第50話 エティカル・ひいな、戦いの記憶
ひいなたちの乗っていた列車、第30階層の幻想がなぜ、走り続けて止まることがなかったのか。
10年前、ゲヘナと対峙した記憶を追想しながら、ひいなは突然、それを理解する。
行き先が定まらない限り、前には進めない。だから列車はどこにも辿り着けずに走っていた。
そして、一度止まってしまえば、過去に追いつかれる。彼女たちを捉え続ける記憶に、呑み込まれてしまう。
現在にとどまるために、走り続けるしかなかった。アリスのナンセンスみたいだ。
クリーチャーが歌い続けていた異様な歌詞が、ダンジョンの構造そのものと骨がらみになっている。この上層は、そういう空間なのかもしれなかった。
そして、その構造が、ひいなを過去に向き合わせる。
ひいながいるのは、世界から隔絶したある一瞬の一点。そこには時間もなく、大きさもない。ひいなとゲヘナだけが、現実の物理法則からかけ離れた、心だけのものになって存在していた。
そのときのひいなは、五感を持っていない。だから、ただ、ゲヘナの存在を気配だけで感じていた。
ゲヘナは、ちっぽけでか弱い、幼いけものだった。昔、家で数日だけ預かった、子犬に似ていた。
「ネェ」
頭の中に直接響くゲヘナの声。最初、それが何の声なのか分からなくて、10年前のひいなはしばらく混乱した。
単純にやっつければいいと思っていた敵が、子供みたいな声でしゃべり出したのだ。それは戸惑うに決まっている。今でもひいなは、その辺を歩いている人が中国語で話していたり、逆にアジア系の外見をしたコンビニのバイトが流暢な日本語を使うことに、一瞬ぎょっとすることがある。
自分が偏見の塊なのだと最初に気づいたのは、たぶんこのときだ。
「***、キエタクナイ」
ゲヘナは、自分の名前さえわからなかったみたいだった。誰もがゲヘナをゲヘナと呼んでいたけれど、ゲヘナ自身はそれを自分の名前として認識していなかったらしい。
絶対零度の闇の炎。混沌の太陽。ただ燃え上がり、近づくものすべてを滅ぼすだけだったもの。
きっとゲヘナには、誰の声も届いていなかった。
「イヤダ」
だからゲヘナは、自分の主張を訴える術も知らない。発するのは感情をそのままにした声だけ。
「マブシイ」
「***、コワイ」
「アカルイ」
「***、キライ」
ひいなの胸に、ほんとうに突然に、ゲヘナへの共感が訪れた。
言葉なんて通じない、理解できない、滅ぼすしかない。そういう相手だったはずのゲヘナが、幼いながらに感情を持っているということ。
光が怖くて、明るいところが苦手で、臆病で。
そんな、恐がりなのだということ。
どちらかといえば怖いものなしで、ポジティブな性格だった当時のひいなでも、それは分かった。
分かったからこそ、よけいに混乱した。
そんなことを言われたら、ゲヘナを滅ぼせない。かわいそうな子を放ってなんておけない。
だけど、そうしたらパノンの望みを果たせない。ひいなを魔法少女にしてくれた、大切な友達の願いなのに。
でも、それとこれと、どっちが大切なんだろう。
こんなちっちゃな子を消し去って叶える願いなんて、そんなに大切なことなの?
10年後の今なら、ひいなは自分の迷いの意味が分かるし、冷静に判断できる。
でも、このとき、ひいなは眼前の事態にすっかり戸惑い、膨れ上がる感情に惑わされていた。
ひいなは、ゲヘナに同情してしまっていた。
たとえばこの瞬間、ゲヘナをためらわずに消し去る可能性だってあったろう。万全の状態で、魔力に満ちあふれたエティカル・ひいなの力は、この弱り切ったゲヘナを完全に滅ぼしてしまうには充分だった。
そうして、光あふれる世界で、ひいなは新しい人生に一歩踏み出す。魔法少女としての使命を完全に果たし、その経験を糧にし、未来へ向かって生きていく。
とても魅力的な可能性だった。
でも。
「あなた、生きたいのね?」
10年前のひいなは問いかけていた。
ゲヘナは激烈に反応した。きっとそれは、ゲヘナが初めて体験した「他者」だったのだろう。
「***、イキル!」
「そうだよね、生きたいよね。生きたくないものなんていないよね」
魔法少女として幾度となく激しい戦いをくぐり抜け、死線を経験した彼女には、ゲヘナの衝動が痛いほど分かる。死ぬこと、消えること、自分がいなくなることは、とてつもなく恐ろしい。
どうにかして、この子を生かしたい。このちっぽけな命を救いたい。
それだって、きっと、魔法少女の務めだ。
だけどどうやって?
「イキル!」
ゲヘナの存在が膨れ上がるのを、ひいなは感じた。それが危機をもたらすことも、彼女は直感していた。
ひいなはゲヘナを抱きしめた。体も腕もない彼女だったが、ただ思いによってゲヘナのすべてを包み込んだ。熱くも冷たくもなかった。
客観的に見れば、それは無謀で、奇跡だ。いかに力を失ったとはいえ、混沌の太陽たるゲヘナに触れれば、その存在を虚無に呑み込まれてしまいかねない。ひいなが生きていられたのは、彼女の全身に満ちあふれていた魔力に守られていたからだ。
「だめだよ、ゲヘナ!」
「イヤダ!」
暴れるゲヘナをひいなは強く抱きしめる。ゲヘナを守るためであり、世界を守るためでもあった。
ゲヘナが思うままに己を解放すれば、また世界は闇に包まれ、永遠の夜へと落とされてしまう。ふたたび世界は滅びに瀕してしまう。
そうしたら、また誰かがゲヘナを滅ぼしに来るだろう。たぶん、ひいな以外の魔法少女が。
ゲヘナが生きるために、私は世界を敵に回して戦うべきだろうか?
一瞬、そんな問いさえ頭をよぎった。それさえ名案だと思ってしまった。
魔法少女でなくなって、戦わなくなってしまったあとで、自分がどうしたらいいか。
そのときのひいなは、そんなこと、分かっていなかったから。
何せ今でも分からないくらいだ。
(そう。これも。もうひとつの選択肢)
ゲヘナを守り、世界と敵対する。
とても、信じがたいほど、魅力的な可能性だった。闇に落ちること、衝動に従うことは、その瞬間はとてつもなく甘美な選択肢だ。
でも、その可能性は中断された。
あのときは、パノンに遮られたのだ。ゲヘナの気配を感知し、ひいなに精神によって通信してきたパノンは、ゲヘナの完全な消滅を求めた。ふるさとを失った己の悲哀を訴え、ゲヘナに同情は不要である、と主張した。
パノンのような悲劇をふたたび起こしてはならない、という思いと、ゲヘナだって救ってあげなくちゃいけない、という感情に板挟みになったひいなは、その矛盾を解決する魔法をひねり出した。ゲヘナの闇のエネルギーをすべて奪い去った上で、ただのちいさな生き物としてゲヘナを生かす、という魔法。
ゲヘナの依代として、ひいなが生み出したあの子犬みたいな体。真なる闇にして混沌たるものの、心だけを救うために創造した、あらゆる世界を通じてたった一体の生き物。
それは魔法少女の最後の魔法にふさわしい、無から命を生み出す奇跡だった。
そして今、ひいなは、世界にひびを入れるものの音を聞く。
「ひいなっ! 見つけた!」
「……花乃華ちゃん!」
そんな気がしていたけれど、実際に声を聞くと、やっぱり嬉しくて、胸に幸福感がわき上がる。
10年前のひいなとゲヘナが対峙する、世界の果ての景色に亀裂が生じる。緑色の光が射し込んで、その向こうから、花乃華のほっそりした右腕が現れる。
そうだ、もちろん今のひいなは知っている。
花乃華と出会うためには、他の選択肢なんてあり得ないのだ。
「ほら、つかまって!」
「ううん、必要ない」
体の中から魔法があふれる。ひいなの胸の奥から、音を立てて、エモーショナルスターロッドが生成される。手を触れれば炎のように熱く、握りしめれば氷みたいに手のひらに張り付く。
エモーショナルスターロッドの先端から、待ちかねたように、光の渦がほとばしる。
「ハッピィ・ラッキィ・トルネードっ!」
その一撃が、闇を打ち払う。
ひいなを覆っていた闇が砕けると、あたりは真っ赤な夕暮れの空。眼下に見える海さえも、夕日を照り返して炎のように輝いている。そこは海のど真ん中だ。列車はもちろん、線路の影さえも見えない。目に映るのは、赤い海とさざ波。
それから、ちょっと困ったようにほほえむ花乃華。
「ありがとね、花乃華ちゃん」
そう言って、ひいなは、花乃華の手をようやく握りしめた。
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