第54話 その者は、この大地の継承者となろう
リューネブルク市東・国境―――
「もう、ここまでくればよいでしょう」
「しかし、こうまでうまくいくとは……いえ、確かにアーデルハイドとテレーゼの救出は失敗しましたが」
「いや、既にアーデルハイドは死んでいた。セルゲイ、お前はうまくやったぜ。おかげで俺は死なずに済んだ」
リューネブルク市を脱出したグスタフ、セルゲイ及び彼が率いる私兵団は三日三晩、馬車を走らせ、バルムンクの勢力圏を離脱していた。
その間に移動した距離はおよそ数十リュード(約百キロメートル)。無論、酷使された馬は泡を吹いて斃れ、今は配下のスヴァルト兵に解体され、夕食の食材になっている。
ちなみに、いかに馬車を使ったとはいえ、そんな強行軍を強いては人間とてただでは済まない。
セルゲイ配下のアールヴの民兵はもはや口を聞けぬほど疲れ果て、意識を失っている者も多い。
ただし直属といえる、遊牧民あがりのスヴァルト兵は平然としているどころか、指揮官である騎士セルゲイに至っては疲労の色さえ見えない。
リヒテルやグスタフ、およそ人外とも言えるほど強靭な身体を持つ二人に隠れて目立たないが、彼もまた尋常なレベルの戦士ではないのだ。
「そうか……アーデルハイドは死んだか、彼女は私を裏切り者と呼ばない、数少ない友人だったのだが」
「シュタイナー司祭」
この場にいる三人目、セルゲイにアーデルハイド救出を依頼した中年の司祭が溜息をついた。一気に十年程老けたほどの意気消沈ぶりだ。
司祭、シュタイナー。彼はそう名乗ったが……その身分が偽りであるいうことをグスタフだけが知っている。
「まさか……猊下が自らお迎えに来てくださるとは思いませんでした」
「慇懃無礼な態度はたくさんだよ、グスタフ。私はただの事務屋、ゴルドゥノーフ家の調整のついでに些末事に関わっただけだ」
「猊下……法王猊下? まさか……」
シュタイナー・ヴァン・ホーエンツォルレルン三世。スヴァルトの反乱以後、法王府を占領したウラジミール公に任命された売国のアールヴ王。
その職務はスヴァルトの絶対支配を築くため、官僚たるアールヴ神官らをまとめ、スヴァルトへの忠誠を植え付けることだ。
それ故、虐げられたアールヴ人は彼を国賊と罵り、スヴァルトからは事務屋、まだ穏当なものでさえも、ウラジミール公の侍従長と蔑む。
しかし、その経緯はどうあれ、官僚の長としての実力は極めて高い。国政に関する知識の豊富さと、事務処理の手際、人の使い方も的確で、わずか十年で法王府と法王直轄軍の綱紀粛正に成功した。
それ以前に〈味方にこそ恐れられる〉ウラジミール公の下で、十年間もアールヴの長を続けられるだけでも賞賛されるべきなのだ。
(しかし、アールヴ、及びスヴァルト貴族。双方とも憎しみや偏見で目が曇り、この男が何をできるか理解している者は少ない。故に親交を結ぶのは簡単であった。乾ききった喉には一滴の水でさえも万金の価値がある)
グスタフは早いうちから、それこそ十年前の法王即位時からシュタイナーに取り入っていた。
褒め殺しに阿諛追従、しかし決して強気に出ることはなく、あくまでスヴァルト貴族の中で自分だけが味方だと思わせ続けた。
昨今では、このやつれた法王に従者と称して、愛人を提供するまでになっている。無垢で純粋。男の言うことを黙って聞くような女をシュタイナーは欲した。
グスタフにはそんな人形のような女を愛でる気持ちが理解できなかったが、人間とはどこかでバランスが取れるものらしい。
ウラジミール公やリヒテル、ヴァンのように常人とは精神構造が異なっている者は別として、重すぎる責任を強いられている人間が、私生活で倒錯的な趣味を持つことなど珍しくない。むしろ他の階層の人間より多いくらいだ。
「ところで……猊下、バルムンク討伐軍の方はどうなっているかご存知ですか。一つ、教えていただけると、ありがたいのですが……」
慇懃無礼を非難されてもなお、グスタフは馬鹿丁寧な口調を直さなかった。
リヒテルにも共通していることだが、他者との会話を、武器を用いない戦闘、つまりは騙し合いと考えているフシがグスタフにはある。敵の前で手袋を外すことそうそうない。
「貴族たちはやはり農民達の反乱を危惧して、領地に私兵や騎士団を置いていきたいそうだ。討伐軍の編成は遅々して進まぬよ。それどころか、もはやウラジミール公の崩御も近いと予測した者達は、公爵の幼子たちの摂政を狙い、次代のウラジミール公の選抜に忙しい。恐らく、四つか五つかは知らないがリューリク家は割れるな」
淡々と、シュタイナーはスヴァルトの内部分裂をグスタフに告げた。
貴族同士の醜い争いを知っているグスタフにとっては何の不思議もない、予想通りの情報だったが、騎士として、貴族に忠誠を誓っているセルゲイは納得がいかないようだ。
「何という不敬な、我らが父の死を望み、それに飽きたらず、後継者争いを狙うなど。次代のウラジミール公は今上がお決めになり、我らはその方を支えればよい。まあ、そんなことを考えるのは、傍流の下級貴族であろうがな」
「伯爵、辺境伯、ノブゴロド騎士団総長、スヴァルトの政を担う上級貴族達だ」
「なんですと!!」
基本的に、スヴァルトは目上の者に従順であることが美徳とされる。平民と騎士、騎士と貴族、階級をまたげば猶更だ。
つまり見方を変えれば、上のことなど知らなくても良いということである。
偉大なる父、ウラジミール公と、彼に忠誠を誓う勇敢なる貴族。その美化された姿を信じ込んでいる騎士階級や平民階級のスヴァルト人は多い。セルゲイもまた例外ではない。
それはある意味、幸せなことなのだが、それでは少しグスタフが困るのだ。あえて上層部の内容をセルゲイに聞かせた。
(リューネブルク市での戦闘を見た時はそうでもなかったが……ハノーヴァー砦や今回の潜入作戦などを見るにセルゲイは経験を積めば有能な司令官と成り得る。上の地位に就ける前にある程度の真実は教えておいた方がいい)
勿論、貴族ではなく、騎士階級に属するセルゲイは指揮官に慣れても司令官にはなれない。
しかし身分や出身に囚われない神官軍ならば、実力とコネさえあればいくらでも出世できる。
竜司祭長、竜司教、あるいはかつてベルンハルトが就いていた枢機卿(この場合は軍事部門の長)、思いのままだ。
そして神官軍内部でグスタフの子飼いが増えれば、それは同時に神官軍をグスタフが牛耳ることにも繋がる。
グスタフの目的はこの国の王になること。スヴァルト貴族の影響力を排した、固有の武力が欲しいのだ。
「そ、それではバルムンクを討伐できないではないか……我が主、ミハエル伯の無念はどうすれば晴らせるのだ」
「焦ることはない。農奴反乱をやり過ごし、王位継承戦争を終わらせる。十年、長くとも四半世紀も経てば、バルムンク討伐の軍は編成できる。その時に覆う存分、恨みを晴らせばいい」
「し、四半世紀」
グスタフの言い草にセルゲイは思わずのけぞった。セルゲイは自分とグスタフとの器の違いを改めて思い知ったのだ。
(そう、焦ることはない。俺は十年待ったのだ、もう十年、二十年待つことなど苦ではない。愉しみは、長い方がいい)
グスタフは心の中で自分以外の全てをあざ笑った。彼の敵、リヒテルに対する感情は複雑である。
すぐにでも始末したい邪魔者であるのは間違いないのだが、彼との暗闘を愉しみにし、できるだけ長く付き合いたいという考えもまた否定できないのだ。
*****
リューネブルク市・スラム街・銀の雀亭―――
「それでは、テレーゼ様、お休みなさいませ」
「……」
重傷の身でありながら、ヴァンは自力で歩行が困難になったテレーゼに肩を貸し、銀の雀亭の一室に彼女を寝かしつけた。
ちなみにテレーゼの私室ではない。テレーゼの私室は二階にあるが、そこまでヴァンは、自分の体力が持たないと予測していた。
幸運なことにテレーゼはいつものように不平不満を言ったりはしない。ただ、夢遊病者のように虚ろな目つきでヴァンの指示に従うのみ。
今の彼女は抜け殻だった。母親を失った悲しみがそれほど心を傷つけたのか。
(その痛み……悲しいことだが、私には推し量れそうもない)
ヴァンには両親がいない。覚えてすらいない。分かるのは片親がスヴァルトであることだけ。
幼少時の記憶は十年前の処刑場で全て吹き飛んでしまった。リヒテルが言うに、虐待を受けた子供の中で、時折、幼少時の記憶を失っている者がいるらしい。
神官らによるスヴァルト排斥、ヴァンは混血ということで、五つか六つの年で絞首刑に処せられた。その時の跡は首輪で隠した首にはっきりと残っている。
幼いヴァンが記憶を失うに、それは十分過ぎるほどの衝撃であったらしい。
リヒテルに助けられた後、混血と言う出自に危惧し、他人を排除してきた。両親も兄弟も、友人も恋人もいない。あるのはただ上官のみ。
そんな彼に、どうして肉親を失った少女の悲しみを理解できようか。全てが自業自得であるならば猶更だ。慰められても、できることは所詮、上辺だけなのだ。
「アーデルハイドの裏切りが他に知られれば、娘であるテレーゼ様が迫害に合う。何としてでも隠蔽しなくては……敵だ、敵が必要だ。罪を擦り付けられる敵が必要なのだ」
アーデルハイドの悲劇のヒロインでなくてはいけない。バルムンクに害を与えた裏切り者であってはならないのだ。
全てはスヴァルト貴族、グスタフの策略。彼に騙されて殺された。いや、この際、もっと大胆に、グスタフがリヒテルを暗殺しようとして、アーデルハイドが最愛の弟を庇って殺されたことにした方が民衆受けがいいかもしれない。
真実は常に作られる。そのことをヴァンはよく理解していた。
「何かできることはありますか。何なりとお申し付けください」
「アマーリア?」
膝をついたヴァンの顔に影がかかる。ふと顔を上げると、アンバーの瞳と目が合った。アーデルハイドに顔を斬られ、寝込んでいた混血の少女、アマーリア・オルロフであった。
包帯を巻き、傷の痛みからか、少しやつれていたが、それ以外に目立った変化が見られない。何も変化が見られない、それが少しヴァンは気になった。
「肩を貸してくれないか……」
「はい、喜んで」
ヴァンは彼女に恨み言を言われるのではないかと、考えていた。アーデルハイドがここに来たのは、恐らく、自分を抹殺するためだ。アマーリアはヴァンの巻き添えを食ったのである。
なればこそ、顔を斬られ、醜い跡が残ったことについて非難する権利が彼女にはある。金銭か、地位か、何かしら要求してもいいのだ。出来うる限り、ヴァンは叶えるつもりでいる。
もしかしたら、要求を伝えるべく、こちらの様子を伺っているかもしれない。そうも考えて、ヴァンは再びアマーリアと顔を合わせる。
「あはは」
「……っ」
そこには満面の笑顔があった。快活で、人好きのする、従者として、奴隷としては最上の表情だ。
しかしそれは同時に何もかも諦め、自分を捨て去った顔である。アマーリアは暴力に屈し、心の中の何かがポッキリと折れていた。
(初めて港で会って……いや、それよりひどいか)
ヴァンは自身が、自分の代わりに幸せになって欲しいと願った少女、その不幸に、ヴァンは耐えた。耐えきってしまったのだ。
自分は何をしてきたのか、テレーゼを、アマーリアを壊し、数えきれない人々を死地に追いやって何を得たのか。その懊悩に答えはなく、無論、答えてくれる者もいない。
だが、一つだけ得たものがある。
戦争は終わったのだ。もうこれ以上、不幸が続くことはない。
スヴァルトは各地の農民一揆に苦しめられ、彼らをまとめられる、ウラジミール公は余命少なく、その崩御はスヴァルトの分裂を招くだろう。
裏切り者たるアーデルハイド、そして神官らを排除し、バルムンクの体制は盤石の物となる。外と内の敵を排除した以上、全て安泰だ。
戦いは終わった。それだけが、唯一得た物であった。
*****
首都マグデブルク・法王府―――
居並ぶスヴァルト貴族は皆、顔を緊張に強張らせていた。伯爵、辺境伯、政を行う上級貴族を先頭に、彼らに続く形で小さいながらも領地を持つ、子爵、男爵などの下級貴族がいる。
最後尾は騎士階級だ。それも戦場において、数百から、千人単位の兵士を指揮する団長、総長クラス。
十年前の戦役で、数倍の神官軍を破った歴戦の勇士達が、まるで借りてきた猫のように身を固くしている。
皆、老王の言葉を待っているのだ。全ての貴族を集める程、重要な案件などそう多くはない。
故にこの種の御前会議など、数年に一度、有るか無いかである。それだけにこんな短期間で二度も行われることの異常さが際立った。
貴族の中には妻子に対し遺言状を書いた者もいるし、自分の乱行の証拠を隠蔽しようと躍起になった者もいる。
父たる老王の恐ろしさ、年嵩になればなるほど、知りたくはない程、知っている。一度などは、会議に参加した者の三分の一が、再び部屋の外に出なかったこともある。
大粛清……身内の結束を高めるのにこれほどの特効薬はない。リヒテルがかつてしたように、十年前の反乱でスヴァルトが団結していたのは、反対者を次々と殺したウラジミール公の恐怖政治が前にあったのだ。
「余の命は尽きようとしている。次代の継承者は幼き子ばかり、もはや、リューリク公家はその命数を使い果たした」
老齢故に衰えているとは思えない、力強く、静かな声が会議の場に響き渡る。刻まれた皺、白く染まった髪と髭。確かに老いていた。
しかし、眼光だけはその老いを感じさせない。それは数百万人のスヴァルトを従える一匹の獣の眼。無条件に他者を従わせる暴君の霊威であった。
「子を守れぬ父に意味などない。誰ぞ、逆賊を討伐する気概のあるものは居らぬか。その者は、このグラオヴァルトの大地の継承者となろう」
室内の空気が風もないのに震えた。居並ぶ数十の貴族と騎士が一斉に動揺し、身じろぎしたのだ。理解できない者は、その疑問から。理解できた者はその内容を頭が拒絶しているようであった。
だが、容赦なく時間は過ぎる。老王の言葉を傍らの老騎士が続けた。それがトドメとなった。
「リヒテル・ヴォルテール、及び彼が統治するバルムンクなるファーヴニル組織を壊滅せしめた者に、リューリク家が所有する全ての領地、財産、地位、権威を譲渡する。これは王位の……禅譲である!!」
ウラジミール公による王位の禅譲、それを聞き、声を上げずに貴族達は狂喜した。
最高権力者への最短距離、その道が今、目の前に示されたのだ。
農奴の反乱など気に掛ける必要などない。例え今の領地を失ったとしても、広大なリューリク家の天領を手に入れられるのならば、そんなもの、ゴミのようなものだ。捨てても惜しくはない。
欲望が皆をまとめる。全てを擲っても、バルムンクを討伐すべし。最後に残ったのは戦う心である。
戦いは続く。敵が消え去らない限り永劫に……それはどちらか滅び去る殲滅戦、ついに最後の審判を告げる、ギャラルホルンの笛が鳴った。
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