第10話 ノンストップ×エスケープ 2

 倉庫に響く、狂乱したシプレの叫び声。

 嫌だ。死にたくない。許して。ごめんなさい。そればかり繰り返し、エドの腕の中で暴れる。

「落ち着けって!」 

 エドは周囲に気付かれては拙いと、彼女の口を塞ごうとした。けれど必死に抵抗され、触れることすら困難だった。ようやく手で押さえ付けることが出来てもすぐに噛み付かれてしまい、エドの手には内出血を起こした歯形が幾つも残った。

 逃れようのない死への恐怖。発狂する気持ちもわからなくはない。誰だって死は恐い。殺されるとわかって、恐怖しない者はいない。

 シプレは暴れた。この場から逃げようと、何度もエドを叩いた。

 どんなに抵抗されてもエドは決して彼女を抱く手を緩めなかった。離して、逃がしたところで彼女は生き残れない。歩くことすらままならない彼女が、市民全員がハンターとなった街で無事でいられるわけがない。捕まって、引きずり回され、殺される。強姦されるかもしれないし、火刑ではなくリンチに遭って死ぬかもしれない。死ぬよりも辛い目に遭う可能性もある。そんな場所に、彼女を放り出せるわけがない。

 彼女が理不尽な最期を遂げることをエドは望んではいない。望みは一つ。生きて欲しい。それだけだ。

「いや!」

 シプレの手が、肩に掛かった髪を掴む。

「いっ……!」

 かつらと髪を繋いでいたピンが無理矢理はずされる。エドはすぐにニット帽ごとかつらを押さえようとした。

 が、かつらはシプレの手によって引き剥がされ、塵のように床に捨てられた。

 邪魔だった物から解放された髪。シティにいる間は絶対に隠していなければならなかったもの。

 それが晒された瞬間、シプレは驚いたように目を見開き、抵抗する手を止めた。先まで暴れていたのが嘘のように大人しくなり、瞬きもせずこちらを見つめている。言葉を発することもなく、エドの髪に魅入っている様子だった。

 伸ばされた手。その手が、恐る恐るエドの髪に触れた。

「よせ。触るな」

 エドは軽く彼女の手を払った。けれど彼女は諦めることなく指先で髪を撫で続けた。

 この行為に何の意味があるのか。エドは暫し考えたが、答えは出なかった。

 恐らく意味などない。単に物珍しく、触っているだけだろう。あまり髪に触れられるのも、好奇の眼差しを向けられるのも好きではないが、大人しくしてくれるのなら好きにさせておいてもいいのかもしれない。

 と、思った矢先。

 彼女の目から、幾つも涙の粒が零れはじめた。顔を緩ませることも、歪めることもなく、無表情のまま涙を流している。

「ちょ、ちょっと待て! 何で泣いてんだ!?」

 エドは動揺し、シプレを一旦身体から引き剥がした。

 何故泣く。理由は? 自分が悪いのか? 何かしたか? 否、何もしていない、はず。

 取り敢えず落ち着かせようと、エドは一度シプレを抱きかかえ、ゆっくり床に降ろした。包装された服がクッションの役割を果たしているので、少なくとも尻は痛くないはずだ。

「怯えたり叫んだり泣いたり。忙しい奴だな、お前」

 エドはシプレに未使用のハンカチを握らせた。そして包み込むように抱き締め、背中を擦った。

 さて、どうするか。シプレを抱いたまま思考を巡らせた。

 最終目標は決まっている。一秒でも早く彼女を連れて街から脱出することだ。だがそこに至るまでに何をすればいいのかがわからない。

 逃げる? 当然だ。逃げなければ二人とも殺される。けれど逃げ切れるのか? 四面楚歌の状態でどう切り抜ける。自分一人なら余裕だが、怪我を負っている人間が傍にいる。彼女を守りながらとなると、やや難しい。

 足の怪我を見るに、恐らく長距離を走って逃げるのはほぼ不可能。体力も底をついているだろうし、逃げるなら自分の両手を犠牲にして抱えて運ぶしかない。

 最も安全なのはライナスと合流することだ。ライナスに連絡をし、ここまで来てもらえれば勝ったも同然である。彼は彼で忙しいだろうが、シプレの名前を出したら全てをほっぽり出して飛んでくるだろう。

 問題は、ライナスを待つ間どうやり過ごすか、だ。

「くしゅん……」

 シプレが小さくくしゃみをした。

「どうした。寒いのか?」

 彼女は頷いた。

 今まで傷や精神面のことばかり考えていて気付かなかったが、よく見ると彼女はとても寒々しい格好をしていた。薄布のワンピース一枚。それだけである。冬真っ只中の季節には相応しくない格好だ。

「あー……悪かった。何か探してやるから、今はこれ着てろ」

 エドは着ていたジャケットをシプレの肩に掛けた。これで多少は寒さを凌げるだろう。

「さみぃ……」

 一枚脱いだだけで、肌に冷たい空気が突き刺さる。外気が入らないよう倉庫の扉を閉め……ようとしたが先ほど自分が壊したことを思い出し、踵を返した。

 エドは段ボール箱をあさり、彼女が着られそうな服を探した。最初は上に羽織る物だけ探す予定だったが、汚れた服をいつまでも着ているのも気持ちが悪いだろうと思い、上下一式探してやることにした。

 薄手よりは厚手。締め付けるよりはゆったり。派手よりは地味。考えながら、未開封の箱を開けていく。

「これは違うか」

 手に取ったのは白色無地のワンピース。ゆったりと地味の条件には当て嵌まっているが、生地がとても薄い。これでは今着ているものと殆ど同じである。

——同じ?

 服を箱に戻す直前、あることが頭を過ぎった。

 そうか。その手があったか。

 エドは口角を上げ、同じ形のワンピースの包装を全て破った。数は十枚。多くもなければ少なくもない。丁度良い数だ。

 偶然か、何者かの悪戯か。ここには必要な物が全て揃っている。運が良いとしか言い様がない。あとは、彼女の協力を得られれば完璧だ。そうすれば自分も、彼女も、生きてシティから出ることが出来る。

 エドは十枚のワンピースとインナー、厚手のワンピース、ニットのカーディガンを抱えてシプレのもとに戻った。そして十枚のワンピースを彼女の右側、それ以外を左側にそれぞれ置いた。

 シプレは左右の服を交互に見ながら、怪訝そうに首を傾げた。

「さっきの続きだけどよ。お前に、一つだけ約束してやる」

 エドは両膝を降り、シプレと目線を合わせた。

「俺が守ってやる。お前が陽の当たる世界に帰る日まで、ずっと守ってやる」

 それは約束。それは誓い。何があっても必ず助けるという、命を懸けた誓い。

「だからまあ、取り敢えず……」

 亜麻色の髪をくしゃくしゃと撫で

「服を脱げ。で、脱いだらこっちの服で身体を拭け」 

 変態と思われても否定出来ない命令をした。

 シプレの顔が曇っていく。初めて会った男に突然服を脱ぐよう言われたのだから、そうなるのは当たり前だ。

 精神的に参っている少女に脱衣を強要するのが酷であることくらいエドも理解している。だが助けるにはこれしかない。今はこれしか思い付かない。

 嫌われていい。好かれるより嫌われる方が慣れている。喩え生涯彼女の憎悪の相手になったとしても後悔はしない。仕方がないと割り切って接していくだけだ。

 シプレは表情を変えず、機械人形オートマトスのように静かに服に手をかけた。裾をたくし上げ、恥じらう素振りも見せず、隠されていた肌を露わにする。

 赤や青、紫色に変色している少女の身体。切り傷、刺し傷、火傷、打撲、注射針の痕。あらゆる傷痕が数え切れないほど身体に残されていた。特に女性の部分に執拗に責められた痕があり、拷問をした者達の性癖が窺える。過去に何人も拷問を受けた子供を見てきたが、ここまで惨い仕打ちを見たのは初めてである。

 人間の所業ではない。こんな惨いことを平気な顔をして出来るのは人間ではない。人間の皮を被った、畜生以下の鬼畜だ。

 エドは立ち上がり、シプレに背を向けた。

「そっちの服に着替えたら声かけろ」

 それだけ告げ、準備のために彼女から離れる。

 心臓を抉り出したいくらい胸が苦しい。内臓ごと吐き出してしまいたいほど吐き気が込み上げてくる。こんな感情を抱いたのはいつ以来だろうか。

 危なかった。もしもあの状態で彼女に泣かれたら。もしも「助けて」と言われたら——

 間違いなくシティに住む者を皆殺しにしていた。男も女も、老人も子供も、生まれたばかりの赤子ですら、きっと躊躇なく殺していただろう。腐った街に蔓延る鬼畜を生かす理由はない。新たな被害者が出る前にさっさと処分した方が世界のためになる。

——って、何考えてんだ俺は。

 黒い感情に流されて恐ろしいことを考えてしまい、頭を抱えた。

 駄目だ。一度冷静になれ。そう自分に言い聞かせ、目を閉じ、首から下がるペンダントを握り締める。

 感情的になるな。常に冷静であれ。余計なことは考えず、己の役目を全うせよ。何年も前から聞かされているライナスの口癖だ。行き詰まった時、冷静さを欠いた時、エドはこの言葉を思い出すようにしている。励ましでも、慰めでもないが、エドにとってこの言葉は自分が何のために、誰のために存在しているのかを再確認させるものなのである。

「……よし」

 ゆっくり息を吐き、無駄にした時間を取り戻すように手早く次の準備に取りかかる。

 用意したのは十体のマネキン人形。それを横一列に並べ、かつらを被せる。かつらの色は亜麻色か、それに近い色である。

 エドは愛用のベルトポーチからチョークケースを取り出した。中には使い古された色とりどりのチョークが入っている。エドはその中から赤いチョークを選び、他はポーチに戻した。

 絵を描くのではない。描くのは印だ。チョークを走らせ、エドは印を描いていった。

 描いているのは床ではない。壁でもない。印を描いているのはマネキン人形の背中である。すべすべとしたマネキン人形の背中に、細やかな印を描いていく。一体目が終わったら二体目、三体目と、全てのマネキン人形に同じ印を描いていく。

 そろそろライナスに連絡を入れるか。エドは携帯電話の待機モードを解除した。

 ワンコール、ツーコール。

 出ない。いつもならツーコール目には出るのだが、音が鳴り止んでも彼は出なかった。

 スリーコール。まだ出ない。取り込み中なのだろうか。

 と、思った矢先。

『どうした』

 フォーコールが終わる直前、彼が応答した。

「よお、団長生きてるか?」

『一応、な』

 彼の声に混じり、重い風の音が聞こえる。一体どこで何をしているのだろうか。

「取り込み中か?」

『まあな。シプレの行方を知る者を追っている』

「へぇ、そりゃあ大変だな」

 エドは口角を上げ、他人事のように言った。

『で、何か用か?』

「おう。例の物を確保した。中身も全部ある」

『そうか。エド、もし手が——』

「ついでにシプレ・ライラローズも保護した。これで俺らの仕事は終わりだろ?」

 今日食べた昼食の話をするように、エドは報告した。

 返答はない。一番信用している男の口から耳を疑うような言葉が出て、動揺しているのだろう。彼の驚いている様が容易に目に浮かぶ。

『……お前は何を言っているのだ?』

 訝しげにライナスが尋ねた。

「いやだから! シプレ・ライラローズだっつーの! 倉庫にいたんだよ、あいつが!」

 耳元で大きな溜息を吐かれ、少しだけ携帯電話を耳から離す。最近の携帯電話は昔に比べて大分音が綺麗に聞こえるようになったが、声を近くに感じすぎるのもやや考えものだ。女性ならいいが、男性の声を間近で聞いても嬉しくない。

『エド』

「何だよ」

『拾い食いでもしたのか?』

「してねぇよ! 疑ってんならそう言え!」

『怒るなエド。冗談だ』

 ライナスは冷徹な性格からは到底想像出来ないが、意外と冗談を言うのが好きである。ただし、あまり面白くない上に冗談と本気の境がわからないので誰も笑わない。

『飛行艇まで戻れるか?』

「いや、無理だな。放送聞いただろ? 今出ると危険だ」

『そうか。ならば迎えに行こう。私が到着するまでの間なら凌げるか?』

「丁度準備が終わったところだ」

 エドは小指の爪ほどまで小さくなったチョークを弾き捨てた。

「出来るだけ早く来てくれ。あいつの身体はもう限界だ」

『拙い状態なのか』

「怪我……拷問の痕が酷ぇことになってんだ」

『拷問だと?』

 エドは簡潔にシプレの身体に残された傷について説明した。

『事情はわかった。すぐにそちらに向かおう。到着するまで彼女のことは任せたぞ、エド』

「おう」

 暫し沈黙。それから。

『エド』

「おう」

『死ぬなよ』

 言って、ライナスは電話を切った。

 これで準備は整った。後は術を完成させるだけである。

「あの……着替え、ました」

 まるで話が終わるのをまっていたかのように、シプレが細い声で言った。

 新品の服に身を包んだ彼女は、紛れもなく女の子だった。ぼろ布を着た可哀相な子供ではなく、何処にでもいる普通の女の子だ。女性は装い一つ、髪型一つで大きく印象が変わると言われているが、本当にその通りである。

 エドはシプレのもとに戻り、タオル代わりに渡した十枚のワンピースを抱えた。律儀なことに全て包装されていた時のように綺麗に畳まれている。だがどれも彼女が着ていた服と同じくらい汚れていた。

 シプレは不思議そうにこちらを見上げた。表情は相変わらず変わっていないが、これから何をするのかと言いたそうにしているようにも見えなくもない。

「面白いもん見せてやる」

 ワンピース一旦自分の足下に置き、マネキン人形の背中を見渡せる場所に立つ。そして両掌を前に突き出し、十本の指先を十体のマネキン人形に向けた。

 目を閉じて、ゆっくり深呼吸をする。

 魔術を使うのに必要なものは五つ。術についての知識。魔術の源であるマナ。マナを循環させる健全な身体。そして

「アリアドネの清き血よ。我が手に集いて糸となり、我と無なるものを繋ぎ給え」

 呪文と

「さっさと動きやがれ人形ども!」

 気合い。

 エドは倉庫に声を響かせた。マネキン人形たちに注いでいる力に「動かなかったら破壊する」、という念を込めて。

 すると——

 叫びに応じるようにマネキン人形たちが一斉に首を捻り、エドを見た。

 隙間に埃が詰まった球体関節を鳴らしながらぎこちなく動くマネキン人形。動作は糸に繋がれた人形よりは自然だが、人間に比べると固くて不自然。だが恐らく遠目なら誰も人形だとは思わないだろう。即席で作ったにしては上出来だ。

「さて、と」

 術の成功を喜んでいる時間はない。エドは用意した服をマネキン人形に投げ、着るよう命じた。

 マネキン人形たちは命じられるまま、疑問を抱く様子もなく汚れたワンピースに袖を通した。

 亜麻色の髪。汚れたワンピース。その姿はまるで——

 先までの、シプレ・ライラローズ。

「あの……これ……」

 目を丸くしたシプレがマネキン人形を指差した。何か言いたげにしているが、魚のように動く口から言葉が出てくることはなかった。聞きたいことが多すぎて、頭の中が整理しきれていないのだろう。

 彼女の質問を待っている時間はない。エドは一旦シプレを無視し、マネキン人形に次の命令を与えた。

「街中を適当に動き回れ。ただし、絶対に同じ場所に固まるな」

 返事はない。けれどマネキン人形は言われた通りぞろぞろと倉庫から出て行った。右に、左に、斜めに。街中に消えていく。

 餌は撒いた。後は卑しい市民達が餌に釣られている間にライナスと合流出来れば勝ちである。

 やる事がなくなり、暫し休憩しようとエドはシプレに向かい合う形で床に腰を下ろした。

 シプレはまだ信じられないといった表情をしていた。目の前でマネキン人形が勝手に動き出したのだから、そうなるのも無理はない。

——まあ、話しても問題はねぇか。

 もともと彼女に魔術師であることを隠し通す必要はなかった。遅かれ早かれネタばらしする予定だったので、エドはさっさと自分の正体を明かすことにした。

「そういや。自己紹介がまだだったな俺は——」

「魔術師さん、ですよね……?」

 告げるよりも先に動いたのは、シプレの唇だった。

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