第112話 剣に生き……・四

リューネブルク市司教府内部・バルムンク本陣(移動後)―――


「法王軍、外周部分に到達……侵入を開始しました」

「馬鹿な、停戦命令が出ているはずだ、まさか伝令が届いていないのか!!」


 哀れな程に動揺しているのは、先ほどアマーリアに講和を打診しに来た間者であった。

 彼は自らの職務に誇りを持っていた、自分がバルムンクとの講和を成し遂げれば戦乱が終わり、多くの人命が救われると信じていた。

 だからこそ危険な戦場に、処刑されてもどこからも非難されない間者の立場に甘んじて、やってきたと言うのに……。

 科せられた使命をまっとうした末路は悲惨だった。

 彼の上官たる法王シュタイナーがしくじった、それだけの理由で彼の献身は水泡へと消えたのだ。


(やっぱり、予感が当たりました)


 動揺しきっている彼とは違い、渡りに船の講和を持ちかけられ、昇る寸前で梯子を外されたアマーリアだが、表面上は平静を保っていた。

 噛みしめられた唇は蒼く染まり、本心では怯えきっていたが、慣れと言うのは恐ろしい物。

 つい数か月前までは司教府の臆病な少女奴隷でしかなかったのだが、今では下手な兵士より余程胆力が座っている。

 勇敢なのではない、臆病さは変わってはいない。

 ただ面の皮が厚くなっていた、恐怖に対する許容量が増していた、そしてその極限の状況下での変わらぬ態度が周囲の人々にどう映るか、彼女は理解していた。


「何か手違いがあったのかもしれません……もう一度その、法王猊下に連絡を取って見てはいかがですか」

「しかし、その間にこの司教府が陥落してしまうでしょう、それでは我々法王軍と貴方達バルムンクは講和できない」

「往復する時間くらいなんとか支えきれます、ですからどうか早く」


 軍事に関して門外漢もいい所、深刻な戦力不足の中でさえ戦闘要員に選ばれず、ヴァンが言う、絶対に軍事に関わらせてはいけない人物であるアマーリアは戦況がどうこう分かるはずがない、支える云々は嘘である。

 だが間者はそこまでアマーリアという少女を知らない。

 彼は嘘に気付かず、むしろ自分が動揺する中、落ち着き払った態度を見せる彼女が歴戦の勇士にも見え、その度量を見て、彼は混乱を抜け出すことに成功した。

 まだ目に迷いが見えたが、行うべきことを理解したのだ。

 ならば、後は新たな使命を遂行するだけである。


「無様な姿を見せました、申し訳ありません……」

「いえ、大丈夫です、大丈夫です、大丈夫ですから」


 内心の動揺を悟られぬように努めるアマーリアだったが、その労苦は杞憂と言えた。

 対面する間者はそれ以上に狼狽えており、アマーリアの心内を見抜く余裕などありはしなかったのだ。


「では……行って参ります」


 成すべきことを成すために、間者が司教府を駆け出して行った。

 彼は再び、誇りを取り戻した。

 ただし、彼に誇りを取り戻させた少女はその成果を絶望視していたのだ。

 間者は法王府に辿りつけない、無念の死を受けるのが最も、いや唯一の結末であったのだ。

 そしてその結末は意外と早く訪れたのだ。


「この司教府は完全に包囲されている、連絡など取れませんよ」


 間者が床に蹴り倒された……大理石すら砕きそうなその強烈な一撃は皮鎧を着た彼の肋骨にヒビを入れ、肺を圧迫して一瞬、呼吸を困難とさせる。

 彼はそのため、空気を取り入れるために口を大きく開けた。

 その口にカシの木で作られたクロス・ボウの本体がねじ込まれる。

 まるで水でも流し込むようななだらかな動きに生命の危機であるにも関わらず間者は見惚れた。

 襲撃者がトリガーを引き、小脳を貫く激痛を感じるまでのわずかな間だけ、戦士としての技量に魅了されたのだ。


「貴方に正しい矢の番え方をお教えしましょう」

「……!!」


 いかなる怪力か、巻き上げ機を使わずに腰のベルトにロープをひっかけると、彼は腕力と背筋力だけでクロス・ボウの機構を巻き戻し、太い矢を再装填した。

 ギリギリと歯車が動く度に小脳に刺さった初劇の矢が震える、射られた間者が断末魔をあげた。


「ゼロ距離で撃つ……一度やって見たかったのですよ」


 そして放った。

 二撃目の矢は初撃の矢とぶつかり、その衝撃を広範囲に広げる。

 間者の頭がガクガクと振動する、その頭の中で脳みそがヨーグルトに変ったことを予想して、アマーリアが思わず口を抑えて蹲った、目と口を抑え、何も漏れ出ないように耐えたのだ。


「報告は来ているか……敵軍は巨大な竜を投入してきた、ヴァンと、あのリヒテルが迎撃に出ているが恐らく無理だろう、戦況は絶望的だ」


 殺人者が戦況を伝えたことをアマーリアはとっさに理解できなかった。

 突如行われた目の前の惨劇に気を取られ、思考力を取り戻せなかったのだ。

 一人の人間、それも何の罪もない、ただ職務を遂行していただけの人間が理不尽に殺されたのだ……ましてや加害者が見知った者だとするならば、動揺を抑えきれるわけがなかった、それが一般人の、正常な人間である彼女の限界であった。


「呆けている場合ではないぞ、アマーリア!!」


 アマーリアの首を掴み、わめき散らすのはイグナーツであった。

 間者を殺した襲撃者は彼であったのだ。


「すぐにでも、法王軍が攻めてくる。迎撃態勢を取れ、女子供、全てを動員するんだ、動けぬ者は肉の壁として使え!!」


 絶望的な戦況、十年もの抵抗の果ての無惨な結末、それらが彼から理性の半ばを吹き飛ばしていた。

 泡を吐くイグナーツの姿はとても健全な人間には見えない。

 彼にはもう、アマーリアの<愚かさ>を許容できるほどの<寛大さ>はない。

 例え非道だとしても純軍事的に正しいことを、最も合理的な手段を行うだけだった。


「何を……」

「もう一度言う、この司教府は包囲されている。私はなんとかそれをすり抜けてこれたが二度目は無理だ」

(何をしているのですか!!)


 イグナーツは勘違いしていた。

 アマーリアが驚いたのは戦況の悪化が理由ではない、そんなことは分かっている。

 幹部が出払った中、不安にかられた司教府の兵士が一応は役職にあり、しかし所詮文官でしかない彼女に報告と指示を求めてきたのだ。

 指示してください、命令をお願いします、私達はどうすればいいんですか。

 その縋り付く声を裁き続けてきたのだ(ただし軍事に無知な彼女の指示は適当であったのだが)。

 彼女が驚いているのは、何の罪もない人間を殺しても塵ほどの罪悪感も覚えないイグナーツの異常性に関してだ。


「司教府で動かせる兵力は百人もいませんよ」

「ヴァンが前線の兵士を撤退させた、四百の精兵が手元にある」

「しかし、包囲している法王軍は一万を超えているのですよ、もう無理です、降伏しましょう……皆殺しにされるよりはマシです」


 情報が錯綜していた、恐慌状態の兵士は敵の戦力を過大にアマーリアへ報告した(実際には一万ではなく五千、そして闇夜では正確に調べることができない)、だたそれはイグナーツの方とて同じ、ボロボロで体力が尽きかけた男達はいつから精兵と言われるようになったのか。


「降伏は勿論、だが交渉のテーブルにつかせるためにも戦うしかない」

「それはどういうことですか?」

「先ほどの間者の言っていたことは正しい、確かに法王軍に停戦命令が出ている、だがその使者をセルゲイ竜司教が斬り殺したのだ、恐らく法王よりもグスタフへの忠誠を優先させた結果だろうが……所詮あの男はスヴァルト人、貴族の命は全てに優先すると言うのか」

「そんな……」


 セルゲイを殺されねば降伏すら許されない、その事実をアマーリアは理解した。

 しかし彼女は覚悟を決めかねていた、どうしても他に手があるのではないかと考えてしまう。

 軟弱だと、優柔不断だと誹りを受けても構わない。

 有体に言えばアマーリア・オルロフと言う少女はイグナーツの傘下に入ることがたまらなく嫌だったのだ。

 イグナーツが成した行動はあれほど嫌い抜いたリヒテルのやり方を踏襲ものであった、恐怖と暴力、正当性で人を縛る。

 ただしイグナーツの手腕はリヒテルに比べて劣っていたのだ。

 リヒテルは少なくとも、敵よりも嫌悪されてはいなかった。


「負ければ殺されるか、奴隷とされるか……自決用の短剣だけは渡してやる」

「大丈夫です、間に合っています」

「ほぉ……既に武器は持っていると、まさかそれで私を刺し殺すのではないだろうな、グレゴール司祭長のように」


 アマーリアの精神は脆弱だ、少なくとも十年間スヴァルトの弾圧に耐えて組織を維持してきたイグナーツよりは。

 彼女は自分を虐待してきた彼の老司祭長をめった刺しにしたことがある。トドメを刺したのはヴァンだが、それは人を殺したとあまり変わらない、彼女は殺人の罪があるのだ。

 ただ、グレゴール司祭長は既に処刑が確定していた極悪人であったこと、そしてブライテンフェルト会戦直前で組織が<殺人>などと言った些末な事情を処理している暇がなかったのが幸いした。

 そしてヴァンによって強引に隠蔽され、無罪放免となった。

 ちなみに殺人の罪を責めるイグナーツは十年の抵抗の中で関係のない一般人を巻き添えで、それこそ四ケタ近く殺しているのだが、奇妙なことだが彼は自分を清廉潔白な人物だと信じていた。


「そんなことは致しません、私は……もう間違いを犯さないと誓いました」

「そうか、成長したな」


 アマーリアの発言に微笑で返すイグナーツだったが決して目は笑ってはいなかった。

 アマーリアの方もイグナーツと決して目を合わせようとはしない。

 それが両者の本心を表していた。

 仲良くできる可能性はあった、別な未来を歩むこともできた。

 だが関係を構築する時間が絶対的に足りないのだ、そしてもはやそんな時間はない。


「敵軍、正門に集結しつつあり……数は不明、大量のかがり火を焚いています」


 両者とも歩む姿勢を見せず、ただこの会話が終わるきっかけだけを待っていた。

 そしてその機会はすぐに訪れる。

 凶報と言う形でやってくるのだ。


「そちらは誘導だ、今のうちに裏門に兵力四百を集結させろ……アマーリア、負傷兵と難民の中から動ける者は手当り次第徴兵するのだ、徴兵後は正面に」

「まともな兵士を逆方向に集めるのですか?」

「正面は誘導だと言っただろう」


 訝しげなアマーリアに、だがイグナーツは面倒臭そうに手で説明を省くことを伝えた、つまりは黙って俺の言うことに従えということだ。


「こちらはなんとかする、正門の方はお前の責任で守り切れ、もう弱いことを言い訳にすることは許さん、覚悟を決めろ……いざとなったら影術士部隊を使え」

「あの子達を……戦闘に出せば死ぬだけです」

「座視しても死ぬだけだ、華のように散らせて生きた証を残させる場を与えるのが優しさではないのか」

「くっ……」


 顔を伏せたアマーリアは沈黙を貫いた、それをイグナーツは了承したと判断、残存の兵士をまとめて裏門に向かっていく。

 そしてしばらく後、アマーリアがノロノロと動き始めた。


 *****


リューネブルク市司教府・バルムンク本陣・裏門―――


「セルゲイ竜司教、準備が整いました、いつでも総攻撃に移れます」

「ご苦労……」


 目の前に広がる光景は幻想的であった。

 月明かりが降り注ぎ、照らされた司教府が浮かび上がるように目の前に顕現する。

 まるで伝説の妖精郷のようであったが、つまりは周囲から丸見えであるということだった。

 月明かりは斜め上から降り注ぐ、月明かりを浴びた司教府は輝き、そして月明かりを前面に進軍する法王軍は司教府という建物の影に入って見えなくなる。

 逆方向の正門から攻めるおとりの部隊は、月明かりを背にしているため、逆に建物は影で見えなくなるが、攻める法王軍は丸見えとなる。

 つまり、裏門から攻めれば法王軍は有利、正門から攻めれば不利となるのだ。

 ただし、その知識がある者がバルムンクにいないとも限らない、見抜かれるのが前提の策ではあったが。


「これで戦乱が終わるのでしょうか、平和になるのでしょうか」

「勿論だ、これで全ての決着だ、歴史書に名前が残るかもしれんな」

「はっ……!!」


 戦乱の集結、その嘘を吐いた自分に罪悪を覚える、戦乱など終わるはずがない。

 アールヴ人とスヴァルト人の対立は解消されてはおらず、今現在はバルムンクと言う敵を前に団結しているに過ぎない。

 だが、もはや後には引けない、兵士達はこれが戦乱の集結だと信じており、そのために全てを擲つ覚悟でいる。

 嘘だと言っても信じるはずがないし、信じたくもない、そして信じようともしないはずだ。

 だから嘘を突き通す、まして、己の矜持のために法王の命を無視してグスタフへの忠義を貫いたセルゲイには他に道はなかった。

 後悔も悔恨も、罪悪も噛み潰して前へ進む、それだけだ。


「攻撃……開始!!」


 短い命令が法王軍に行き渡る。

 放たれた矢が城壁に突き刺さる。

 バルムンクの玉座に、ついに傷がついた。

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