第108話 屍を超えたその先に・二
リューネブルク市・上等区・司教府前・バルムンク本陣―――
「よくやってくれた、ヴァン……お前は私の自慢の義(息)子だ」
法国(連合)軍総司令官であるグスタフが最期の切り札を切った時、対峙するバルムンク内はわずかな小休止に入っていた。
正面から攻めていた貴族連合軍は市街地の崩落によって指導層であるスヴァルト貴族の大半を失って降伏し、側面から攻めていた法王軍別働隊は指揮官、騎士セルゲイの慎重とも臆病とも言える態度から防戦に回っていた。
その良く言えば敵の不手際から生じた間隙を、いち早く見抜いたヴァンはなし崩し的に指揮へ入れた全軍を再編のために本陣たる司教府に撤退させ、自分は休むことなく司令部に状況を伝えに向かったのだ。
疲労などとうに限界を迎えている、どうせ死ぬのだからと無理に体を動かしているに過ぎない。
そして彼は十年前の惨劇から自分を救い、養ってくれた育ての親と再会した。
「降伏した貴族連合軍はどうなっている?」
「……降伏した兵卒はゆうに万を超えています、こちらにそれを収容する余力はなく、まかり間違って彼らが士気を取り戻しても困ります。一時的な停戦を結んで、瓦礫の下敷きになった、彼らにとって主君たるスヴァルト貴族の捜索に向かうよう誘導いたしました。恐らく二次災害が生じて従者に死傷者が出るでしょうが、犠牲が出ればそれだけ彼らが立ち直った後の兵力を減らすことができます。いずれにせよこちらを利する形になるかと」
ヴァンは頭を垂れて状況を伝えている。
それは生真面目過ぎる彼が、上官に対する礼儀でやっているからだけではなかった。
鼻を刺激するわずかな酸味を放つ煙に、翡翠で作られたその独特の道具が何をするための道具か……ヴァンはテレーゼとは違い、リヒテルが組織を刷新する前からバルムンクで働いていたのだ。
人身売買、そして麻薬で儲けてきた組織の過去を知っている。
総統リヒテルは死術の毒に耐え兼ねて、アヘンに溺れていた。
「……では後は側面の法王軍を撃退すればこちらの勝ちと言うことだな。イグナーツ、残存している兵力はどのくらいになる?」
「はっ、五千程かと」
「そうか……」
(イグナーツ殿は何を言っているのだ?)
ヴァンは口には出さなかったが、イグナーツの報告に疑問符を浮かべる。
各所で戦線は崩壊し、無事な部隊など存在しない。
実の所、五千名……その十分の一すらもはやバルムンクは戦場に投入できないのだ。
どこをどう計算すれば五千という数字が出てくるのか、もしやイグナーツはまた妄言にでも憑りつかれたのか、そしてヴァンは、わずかに顔を上げた時に見えたイグナーツの顔には陰鬱な影が見えていた。
そこには確かに正気があり、だからこそヴァンは不吉な震えを抑えることが出来なくなった。
「今日一日、いや今晩だけ耐えればそれでいい、頼む」
「今晩と限る理由はなんですか? 既に外壁は乗り越えられ、橋頭堡も作られています。彼らを外部に押し返す余力はなく、持ちこたえられるのは朝までです」
イグナーツの不審な行動に、気付いていないかのようにリヒテルがヴァンに命令を下す。
だがしかし、もはや育ての親を無条件に信じることが出来なくなったヴァンは疑問を挟みこんでしまった。
開けてはいけない箱を開けてしまったような心持だった。
「それで十分だ、さっき連絡がついた。十万の援軍を送ってくれると彼は約束してくれた」
「どこにその援軍があると言うのですか!!」
リヒテルは、一つばかりとなった手に管を持ち、アヘンの毒煙を嗅ぎながら穏やかな表情でそう告げた。
見る者に安心感を与えるその顔に、育ての親を見限れないヴァンはわずかばかりの希望を持ちかけるが続く言葉が全てを打ち砕いた。
「エルンスト老だよ、かの老人には世話になりっぱなしだ」
「彼は既に我々を裏切りました!!」
リヒテルの妄言にヴァンが間髪入れずに反応した。
エルンスト老、それは既に死亡した男の名前である。
正確には殺され、シャルロッテの死術でその死体を操られてバルムンクを裏切ったことにされたのだ。
ヴァンも同じ死術士であるため(と言うよりも同じ手を使ったことがある)、その企みを見抜いていたのだが、何分証拠がなく証明できない。
故に公式の場ではエルンスト老はただの裏切り者にとして扱う他ないのである。
無論、その事を知らないリヒテルではない。
にもかかわらず、リヒテルはそのことをまるで忘れたかのように先を続けた。
「そうであったかな」
「いいえ総統リヒテル、彼は確かに十万の精兵を送ってくれると約束してくれました、間違いありません」
「イグナーツ!!」
そして陰鬱な仮面を張り付けたイグナーツが、リヒテルの虚言を補完するように、平然と嘘を吐く。
なるほど、どうやらリヒテルが自分に都合のいい情報を信じ込むように後押ししたのはこの男だったのだ。
これは間違いなく利敵行為である。
上官に虚偽の報告をしたのだから……だがヴァンには分からなかった、イグナーツの真意が。
なぜ、そのような無意味なことをするのか。
ヴァンの不審に気付いたか否か、イグナーツは肩口を抑えて恭しく礼をする、抑えた肩とそして右手には包帯が巻かれていた。
まるで誰かに斬られたように……。
「後は私とヴァンにお任せください、総統はお休みくだされば」
「そういう訳にはいかん、私はバルムンクの総統、人々が安心して生きられる世界を作らなくては」
「では兵士が足りません、ですので司教府にいる女子供には武器を与えて現場に……」
イグナーツが全てを話すより早く、一筋の疾風が彼の首元に突き付けられる。
ヴァンは知覚できても反応が遅れた、そしてイグナーツは反応すらできなかったのだ。
リヒテルが電光石火の勢いで抜いたカトラスが彼を死刑台に送ろうとする。
「守るべき非戦闘員を戦場に出せと言うのかイグナーツ、バルムンクに正義を捨てろと言うのか」
「……」
忌々しいという表情を隠しもせずにイグナーツはリヒテルを睨みつける。
ヴァンはようやく理解できた、イグナーツが虚偽の報告をして、非道な命令を具申した理由が。
イグナーツはリヒテルに馬鹿な命令を出させてその信望を損なわせたかったのだ。
総統リヒテルがただのアヘン中毒者として皆に認知されれば組織の実権は、深刻な人材不足から今や組織の二番手、三番手となった、ヴァンとイグナーツが握ることとなる。
そんなことをヴァンは望みもしないのだがイグナーツの中ではその進行は決定事項であるらしい。
幸か不幸か、イグナーツはリヒテルを憎悪していても、ヴァンに対する敬意は失ってはいない。
「先の無礼と合わせて二度目、三度目はないぞ」
「……申し訳ありません、総統リヒテル」
反逆心を隠そうともしないイグナーツに、現実への認識を断ち切ったリヒテル。
滅亡を前に繰り広げられるその醜態は、見る者を絶望に追い込む。
何をしているのだ、何のために自分達は戦っているのだ。
明朝、恐らくは外壁を突破した法王軍は騎士・セルゲイの指揮の下、総攻撃をかけてくるだろう。
それで全てが終わりだ。
それを避けるために降伏するしかない、それが許されるならば……いや、許されはしないだろう。
あのグスタフが降伏など認めるはずがない。
そしてヴァンは絶望に満ちた表情を隠すように頭を垂れ続ける。
せめて、他の者は希望を信じたまま死んでいけるように、ヴァンは仮面を被った。
*****
リューネブルク市・上等区・司教府内部―――
「敵の侵攻が止まった……助かったのか?」
「バルムンクの勝利だ……やったぜ!!」
長い年月で刻まれた、卑屈な顔をした中年男が早くも戦勝を感じて歓喜の声を挙げる。
それに追従するのは老人に女子供、自らの生命が救済されたことに喜ぶ彼らの顔はしかし、淀んでいた。
顔が緩んでいても、目が疲れ果てていた。
皆、分かっていたのだ。
ここに残っているのはどこにも逃げられなかった社会的弱者達……バルムンクと縁を切る代償に難民を受け入れる契約を結んだ組織の救済を拒み、あるいは拒まざるを得なかった者達。
親のいない子供、身寄りのない老人、戦争で身体を傷つけられた者、そして彼らを守るために戦い、負傷した兵士。
彼らに、その不幸の代償が与えられることはない。
奪われるだけ、失うだけ、そこに神の恩寵はない。
彼らに必要なのは、最期の時が訪れるまで幸福な時を過ごせる偽りの希望であった。
それが偽りなのは心の奥底で理解している。
しかし、一時の麻薬であっても彼らに必要であったのだ。
「いざと成ったら、俺ら影術士部隊が食い止めるぜ、安心してくれよアマーリアの姉さんん」
「あ、はい……お願いします」
そんな欺瞞だらけの集団を束ねるのは、つい数か月前までは司教府の少女奴隷であった、混血の少女アマーリア・オルロフである。
彼女はテレーゼのような人外に近い身体能力はなく、ヴァンのように我が身をも犠牲にする信念もなかった。
ただ、沈みゆく船から逃れられなかった鈍臭ささが彼女を今の地位に付けさせた。
つまりは役目を押し付けられたのだ。
ただ彼女はそれを自身の状況を正確には理解してはいない、あるいは考えないようにしていた。
自分を認め、責務を任せてくれたヴァンの思いに応えるために粉骨砕身する。
ただ心の奥ではそんな非合理的な自分を蔑んでもいた。
なぜ、逃げないのか。なぜこんな割りに合わない職務を全うしようとしているのか。
彼女に必要なのは思い人であるヴァンが自身を騙せる程、あるいは献身できる人物でなかったと失望させる要因、それかもはや逃げようがない絶望的な状況であった。
そこまで追いつめられないと彼女は腹をくくれない。
いっそのこと、書類上で配下となった影術士の子供達のように無知であればどんなに幸いか……そう思わずにはいられない。
「総統リヒテルからの伝令です、侍祭様、アマーリア侍祭様はいらっしゃいますか?」
負傷者や弱者で敷きつめられた司教府を守るバルムンクの兵士はゼロだ。
士気高く、シャルロッテと同じく影の魔物・グートルーネを操る彼ら子供ばかりの影術士部隊は先のブライテンフェルト会戦での負傷が癒えず、その生々しい傷は痛々しいばかりでこの窮地でさえも兵数に数えられてすらいない。
未だ包帯が取れない者はまだいい方、凍傷にかかり唇が欠け落ちた者、手足の指を何本か切断した者さえいる。
そして極め付けとして、彼らには隠されている事実、彼らにとってこれ以上の術の行使は寿命を縮めるだけなのだ。
彼らを影術士に改造した死術士ツェツィーリエは子供達の生命にはひどく無頓着だったのだ。
独学だが、十数年の年月をかけて少しずつ体を変えていったヴァン、飛び抜けた才能があり、体をいじくらなくても死術を行使できたシャルロッテとは事情が違う。
まるで使い捨ての道具のように強大な術の代償に、残りの人生を捧げた愚かな童子達……一人を除いて他は、死んだ。
生き残っているのは皮肉にも覚悟がなく、改造を途中で逃げた者達だった。
彼らは臆病で、そして逃げ込める場所があった。
生き残ったのはライプツィヒ市、つまりはイグナーツの傘下にいた子供のみ。
だが次はない、とヴァンは言った……種を埋め込まれた、彼らは術の行使と同時に体を蝕まれる。
寿命が残り数年となるか、あるいは総統リヒテルのように廃人となるか、どちらにしても使い捨ての道具に戻るだけである。
子供達を犠牲にすることをリヒテルは許可しなかった、彼らの親代わりでもあるイグナーツも強硬に反対した。
なるほど、彼らの存在は民衆の救済を掲げるバルムンクの、最期の良心であったかもしれない。
「ああ、ここにいらっっしゃったのですか侍祭様……若い、十五、六か?」
絶えることなく担ぎ込まれてくる戦傷者達を治療し、疲労のために倒れそうになっている侍祭アマーリアの目の前に一人の男が立つ。
その男の服はくたびれたものだったが、その目は少しもくたびれてはいなかった。
その目には使命感が漲っていた、それは断じて弱者の物ではない。
「貴方……誰ですか?」
小動物的な直感で、アマーリアがその男を誰何する。
その瞬間、彼は見たこともない異物に変化した。
「なるほど……バルムンクが崩壊寸前と言うのは本当のようだな、貴方に見つかるまで、誰にも見とがめられることはなかった」
「……ひっ」
外敵、の出現に背筋を凍らせるアマーリアの前で、男は不敵な笑みを浮かべた。
*****
リューネブルク市・市街地・崩壊後―――
周囲には蒼い光が漂っていた。
地上よりいでて、吸い込まれるように天上へと静かに昇っていく。
死術士シャルロッテにトドメを刺そうとしたテレーゼは思わず剣を投げ捨てて、耳を抑える。
彼女の鋭敏な聴覚は、はっきりと、悲鳴、を捕えていた。
「まさか、グスタフ様が最後の切り札を使うなんて……ここまでバルムンクが食い下がるなんて!!」
頭の傷を抑えながら死術士シャルロッテが悲痛な声を挙げる。
彼女には今起こっていることが分かっていた、そしてそれは決して彼女にとって良い知らせという訳ではなく……。
「何が起ころうと、まずは目前の敵を倒すことさね、テレーゼの嬢ちゃん、あんたがやらないならそこの邪法使いはあたしらが殺す」
「そんなことしている暇はないわ、私に手傷を負わせたことに免じて教えてあげる、巻き込まれる前に逃げなさい!!」
「何……!?」
主語を欠くシャルロッテの迂遠な忠告に傭兵隊長マリーシアが首を傾げる、がそこは百戦錬磨の戦士、分からずとも危機は感じ取れたのか、数少ない生き残りの兵士達に撤退を促す。
その時だった、何十本もの触手が空よりなだれ落ちてきたのは。
いやそれは触手ではない、樹木であった。
大人の胴程の太さの幹がまるで根を生やすように地面に突き立っていく。
「グスタフ様、死術士ツェツィーリエの下半身をお返しします……どうかご武運を!!」
いつの間にか、シャルロッテが術の触媒としていたツェツィーリエ……の成れの果ての道具が立ち上がっていた。
テレーゼの斬衝で斬り割かれた上半身は、まるで二つにされたムカデのように別個のリズムで小刻みに痙攣している。
そして上半身が割けた……下半身、腹の辺りから幹が生え、空の樹木と絡み合っていく。
おぞましきその光景に、百戦錬磨のマリーシアは吐き気を抑えきれずにゲェーゲェーと吐瀉物を、抑えた手の隙間から漏らすが……対してテレーゼはまるで神託を受ける神子のように泰然とたたずんでいる。
何かの霊威を感じたのか……あるいは危機意識が欠落したのか。
「あれは……」
その物は漆黒の影であった、シャルロッテが操っていた影の魔物・グートル―ネと同じだ、それが変わる。
でっぷりと垂れ下がった腹がへこみ、体躯が引き締まっていく。
小さく飾りのようだった翼が大きく広がった。
漆黒の体躯を彩る淡い蒼光は吸い上げられた戦士の魂だろうか。
だが何よりの違いは……怪物はこれほどの威容を誇っていたかということだ。
神官や貴族が民衆より絞り上げて立てた大聖堂もこれほど巨大ではなかった。
あれは武器でも兵器でもない、人を倒すために生まれた存在ではない。
神代の、未だ神の存在が信じられていた頃にこの大地を闊歩していた……。
「竜だ……」
ちっぽけなアリがその物の名を言った。
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