第14話 行く手を阻むはネバネバの海!

 割けた壁の奥に伸びる細長い通路は、並んで進むにはちょっと狭苦しい程度の幅だ。奥は真っ暗で、きわめて見通しが悪い。ひんやりとした壁の冷たさが、圧迫感をいや増しているかのようだ。


「私が前に行くよ」


 ひいなの提案に、花乃華は不服そうだった。きれいな細面に、ぎゅっとしわが寄る。


「わたしの方が前線向きだと思う」

「何があるかわかんないんだし、どっちが前でもあんまり変わらないよ」


 確かに花乃華の近接格闘技術は圧倒的だ。しかし、この細長い通路で、しかも刻々と形状の変わる第15階層のダンジョンとなれば、どこから何が飛び出してきてもおかしくない。前方に敵が待ち受けているとは限らないし、通過した道が安全とも言い切れない。

 なおも釈然としない様子の花乃華に、ひいなは軽くロッドを振ってみせる。


「ブレイブ・ブライト!」


 エモーショナルスターロッドの先端に、山吹色の光が宿った。熱も揺れもない、純粋に球形をした光源が、周囲を明るく照らしてくれる。


「ほら、光源魔法もだいぶ明るいよ。絶好調の証」


 ひいなの魔法の効果は、感情に左右される。今日のひいなはだいぶ気分が良くて、おかげで灯りも強く光っている。細い通路の奥、床のタイル模様までくっきり見えるくらいだ。


「だから、任せて」


 そう主張するひいなに、さすがに花乃華は異を唱える気をなくしたようだった。


「わかった。じゃあ、先に行って」

「りょうかーい。先輩についてきなさい」


 マーチングバンドの指揮者みたいに、杖を振りながら通路へと踏み入るひいなの後を、花乃華が「むうう」とうなりながらついてくる。


 オレンジの光が、ひいなの腕の動きにあわせてゆらゆらと通路を照らす。

 通路の壁は、まるで切り立った峡谷の岩壁のようで、今にも崩れ落ちてきそうな錯覚を感じさせる。ただそこにあるだけなのに、常に手前に迫り出してきそうな、不穏さがあった。


 もしも本当に崩れてきたら、すぐさま一緒に駆け出そう。

 ひいなは、いつでも花乃華の手を引けるように、左手を何度も開けたり閉じたりする。


 花乃華が「静かだね」とつぶやく。先ほど聞こえてきた唄は、もう止んでいた。ふたりの固い足音だけが、通路の果てまで届いていくかのように長い反響を残していく。ずうっと細い耳鳴りがしているみたいな感じだ。

 微妙な緊張感と、それに相反する高揚感とが、ひいなの口を開かせる。


「この先、どこに続いてると思う? 花乃華ちゃん」


 振り返って訊ねる。花乃華は眉をひそめた。


「前見ててよひいな……入り口に戻されるか、また行き止まりか、ボスクリーチャーの眼前にご招待か、そんなところじゃない?」

「シビアな想像だねぇ。もっと、宝物庫! とか、狩り場! とかあるかもじゃない?」

「そんなのあれば、この階層ももっと賑わってるよ。人気ひとけがないってことは、旨味がないってことでしょう」


 花乃華の冷静な判断は、一理ある。ダンジョン探索で小銭稼ぎを狙う、日曜大工ならぬ日曜探索者はかなりの数に上るはずなのに、第15階層に来てからひとりの他人とも遭遇していない。

 つまり、それだけ手強い階層ということだ。


「まぁ、いくら強敵がきたってふたりの力でどーん! とね」


 そう言って、ひいなが杖をブンと振り上げた瞬間。


 急に、足下の支えが消えた。

 階段を踏み外したように、前のめりに倒れる。


「わっ?」


 とっさに向き直った先。


 床一面を覆い尽くす、粘ついた液体の固まり。

 否、違う。

 それは、床そのものが莫大な液体のプールとなっているのだ。


 青い粘性の液体が、いっせいにひいなに細長い触手を伸ばしてくる。

 餌をとらえた食虫植物よろしく、粘つく物体がひいなを捕らえた。


「え、わ、ひゃあっ!」


 手足に、胴体に、ひんやりした触手が巻き付いて、すさまじい力でひいなを引きずり込もうとしてくる。肌に直接ふれられ、衣装の隙間に触手をねじ込まれる。くすぐったいとか気持ち悪いとか、そんなことを考えてる余裕もない。

 じりっ、と皮膚に痛みが走る。直感した。


(食われる!)


「ひいなっ!」


 がくん、と、手を引かれ、空中に投げ飛ばされる。今度は魔法で着地する時間もなく、そのまま背中から床に叩きつけられた。


「ぎゃん!」

「だから前見ろって言ったでしょうが!」


 荒い息を吐きながら花乃華が叫ぶ。


「それより、これ! 取って取って、溶かされちゃう!」


 ひいなは必死で触手の断片を体から引きはがしつつ、悲鳴を上げる。

 触手の端々から浸出してくる液体が、ひいなの衣装と肌をじりじりと侵しているのだ。皮膚をとろ火で焼かれるような痛み。服に穴が開いてエロいことになるとか、そんな心配している場合じゃない。このままだと全身が溶かされてしまう。


「まじ」


 つぶやいた花乃華はひいなに飛びかかり、いっしょになって触手を引っ剥がす。床に放り捨てられた触手は、母体を失ったからか、そのままぐずぐずに崩れていく。花乃華はそれをじっと見て、舌打ち一つ。


「素材にはならないのね、もったいない」

「私の心配してよ!」

「うるさいなぁ。治癒薬、こういうときに使うものでしょ」


 花乃華はうるさそうに言うばかり。ひいなは不満を感じつつ、自分の素材袋から薬を取り出す。瓶に入った白い膏薬を皮膚に塗りつけると、軽いやけどになっていた皮膚があっという間にコーティングされ、痛みが消えた。

 「管理人」こと妖精マクリーの配布してくれる魔法の治療薬は、ダンジョン内でしか効かないながら、ちょっとした傷や怪我はすぐ治してくれる優れものだ。聞いた話では、骨折だって治せるらしい。


 痛みが消えると、気持ちも落ち着く。

 破けた衣装の端をぎゅっと握りしめながら、ひいなは花乃華を見つめる。


「ごめんね、また助けられちゃった」


 花乃華はこっちを振り向かないまま、じっと目の前をにらんでいる。

 ふたりの前方には、青い色の液体がうねうねとたゆたっていた。通路そのものが、巨大なプールのようになっていて、あの粘性の巨大液体クリーチャーで満たされている、ということらしい。


<石の浅瀬は  暗きうつし世>

<死して迷えば 補陀楽の底 >


 液体の生み出す波が、重低音となって響く。


 花乃華はそれを見据えて、ちいさくつぶやく。


「……足引っ張るだけなら、帰って」

「ヤだよ!」


 ひいなは、咄嗟に言い返していた。

 油断して、足下をおろそかにして、迷惑をかけたひいなに、花乃華が怒るのは当然だ。ひいなに愛想を尽かしても当然かもしれない。

 でも、このままじゃひいなの気が済まない。


「だいたい、帰るったって戻れないじゃん。ここまできたら一蓮托生だよ」


 第15階層は変形する迷宮、すでに帰り道はない。行くにせよ戻るにせよ、逃げ帰るという選択肢はないのだ。


「嫌だって言われても、絶対ついてくからね! でなきゃ、先輩として恥ずかしいじゃん!」


 食ってかかるひいなの主張に、花乃華はいくぶん鼻白んだようだった。


「先輩面したいんなら、もっとちゃんとしてよ。浮かれてないでさ」

「それは、確かに。ごめん」


 心身ともに調子がよくて、そのテンションのせいで、ひいなは自分を過信していた。やっぱり10年ぶりの魔法少女だ、まだまだ戦いの勘が戻りきっていない。

 だからって、へこんでもいられない。気持ちで負けたら、エティカル・ひいなはおしまいだ。


「もう油断しないよ」


 言葉にして、気を引き締める。口元をぎゅっと締めて、正面に向き直った。

 花乃華は、ひいなの表情を見て、ちいさくうなずいた。口元がかすかに動いて、独り言を漏らしたようだったけれど、ひいなには聞こえなかった。安心、と言った風に見えた。


 花乃華はきびすを返し、巨大な粘性の液体の海に向き合う。


「じゃあ、この荒海、乗り越えていこうよ」

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