものははじめてで気になったのもあったし、これくらいならまあいいだろう、というなんとも惰性で選んだ基準だ。アールグレイに柑橘系は合うし、少し楽しみな心地も否定はしきれない。

 店員に三浦さんが礼を言い、横須賀さんと一緒に頭だけ下げる。女性限定のイベントではないが、アリスモチーフの店内で男は浮いているだろうに随分と落ち着いた態度で受け入れられた。仕事だから当然とも言えるが、他の女性客も少しこちらを見ては穏やかに笑うだけでなんとものんびりとした場所だ、とも思う。

 横須賀さんはケーキをまるで触れたら溶ける雪の結晶みたいに見守っているし、三浦さんは平和に笑っているので気にすることもないのかもしれない。こういった店に来なくなって随分立つが、逸見五月の時も確か男女で気にした覚えはなかった。そんなものだろう。

 周りに煩くならない程度の声で三浦さんがいただきます、と呟き、横須賀さんもそれに倣う。こちらも続けば三浦さんが少しだけ不思議そうに顔を上げ、それからへらりと笑った。別にアンタに言った覚えはない、という言葉は内心で留めて、気付かないふりをする。

 小さなフォークでケーキの端を切り分ける。一口よりも少し小さめになるようにして、そっと舌の上に乗せた。口に広がるオレンジの香りと、柔らかなスポンジとチョコクリーム。久し振りの甘味が脳にじわりと染み渡る。好みで言えばもう少し甘くてもいいが、所謂大人の味、とキャッチコピーが出るタイプだろう。

「食べないんです?」

 手慣れた様子でタルトを食べる三浦さんが、横須賀さんに問いかける。小さなフォークは横須賀さんの手の中にあると更に小さく見える。じっとショートケーキを見ていた横須賀さんはええと、と困ったような声を漏らした。

「どうやって、たべようかな、って」

「ああー、慣れないとそうなりますよね。端っこからがお薦めかな? でもまあ、食べやすく食べれば良いんですよ。だいじょーぶですって」

 にこにこと三浦さんが穏やかに言う。俺もおっこっちゃってますしねえとタルトからこぼれ落ちたブルーベリーをフォークで刺して笑う三浦さんに、横須賀さんはこくりと頷いて、ひどく神妙にフォークをショートケーキに伸ばした。

 たかがショートケーキ、されどショートケーキ。多分横須賀さんにとって、これは随分特別なのだろう。

 端っこだけ切り分けすぎたので、多分イチゴが入っていない。それを口に含んだ横須賀さんは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した後口元を押さえた。といっても、悪い意味ではないだろう。不思議そうな顔をしたまま飲み込んで、はふ、と息を吐く。

「あまい、です」

「甘いですねぇ。イチゴも一緒に食べると味が変わりますよー」

「え、あ、はい」

 三浦さんの言葉に素直に従って、今度はイチゴもあるのを確認して切り分ける。大きな上背を丸めて丁寧に切り分け、横須賀さんはもう一度口に含んだ。

「あまくて、すっぱい、です」

「おいしいです?」

「おいしい、です」

 へにゃ、と笑った顔は幸せそうで、三浦さんがつられて笑った。こちらも顔が緩みかけ、反射のように右頬だけ大げさに持ち上げる。普通に笑うよりかは軽薄な表情になるのだが、こちらを横目で見た三浦さんはやけににやにやとしていた。まあ、この人は都合良く見守るタイプだろう。あえて言及はしない。

「食べられるんですね」

 それはこちらや三浦さんに向けた言葉ではない。不思議そうに、それでいてしみじみと横須賀さんはその言葉を噛みしめながら言った。当たり前のことをまるで奇跡みたいに、それでいて嘘ではないという実感を含んだ声はあまりにも無防備だ。

「そりゃ食いもんだからな。金さえありゃなんでも食えるさ」

 は、と笑い捨てるように言えば、ぱち、ぱち、と横須賀さんが瞬きを繰り返す。それから元々下がっている眉を更に下げ、口元をもぞもぞと歪めた。

 ひどく下手くそで、幸せそうな笑みだと思う。

「そうですね。おいしい、です」

「甘い物って幸せになれますしねえ。また今度誘っても良いです?」

 しれっと次の約束をとりつけるあたり中々な手腕だろう。はい、と頷く横須賀さんに三浦さんがわーいと二十八には思えない大げさな喜びを示す。

 俺は関係ねーぞ、と横から呟けば、あ、とやけに悲惨な声がして口を噤んだ。

「たおれちゃった」

「綺麗に食べるの難しいですよねえ。よくあります……」

 悲しそうに呟く横須賀さんに、しみじみ、と三浦さんが実感を込めて同意する。先程の否定が流れたような実感を持ちながら、食えれば良いだろ、と雑に返して食事に専念する。元々食べながら話せるタイプではないのだ。

 そういえば人と食事しないほうがいい、と日暮さんが言っていたのを思い出す。バレていたからなんだろうな、と思いながらも、久方ぶりのチョコレートケーキを舌で溶かした。

 次は生クリーム系でもいいかもな、なんて思うあたり、随分と自分も平和な脳みそをしているのだろう。


(2017/11/26)

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