第5話 となりの空席に恋をした
外はまだ明るいのに、校舎内に人の気配を感じない。それが、なんだか不気味だった。夏のねっとりとした蒸し暑さに絡みつくように漂う埃っぽさが、廊下に充満する。だけど、死神は、そこをスタスタと歩いて行き、ある教室の前で足を止めた。
僕は、そこに辿り着く前から、その教室がどんな場所であるか知っている。
それも全部、この学校が僕の通う高校であり、自殺を試みようとした屋上のある高校というのが理由だ。
死神の背中に遅れて追い付き、彼女が立ち止まる教室へと目をやった。
やっぱり、そこは3年1組――僕が所属するクラスだった。
他の教室は愚か、他の階層、グラウンドでさえ人の気配を感じないというのに、3年1組の教室だけは、クラスメイト29名と担任1人がしっかりとそこにいた。
もちろん、29名の生徒の中には<僕>も入っている。死神の想像によって作られたもう一人の僕が、窓際から二列目の一番後ろの席で、つまらなそうに座っていた。
「入ってみますか?」
温度を持った少女らしい双眸で問われる。
その前にだ。死神の質問に答える前に、僕の不信感に近い疑問を告白しよう。
――死神である彼女は、どうして僕の通う学校を知っているのだろう。
それだけだ。
「そうしよう」
教室の引き戸が大きな音を立てて開かれるが、もう一人の僕でさえこっちを振り向きはしない。この学校では、好都合に僕らは誰からも認識されない。
それから、これも都合がいいことに、外は正午を回ったくらいでも教室の空気感だけは、夕暮れの放課後と変わりはなかった。
担任の教師が「明日から夏休みです」と言った。
あぁ、この日は7月24日くらいなのだろう。確か、夏休み前の終業式は、そのくらいだったと思う。
僕は、死神の方を見ないで聞いた。
「死神、君は、どこまで僕の都合のいいように世界を作れるの?」
「何でもできますよ」
僕の望んでいる答えではない。質問を変えよう。
「この好都合な世界の創造に、僕の思考は関係しているの?」
「はい。 あなたの望む最高の世界ですから」
僕は、素っ気なく「そうか」と答え、教室を見ていた。
この教室に、もう一人の僕がいるというのは、不自然ではあるが好都合だった。自分の知っている教室とクラスメイトの中に自分はいないけど、認識されない自分はいるなんて状況は、午前中に行われる帰りのHRより気持ち悪い。なんだか、学校を無断欠席した時のような不特定な罪悪感に似ている。
しかし、この状況を僕は望んでいない。学校に認識される僕と認識されない僕を作り出すことは、考えてもいなかった。
なぜなら――死神の作る、僕に好都合な世界では、自殺を試みた学校なんて不都合だから。
僕は、死神の顔を横目で見た。死神は、やっぱり夏に似合わない真顔で、真っすぐを見つめている。だが、微かに温度を持っていた。優しさとかそうゆう類の温度だ。
担任の教師が「夏休みだからって浮かれるんじゃないぞ~」と言った。
僕の意識は、死神から再び、この教室へ戻される。
野球部のクラスメイトが「先生は、彼女と海行かないんすか?」とへらへらとしながら言った。
僕は、このやり取りを知っている。だから、学校に認識される僕が、次に何をやるかが分かった。
「馬鹿みてぇ……」
窓際から二列目の最後方に座る自分の口の動きを声に出した。死神には、聞こえない音量で。
そして、僕と僕は、となりの空席へ視線を持っていく。
きっと、今の僕を見れば学校のクラスの喧騒が嫌いで、外を眺めてることで耳栓をしている捻くれ者に見えるだろう。捻くれ者であることは僕が常に望んでいることだ。
だけど、この時だけは――となりの空席に恋をしてしまったこの時だけは、僕が捻くれ者を盲目に扱った時なのだ。
高校二年生の夏休み前日に、となりの空席へと恋していることに気が付いたのだ。
そんな僕を羨ましいと思った。ただただ、醜く嫉妬した。この世界で、あってはならない感情だと思ったが、今更、どうすることもない。
この世界は、僕の都合のいいように作られているのではない。
となりの空席に恋をした僕へ嫉妬しながら、僕はとなりにいる死神へ恐怖していた。
死神は、語っていない『となりの空席に恋をした話』を忠実に再現している。
*
さようなら、なんて小学生のようなあいさつで締めくくられたHRの後、教室を出ていく生徒は誰もいなかった。ロウソクの火が吹き消されたみたいに、一人また一人と消えていき、空席を見続けていた僕も立ち上がる途中でパッと消えた。
「いいクラスですね」
誰もいない教室で、死神が言った。
「そうかな。 僕は、そう思わないよ」
「でも、あなたはルールに従って、きちんと席についていました。 好きじゃなきゃ、逃げ出してしまいます」
それは、あくまで死神の作り出した僕だ。でも、死神と会話をするのが面倒になって「じゃ、君の言う通りだ」と可能な限り愛想よく答えた。死神と会話をすることは嫌いじゃない。むしろ、この世界で永い間、死神とお喋りをしたいとさえ思っている。
でも、死神は嘘を付いているのだ。理由は分からない。理由が分からないからこそ、僕は、彼女とお喋りをするよりも先に、それを明らかにしたい。
彼女のことだ。僕に嘘を付かなくてはいけない理由が、明確にあるはずだ。
無意味に嘘を付いて人間をからかうことを目的にしているのなら、彼女は死神として優しすぎる。
僕は、あくまで自然に彼女を思考したくて、この学校を作った本来の目的を告げた。
「死神、図書室へ行こう」
「いいですよ」
彼女は、なんだか、上機嫌に見えた。
*
僕の教室を出て、右へ曲がり、突き当りを左へ曲がって、シャッターの閉じた誰もいない購買を過ぎると図書室がある。ドアノブを回すと、クーラーの人工的な適温と埃とインクの混ざった匂いに歓迎される。
もちろん、誰もいない。
適当に薄っぺらな青春小説を手に取ってテーブル席に着いた。少し遅れて死神は、分厚い植物図鑑を持って向かい側の席に着いた。
早速、一ページ目を捲り、死神への思考を始めた。
僕が思うに、死神の最大の嘘は『この世界の定義』なのだ。
彼女は、この世界のことを質問すると。
――この世界は、あなたの理想なんです。
と答えてくれる。質問を変えれば「生きる目的を見つけるため」と言葉を付け加えて答えてくれる。つまり、この世界は、僕の都合のいいように作られ、僕の想像通りでなくてはいけない。
大概は、僕にとって都合のいい世界だった。本当に、欲張りなくらい。
でも、死神は、ミスを犯している。
最良の捻くれ者であるためには、嫌われるくらいのこだわりが必要だ。
もちろん、僕にもこだわりがある。それは、夏に飲む炭酸飲料は<ラムネ>でなくてはいけない。だから、この世界で飲んだ炭酸飲料水はラムネだけだった。僕が、死神へ頼み。死神が創造した飲み物だ。
これが、死神のミスだ。
もう思い出せないくらい幼いころから僕が「サイダー」と言ったらラムネが出てくる環境で生活をしていたせいで、ラムネを飲みたくても「サイダー」と言ってしまう癖があった。だから、この世界でもラムネを求めているのに「サイダー」と言ってしまった。だが、僕に手渡されたのはラムネだった。しかも、安っぽさや分かっていても、毎回溢れる炭酸の鬱陶しさまで再現されていた。
僕は、死神へ「ラムネ」のことを「サイダー」と言ってしまうことは愚か、あの安っぽさと鬱陶しさを愛していることなんて教えた覚えはない。
まぁ、ここまでは、単なる偶然だともいえる。
僕にとって好都合な世界なのに、不都合な高校を作り出してしまった時、死神へ。
――この好都合な世界の創造に、僕の思考は関係しているの?
と尋ねたら。
死神は、「あなたの望む最高の世界ですから」と答えた。ならば、サイダーとラムネの不信感は否定され、偶然ということになる。
しかし、何度も言うが、彼女の言葉が真実ならば自殺を試みた高校は必要ない。
たとえ、僕の記憶の中の高校が自殺を試みた高校だけだとしても、クラスの中に「ルール」なんてものを定義してはいけないのだ。僕が、席についていることは、あくまで都合上の問題であり、クラスのルールなどではない。
しかし、死神は確かに、ルールの中で僕が座っている、と言った。
死神の言う――僕の思考に忠実な都合のいい世界――という定義は、彼女自身が否定したのだ。
この世界の定義を言い直すのなら『僕の過去の継ぎはぎな世界』だ。
読んでいた青春小説を音を立てて閉じる。
「死神、一つ言ってもいいか?」
死神は、あくまで植物図鑑に視線を落としたまま「構いませんよ」と言った。
「君は、僕のことを知っているのか?」
植物図鑑から視線を持ち上げる。温度のない双眸だ。
彼女は、どうしようもなく僕へ嘘を付き。それを隠すことを失敗している。
僕は、放課後の図書室で興味もない本を読みながら、有限な時間を浪費することが堪らなく好きだった。あの夕暮れやだんだん薄れていく同級生たちの希望に満ちた声が、つまらない世界で生き続ける僕にとっての慰めだった。
この世界に高校を創ってと頼んだのも、それを味わいたかったからだ。決して、クラスメイトたちの喧騒と嫉妬するくらい羨ましい恋をする僕を、見たいわけじゃなかった。死神はそれを再現できていない。
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