となりの空席に恋をした
成瀬なる
第1話 最良な捻くれ者
果てしなく孤独で冷酷な風が、僕の体へ吹き付けた。でも、寒くはない。逆に心地いいくらいだ。
学ランを脱ぎ捨てたYシャツ1枚の体は、今見えている景色に恐怖して、興奮している。だから、心地いいくらいなのだ。
後ろにある2mほどのフェンスへ寄りかかる。このフェンスは、自殺を試みる学生の最後の砦だ。
僕はいま、学校の屋上にいる。
基本的に屋上へ繋がる扉には、南京錠が掛けられている。だが、そんな物ホームセンターで買った巨大なハサミの前では針金とそう変わらない。
ただ、有刺鉄線付きのフェンスという問いに答えるだけだ。
――有刺鉄線は、容赦なくあなたを傷つけます。
死を覚悟していないのなら、目先の痛みに怯え、踵を返す。
死を覚悟しているなら、目先の痛みなど、死ぬための過程に過ぎない。屋上から飛び降りて、地面に体を叩きつける痛みを味わえないのだ。冷たい針で体を傷つけられるくらいの痛みなど、どうってことない。
僕は、そう思う。だから、フェンスを越えて、30センチもない屋上の淵の部分にいるのだ。
有刺鉄線で出血した指先から、血が滴り屋上を汚す。まぁ、それも仕方ない。
さ、そろそろ死んでしまおうかとフェンスから体を離したとき、声をかけられた。
決して美しくはなく掠れた声は、相手をどこまでも不機嫌にさせるだろう。だが、僕は、どこまでも捻くれている。
人が好きだという物を無条件で嫌いになる。その代わりに、誰からも愛されない物を無条件で愛したいと思ってしまう。
だから、この掠れた声に振り向いてしまった。
「こんにちは」
スラリとした体形にトレンチコートを着て、綺麗な黒髪の間から覗く白い肌は、冬の孤独とも掠れた声とも不似合いだった。
「こんにちは。 単刀直入だけど、君は何者?」
色を失ったみたいな灰色の空の下で、自殺を試みる少年の隣へ来るには、2メートルの有刺鉄線付きフェンスを越えなくてはいけない。
彼女のトレンチコートも雪みたいな白い肌も汚れていないところを見ると、僕の質問は間違っていない。
彼女は、表情一つ変えずに答えた。
「私は、シニガミです」
「シニガミって……あの死神?」
「はい、死んだ神です。 本当ですよ」
彼女――<死神>は、納得いかなそうに眉を顰めた。
「疑ってないんかいないさ。 自殺をしようとしている人の前に死神が現れるなんて、無くはない話だ。 それか、僕がイカれているか」
イカれているなんて考えたくもない。これは、自虐ジョークだ。
自殺を実行しようとしているが、生憎、僕の頭は正常で、死神の整った顔に見惚れている。高級そうなトレンチコートが、死神を高貴な猫のように飾っていて、声以外は完璧ともいえる。
「私が、死神ですと言って、そんな簡単に受け入れられたのは初めてです。 素直なのか……それとも、あなたが捻くれているか」
「光栄だね、僕は後者だ。 でも、死神からすれば、僕のような存在は扱いやすいだろ?」
真剣にお道化て見せた。もう一度言うが、僕は捻くれている。
他人が愛さずに見捨てたものを愛したいと思ってしまうのだ。ノイズしか吐き出さないラジオとか色褪せた古本とか、酷い声の死神とか……だが、もしも、彼女が「私は、あなたの自殺を止めに来ました」なんて言い出しで「死神です」と名乗られても信じなかっただろうね。
僕は「それで」と30センチの淵から足を投げ、腰を下ろす。冷えたアスファルトに驚いたが、平然を装った。
「死神が、僕に何のようかな。 まだ、死んでないよ」
「死んでもらっては困ります。 私は、あなたの自殺を止めに来たんです」
思わず笑ってしまった。もしも、死神の話す手順が、少しでもくるっていたら、彼女の存在を信じなかったのだ。
だが、運のいいことに、僕は死神を信じてしまっている。自分の考えを貫き通すのも、捻くれ者だ。
「じゃ、今から生きろっていうのか?」
「その通りです」
とても真っすぐな声で言い切られた。
「また、この有刺鉄線のフェンスを越えろってこと? 気が滅入るな」
指先が出血していることを思い出し、口に咥えた。微かな血の味に吐き気がする。
「いえ、今すぐにフェンスを越えろとはいいません。 あなたには、三日間、この世界とは別の世界で、生きる目的を見つけてもらいます」
「突飛な話だ。 死神が、生きろだなんて。 君、本当は天使だろ?」
「天使が、死者の魂を拾うなんて汚れ仕事はしません。 それに、あなたの魂は拾われる資格すらないんですよ。 本来なら、私が、あなたに世話を焼く必要はないんですから」
「じゃ、無視してくれて構わない。 自殺を止める死神なんて愛したくはないからね」
自殺を止める死神……どこまでも潔癖で美しい存在だ。きっと、絵本なんかに出てきたらこんな死神を嫌う人はいないだろう。
だが、死神は、その場を離れることはせず、話を続けた。
「死者の魂は、私たち死神によってあるべき場所に運ばれます。 ですが、自殺をした死者の魂をあるべき場所に運んでも、ゴミとして扱われ捨てられます。 死神は、魂を運ぶことが仕事なんです。 仕事である以上、ゴミを拾ってきたなんてあってはいけません。 だから、自殺者の魂は、死神に無視され、それが私たちの間で暗黙の了解なんです」
「無視してくれて構わないよ。 地縛霊にでもなろう」
死神は、食い気味に否定する。それも、とても強く否定したのだ。
「無理です。 拾われなかった魂は、その場に漂い続けて、時期が来たら消滅します。 消滅してしまったら、あなたが存在していたという事実が消えてしまうんです」
死神の話は、少しだけ恐ろしかった。
捻くれ者の僕ですら、誰からも認識されないのは悲しい。まだ、無視程度だったら、自分を無視しない善良な人を探そうと思える。でも、存在していた事実が消えてしまうのでは、探す、とか以前の問題なのだろう。
それでも、僕は捻くれ者だ。
「存在していた事実自体が消えるのは、都合がよくないか? 両親や妹が、悲しむ必要がないし、下手に迷惑を掛けるようなことにもならないだろう?」
しばらくの間をおいて、死神が答えた。だけども、その表情は、とても悲しそうに見えた。遠足が雨で中止になってしまった子供のような表情だ。
でも、僕の気のせいかもしれない。だって、死神の悲しい表情なんて知らないんだから。
「それは、屁理屈です。 それに、私は、仕事に真摯に向き合いたいんです。 死者の魂を見つけて、無視をするのは死神としてありえません」
「矛盾しているな。 死者を放っておけないなんて。 死神は、もっと悪者なんじゃないのか?」
「そんなことありません。 死神が、生きている人の魂を勝手に取るわけじゃないんですよ? きちんとした手順を得て、死者の魂をあるべき場所に届けるんです。 とても、善良な存在じゃないですか」
いや違う、否定しようとしたが、自殺をしていない僕の魂を奪っていないのが証明だった。それ以降、死神との会話は途絶えた。
僕は、飛び降りることはせず、どの選択が一番、捻くれ者でいられるかを考えていた。
冬の風は、冷たさを増す一方だ。それでも、死神は、寒さなんて感じないといった澄ました表情で灰色の空を見つめていた。死神の口から白い息は出ていない。
もうしばらく考えた。手の先まで凍え、感覚を失い、歯が音を立てて震えだした頃、僕はようやく答えを出した。
「わかった。 死神の言う通り、生きる目的を探してみよう」
これが、最良な捻くれ者の答えだ。
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