挿話 蜂須賀花乃華、榊ひいなの家を訪問する

 花乃華とひいなは、ひいなの住んでいるマンションの入り口の前に立った。ダンジョン周辺の繁華街から、電車に乗ってここに来るまで、ひいなは何度も何度も同じことを言っていた。そして今も、同じことを言う。


「ほんとに来るつもり?」


 あまりの往生際の悪さに、花乃華はちょっと引く。大人がこんなにぐずぐずするなんて、みっともないったらない。


「もういい加減に諦めてよ。ここまで来て引き返すことなんてできないでしょ?」

「そりゃそうだけど……」


 ぼやきながら、ひいなは玄関ドアを押し開ける。その先にカードキー形式のオートロックがあって、自動ドアのガラスには警備会社のステッカーがこれ見よがしに貼付されてセキュリティ意識の強さをアピールしている。

 ひいながカードを通してドアを開け、ロビーからエレベーターで3階に。

 廊下の真ん中辺、307号室が、ひいなの部屋だ。


「……ねぇ」

「いいから開けて」


 ひいなの泣き言を、花乃華はぴしゃりと遮った。顔をちょっと引きつらせたひいなは、おずおずと告げる。


「大人に幻滅しないでよね……?」

「幻想なんてないよ」


 みっともない大人の姿はさんざん見てきた。母親も、周りの大人も、常に子供を守れるほど堂々としてかっこいい存在ではない、ということは、花乃華はよく承知している。


「あ、そう……」


 あいまいにうなずいて、ひいなは鍵を開ける。ドアに備え付けのシリンダー錠と、あとから取り付けたらしき錠前をふたつ。それだけの作業さえ、いくぶん億劫そうだった。やっぱり、戦いのあとでひいなはかなり消耗しているようだ。花乃華は、ちょっと自分の初陣の日を思い出している。


「……いらっしゃい」


 ひいながほとんど消え入るようなつぶやきを漏らしつつ、ドアを開ける。


「おじゃまします」


 腰を折ってお辞儀をし、花乃華は、ひいなの後ろから彼女の部屋に足を踏み入れる。ひいなの手で、灯りがつけられる。

 そして、花乃華は目を見張った。


「ごめんね、つまんなくて」


 ひいながそう言う理由、そしてずっと逡巡し続けた理由が、花乃華にも分かった。


 何しろ、殺風景だった。

 普段使いのスニーカーと仕事用のパンプスしかない靴箱、ずっと使われていなさそうなぴかぴかのキッチン、リビングにはテレビどころか本棚もなくて、かろうじて、片隅に置かれたカラーボックスと、ケージの中で眠る犬だけが部屋のアクセントになっているだけだ。

 生活というのは、こんなに空っぽになるものなのか、と、思う。

 かすかに感じる魔力の気配は、ひいなが住んでいるからだろうか。


「……部屋まで来てもらって悪いけどさ、私、すぐ寝るよ。今日はくたびれちゃった」


 そう告げて、ひいなは靴を捨てるように脱ぎ、リビングに直行する。みすぼらしいパイプベッドにそのまま倒れ込むつもりなのは、目に見えていた。


 がしっ、と、ひいなの肩をつかんで、花乃華は告げた。


「ダメ」

「えぇ……?」


 引き留められたひいなは、顔をしかめて振り返る。安眠を邪魔された人の常で、もう目がしょぼしょぼしていた。

 花乃華は心を鬼にして言う。


「せめて上着ぐらいちゃんと脱がなきゃダメ。皺になるよ」

「めんどくさいよぉ」

「できればパジャマ着て。お風呂も入っといたほうがいい」

「やだぁ~、お湯ためてるうちに寝ちゃう~」

「じゃあシャワーだけでも浴びて」

「うぅ……」


 ぐずるひいなをなだめすかし、バスルームの方に体を向けさせる。ひいなは相変わらず不満そうな顔をしたまま、花乃華をじっとにらむ。


「うぅ、花乃華ちゃんオカンみたい……」

「逆。わたしが母の世話してるから」

「へ?」


 はっ、と、表情を硬くするひいな。花乃華は一瞬ぽかんとしつつ、あっ、と気づいて首を振った。


「そんな、辛い話じゃないよ。うちの母親も多忙だから、よく仕事から帰ってすぐ寝ちゃう」

「あぁ、そういう……働く女性はどこでも大変なのねぇ、何かほっとしちゃう」

「たぶんうちはひいなの倍は稼いでるから。いっしょにしないの」

「にゃぁぁ……」


 とうとう退行して動物化してしまったひいなの服を、手際よく脱がせた。ジャケットもブラウスもスカートも、脱がせ慣れている。

 とはいえ、母よりずっと若いはずのひいなが、母親よりも胸が大きくて骨盤がしっかりしてそうなのが、何だか変な感じだった。中学生にもなれば、同級生の成長に差があるし、人の体の違いなんて見知っているはずなのに。


 でも、親以外の大人の女性の体に触れるのは、想像以上に、どきどきする。


「そこはやめて」


 下着に指をかけたところで、さすがにひいなが本気の声で訴えてきた。


「自分で脱ぐし、もういいよ」

「でも、心配。一緒に入ろうか?」

「馬鹿言わないで」


 ひいなは声を張り上げ、ちょっと咳き込んだ。


「母もわたしも、お風呂で寝ちゃって大騒ぎになったことあるし。見てないと不安」

「いいから!」


 下着姿のひいなは、花乃華を突き飛ばしかねない勢いで追い払うと、下着をぱぱっと脱ぎ捨ててバスルームに飛び込んだ。シャワーの水音と同時に「冷たっ!」とひいなが悲鳴を上げた。

 異変があったらすぐに飛び込めるように、花乃華はそこに腰を下ろす。


 シャワーの音と、途切れ途切れに聞こえてくるひいなの声を聞きながら、花乃華はあらためてひいなの部屋を見渡す。

 真ん中にぽつんと設置された質素なテーブルから、カーテンの引かれた窓まで、視線が一直線に通り抜ける。寄り道するポイントがない。テレビすらない。

 物がない分、掃除だけはきちんと行き届いているようだった。晴れた休日に、念入りに床を磨き続けているひいなの姿を、頭の中に思い描く。


 ふと、ケージの中で熟睡している犬の顔が、目に入ってくる。


(犬?)


 よく見れば、それはどんな犬種にも似ていない。プードルやテリアにしては毛が薄いし、かといってパグやプチブルみたいに厳つい顔でもない。チワワにしてはずいぶん足の付け根がごつい。ぴんと立った耳はポメラニアンみたいだが、ずっと縦に長くて、なんだか角が生えているみたい。


 いや、あれは、本物の角だ。


 立ち上がり、リビングに入っていって、ケージの中の犬(?)に歩み寄る。体毛と同じ灰色の角はわずかに曲がっていて、丸括弧のような形をしていた。

 触ってみたい、と思ったそのとき。


「あーぁ、すっきりした」


 ひいなの声がして、振り返る。バスタオルを体に巻き付けた彼女がリビングに入ってくる。湿ったタオル越しに、彼女の体型がそのまま見えてしまう。胸や腰つきの曲線が、はっきりと分かる。

 花乃華は、つい、その姿を見つめてしまう。スリムな母と対照的に肉付きのいいひいなの体は、同じ大人の女性でも、まったく別物に思えた。

 知らず知らずの内に、息を止めていた。


 ひいなは花乃華の視線を意に介さず、部屋の隅の収納ボックスから下着とスウェットを取り出して身につける。

 それから、花乃華の方を見た。


「ん、興味ある? その子、へーちゃん」

「……へーちゃん?」


 ため息のようにつぶやきながら、花乃華は振り向き、犬らしからぬ謎の生き物をじっと観察する。顔を近づけてみる。人間たちの騒ぎなど耳に入らない様子で、すやすやと眠っている。

 かすかに、魔力の気配がした。


「これ、ただの生き物じゃないよね」

「そうだよ。元はゲヘナって言って、クルール……私が戦ってた敵の親玉だったの。ああ、平気だよ。今は浄化されて力も喪失した、ただの愛玩動物。この子飼うのにペット可の物件探さなくっちゃいけなくて、苦労したよ」


 あっさりと、何でもないことのように言う。不動産屋巡りの方が、強敵を倒すより難しかったみたいに聞こえる言い方だった。

 花乃華の頭が、一瞬、空白になる。うまくひいなの言葉を呑み込めなくて、息が詰まるみたいになった。

 微笑を浮かべているだけのひいなに、花乃華は、やっとのことで訊ねる。


「……そうなの?」


 納得はできないけれど、納得するしかない。そんな感じだった。

 世界の命運を賭けた戦いを繰り広げたであろう相手を、理由はどうあれ、10年間飼い続ける。

 ひいなはきっとそういう人だ。理屈めいた答えなんて用意せずに、何となくで行動し続けている。

 分かると同時に、底知れない。


 その話題はそこで終わり、とばかり、ひいなは衣装ボックスからTシャツとジャージを引っ張り出して、花乃華に差し出す。


「私、今度こそほんとに寝るからね……ふわぁ」

「……うん、おやすみ」

「花乃華ちゃん、ベッド使う。私は床で寝ても平気だけど、一緒に寝るならそれでもいいよ」

「シャワーはダメで添い寝はいいの?」


 花乃華が言うと、ひいなは肩をすくめた。


「花乃華ちゃんが無防備に一緒に入りたがるから止めたの。大人の人の前で、むやみに裸になったりするもんじゃないです」

「別に、平気なのに」

「そっちが平気でも、相手はそうじゃないの。もっと自分を大切にして欲しいわけ」

「相手くらい見てるよ。ひいなだから大丈夫だって思ったの」


 信頼できる人と、そうでない人くらい、見分けがつくつもりだ。微妙な人に対しては、不信寄せで対処する。

 そしてひいなは、かなり信頼側に寄せていい相手だ、と思っていた。まあ、少なくとも、変なことをする度胸はなさそうだし。


 ひいなは一瞬、表情をゆるめた。困ったような、嬉しがるような、難しい顔。


「……そんなら、まあ、いいけど」


 もごもごとつぶやいて、ひいなはさっさとベッドに潜り込んでしまう。壁の方に顔を向け、花乃華に背中を見せて、ひいなは一瞬で眠りに落ちる。


 自分だって、たいそう無防備なくせに。花乃華は苦笑する。

 それから、彼女も、よそ行きの上着を脱ぎ始めた。シャワーくらいは浴びておかないと、気持ちが悪い。ひいなほどじゃないけど、今日はだいぶ疲れてしまった。

 上着を畳みながら、ちらっとひいなを見やる。彼女の背中はもう、寝息のリズムで上下動している。

 ほっとしたような、なんだか寂しいような気分で、花乃華の胸がかすかに締め付けられた。

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