王国㊱
倉庫街に二つの影が伸びる。
月明かりが倉庫の屋根に佇む男女の姿を顕にいていた。その内の一人、少女の口元が楽しそうに笑みを作る。
それは活躍の場を与えられたことによる喜びと、主の役に立てる自分の幸せを噛み締めてのことだ。
メイド服を着た少女は風で舞い上がるスカートを抑えることなく、街を囲む背の高い壁を見つめていた。先ほど放たれた火矢は一箇所からだけではない。全ての方角から一斉に放たれていた。
だが、違和感を覚えたのはその数が少ないことだ。
「ねぇアハト、帝国が火矢を使うのは初めてよね? 夜だと遠くからでも見えるから、もしかしたら工作員への合図かしら?」
声をかけられた女性は「だろうね」と一言で答えると、風で乱れた短めの髪を指で梳いて整えた。執事服の襟を正して自分の身なりを確認する。
万全の状態で事に当たるため、彼女なりに静かに気を引き締めていた。しかし、不意に仲間からの通話が入り耳元に手を当て頷く仕草を見せる。
「ノイン、どうやら動いたようだ。フュンフが既に工作員の排除に当たっている」
「なら急がないとですね。フュンフだけでは手が回らないでしょうから」
ノインは街から上がる炎を見つめ、そのまま視線を上に向けた。夜空に雲はなく満点の星と大きな月が輝いている。
雨が降る気配は全くない。このままでは炎の勢いは増し、火災が街中に広がるのは明らかだ。
だが二人に慌てる様子はなかった。全ては織り込み済みである。
「炎か――最も単純な方法できたな。ノイン、街から離れた場所に巨大な雨雲を作っているな?」
「もちろんですよ。火を放たれるのは想定の範囲内です。不自然にならないように、風で街まで移動させますね」
「頼む。私は先に工作員の処理に当たる」
「私も本当はそっちがいいんですけど――仕方ありません。後から行きますから、私の分も残しておいてくださいね」
「分かったよ。じゃあ行ってくる」
屋根から飛び降りるアハトを見送り、ノインは遠くの空に手を翳した。
もともと街の近くに雲がないのはノインの仕業でもある。帝国が火を使う戦略を考えていた場合、雨雲が近くにあると工作員の使用を見送るかもしれない。
ノインたちには工作員を一日でも早く排除したいという思惑もあり、わざと晴天を演出していたのだ。
ノインは街中に風が吹き込まないよう、上空の風だけを動かし徐々に雨雲を移動させた。
ゆっくりと、あたかも自然に流れてくるように――
ノインに見送られたアハトは繁華街の一角に降り立っていた。
聞こえるのは泣き叫ぶ声に罵声、騒ぎ立てる群衆の声。忙しなく飛び交う怒号の中で、アハトは目の前の男たちに冷ややかな視線を送る。
四人の男は黒い外套を頭からすっぽりと被り、手には陶器でできた瓶を持っていた。瓶には蓋の代わりに布が押し込まれ火が付けられている。
いわゆる火炎瓶だ。
騒ぎで誰もいない路地裏、火を付けるには絶好の場所である。もはや疑いようがない。
「君たちが帝国の工作員か――」
アハトは相手の視線や所作、気配からある程度の力量を割り出し「弱いな」と呟いた。
その言葉は男たちにも聞こえたはずだ。普通なら癇に障り襲ってきてもおかしくないだろう。だが彼らもそれなりの訓練を受けている。自分の果たすべき役目を見失うほど愚かではない。
手に持っていた火炎瓶を近くの建物に投げつけ、逃走を図るべく背を向けた。
瓶の中には油が入っていたのだろう。瞬く間に炎は広がり周囲が赤く染まる。火炎瓶の一つは地面にも叩きつけられ、行く手を遮るように炎が道に広がっていた。
だがアハトが見逃すはずがない。
男たちの背中を見つめるアハトの手には、いつの間にかひと振りの日本刀が握られていた。
姿勢を低くして右足を前に踏み出し、抜刀の構えを取ると、アハトの姿が瞬時に消えた。道端の炎を巻き上げ、一瞬で男たちを抜き去り前に回り込む。
そして、涼やかな表情で佇むアハトの手には、既に日本刀は握られていなかった。
「どこに行こうというのです?」
突如として目の前に現れたアハトに男たちは咄嗟に身構えた。
いや、身構えたはずだった。
だが視界が大きく傾き立て直すことができない。腰の短剣に伸ばした手が空を切
り、体の踏ん張りが効かない。
男たちは自分の置かれた状況に大きく瞳を見開いた。
倒れながら見たのは自分の有り得ない姿。体が腰から両断され斜めにずり落ちていた。断面からは臓器が飛び出し、血液が溢れ出している。
誰の目から見ても絶対に助からない致命傷だ。
男たちの顔が恐怖で歪む。そして地面に頭が直撃するのと同じくして視界は閉ざされた。
残されたアハトは周囲の炎に一旦目を向け、そして空を見上げた。まだ上空に雨雲はない。
「今度から火を放たれる前に殺すか――」
ぼそりと独り言を呟き、アハトは再び姿を消した。
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