第14話 ノンストップ×エスケープ 4
鼻腔を突く異臭。胃を押し潰すような嘔吐感に襲われ、シプレは喉から不快な物を吐き出そうとした。けれど出てくるのは湿った息ばかり。三日前から水以外の食事を摂っていない身体からは、もはや胃液すら出てこなくなった。
「おい、大丈夫か?」
心配そうに彼が尋ねた。
姿は見えない。どこを見ても真っ暗で、彼が近くにいるのかすら判別出来ない。しかしそれでも彼がいるという事だけは確かで、シプレは胸を撫で下ろした。一人ではない。そう思うだけで心が少し楽になる。
夜よりも深暗闇に小さな明かりが灯る。彼の掌で灯る光の中で、二人は互いが無事であることを確認した。
「無事みたいだな」
顔の右半分を覆っている白銀色の長い前髪が揺れる。闇の中であっても彼の髪は輝きを失わず、寧ろ光を反射し、より神秘さを増していた。
その美しさは、喩えるなら夜闇に浮かぶ白月。危険な状況であることを忘れ、シプレは彼の髪に魅入った。
「おい! しっかりしろ!」
肩を強く揺らされ、シプレは我に返った。
「っ……あのっ……ごめんなさい……」
「いや、だから謝んなって。気分悪ぃなら、ちゃんとそう言え。言ってくれねぇとわかんねぇからよ」
彼の手が額に触れる。とても温かくて心地良く、シプレは目を細めた。彼の熱が伝わったのか、冷え切った身体が少しだけ温かくなる。
大きくて、温かい手。同じ男性であるはずなのに、厭らしく身体を這っていた手とは明らかに違う。絶対に触れられたくないと拒絶していたのに、今はもう嫌という気持ちは湧かない。それどころか、不思議なほど心が解きほぐされていく。
彼は魔術師だと言った。これも魔術の一つなのだろうか。人の心を温かくする、そんな術をかけたのだろうか。
だとしたら、やはり魔術師は——
「さぁて、いよいよ本格的にヤバいな」
彼は眉をひそめ、明かりを上下左右に動かした。
壁。壁。壁。何処を照らしても映るのは弓なりに反った壁。出口も、人が通れそうな隙間もない。完全な密閉空間である。
「何なんだこの球体……チッ、びくともしねぇな」
彼は壁を殴った。何度も、何度も、拳で壁を叩く。
「手、痛くなりますよ」
「平気だ。この壁、ゴムっつーか、妙に弾力感のあるもので出来てるみてぇだからよ。殴っても全く痛くねぇ」
そう言い、彼は殴るのを止めた。これ以上やっても無駄だと察したのだろう。生肉のような硬さの安定感のない床に座り、もう一度空間内の隅々まで光を当てて脱出の手掛かりを探した。だが出口おろか、脱出に使えそうな道具すらない。あるのは空間の中央で異様な存在感を放っている謎の物体だけである。
「怪しい、よな」
明かりを付けた時からずっと気にはなっていた。しかし彼が何も言わなかったのでシプレもインテリアのようなものだと思い、存在を無視していた。
空間の中央に置かれている謎の石。大きさは三十センチほど。形は歪で、誰かの手が加えられた痕跡はない。天然の、何処にでもありそうな石である。
彼は座ったまま長い足を伸ばし、靴裏で石を蹴った。岩と言うほど大きくもないので、衝撃を加えれば欠けるなり動くなりする。はずなのだが……
石はまるで根付いているかのように動かなかった。いくら蹴ろうと、全く動かない。
光の中に苛立った顔が浮かぶ。彼は勢いよく立ち上がると、乱暴に石を蹴り、踏みつけた。怒り任せに、八つ当たりをするように。
「足、痛くないですか?」
「痛くねぇよ。この程度で痛ぇとか言ってたらスキロなんてやってられねぇよ」
スキロ。聞いたことのない単語がシプレの頭に引っかかった。
結局、この人は一体何なのだろうか。魔術師で、自分を助けるためにシティに来た。それ以外のことはわからない。
何者なのか。何処から来たのか。助ける理由と目的は何なのか。これから何をするのか。自分はどうなるのか。一切知らされていない。何もわからないまま、気が付けば危機的状況に陥っていたのである。
思えば、名前すら聞いていない。
シプレはじっと彼の背中を見つめた。
不思議である。恐かったのに、殺されるのではと思い警戒し、拒絶していたのに、恐怖心はもとからなかったように消えている。逃げたいとか、近付かないで欲しいとか、そういう気すらない。残っているのは、出会ったばかりの名前も知らない男性に心を許している自分だけ。
どうして? いつから? わからない。わからない、けど。はっきりしているのは、彼の、白銀色の髪を一目見た瞬間、胸の奥が火が点ったように熱くなったこと。
懐かしいと思った。初めて見るはずなのに、涙が出てしまうほど懐かしさを感じた。いくら遡っても記憶に残っていないのに、一体何故?
「おい、ちょっとこれ持ってろ」
彼が明かりをシプレに向かって投げる。
受け取ったのは掌と同じ大きさの四角い板。厚さは数ミリ。硬くて、少し重い。見た目ではわかりにくいが、触っていると薄い側面に幾つかボタンらしきものが付いているのがわかった。筒状の懐中電灯とは違う、変わった形のライトだ。
シプレは彼の周囲を照らすように光を傾けた。黒い壁に、一回り大きい彼の影が映る。
彼は石を踏みつけるのを止めると、静かに深呼吸をした。
ジャケットの裾をずらし、腰に付いているカラビナに触れる。とても澄んだ、綺麗な金属音がした。
カラビナに吊り下げられているのは、人差し指ほどの大きさの鉄細工だった。月や葉、雪の結晶などを模した綺麗な細工である。その中の一つをカラビナから外すと、彼は手の中にそれを収めた。
「召霊抜刀」
静かに、彼が呟いた。
空気が張り詰める。生暖かく湿った空気が、氷が張るように緊張した。
拳の隙間から光が零れる。白くて細い光が、蜘蛛の糸のように壁に張り付く。彼が手を開くとそれは眩い閃光となり、薄暗い空間を一瞬で白く染め上げた。
何が起きているのかをじっくり眺めている余裕はない。あまりの眩しさにシプレは瞼を閉じた。
瞼越しに光が消えたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。
真っ先に目に入ったのは、長い、銀色の何かを持っている彼の姿だった。
彼は腕を軽く振り、それに纏わり付いていた光の粒を払った。小さな光が、ホタルビソウの綿毛のように宙を飛び、消える。
「斬刀 正宗」
刃。細長く、反った形の、片刃の剣。彼の手の中で、白銀色の刃が鋭く輝いていた。
綺麗。けれど恐い。相反する面が調和するそれに、心が奪われそうになる。
彼はそれを両手で握り、振り上げた。そして石の上に、真っ直ぐ振り下ろした。
石の上で刃が止まる。彼は舌打ちすると、もう一度それを振り下ろした。けれど刃は弾かれ、鼓膜に突き刺さるような耳障りな衝突音だけを残す結果となった。
「これでも駄目か」
壁にもたれ掛かり、滑るように彼は腰を下ろした。
蹴って駄目なら刃で。と、彼は思ったのだろう。思った通りにいかず、彼は更に苛立ちを募らせていた。
「あの」
「何だよ!?」
怒鳴られ、シプレは肩を振るわせた。今話し掛けては駄目だと、言葉を飲み込む。
彼は髪を掻き、溜息を吐いた。それから
「……何だよ」
声のトーンを落として再度尋ねた。
「それは、何ですか?」
シプレは刃を指差して訊いた。
「ああ、これか。こいつは東国刀だ」
「とうごくとう?」
「東国って島国があるだろ? あそこから伝わってきた武器だ」
名前だけは聞いたことがある。東国というのは三つの大陸の丁度真ん中にある島国だ。政府により大陸から国境が取り払われた今も、唯一〈国王〉がいて〈国〉として独立している場所である。彼の持つ剣は、そこで使われている物らしい。
「あなたは、東国の方なんですか?」
「違う」
「でも、その剣」
「こいつはあれだ。東国映画に出てきたやつを真似て作っただけだ。あとこれは剣じゃなくて刀だ。カタナ」
「はあ……」
彼は〈刀〉に拘りがあるらしく、特に重要ではなさそうなところを強調して言った。
それは兎も角。
「どうして石を叩いたんですか?」
「叩いてねぇよ。斬ろうとしたんだ」
「……どうして斬ろうと?」
「そりゃあお前、その石ぶっ壊せば出られる可能性があるからだろ」
「この石を壊して、脱出?」
シプレは石を見て首を傾げた。
「何か感じねぇか?」
「いいえ、何も」
「少しもか?」
「はい」
不自然で怪しいが、どう見てもただの石である。
「お前、やっぱただの子供だな」
彼は引きつっていた頬を少し緩ませた。
「その石にはな、尋常じゃねぇ量のマナが詰まってる」
「マナ……って、なんですか?」
「魔力の源。空気みたいにそこら中に溢れてる超自然的生命エネルギーのことだ」
「それが、この中に?」
「ああ」
「見えるんですか?」
「空気みたいなもんだって言ったろ。だから目には見えねぇ。感じることなら出来るけどな」
「感じる……」
シプレは石に意識を集中させた。だが何も感じなかった。
「普通の人間にはわかんねぇよ」
彼は喉を鳴らして笑った。
「どうしたらわかるようになるんですか?」
「そりゃあ魔術師になるしかねぇよ。でもお前、魔女にはなりたくねぇんだろ?」
訊かれ、シプレは首を横に振った。
「……違うんです。魔女になりたくないとか、魔女と疑われた事が嫌だったとか……そうじゃ、ないんです」
言うと、彼は怪訝そうな目をこちらに向けた。
「わたしが嫌だったのは、辛かったのは……」
人殺しと言われたこと。罪を擦り付けられたこと。謂われのないことで傷付けられたこと。助けてくれるはずだった人に裏切られたこと。嫌だと言っても、助けてと言っても、誰もその声を聞いてくれなかったこと。そして、全世界に自分の死が望まれてしまったこと。それらが辛くて、苦しかったと、シプレは彼に吐露した。
確かに魔女であることを否定した。だが否定したのは事実、自分が魔女ではないからだ。魔女ではないのに認めるのは間違っている。だから否定し続けた。何もおかしくない。
おかしくないのに、否定された。自分の存在を。ただのシプレ・ライラローズであることを。
彼らは求めていた。大罪の魔女シプレ・ライラローズという存在を終始彼らは欲していた。何故自分なのか。何故魔女でなくては駄目だったのか。理由はわからない。訊いても誰も答えてはくれなかった。死ぬ間際に尋ねても、きっと答えてくれなかっただろう。
恐かった。ずっと、死ぬ日が来るのを恐れていた。異端審問所の地下牢で処刑日までの日数を告げられる度、恐くて泣き叫んだ。泣くと、いつも声がうるさいと罵られ、殴られた。
それでも、絶対に、死にたくないと願った。諦めるものかと、意地で生にしがみついた。今日の朝を迎えるまでは……
諦めていた。街の人々の、自分を蔑む目を見た瞬間、死ななくてはいけない、魔女にならなくてはいけない。そう思ってしまい、生きることを諦めた。彼らの為に死ぬ道を選んだ。
それが、世界のためになるのだと信じて。
「わかった。もういい」
話を遮るように、彼に抱き寄せられた。逞しい身体に身を寄せて鼓動を聞くのは、これで何度目だろうか。
「もういい。やめろ。他人の死を望んで喜ぶようなクズ共のことなんか考えるな」
詰まったものを喉の奥から押し出すように、彼が言った。
それから彼は立ち上がり、再び石に刀尖を向けた。
刀を振り上げ、叩き斬る。無駄だとわかっているにもかかわらず、幾度も刀を振るった。石よりも先に刃が欠けても、決して止めなかった。
自暴自棄。に、なっているわけではないようだ。背中からは躊躇いや諦めは感じられない。
感じるのは、ここから出ようという強い意志。
「どうして……」
必死に刀を振る姿を見つめながら、シプレは彼から渡されたハンカチを握り締めた。
どうして優しいのだろうか。どうして助けてくれるのだろうか。どうして諦めないのだろうか。湧き水のように疑問が溢れる。
自分は世界の要人ではない。ただのカントリー出身の子供だ。助けたところで得はしないし、誰も喜ばない。謝礼を要求されても、所有物は全て聖庁に押収されているため、あげられる物は持っていない。だから助けても無意味だ。寧ろ大罪の魔女を助けた異端者と言われ、立場が悪くなるだけである。
助けなくていい。ここで死んでもいい。覚悟は出来ている。
だから、もう——
「まだ、諦めてねぇんだろ」
刀を打ちつけ、振り向くことなく言った。
「お前はまだ生きることを諦めてねぇ。だから俺から逃げようとしたんだろ? 本当に死を覚悟した奴はな、もっと往生際が良いんだよ」
石に弾かれ、刀の先端が砕ける。
「お前、自分は世界中から死を望まれてるって言ったけどよ、それは間違いだ」
彼は指先で砕けた部分を撫でた。すると刀は一瞬で元の形に戻った。
「俺らはお前を助けて欲しいって依頼を受けてここに来た。つまり、お前が生きることを望んでいる奴がいるってことだ」
金属音が響く。ずっと、ずっと、それは鳴り止まない。
「死にてぇって思うのも、諦めるのもお前の勝手だ。けどよ」
何度も来る衝撃に耐えられず、刀が真っ二つに折れる。折れた刀は彼の足下に落ち、跡形もなく消えた。
彼は肩を激しく上下させ、荒い呼吸を繰り返した。
「生きて欲しいって思ってる奴がいるんだ」
袖で汗を拭い、少し顔をこちらに傾け
「そいつのために必死に生きてみろ」
眩しい笑顔で言った。
「っ……」
消えていく。何かが、心の中に溜まっていた何かが、音もなく消えていく。それが消えたことで、枷が外れたように心が軽くなる。絶対に届かないと思っていた高い窓辺から外へ飛び立てそうなほど。
涙が溢れる。生きることを望まれていたのが嬉しくて、生きろと言われたのが嬉しくて、温かい涙が止めどなく頬を濡らした。
「今までよく頑張ったな」
優しく囁き、彼が身を屈めて頭を撫でた。そのせいで余計に涙が流れ、彼から貰ったハンカチはすっかり汚れてしまった。
「あの」
涙で腫れた目を擦り、シプレは真っ直ぐ彼の目を見た。
「お名前を、教えてくれませんか?」
「名前? ああ、そういや言ってなかったな」
言って、彼は折れた刀を左に持ち替えて右手を差し出した。
「エドだ。姓はねぇ。ただのエドだ」
「エド……エドさん……はい、覚えました。わたしは」
「シプレだろ。知ってる」
名前を言い当てられ驚くが、すぐに驚くようなことではないと気付き、照れ隠しをするように笑った。
シプレは差し出された手を握った。ありがとう、という意味を込めて。
「お前に一つだけ約束してやる」
手を握り返し、彼が告げた。
「何があっても俺はお前の味方だ。世界が敵になったとしても必ず守ってやる。だから」
彼はシプレに背を向け、石を睨んだ。
「まずは生きて、ここから出るぞ」
覚悟を決めた彼に感化され、シプレは大きく頷いた。
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