第3話 ただの成長

 二日目


 夢を見た。とても漠然としている夢で、夏の朝方の肌寒さに唸っている間には、ボロボロと崩れていってしまう程度の夢だ

 最終的に残っていた夢の断片は「僕が、剣と魔法の世界に感動した」という印象だけ。でも、それもゆっくりと滲んでいっていて、完全に消えるのも時間の問題だ。

 でも、まぁ、どうでもいい夢だ。消えてしまったところでどうってことはない。

 いまやるべきことは、消えてしまいそうな夢を必死にかき集めるより、隣でタオルケットに包まりながら寝息を立てる死神を起こすことだ。

 僕の理想である古民家の蚊帳の中、畳に敷いた布団の上で眠る死神の違和感に頬が緩む。

「死神、起きて」

 華奢な白い肌へ触るのには抵抗があった。女性に対して初心うぶという訳ではなく、繊細なガラス細工を触るときのような張り詰めた緊張感があったのだ。

 だから、神経を手に集中させて軽く揺さぶった。

 死神は「んっ……」と眉を顰め、ゆっくりと瞼を開けて、時間をかけて体を起こした。やっぱり、彼女の所作には、高貴な猫を感じさせる。

「おはよ。 早速だけど、僕の寝癖と制服のしわ、それから口の中の気持ち悪さと空腹を消してくれないか」

「わかりました。 それより、今何時ですか?」

 僕は、枕元にある時計を手に取り、長針と短針に目を凝らす。僕自身も寝起きだからだろうか、視界が霞む。でも、そんな視界はすぐに晴れ、ついでに空腹と口の中の気持ち悪さが無くなった。

「午前4時50分だよ」

 死神の目が、大きく見開かれ「正気ですか?」と尋ねられる。

 それも仕方ない。朝霧のかかる肌寒い朝だけに感じられる、夏の高揚感を少女に理解されたのでは少しだけ理想的じゃない。まして、死神がすぐに頷いたのでは、もっと理想的でない。

「時間は有限だよ。 それに、こんな最高の世界にあと2日しかいられないんじゃ、ご飯を食べる時間すら勿体ない。 さぁ、カブトムシを採りに行こう」

 死神は、特別な力で創り出した薄手のカーディガンを羽織り、両腕を摩る。そして、いつも通りのため息をついて「わかりました」と頷いた。

 僕にとって、どこまでも理想的な展開だった。何か酷い悪事を働こうとしているわけではない。完璧な小説に出会ったときのような感覚が、体中を駆け巡っているような感じだ。

 死神は「この世界は、自分の力でつくられている」と言っていた。ならば、彼女が僕の理想を叶えるために、セリフの細部にまでこだわってくれているのかもしれない。あの溜息だって、本当は演技なのかもしれない。

 だとしても、あと2日間、死神と僕という関係をどこまでも贅沢に堪能したいと思う。言い忘れていたが「生きる目的」を見つけるかどうかは、また別の話だ。


   *


 この世界での家の役割をしていた古民家の裏庭から小道を抜けると雑木林がある。一歩近づくたびに腐葉土の匂いや青葉を揺らす虫の気配に胸が踊った。

 僕の思い描く理想通りだ。やはり、夏の早朝の高揚感は少年にしかわからない。

「カブトムシの魅力って何ですか?」

 雑木林の中に足を踏み入れる前、死神が尋ねた。僕は、足を止め、体ごと振り返り、手を大きく広げて答えた。

「田舎って、早朝に散歩すればカブトムシやクワガタに必ず出会えるんだ。 でも、林の中だとそうはいかない。 そこに男の子は魅せられるんだよ」

「分かりかねますね」

 広げていた手を顎に持っていき考えた。これからカブトムシを一緒に採るのだ。この高揚感を少しでも感じてくれなくては、理想的ではない。

「死神は、ゲームってやる? RPGとか」

「はい。 ゲームは、最高の暇つぶしです」

「なら、話は早い。 結局は、ゲームと同じなんだよ。 モンスターを倒すために装備や持ち物を考えたりして攻略できた時は、興奮する。 たとえ、できなかったとしても、攻略法を考えているだけで、自分は立派な勇者なんだよ。 そうゆうこと」

 死神は、難しそうに首を傾げているが、面倒になったのか「分かります」と頷く。

 話は終わりだ。体を死神から、雑木林の入口へと方向転換して、一歩踏み出す。

 ゲームでいったら、始まりの村を出る時のような――王都ののんびりとしたBGMからBPMの高い焦燥感のあるBGMへ変わるような――僕は、そんな緊張感は幼い頃から消えないとばかり思っていた。

 いざ、落ち葉でブカブカの地面を踏んでみると何も変わらない。むしろ、高揚感が冷めていってしまったのだ。

 僕は、一本のブナの木を見上げる。思っていた何倍も背丈が低く感じた。その先に、一匹の黒いカブトムシがとまっている。

 ブナの木を一発蹴った。ポサリという音の後に、ひっくり返ってジタバタともがくカブトムシが落ちる。

「どうかしましたか?」

「いや……なぁ、死神、変な質問していいか?」

「はい、私が答えられるのなら」

「カブトムシの魅力ってなんだ?」

 死神は、年上の姉のように小さく微笑み「そんなもんですよ」と答えた。

 僕が、カブトムシを最後に採りに行ったのは、都内へ引っ越してくるずっと前だ。田舎のおばあちゃんの家で暮らしていた頃、夏休みの早朝は、父とカブトムシを採りに行くのが日課だった。

 だが、それ以降、カブトムシを見るのは、陳列する透明な箱に閉じ込められ、並べられているホームセンターだけ。

 そんな棚から虫かごを持ち上げ、目を輝かせる少年を見るたびに「あぁ、馬鹿だな」と思っていた。それは全部、あの夏の高揚感を知っているからだと思っていたが、違ったらしい。

 僕の中でカブトムシと虫の境界線が、気づかないうちに消えてしまっていたようだ。

「私だって、ずっと昔にテレビでやっていた魔法使いに憧れていました。 先にハートが付いた杖を振ると、ファンタジーの力を使って何でもできるんです。 空を飛んで海を越えることだって、好きな男の子を振り向かせることだって」

 僕たちは、もう、雑木林にはいない。防波堤を目指して、田んぼ道を並んで歩いていた。

「だけど、気づいたときには、本物だと思っていた魔法の杖がプラスチックで、できていると理解してましたし、ボタンを押せば、流れてくる録音された単調な声が気味悪く感じていました」

「騙されていたんだね。 悲しい話だ」

 死神は「違います」とらしくない笑顔を浮かべた。

「それを人間の言葉で『成長』いうんじゃないんですか? 以前に魂を運ばせていただいたおじいさんが言っていました」

 成長――大人になることは恐ろしいものだと思う。見えなかったものが見えてきてしまうし、夢とか理想とかを自分の手で壊してしまう。

 僕は、それが嫌だった。誕生日ケーキに書かれる数字が増えるのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 だが、それは受け入れなくてはいけない物なのだろう。

 子供であり続けることと捻くれ者であり続けることは、全くの別物だ。

 僕は、笑みを浮かべながらため息をつく。

「死神に励まされるなんて、人間失格だね」

「そんなことないですよ。 あなたは、生きる目的を見つける人間なんです。 励まされて当然です!」

 防波堤へ辿り着いた。目の前の壁が、随分と低く感じる。

「また、海を見ながらお喋りですか? この世界も半分が過ぎましたよ」

 僕は、防波堤の壁に触れて「いや」と言葉を続ける。

「防波堤にいるのは終わりだ。 死神、学校を作ってくれるか? 生徒はいるけど、僕と死神を認識しない学校だ」

「わかりました」

 僕は、防波堤の向こう側の海を想像する。どこまでも広く壮大で、群青色の水面には船も海鳥もいない。ただ、世界樹のような入道雲を描くための青色のキャンバス。

 残り半分の世界だ。もう、二度とこの海に来ることはないだろう。

「お待たせしました。 学校は、この道路沿いに進むとあります」

 僕は、まだ生きる目的を見つけていない。

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