第105話 崩壊

リューネブルク港近郊・バルムンク水軍旗船・クリームヒルト甲板上―――


 ヨーゼフ大司教率いるバルムンク最後の精鋭部隊である神官軍をリューネブルク市に突入させるため、我が身を囮としたブリギッテ竜司祭長。

 彼女はその行動により、腐敗神官として生きてきた半生を払拭し、解放軍としてのバルムンクの意志を体現した。

 しかし……断腸の思いで彼女に殿を命令したヨーゼフ大司教の悲痛な思いとは裏腹に、ブリギッテ竜司祭長は遥かに現実的であった。

 あるいは思われているほど使命に殉じる強固な精神を持ち合わせてはいなかった。

 自らに襲い掛かる数十倍の兵力、彼女は形ばかりに戦端を開くと、びっくりするほど早く白旗を挙げた。

 あまりにも素早く、ある意味では潔い対応は、軍事に一家言あるスヴァルト貴族をして信じられない物であり、逆に何か罠があるのではないかと疑いすら感じたのだ。

 そして、スヴァルト貴族が逡巡により生み出した無駄な時間は意外な程長く、時間稼ぎを命じられていたブリギッテを利することとなった。

 確かに、彼女は使命を順守した、そしてその結果が公開処刑であった。


「降伏など認めない、貴様らはここで死ぬのだ」

「……はい?」


 投降したブリギッテ竜司祭長率いる、百名足らずの神官兵達に対するスヴァルト貴族の第一声がそれであった。

 投降した過程で武装は解除させられている、それどころか周囲は武装したスヴァルト兵に囲まれており、妙な動きをすれば即座に首を撥ねられる状況である。

 無論ブリギッテは彼らが降伏を認めず、自分達が処刑される可能性を考えてはいた、だが同時に心の根っこの部分では、そんなことはないだろうと高をくくっていたのだ。

 投降した兵士を害するのは軍法違反だ、当然、このスヴァルト貴族は後で罰せられることだろう。

 しかも相手がバルムンクの一員とはいえ、下っ端なのだ、割に合わないではないか。

 自分達を過小評価するブリギッテはそう思い込んでいたのだ、しかし……。


「騎士ローベルトを知っているな?」

「……」


 誰それ? と呟くのをすんでの所で抑えた。

 ローベルトと言う名前が、リューネブルク港に攻め込んだゴルドゥノーフ家の騎士団長のことだと辛うじて思い出したのだ。

 彼は強大であったが、なんとかブリギッテ率いる神官軍は討ち取ることに成功した。

 その戦果をブリギッテは幸運の結果だと考えていたが、皮肉なことにどうやら敵はそれを純粋な実力だと評価していたようだ。


「投降した兵士を傷つけるのは軍法違反です、どうか貴族様、冷静に……」

「黙れ、奴隷の分際で私に意見する気か……良いか、貴族の命は法に優先する、あのローベルトを倒した者を生かして置けるものか、スヴァルト支配においてこれほど優秀なアールヴ人は害悪でしかない、例え法で裁かれるとしても、この女は抹殺せねばならない」


 なるほど、優秀過ぎる敵を生かして置けないという理屈は理解できなくはない。

 だが問題は彼が言う優秀な敵にブリギッテはどう考えても該当しないということだ。

 バルムンク内で彼女の地位は必ずしも高いとは言えない(半分以上は怠惰な性格のせい)、彼女の上にはヨーゼフ大司教がおり、事実、重要な情報が彼女の下に来ることはない(一度敵と内通したせいで信用がない)。

 しかしこのスヴァルト貴族はブリギッテを明らかに過大評価していた。

 正直言ってブリギッテは泣きたい気持ちだった、なぜ味方に評価されずに敵に評価されるのか。

 こんな気持ちは博打で全財産すった時以来だ。


「補給部隊の警護などという雑務を押し付けられたが、あのリヒテルの右腕を殺せるのならば帳尻は合うという物」

(いつから私はあの傲慢男の片腕に……まずい、うまく切り抜けないと本気で殺される、でもなんか下手にしゃべったら更に事態が悪化するような……)


 表情に出すことは避けられたが、ブリギッテは混乱状態だった。

 考えた、考えた、このままでは自分だけでなく部下も合わせて文字通り皆殺しである、その可能性は極めて高い。

 かつてマグデブルク大学で軍学を修め、腐敗した法王府において権謀術数の中を潜り抜けたその頭脳をフルに使い、そして彼女は答えを得た。


(何も思いつかないや……)


 悩んだ末がこれであった。

 もう万策尽きた……そしてあげく他力頼みに走った彼女が目をつけたのは元同僚であり、敵船団の正式な指揮官である竜司祭長である。

 ただ彼は傲慢なスヴァルト貴族に屈服しており、先ほどからブリギッテから目をそらし、悲痛な表情を隠そうともしない。

 貴族には逆らえませんよ、と言っているようだ。

 ブリギッテは同窓の友を助けろよ、と無言の圧力をかけたが彼はそれを無視した。


「あ、あれはなんだ……!!」


 そして他力本願すら出来なかったブリギッテは進退窮まり、苦し紛れに明後日の方向を指刺して注意をそらそうとする。

 まるっきり子供だましだが他に方法がない。

 もうヤケクソになってやったことだが意外にも当のスヴァルト貴族はひっかかった。


「……さすがだな、私よりも先に気付くとは」

「はい……?」


 そして声が聞こえる。

 いや、声という表現は正確ではない、それは音の暴力であった。

 数多の楽器を合わせ、聖歌を奏でるような大合奏。

 大聖堂を満たすようなその奔流にスヴァルト貴族は顔色を変えた。


「地獄への門が開いた」


 愕然と言葉を絞り出し、神に乞うように両の膝を甲板に打ち付けたのだ。


*****


リューネブルク市上等区・城壁上―――


 シニタクナイ、タスケテクレ、ナゼコノヨウナコトガ……

 アリエナイ、フザケルナ、ヒガ、ヒガチカヅイテクル……イキガデキナイ、アツイ、ヤケル、ノドガヤケル……

 シニタクネエヨ、ワレヲマモレ、ワレハキゾクダゾ、エイコウアルスヴァルトノキゾクガコンナコトデ……

 ダイシキョウ、ダイシキョウヨーゼフサマイズコヘ、コレハドウイウコトダ、マサカリヒテルハワレラモロトモ、コロシテヤル、コロシテヤルゾ、リヒテルゥゥゥゥゥ!!


 ヴァンは耳を抑えた。

 目の前に見えるのはまさしく地獄だった。

 紅蓮の炎が市街地を焼き尽くし、何万もの人間が命を奪われていく。

 何万もの悲鳴、何万もの断末魔、それらが唱和し、怨嗟の声が彼の耳を苛むのだ。

 耳を抑えても無駄だった、その声は直接心に響く。

 ああ、と思い出した。

 十年前、スヴァルトの侵略により焼き尽くされた首都マグデブルクでもまたこんな声が聞こえていた。

 そして今度は被害者ではない、加害者として作り上げた地獄を見下ろしている。


「……ははは、へへへ、これ、俺らがやったのか」


 その地獄を見て何を想ったのか……兵士が一人、燃え上がる市街地に飛び降りていった。

 それに続くは十数人、まるで溺死するネズミの群れを見ているようだったが、その自害を止めようとする者はいなかった。

 誰もが自分達が犯した罪に耐え兼ねているようだった。

 いかに勝利するためとはいえ、街ごと兵士を焼き尽くすその蛮行を許容できるものではない。

 そうであるならばそれを考案したヴァンは人間ではないのだ。

 いかに二度目だとはいえ、このような……。


(テレーゼお嬢様には悪いですが、私は滅ぶべき人間なのです、後はリヒテル様にお任せします)


 十年前、助け出されてきた時から感じていた。

 自分は他の人間とは違う。

 他者の生命を……塵芥程すらの価値すら認められない。

 何人殺そうとも、僅かなりとも罪悪感を覚えない。

 ただ、それが異常だということは理解できる。

 きっと、十年前の絞首刑の折、何か大事な物が壊れてしまったのだろう。

 侵略者スヴァルトとの混血、故に存在するだけで罪深き存在だ、だがその理不尽な弾圧も……あるいはヴァンの本質を踏まえれば正当な行為であったのかもしれない。


「おい、あれ、ヨーゼフの婆さんが率いていた神官軍じゃねえか……」

「あ、本当だ、まずいぜ、このままじゃあ炎に巻かれて」

「なんであんな所にいるんだ」


 狼狽えるような兵士達の声、ふと遠くを見ると市街地だけに限定された炎がスラムにまで届いていた。


(おかしい……仕掛けた罠は市街地のみのはず、なぜ河を超えたスラムにまで炎が届く?)


 ヴァンの計画では市街地に陣を構えるであろう敵軍を焼き尽くすこと、それ以上ではない。

 勿論、罠の準備もしていない。

 で、あるならばヴァンの代わりに炎の罠を設置している人間がいるのだ。

 そして、それは……味方ではなかった。


「……」


 市街地からスラムへ、まるでキャンドルに火を灯すように順繰りに燃え上がる業火。

 まるでバルムンクの神官軍を追い立てるように勢いを増す不自然な炎は……ヴァンの作戦を読んだ敵の存在を証明していた。

 そしてその敵は作戦を読んだだけでなく、味方であるはずの貴族連合軍をも焼き殺そうとしているのだ、恐らくは貴族連合軍に奇襲をかけようとした神官軍を撃破するために。

 いや違う、敵を倒すために味方ごと焼き滅ぼすのではなく、二つの敵を同時に始末しようとしているのだ。


(グスタフか……)


 間違いない、こんな冷徹な作戦を立てる人間をヴァンは他に知らない。

 あの権力欲に取りつかれた男はこの戦いが終わった後、自分の邪魔になりそうなスヴァルト貴族を抹殺する意図なのだ。

 友軍とか、敵軍とかそんな尺度の問題ではない……自分以外は全て敵、そういうことだ。


「完全に……出し抜かれた」


 腰から倒れそうになったヴァンがなんとか踏みとどまる。

 絶望している暇はない、出し抜かれたと言うならば、その被害を抑えなくてはならない。

 グスタフにとって市街地に火を放つヴァンの策は想定内……であるならばそれを逆用した後、最終目的であるこの司教府を攻略する策も考えていることだろう。

 すぐにでも対策を練らなくてはいけない、一度リヒテルの元に戻り、そして……。


「なぜ城門が動いている、誰だ……門を開けようとしている人間は!!」

「……」


 冷静に現状を分析しようとしていたヴァンは、現実に引き戻された。

 何者かが城門を開き、敵兵をこの上等区に呼び込もうとしてる。

 間者がいたのか……兎にも角にも阻止しなくては、この戦いに負けてしまう。

 すぐにでもヴァンはその愚行を止めようとしたが……そこで周囲の冷たい視線に気付いた。


「俺らはこんなことはしたくない」

「貴族軍はもう戦意を喪失している、招き入れても何の問題もないでしょう」

「これはもう……虐殺です」


 城門を開けようとしていたのは先ほどまでスヴァルトと戦っていた兵士たちであった。

 彼らは自らがおこしたであろう目の前の虐殺に耐え兼ねていた。

 罪の重さに耐え兼ね、贖罪を求めているのだ。


「何を……」


 冷たい目は言う……お前こそ、何を言っているのだ。

 私達はお前のような冷血漢ではない、血の通った人間だ。

 こんなゴミを焼くように人間を焼き殺すなんてしたくはない。

 それは命令だった、異端であるヴァンに正常になれと言っているのだ。


(なぜ、先ほどまで敵に見せていた憎悪を私に向けるのです)


 ヴァンは迷う、何が正しいと言うのか、何が間違っているというのか。

 何千もの敵兵を殺してきた邪悪な死術士が今、彼の何百分の一の武功すら持たない一般人に確かに気圧されたのだ。


(私が間違っていたというのですか……)


 自分はただ、命を救ってくれたリヒテルのために尽くしてきただけだと言うのに……いつも掌を返される、考え抜いた決定が裏目に出る。

 なぜ、こうなるのか。

 その迷いが、それを黙認することとなった。


*****


リューネブルク市・上等区・城門前―――


「た、助かった……」


 開け放たれた城門から雪崩のようにスヴァルトの兵士が上等区に流れてくる。

 どの兵士も焼け爛れ、煤で黒く染まっていた。

 少しでも助けるのが遅れれば皆、死んでいたことだろう。


「我らがヴァン隊長の寛容に感謝することだな」


 さりげなく上司に行動の責任を擦り付けた兵士はしかし、その顔には安堵の色があった。

 彼は自らの行動を正しいと確信しており、何の後悔もしていなかった。

 それは先ほどまで敵対していたスヴァルト兵が純粋な感謝をささげていることで喜びへと変わる。

 スヴァルト兵は武器を投げ捨て、既に戦闘のことは忘れかけていた。

 ありがとう、ありがとう……助かった。

 そして、彼らを助けたバルムンクの兵士は心臓を串刺しにされた。


「えっ……」


 安堵の色を浮かべた兵士がゆっくりと後ろに倒れる。

 彼は自分に起きた現実が理解できなかった。

 そして理解できないまま命を奪われる。

 その顔は眠るように穏やかだった。


「お人好しな愚か者に感謝を……馬鹿な奴め、そんな甘ちゃんだから十年前の戦争でも惨敗するんだ、アールヴの奴隷共が!!」


 顔の半分が焼け爛れ、醜悪な精神がむき出しになったその男はスヴァルト貴族、レオニード伯爵がそこにいた。

 ヴァンとの戦いに敗れ、その腹いせにイグナーツの故郷、ライプツィヒ市を焼き討ちにした残虐なる腐敗貴族。

 その手には槍、その槍で自分を助けてくれたバルムンクの兵士を一突きにしたのだ。


「き、貴様はレオニード伯爵!!」

「は、伯爵閣下!!」


 バルムンクの兵士からは憎悪が、戦意を喪失していたスヴァルトの兵士からは焦りが見える。

 そのどちらにも恩を仇で返したレオニードは侮蔑の視線を向けた。


「貴様らはスヴァルトの兵士であろう、我ら貴族に命をささげた者のはず、私の命令はアールヴ共を殺しつくすことだ、なのになぜこんな所で油を売っている」

「そ、それは……」


 スヴァルト兵が顔面を蒼白にした、階級社会の中で生きるスヴァルト人は上官の命に弱い。

 しかも明らかに自分達に非がある場合はなおさらである。

 反抗できない、自分達で物事を判断できなくなる、倫理や正義など、遠くに捨て去ってしまった。


「だが寛容なる私は贖罪の機会を与えよう、今より司教府に突入し、リヒテルの首を挙げるのだ、それでお前らを赦そう」

「……」



 アールヴ人で構成されたバルムンクの兵士はレオニード伯爵の言っていることが妄言にしか聞こえなかった。

 助けられておきながら、なぜ助けた者に剣をむけるのか、と。

 だがスヴァルト兵の反応はアールヴ人の理解を超えていた。

 一瞬の沈黙、彼らの表情が歓喜へと変わる。


「レオニード伯爵万歳!!」

「この戦いは我々の勝利だ!!」

「アールヴ共をぶち殺せ!!」


 愕然とするバルムンクの兵士達、先ほどまでの和やかな空気はどこへ行ったのか、戦争は終わったのではなかったのか。

 人間的には正しい、だが彼らは甘すぎたのだ、

 茫然とする彼らに、彼らに助けられたスヴァルト兵の凶刃が降り注ぐ。

 城壁の内部は草刈り場と化した、今度はもう敵を助けてくれるお人好しはいない。


「城門を閉じよ」

「しかし、まだ炎から逃れてくる我が軍の兵士が……」

「閉めよと言うのだ、このままでは私の背後を取った敵兵が入って来るではないか……助かるのはスヴァルトだけで良い、そういうことだ」

「はっ、分かりました!!」


 そして城門は閉じられる。

 お人好しはいなくなった、いるのはただの恩知らず達。

 炎の海を前に神は言う、助かるのは人間スヴァルトだけだ。


*****


リューネブルク市・上等区・城壁上―――


「そんな、馬鹿な……あの、恩知らず共め!!」


 激昂して怒り狂う城壁上の兵士達、だがその怒りがどれほど虚しい事か自分自身が良く理解していた。

 事実だけを述べれば、城壁は攻略された。

 後は雪崩れ込んでくるスヴァルトの兵士による虐殺が始まるばかりである。

 司教府で震えている非戦闘員は誰も助からない。


「お、俺のせいじゃない……城門を開けたのは別の」

「全隊、白兵戦用意!!」


 兵士達が無様に動揺し始めた時、ヴァンの怒号が辺りに響く。

 それが彼らに冷静さを取り戻させた。


「今より司教府に帰還し、貴族連合軍の侵攻を食い止める、私に続け!!」


 もはや戦況は破滅的にまで悪化した、敗北に続く現実は変えようがない。

 だがヴァンにとっては救いであった、もはや迷うことなどない、ただ目前に示された使命に殉じればいいのだ。

 敵を殺す、それだけだ……ヴァンはついにそれ以上へと前は進めなかったのかもしれない。

 いつの間にか中天にあった太陽が沈みかけ、黄昏の時間が近づいていた。

 バルムンク滅亡まで、残り数時間。

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