第52話 迷いの先に行き着くのは?

 ひいなたちが飛んでいる空の一角に、ふいに、黄色い染みが生まれた。

 夕焼けの暗い赤に染め上げられた空に生じた変化は、あっという間に大きくなる。最初は一番星のように小さかった染みは、あっという間に拡大し、空に大きな円盤が生じる。まるで、幼稚園児が画用紙に描く、大きすぎる太陽みたいだった。


 太陽の真ん中から、突然、右腕が伸びる。


「よいしょっ」


 アール・コラージュの声。ぐい、と右手が黄色い円盤の縁をつかんで、全身を中から引きずり出す。

 千織ことアール・コラージュが、黄色い染みの奥から姿を見せた。頭に着けた白い仮面も、パッチワークめいた衣装も、両手を包む手袋も、傷ひとつない。

 どうやら彼女も、過去の呪縛から抜け出せたようだ。


「お」


 千織は、ひいなと花乃華の姿を見て、眉をひそめる。彼女は空中に右手の筆を走らせ、ほとんど一筆書きのような勢いで簡易なグライダーのようなものを描き出す。それは瞬時に実体化し、千織を受け止めて飛行し始める。

 ひいなたちと併走しながら、千織は問う。


「取り込み中?」

「へっ?」

「ううん、平気」


 間抜けな声を発したひいなの後ろで、花乃華は平然と応じている。ついさっき、重大な言葉を発したときの思い詰めた表情は、またたくまにどこかに消え失せてしまっていた。

 でも、面もちが変わっても、発した言葉とそこに積もった思いは消えない。

 もちろん、それを聞かされた側の記憶だって、消えたりはしない。


 だから、今もひいなの脳裏は、さっきの花乃華の言葉でいっぱいだった。


『メノンタールとの戦いが終わったら、わたし、魔法世界に行こうと思う。ファニー・フロウたちみたいに』

『ひいなもいっしょに来ない?』


「大丈夫ですか? エティカル・ひいなさん、ぼんやりしてますけど」

「え?」

「心配ないよ。すこし疲れてるだけ」


 ひいなに代わって花乃華が勝手に千織の質問に答えている。割り込みたかったけど、そんな元気はなかった。

 花乃華と千織が、何か言葉を交わしている。千織が過去に呑み込まれたときの状況だとか、みなみの行方だとか、そんな話をしているみたいだったが、ひいなの耳には聞こえない。右から左へ、通り抜けていくばかりだった。


 花乃華が千織やみなみに不信感を抱きつつも、彼女たちと行動をともにしようとした理由は、彼女たちが魔法世界連合のエージェントだからだ。魔法世界連合の指示を受け、あらゆる世界を飛び回り、魔法の力で危機を解決する魔法少女。

 花乃華は、彼女たちと同じ職に就きたくて、千織やみなみの近くにいたのだろう。彼女たちの戦いぶりや、行動を観察するために。


 魔法世界連合に属するということは、この国、この世界という縛りから外れるということでもある。

 お金に執着がなくなるのも当然だった。たぶん、別の魔法世界では、日本円なんて役に立たないだろうから。


 そう考えてみれば、納得はいく。花乃華らしい、即断即決で、迷いのない判断だ。

 ついこのあいだまで必死に稼いでいたはずの資金からも、あっさり興味を切り離せるあたり、その意志力はきわめて強いのだ、と分かる。


 だけど、根本的なところが、分からない。


 どうして花乃華は、魔法世界連合に身を寄せようと思ったんだろう?


「花乃華ちゃん……」

「待って、ひいな」


 寄る辺ない思いで発した言葉を、花乃華は片手で制した。じっと目を細めて、彼女はどうやら、耳を澄ましているようだった。千織も同じような顔で、あたりに視線を巡らせている。ひいなも押し黙るしかない。

 そうして、しばし。


 ふいに千織が手を伸ばした。


「そこね、フロウ」


 しゃっ、と、千織が空中に筆を走らせる。飛行機雲のように、一本の白い弧が空を割く。

 とたん、ジャン、と、激しい音が空中に鳴り渡る。あらゆる楽器を一度に鳴らしたような、無造作で、だけど不思議に琴線に触れる音。


 紙を押して広げるみたいに、空中に裂け目が生じた。


 割れた夕空の奥に、白い部屋が見える。LEDの冷たい光に照らされた、暖かみのない薄汚れた壁。ブラインドのかかった窓の前に、長机が並べられて、4人の人物がどこか気だるささえ漂わせるたたずまいで座っている。

 彼らの前に、ひとりの少女が立っている。

 背を向けていて顔は見えないが、緊張しているようだった。胸元に手を当てて、肩と背中で深呼吸をしている。そうしていないと、自分の体さえ自分の望むように動かせない、とでも言いたげな仕草だ。実際、膝はわずかに震えている。まっすぐに下ろした長い髪の向こうで、きっと彼女の顔は蒼白だろう。

 一世一代の大舞台に臨んでいる少女は、やがて、意を決したように、動きを止めた。ぐ、と、肘が内側に小さく曲がって、胸元の拳に力がこもる。

 その姿勢のまま、彼女は歌い始めた。


「……みなみちゃん?」


 思わず、小声でつぶやくひいな。花乃華がうなずいた。


 その白い部屋で歌を唄うのは、ファニー・フロウ……みなみだ。いや、そのときの彼女がファニー・フロウだったのかどうか、それをひいなは知らない。みなみの決定的な瞬間がいつだったのか、知る由もない。


 みなみを見ていた人々の表情が、微妙に変わった。眠たそうだった目が開き、丸くなっていた背中がいくぶんまっすぐに伸びる。ひとりが手元でペンをくるりと回転させ、机の上のペーパーにメモを書き付け始める。

 歌声が、彼らの心をわずかながらでも、動かしたのだ。


「地球にいたころのフロウは、歌を仕事にするのが夢だったって」


 千織がつぶやく。歌の仕事、といってもさまざまな種類があるだろうけれど、そこの詳細はあまり意味がないだろう。大切なのは、みなみには確かな夢があった、ということ。

 今ここで繰り広げられているのは、みなみの夢の回想。

 目指すものに手が届きかけた、その瞬間のことだ。


 そのとき、ふいに、みなみを見ていた人々の様子が変わった。

 顔色が変わり、表情に憎悪の色が膨れ上がる。それどころか、体つきまでもがミシミシと音を立ててゆがみ始め、全身がどす黒く染まっていく。炎のように、全身から闇の色のオーラがわき上がる。

 ひいなも花乃華も、もちろん千織も察した。”敵”の攻撃だ。

 みなみの大切な舞台を、彼女の敵が妨害している。


 はっ、と、みなみが息を呑む気配がした。

 彼女は右手を懐に伸ばして、つかのま、迷ったようだった。

 魔法少女であるならば、そこで変身して、魔法を使って敵を倒すのが最優先のはずだ。みなみもそれは熟知していたはず。

 それなのに、彼女はためらった。


 唄うことをやめたくない。

 彼女の背中はそう言っていた。


「フロウ!」


 千織が叫ぶ。

 そして彼女は、ずっと着けたままだった手袋を、片方はずした。


 その瞬間、千織の左腕の先が、激しい風圧を受けた帆のように、脈打ちながら膨張する。そこに生じたのは、工業機械を数段グロテスクにアレンジしたような、巨大なクレーン。まるで、20世紀のシュールなアート作品を思わせる、異形の手。

 元々、千織の腕はふつうじゃなかったのだろう。

 激闘で失った手を、魔法で置き換えて、それが当たり前みたいな顔をして。

 ずっとアール・コラージュはそうしていたのに違いなかった。


 千織は、左手を空中の裂け目にねじ込む。

 歌も、うなりも、何もかも制するような猛烈なきしみを上げて、空が割れる。

 魔法があふれ出す。ダンジョンの奥底にあって、名うての魔法少女を閉じこめていた力が、一斉に解放されて、すさまじい風圧となって襲う。

 一瞬、ひいなのまたがっていたロッドがぐらつく。


「ひいな!」


 花乃華が、ぎゅっとひいなの体にしがみつく。ひいなはロッドを握ってふたり分の体重を支える。どうにか姿勢は維持したものの、それが精一杯。

 ひいなは千織とみなみのほうを見やる。

 千織……アール・コラージュは、右手をみなみの方へ伸ばし、叫んだ。


「オール・オーヴァー!」


 千織の右手から、手袋が滑り落ちる。

 その下から、虹のように絵の具が吹き出した。

 乱雑で、野放図で、それでいて奇妙な調和を保つ色の奔流が、白い部屋を染め上げていく。

 無機質だった部屋が、輝いていく。天井には青空。壁だった場所に、一面の花畑が広がって、あっという間に世界が拡大していく。花はどこまでも続き、無限に色を変えていくようだった。その果てはかすんで、見えない。


 みなみが振り向く。

 今よりもいくぶん純朴で、緊張した顔をした少女が、そこにいた。


「コラージュ!」


 声を合図に、彼女の周囲に、花火のように光がはじける。


 次の瞬間、そこにいたのは、魔法少女ファニー・フロウ。

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