第8話 ノンストップ×エスケープ 1
「ったく! アージェットの野郎、言ってることが違うじゃねぇか」
倉庫の鉄扉を蹴破り、エドは愚痴をこぼした。
アージェットは他者が入り込まないよう細工をしていると言っていた。恐らく簡単な結界を施したのだろうとエドは予想していた。実際その通りで、貸倉庫全体に結界が張られていた。
ただ結界が張られていただけならエドも文句は言わない。愚痴を言わずにいられなかったのは、あまりにも複雑かつ強力な結界が施されていたからである。
結果、通常の解呪方法では消せず、魔術を駆使して破壊するしかなかった。
エドはアージェット程度の魔術師がここまで手の込んだ結界を施したことに正直驚いていた。次に会った時、どうやって組んだのか是非聞いてみたいほどだ。だがその前に、手を煩わされた礼として一発殴ろうと心に決めた。
開かれた扉から真昼の光が入ると、中に無数の人影が現れた。一瞬警戒したが、目を凝らすとそれらが生きた人間ではないことがわかり、すぐに警戒心を解いた。
動かない人影の正体はマネキン人形だった。埃を被った裸のマネキン人形が二十体ほど保管されている。どれもスリムな女型のマネキンだ。
倉庫に一歩足を踏み入れると、溜まった埃が宙を舞った。何年も換気されていなかったためか、むせ返るほどカビ臭く、エドは顔をしかめた。
さっさと資料を持って出よう。積まれた段ボールの山を崩し、中身をひっくり返す。すると透明の袋に包装された新品の服が、雪崩のように床に散らばった。エドはその中に資料がないことを確認すると、また別の箱を同じように開けて捜す動作を繰り返した。
アージェットが用意した銀のアタッシュケースが見付かったのは、七つ目の箱をひっくり返した時だ。服に紛れ、それが一緒に流れ落ちたのである。
エドは念のため鍵を開け、中身を確認した。中には彼の言っていた通りの物が入っていた。
これで自分の仕事は終わりだ。エドは肩を大きく回し、息を吐いた。
ふと、何処からか啜り泣くような声が聞こえた。とてもか細い、今にも消えてしまいそうな声だ。
外から聞こえてくる声かと、エドは耳を澄ませた。しかし声は外からではなく、倉庫の中から聞こえてくるものだった。
いや、まさかな。エドはまだ手を付けていない段ボール箱の山を一つずつ崩していった。
自然と、箱を掴む手に汗が滲む。嫌な予感がし、心臓が大きく動く。
ここに自分以外の誰かがいることは間違いない。だがいつの間に、どうやって倉庫に入った? ここは何日も前にアージェットによって誰も入れない状態となっていた。だからそれ以降に入るのは不可能だ。可能性があるとすれば結界が施される前だが、アージェットがその存在に気付かないわけがない。
考えられるのは、アージェットの結界を破って侵入した可能性。そうだとしたら、今ここにいるのは解呪ができ、あの複雑な結界を張れるほどの魔術師ということになる。
エドは唾を飲み、三段目の段ボールを掴み、ゆっくり床に下ろした。
「嘘だろ……?」
驚きのあまり、エドはそれしか言葉が浮かばなかった。
嘘だ。違う。こんな所にいるはずがない。エドは目を擦り、何度も瞬きをして段ボールの山に隠れていた人物を凝視した。
淡い光に照らされたのは、膝を抱えて床に座り込み、静かに泣いている小さな身体。嗚咽を漏らす度、柔らかで細い亜麻色の髪が揺れ動く。絶えず流れる涙は、汚れきった白いワンピースに新たな染みを作っていた。
「お前、シプレ・ライラローズか?」
尋ねると、彼女はびくりと身体を震わせた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
顔を上げることなく、彼女は怯えるように何度もそう呟いた。
遠くからではわからなかったが、彼女の手や足には酷い傷跡が付いていた。手首、足首には拘束された痕が残っており、足の甲にはナイフで刺されたような生傷がある。爪も全て剥がされており、痕はマニキュアを塗ったように真っ赤だった。
これだけで、何故彼女が怯えているのか理由がわかる。そして彼女が異端審問所で何をされていたのかも……
エドは彼女と自分を隔てる箱を全て退け、近づいた。身を屈め、赤黒く汚れた手に触れる。
「いやっ!」
少し指先が触れただけだというのに、彼女は悲鳴を上げてエドを拒絶した。下半身を引きずり、逃げるように後退する。
ようやく見せた顔は渇いた血と涙ですっかり汚れていた。ろくに食べ物を与えられていなかったのか頬は痩け、血色も悪い。左側の頬には殴られた時に出来る痣が薄ら残っているが、それ以外の外傷は見当たらない。顔に傷を残すと拷問した事実が露見するのであえて避けたのだろう。
エドは目を逸らすことなく真っ直ぐ彼女を見た。他の人間なら見て見ぬふりをするところだろうが、エドはそれをしなかった。胸の痛みを手で抑え、光を失った瞳をじっと見つめた。
絶望し、希望を持つことを諦めた目。光を反射しない、人形のような濁った目。それに映る自分の姿は、磨りガラスを通したかのようにぼやけている。
——ああ、こいつもか。
エドは彼女の瞳に吸い寄せられるように手を伸ばした。だがやはり拒絶され、仕方なく手を下ろした。
胸が痛い。彼女への哀れみと聖庁への憎悪が絡み合い、心臓を強く締め付ける。吐き気を催すが、吐き出されるのは渇いた息だけ。頭に響く脈の音に合わせながら呼吸を繰り返し、エドはやり場のない感情を自分の中に留めた。
シプレは狩人に睨まれた小動物のような目でこちらを見ていた。自分の姿が獲物を見付けて興奮しているように見えているのか、ひび割れた唇が震えている。
誤解されたまま連れて行くわけにもいかず、エドは胸を叩いて気持ちを鎮めた。
「落ち着いてよく聞け。俺はお前の味方だ」
敵意がないことを示すように、静かに告げる。しかし、シプレは首を振って否定した。
「嘘じゃねぇよ。お前を助けてくれって依頼が来たんだ」
否定。
「俺はここの人間じゃねぇ。だからお前を聖庁に売り飛ばしたりしねぇよ」
否定。
「……何言っても信じねぇつもりだな、お前」
肯定。
結構面倒くさい女だな。エドは真面目に説得するのが馬鹿馬鹿しくなった。
気絶させて連れ出すのが一番早いか。出来れば手荒な真似はしたくなかったが、相手がここまで強情だとそれもやむを得ない。
シプレは少しでもエドと距離をあけようと後ろに下がる。しかし背後には積み重ねられた段ボール箱が壁のように立っている。それが邪魔をして、逃げるどころか逆に追い詰められた状態となった。
彼女の背中が箱の壁にぶつかる。その衝撃で、壁が大きくぐらついた。
適当に積まれていた箱が揺れでバランスを崩す。歯抜けになった積み木の玩具のように傾き、最上段の箱がシプレの上に影を作った。
シプレは頭上に目を向けた。だが少しも動こうとせず、呆然と箱が落ちてくるのを見ている。
「チッ!」
エドは咄嗟にシプレの腕を掴んだ。動かない彼女を無理矢理引っ張り上げ、自分の胸元に引き寄せる。
これが傷に響いてしまったようで、彼女は僅かに顔を歪めた。痛みのせいで上手くバランスが取れず倒れそうになるが、エドはしっかり、その身で彼女を受け止めた。
最上段が落ちたのを皮切りに、箱の壁が全て崩れる。潰れて形が変わった箱の中から飛び出た色鮮やかな服が床に広がり、一面は花畑のようになった。
「大丈夫か?」
腕の中に収まったシプレに尋ねた。彼女はこくりと頷いた。
震えていた。大丈夫だと言ったが、小さな身体は確かに震えていた。
エドは震える身体を優しく抱き締めた。
シプレの身体は細かった。骨の感触がわかるほど痩せ細っている。背中に触れると、薄布越しであっても深く抉られた傷の場所がわかった。
胸が熱い。奥底から込み上げる怒りで胸が痛いほど熱い。
誰が彼女を傷付けた。誰が彼女を不幸にした。誰が。誰が。誰が。誰が。誰が!
エドは唇を噛み、抱き締める腕に力を込めた。
「もう大丈夫だ」
安心させるように、静かに耳元で囁いた。
「大丈夫だ、俺達がクソみたいな街から連れ出してやる。だからもう怯える必要はねぇ」
腕を解き、エドは真っ直ぐシプレの目を見た。
青い瞳。光が差さない深海のように黒く陰っているが、こうなる以前はきっと美しいものだったに違いない。子供の目はみんなそうだ。夢と希望に満ちていて、直視することを躊躇ってしまうほど綺麗だ。醜いものばかり見て大人になったからか、尚更羨ましいほど輝いて見える。
見てみたい。光を取り戻した彼女の瞳を。美しく輝く青い瞳を。
そのために
「信じて付いてこい。後悔はさせねぇよ」
シプレの手を取り、約束する。
「お前は、俺が——」
『魔女シプレ・ライラローズが逃走中。繰り返します。魔女シプレ・ライラローズが逃走中』
耳障りなサイレンとアナウンスがエドの言葉を奪い去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます