第2話 欲張りなくらい好都合な世界

 ほとんど感覚のない両手を擦り合わせ、息を吹きかけながら、死神の言う<別の世界>へ行くための準備をしていた。

 Yシャツ一枚の全身は、完全に冷え切り震えが止まらない。脱ぎ捨てた学ランは、フェンスの向こう側にあり、やはり僕は凍えているしかなかった。

 死神は、寒さなんて感じていないように話を進める。

「別の世界へ行くために、あなたの生きたい世界を願ってください。 私が、許可するまで目を閉じて、自分の過ごしたい世界を思い描いてください」

「なんでもいいの? 例えば……人間全員の体が球体でも?」

「はい、構いません。 ですが、そんな世界で生きる意味を見つけられるとは思いませんよ」

 つまらない奴だと思ったが、さっさとこの寒さをどうにかしてしまいたくて、指示通り目を閉じた。視覚が遮断されると、その感覚が再分配されたみたいに聴覚や嗅覚が、冬の寒さと隣にいる死神の静かな息遣いを感じ取っていく。

 とにかく、この寒さを何とかしよう……そうだ、夏がいい。あの噎せ返るような暑さは嫌いだけども、蝉時雨や入道雲、夕暮れ時のヒグラシの声を一年間に二度も味わえるのなら、あの暑さはあるべき代償だ。それに、クリスマスなんてイベントに向かいながら生きる意味なんて考えたくもなかった。

「このくらいでいいかな?」

 そう尋ねながら、目を開けようとする。だが、死神にきっぱり断られた。

「まだ目を開けないでください。 それから、もっと具体的に」

 具体的に、と胸の中で反復する。

 そうだ、小学生の頃によく行った田舎のおばあちゃん家のような場所にしよう。どこを見渡しても田んぼに囲まれた風景は懐かしさを感じる。

 都会の排気ガスで汚れた空気に取り巻かれているのは、僕の理想ではない。

 それから、人のいない海も欲しい。腐った魚の臭いのする海ではなく、衛生的な磯の匂いのする海。だけど、浜辺なんてものはいらない。防波堤が欲しい。

 標示の剥げたアスファルト沿いに、ずっと続く、そんな防波堤があったら最高だ。

 田んぼと海だなんて、米を作るのには不向きな場所だが、あくまで僕の理想だ。米が作れようが、作れまいがどうでもいい。

 僕の理想に他人はいらないのだ。

 どこまでも自分勝手な理想郷を描き終え「目を開けていい?」と尋ねる。

 死神から返事はない。どうしようかと悩んでいたら、冬の鋭利な寒さを感じていないこと気づいた。

 その時――うるさいくらいの蝉時雨とYシャツの上から皮膚を焼き付けるような暑さに襲われ目を開ける。


   * 一日目


「すごいな。 僕の理想通りだ」

 冬の灰色の空を全て消したような青空に、巨大な入道雲が一つ聳え立つ。時折、強い風が吹きつけ、微かな磯の香りを運び、僕の両脇にある実の付いていない稲を揺らす。

 田んぼを覗いていみると驚いたオタマジャクシが逃げ回り、アメンボの波紋が広がる。それが面白くて、しゃがみ込んで、棒でかき回していると「お待たせしました」と声を掛けられた。

 腰と顔を上げるとトレンチコートを脱ぎ、落ち着いた白色のワンピースに麦わら帽子を被った死神が、夏に似合わない冷たい表情で立っていた。

「死神は、なんでもありなんだね」

「死神は、特別な存在なんですよ。 少しくらい優遇されるべきです。 それから、これ」

 死神に、白いTシャツとジーンズを手渡される。

「制服では、息も詰まると思います。 これを着てください」

 僕は、Yシャツの袖を捲りながら「いらないよ」と答えた。

「制服で過ごすことも、僕の理想なんだ。 君みたいな言葉で言うなら、制服の方が生きる目的を見つけやすい」

 呆れたようにため息をつかれるが、僕は気にしなかった。それよりも、風に運ばれてくる磯の香りと微かな波の音に魅せられ、足は先に進んでいた。

 田んぼに囲まれた雑草だらけの一本道を抜けると、標示の剥げたアスファルトを挟んで防波堤と海があった。船もカモメもいない海は、どこまでも壮大に広がっていて、地平線から世界樹のように入道雲がある。

 防波堤を登り、海側へと足を投げ腰を下ろした。

「無邪気ですね」

 隣を見ると、いつの間にか凛とした死神の横顔があった。少しだけ驚いたが、そんなのはどうだっていい。

「まさか。 サイダーとかないの?」

「ありますよ。 この世界は、言い換えればあなたの世界なんです」

 死神は、温度差で結露した瓶のラムネを二本、両手で持ち、そのうちの一本を僕へ手渡した。

 渡されたラムネのピンクの栓で、ビー玉を押しやり、炭酸が溢れてくる前に喉へ流し込む。強い刺激と安い甘みが口へ広がった。

「僕は、暑い夏に飲むサイダーと入道雲が大好きなんだ。 幼い頃、車の中でよく流れていたCDのジャケットがそんなんだったんだ」

「いいと思います。 とても無邪気で」

 僕は、笑いながら「まさか」と否定し、サイダーを一口飲んだ。

「無邪気なのは嫌ですか?」

「嫌じゃないけど、否定したくなる」

 また「呆れた」を言葉にしたようなため息をつかれた。

「捻くれていますね。 わざとですか?」

 僕は「そうだな」とサイダーを飲むふりをして答えを考えた。元から量の少ない安いサイダーは飲み切ってしまった。だから、中のビー玉を取り出して、手遊びをしながら答える。

「わざとというより……僕が、捻くれ者であることは誰かのためなんだ」

「誰ですか? その人をこの世界に登場させましょう」

「それは無理だ。 あくまで、僕の感じ方なんだ。 誰かに『お前は、捻くれ者であるべきだ』って言われたわけじゃない。 僕が、捻くれ者であるなら誰かが笑ってくれる気がするんだ。 逆に、それを止めてしまったら誰かが悲しむ気がする」

 死神は、また大きなため息をつき、今回は「呆れました」と付け加えた。

「捻くれ者は、嫌われますよ?」

「構わないよ、だから自殺をする決心も簡単につく。 それに、捻くれ者が誰からも好かれていたんじゃ、捻くれ者とは言わない。 死神、捻くれ者は好きか?」

「私は、常に平等です。 ノーコメント」

 大きく手でバッテンを作って見せる。

 僕は、久々に大声を出して笑った。僕の中の死神は、鎌を持って無差別に人の魂を攫う、そんな禍々しい存在だった。だが、こんなにお茶目な仕草をするのだもの、笑わないわけがない。

 その後、僕と死神は防波堤から海側に足を投げ、たまにテトラポットに打ち付ける波を見ながら<もしもの世界>を話した。

 一匹の巨大怪獣に地球を侵略されてしまう話。

 悪の秘密結社と戦う話。

 テロリストへと果敢に立ち向かう話。

 全ては、僕の「こんな世界はどう?」から始まり、彼女の「その世界に変えましょうか?」で終わる。だけど、僕の答えはNOだ。

 生きる目的を探すための世界ならば、無敵のヒーローや最強の人間なんてものになってはいけない。酷いくらい現実的で、だけども欲張りなくらい好都合な世界でなくてはいけないのだ。

 それに僕は、その時だけのヒロインなんて救いたくはない。

 僕の思う救うべき人間は、捻くれ者を望む誰かのような存在だ。

 だが、それは、あくまで言葉のあやだ。だから、防波堤と田んぼと海と入道雲のある世界で、もしもの世界を語っているくらいが丁度いい。

 気づいたときには、海の地平線へと日は沈み、夏虫の声が響いていた。

 僕は、ビー玉を海へ投げ、死神と一緒に海へ背を向けた。

 

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