第51話 頭がイカれた者が得をする世の中だ

十年前・マグデブルク・法王府―――


 ゆっくりと、その男は血だまりに落ちる。金銀細工をふんだんに使ったダルマティカ(貫頭衣)、真紅の手袋にローブ。そして高位の神官だけが被ることを許された宝石がついた三角帽。

 死者の名はベルンハルト・ヴァン・ヴォルテール枢機卿(ヴァンは司教以上の官職につく称号)。次期法王を狙い、ファーヴニルが言う仇敵スヴァルトと手を組んだ野心に満ちた男であった。

 後のバルムンク頭領、アーデルハイドの夫であり、テレーゼ姫にとっては父親。そして養子扱いとなっていたリヒテルにとっては養父にあたる。しかし誰あろう、彼の生命を終わらせたのはその養子であった。恩知らずと言えば、これ以上のものはなかった。


「死んだか……」

「殺したのだよ、リヒテル」


 乱れた金髪を強引に直し、血走った目を隠すように瞼を抑えているのは十代半ばにもならないリヒテルである。

 その手には血塗られた剣、それでベルンハルト枢機卿の喉をかき切ったのだ。剣は固く固く握りしめられている。決してこの罪を忘れないように、後悔と罪悪感が噴出さないように……。


「ほら、やっぱりあった。見て見なよ、この書類の内容が現実になれば十万人は死ぬかな」

「ルーシ語は分からん。翻訳してくれ」

「はいはい……」


 机に置いていた書類には、ベルンハルト枢機卿が法王即位の暁に協力者であるスヴァルトの指導者、ウラジミール公に寄与される数々の権利や抵当が羅列されていた。

 主に、スヴァルトの支配領域と接する三つの司教区における交易優先権や徴税権、いくつかの砦などの軍事施設の譲渡、奴隷売買の正式な許可等。

 それらが現実のものとなれば該当区の住民は神官とスヴァルトの両方から税を徴収され、恐らく万単位の餓死者と自殺者、そして数倍の流民や難民が生じることだろう。

 選民主義のスヴァルトはアールヴの住民に手心を加えないだろうし、また枢機卿は身内の神官に甘い。スヴァルトという名の徴税官が新たに増えてもこれまで通りの租税を住民から取り立てるだろう。


「君は英雄だよ、リヒテル。十万の殺されるはずだった彼らにとっては」

「いらぬ気遣いだ。私はただの父殺し、それも二度目だ。妻である姉上にはとても話せない」

「僕たちが黙っていれば分からないさ。この男は敵も多い、暗殺の容疑者には事欠かない。僕らがやらなくても誰かがやっていたさ。だからこそ法王選挙前に妻子であるアーデルハイド姉さんとテレーゼちゃんをリューネブルクなんて田舎に疎開させたんじゃないか」

「それはそうだがな」


 リヒテルの苦渋に満ちた表情が幾分和らぐ。彼は自身の父殺しを正しいと思っていた。だからこそ、その凶行を行ったのだが、同時に残された者がどういう反応をするかも理解していた。

 特にベルンハルト枢機卿の幼な妻であったリヒテルの姉、アーデルハイドは激怒し、何よりも悲しむだろう。殺しておいて矛盾する考えだが、リヒテルはそんな姉の姿を見たくはなかった。

 だからこそ、黙っていれば……という言葉は救いなのである。

 事実、アーデルハイドはリヒテルの嘘をその後十年間信じ込んだ。薄々その嘘に気づいてはいたのだろうが、血を分けた弟の言葉を姉は信じたのである。

 法の外に存在し、法の加護が得られないファーヴニル(盗賊)である彼らは自分達で身を守らなければならず、身内の結束は固い。

 故に父殺しを行ったリヒテルは異端なのだが、ともかくアーデルハイドはリヒテルの味方のままだった。スヴァルトの反乱、それに対抗するために、組織刷新を盾にバルムンク幹部を粛清した時さえも沈黙を守った。

 アーデルハイドがリヒテルを見限ったのは、十年後、密かに彼女に近づいたスヴァルト貴族グスタフが枢機卿暗殺の証拠を提示した時だった。

 彼女は身内に甘い傾向がある。枢機卿の〈もう一人の養子であった〉グスタフが敵対するスヴァルトであるという事実は忘れてしまっていた。

 グスタフは、アーデルハイドにとっての義理の息子はこう言った。貴方の夫、俺の養父であるベルンハルト枢機卿を暗殺したのはリヒテルである、と。

 だがグスタフは一つ隠し事をしていたのだ。


「さて、夜明けまでこの部屋には誰も来ないことになっているけど、それでも用心はした方がいい。後の処理はしておくから、リヒテルは先に逃げなよ。この法王府にいることが分かっただけで、ファーヴニルである君は縛り首だ」

「お前はどうするのだ」

「僕はこのマグデブルクを離れる。ベルンハルト枢機卿が死んだから次代の法王は当初の予定通り、スヴァルト排斥派のヨーゼフ大司教だ。スヴァルトである僕には生きづらくなるだろう。母さんと君にはまだ見せていない、幼い弟を連れて東に逃げるさ」

「そうか……」

「別に君の行動は関係ないさ。気にするな。所詮、僕は蛮族たるスヴァルト。アールヴのなかでは生きられない。じゃあな、リヒテル」

「ああ、俺が言えた義理ではないが、元気に暮らせよ……我が友グスタフよ」


 そう言うと、リヒテルはゆっくりと退室していった。リヒテルは最後まで気づかなかったのだ、親友と呼んだその男の淀んだ目つきに。

 グスタフはリヒテルが去ると、自らが持つ剣についた血糊を落としにかかった。リヒテルが首をかき切るのと同時にグスタフは枢機卿の心臓を背中から一突きしたのだ。

 そう、暗殺はリヒテル一人が行った物ではない。リヒテルとグスタフ、二人の手で行われた。

 十年後、もし仮に真実を告げるべきならば、グスタフはアーデルハイドにこう告げるべきだった。ベルンハルト枢機卿を暗殺したのはリヒテルと、俺であると……。

 無論、彼が全てを話すことなどあり得ない。


「馬鹿なリヒテル、最後まで空気の読めない男だったな」


 ある程度、血糊を落としたグスタフは手早く重要書類をまとめると、リヒテルと同様に静かに退室していった。

 その数週間後、彼はウラジミール公に謁見し、これらの重要書類と、何より軍事をまとめていたベルンハルト枢機卿が暗殺されたことで、法王軍が混乱し、後継者争いで分裂している情報を差し出す。

 ウラジミール公は旗下の戦士や、付き従う貴族に檄を飛ばし、反乱を決意した。今を置いてアールヴから支配権を奪う好機はない、と言うグスタフの提言を支持したのだ。

 グスタフはこの功により、十代半ばという年齢でリューリク公家に迎え入れられた。

 十年前、アールヴから玉座を奪ったスヴァルトの反乱、ルーシ戦役の裏側である。


*****


 父が娘を殺し、息子が父を殺す。そして今、弟が姉を殺そうとして、返り討ちに合って、逆に弟が姉に殺される。

 アーデルハイドはファーヴニルとして脇が甘い所があるが、人としては正常な思考の持ち主だ。少なくとも、グスタフはそう思っている。

 血を分けた肉親同士が殺し合うことを許容できない。だからこそ弟リヒテルの嘘に十年間もだまされたのだし、今もまた、娘の安否を重視して、対応が後手後手に回っている。

 正しい、間違っていない。だが悲しいことにこの戦乱の世は正しく、まともに生きてきた者が損をし。間違って、何より頭がイカれた者が得をする世の中だ。そのことはグスタフがよく理解している。


(悪いな、アーデルハイド。父殺しを行う、頭がイカれた人間はリヒテルだけじゃない。お前は俺が上に立つための踏み台だ。まあ、名誉も何もかも奪わせてもらうが、娘とお前の生命は保障しよう。義理の息子としての最低限の礼儀だ)


 グスタフにとって、義理の母であるアーデルハイドもまた自らの目的を遂げるための道具に過ぎず、単純な縁から助けるわけではない。

 一種の倒錯的な考えだが、彼らの生殺与奪権を握ることで安っぽい自尊心を感じたかったのだ。誰を殺し、誰を生かすかは自分が決める。

 ただし、それを口に出すことはない。彼は恥を知っている。口に出したのは別の言葉である。


「油断してたぜ。まさかテレーゼにあれだけの傷を負わされておきながら戦おうとするなんてな。おお、この包帯、巻き方がうまいな、誰がやったんだ?」


 真っ赤な人形が宙吊りになっていた。それはマリオネット。人形遣いによって動くことを許された奴隷。

なればこそ、逆らってはいけなかったのだ。己の分を弁えない人形は、主人に壊されて捨てられる。


「っ!!」

「ほら見ろ、俺の腕にお前はかすり傷を負わせた。つまりお前は俺の皮膚一枚程度の価値はあるということだ」


 グスタフが右腕一本でヴァンを持ち上げた。窒息を避けるためにヴァンはその腕に掴みかかるが、果たして掴みかかるその手に力が入っているのか。 出血により服を真紅に染めたその姿は殉教者のように美しく、また儚げだった。

 テレーゼに斬られたところと同じ場所にグスタフの凶刃が振るわれた。ヴァンとテレーゼによるグスタフへの奇襲攻撃は完全な失敗に終わったのだ。


「ハノーヴァー砦の時とは全然……」

「技量が違い過ぎるっていうのか、テレーゼお嬢様」


 仮に百度、同じ状況を繰り返しても百度とも同じ結果になるだろう。ただグスタフはヴァンの剣を受け止めて、返す刀で斬りかかった。ただ、それだけである。

 フェイントも何もない。無論、死術士でないグスタフは怪しげな術を使ったわけでもない。しかしそれをヴァンは躱せなかった。

 シンプルなたった一つの答えだ。ヴァンとテレーゼが弱すぎた。


「ヴァン、今助けますわ!!」

「今、歯向かえば、俺はお前を殺す」

「……!!」


 テレーゼの足が根でも張ったかのように動かなくなる。以前の彼女ならば警告を無視して動いたであろう。だが今は違う。

 圧倒的な実力差が分かるのだ。己の正義を行使しようにも、その結果がまったくの無駄であることが理解できてしまう。ただ、自分が死ぬだけ。ヴァンを助けることはかなわない。


「……」

「いい判断だ」


 テレーゼが動かないことに気を良くしたのか、グスタフが笑みを見せる。だがそれは常の弱者をあざ笑うような嘲笑ではない。

 どこか肩の荷が降りた、一仕事やり終えた後に、やり終えた自分を慰めるような、そんな少し穏やかな笑みだった。

 だが、それはすぐに崩れる。


「何をやっている!! リヒテル様を逃がせ、何のためにお前らはそこにいる!!」


 どこにそんな力が残されていたのか、半ば死体のようになったヴァンが大声を上げてリヒテルが連れてきた影使いのファーヴニル達に檄を飛ばす。

 ファーヴニル達はアーデルハイドの変貌に続く一連の出来事に気を取られ、そこにいるだけのでくの坊になっていたのだ。ヴァンの大声で彼らは目を覚まし、彼らが王とまで称したリヒテルを逃がすべく行動を開始する。


「そ、そうだ。何をしていたんだ俺達は!!」

「リヒテル様、今、助けます!!」

「ありがとうな、坊主!!」

「ちっ、悪あがきを!!」


 グスタフは舌打ちすると、腹立ち紛れにヴァンを地面にたたきつけると、目を覚ましたファーヴニルを迎撃するべく、アーデルハイドのそばに駆けた。

 いかに影の力を得て力を増したアーデルハイドと言えども、同じ影使い十数人が相手ではどうなるか分からないとの判断からだ。

 地面にたたきつけられたヴァンはまるで潰れた果物のように血を撒き散らし、釣り上げられた川魚のように、ぱっくりと口を開けて肺に詰まった空気を吐き出す。それっきり動かなくなった。


「止めろ、お前らの勝てる相手ではない。死ぬぞ!!」

「俺らは何もかもスヴァルトに奪われた。ここで死ぬのも本望です」

「代わりにリヒテル様、逃げてください。俺らの仇を討って……」

「バルムンク、万歳!!」


 リヒテルの制止を振り切り、ファーヴニル達は漆黒の剣をアーデルハイドに突き付けて影を呼び出す。

 死体を操り、使役する邪法の業。だが今の影には彼らの執念のようなものが乗り移っているかのような熱気があった。

 進みゆくは死と隣り合わせの戦場、一人、また一人と力尽きる戦友達。全てはスヴァルトに奪われた平和な世界を取り戻すために、彼らはその命をささげた。

 影はその心意気を組み、スヴァルトに組みしたアーデルハイドを屠るべく、一重二重と折り重なり、彼女を飲み込んでゆく。


「やった!!」

「アーデルハイド!!」


 一秒過ぎた。折り重なり、大きく膨んだ影が内側からはじけ飛ぶ。周囲に飛び散るのは、影の本体たる死体を構成する骨や肉である。

 アーデルハイドに目立った怪我はない。生命を奪い取るその影はなんの効力も発揮できなかった。


「貴方達には影にしか見えないのでしょうけど、私にはちゃんと実物が見えるのよ。当然、弱点の種を見つけ出せる」


 アーデルハイドは酷薄な笑みを浮かべて、右手に持った〈種〉をファーヴニルに見せつける。種は死術士が使うミストルティンの種子。影の中核を担う心臓である。彼女が手に持つそれはファーヴニルが扱った影の物であった。


「な、なぜ影がこうも簡単に……」

「貴方達はファーヴニル、盗賊ね。堅気じゃない貴方達にかける情けはない、グスタフ、手伝いなさい」

「はいはい、人使いが荒いことで……」


 動揺するファーヴニルらに二匹の猛獣が牙を剥く。

 先に結果を言えば、彼らが言ったリヒテルを逃がすという目的は実の所、あまりに傲慢な物言いだったのだ。時間を稼ぐ。盾になる。それはそれらができる人間に許された言葉であって、資格がない者が言うべきではない。

 十数人のファーヴニルはアーデルハイド、グスタフの両者に対し、生まれたばかりの子猫程の抵抗も出来なかった。

 十数秒後、彼らは全滅した。リヒテルが逃げる時間は稼げなかった。


「くっ、スヴァルトめ……人間を、舐めるな!!」

「お前らは人間じゃなくて家畜だろう?」


 最後の一人がグスタフに首を斬られた。エルンスト老の招集に応じた者の中で最も早くリューネブルク市に駆け付け、恐らく、最もリヒテルに信望していたファーヴニルらがその生涯を終えた。早すぎる死であった。


「また、誰も生き残らなかった……皆、皆」

「リヒテル、何をそんなに悔やんでいるのだ? どうせ、スヴァルトに逆らったそいつらは遅かれ早かれ死ぬんだ」

「リヒテル、全て貴方が悪いのよ。今の世はスヴァルトが支配者。所詮、盗賊でしかない私達が支配者に抗うのは不可能だったのよ」

「貴様ら……」


 グスタフ、そしてアーデルハイドが同時に剣を抜き、リヒテルの首に突き付ける。まるで首切り台に載せられたようにリヒテルは硬直した。


「さあ、首を斬るぞ、アーデルハイド。そして首をゴルドゥノーフ家に捧げよう。それでお前ら親子の安全は保障される」

「長かったわ。貴方がヘマをしなければもっと簡単だったのに……」

「よく言う、娘を利用されるまではリヒテルを助命する気だったくせに……まあ、それはいい。ともかくこれで終わりだ。数週間後にはお前らはバイエルン司教区の貴族の別荘で悠々自適の生活を送っているだろう」

「他司教区の……そこまでの力が貴方にあるの?」

「大丈夫だ、なにせ俺はもうすぐ事実上のウラジミール公になる」


 まるで明日の朝食を話すように軽々しくグスタフは話し始めた。口調の軽さに反して、その内容はスヴァルト貴族ならば驚愕せざるものだった。


「現ウラジミール公、エドゥアルトはもう年だ。長くは生きられない。婿養子のゴルドゥノーフ侯ボリスは自害してしまったし、他に有力な貴族はいることはいるが。しかし、頭突き出た人間もゴルドゥノーフ侯爵家を超える家柄もない。つまり、仮に後継者が決まっても、反対者を抑えつけられる人間はいないのだ。アールヴはそれがどんなに汚い策略の果てであっても、法王選挙で選ばれた法王を取りあえずは元首と認めるが、スヴァルトは貴族主義だからな、元首が決まっても、そいつに力が無ければ揉めるんだよ。奴らを噛み合わせれば今となってはリューリク公家二番手となった俺が結局は権力を握ることとなる」


 スヴァルト貴族であるグスタフはどこかスヴァルトを嘲るような口調で語り終えた。

 アーデルハイドはそれで得心がいったのか、それ以上の説明を求めないようだった。剣を地面に突き立て、寄りかかる。疲れたように息を吐くが、殺すべきリヒテルに視線を合わせたままだ。彼女に油断はない。

 リヒテルは死の恐怖に怯えているのか、体を小刻みに震わせている。やはり彼も人の子か、死ぬのは怖いらしい、否、そうではなかった。彼はグスタフを笑っていた。


「相変わらず、影でコソコソやるのが主義のようだな、臆病者め」

「策を練るのが臆病なのか?」

「そうではない、お前の心持ちがそうなのだ、この十年私も何も調べなかったわけではない。あの時の事は私もずっと不思議であったのだ。彼女が不貞を働くとはな」

「何のことだ……」


 勝利者の余裕か、グスタフはあえてリヒテルの末期の言葉に耳を傾けた。剣は突きつけたままだ。

 だが口を閉ざそうという姿勢は見られない。時間が許す限りしゃべらせようと言う腹積もりのようだ。それはかつての親友に対する未練か、それは誰にも分からなかった。


「正体を隠したままでは、長い栄華は築けない。お前もアーデルハイドもそして、わ……もすぐに足元をすくわれて滅びるだろう」

「ばれない様にうまくやるさ」

「策略のことではない。お前の母親の名はリザヴェーダ・アレクセーエフ、混血の奴隷女だ。そして父親はアールヴ神官。お前の身体に流れる血の四分の三はアールヴ。お前は……スヴァルト人ではない。スヴァルト人でない者がスヴァルトの頂点に立てるわけがないだろう」


 冷たい空気が流れる。それは両者の断絶を証明するかのような身を切る冷たさだった。グスタフの返す声は先と変わらなかった。だが、その目だけが例えようのない、吐き気を催す狂気に溢れていた。


「それが真実だったら大変だな。アールヴがスヴァルト貴族をやっていることがバレたらそれはもう、貴族達は怒り狂うだろう。下賤なアールヴに聖域が穢された。俺が貴族だったら、そいつを、親族含めて皆殺しにするな。まあ、俺に家族はいないのだが、それはいいとしてリヒテル。その妄言……どうやって証明するんだ?」

「……」

「俺の肌は褐色だ。耳も尖っている。正真正銘のスヴァルト人、ヴァンのように肌が白い訳でもない。まさか、それを調べる便利な魔術がある訳でもない。どうなんだ、リヒテル?」


 ヘラヘラとグスタフは笑いながら、剣を弄ぶ。リヒテルの喉、頸動脈あたりを刃でいじくって血を流させた。

 リヒテルは傷に関心を示さず、ただ事実を話す。しかし、どこか言いたくないことを言うような、そんな苦しさが垣間見えていた。


「十年前、お前が仕え、愛したウラジミール公長女、リディアの産んだ子はアールヴだった。お前の子のはずだ。お前は父親である公爵の怒りを恐れて名乗り出なかったが、彼女が殺されたのはそれが原因。お前は逃げてばかりだった、恥を知れ、臆病者め」

「……」

「彼女はお腹の子の父親が誰か最後まで言わなかったそうだ」

「リヒテル……」

「なんだ」

「女の腹が誰の種で膨らんだのか、男には分かりようもない」

「貴様!!」


 それはリヒテルには許容できない言い草だった。愛した女が不貞の罪を着せられても何の庇いたてもしない。

 同じ立場ならばリヒテルは名乗りでただろう。それどころか、彼女を連れて、家を出たかもしれない。己の正義のために父親を二度も殺した男は躊躇わない。


「アーデルハイド、リヒテルの首を跳ねる役、俺に任せてくれないか」

「構わないわ」

「ありがとう。よう、リヒテル、首を跳ねる前に胴体を真っ二つにしてやろうか、知っているか、人間って真っ二つになっても少しの間だけ生きられるんだぜ、そこにツェツィーリエ医士もいる。治癒をかけて、その少しを何倍も長くしてやるぜ」


 満面の笑みを浮かべ、グスタフが剣を構える。リヒテルにはもうそれを躱す体力は残されていない。だが、リヒテルはあえて抵抗をやめなかった。

 自分のために死んだ者たちがいる。今の尚、身命を捧げてくれる者がいる。

 その者達の願いを糧に最後まで戦うのだ。そしてその願いはわずかに叶えられた。


「おいおい、二度目ともなると、驚きを通り越してあきれるな。黙って寝ていればいいのに……」

「ダメ、ヴァン!!」


 虚ろな目を、ぼろきれとなった体を、血の気が失せた顔を持って、ヴァンが立ち上がっていた。もはや小指一本動かすだけで、多大な労力を割かなければならない程衰弱した体では勝機などあろうはずがない。

 それでも彼は戦わなくてはならなかった。主人であるリヒテルが戦っているのだ。仕える自分が剣を取らなくてどうする。だが、悲しいことにそれは純粋な忠義心ではなかった。


「ヴァン……やめろ!!」

「どうやら、覚悟を決めたようね」

「別に満身創痍の子供が一人……放っておいてもいいと思うがな」

「何……情けをかけるの、人の事は言えないじゃない。駄目よ、グスタフ。ヴァンはね、壊れているの。生きている限り、私達を追うのをやめないわ。例え、主人であるリヒテルが死んだとしても……生かしては置けない」


 アーデルハイドは再び剣を構えて、ゆっくりとヴァンに近づいていく。それは余裕の行進ではない。アーデルハイドはヴァンを警戒していた。

 命を懸けて事を成し遂げる。その後に残された者のことを考えない考えを侮蔑していた彼女だったが、同時にそういった思考の人間がどれだけ恐ろしいかも知っていた。

 よく、守る物があるから人は強くなれると道徳者は説く、それは間違いだ。守りたいものがあるのならば、そもそも命など懸けられない。

 それでも勝ったのならば、それは初めから相手が格下であっただけの事。

 何もない人間こそ、最も強い。生き残ることなど考えず、ただの一戦だけを考えるならば、空虚な心を持つ者が勝利を掴む。

 最後まで残り、最後の戦死者となる。

 ヴァンは、それに該当する戦士だ。


「止めてください、お母様!!」


 アーデルハイドの意図に気付き、テレーゼが両者の間に割って入る。その顔は流れる涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 テレーゼは美しい少女である。

 まるで絵画か彫刻のように整った風貌は素の表情すら他者には儚げに映り、ファーヴニルとして武勇を信じていなかった市井の人々は深窓の令嬢と称えたものだ。

 だが今のテレーゼにはその美貌はない。むき出しの感情は外見の美しさを貶め、彼女は霊威を奪い取っていった。

 天を舞う風の精は地に堕ち、絵画の令嬢は生身の身体を手に入れた。

そこにいたのは肉親を失いつつあるただの少女であったのだ。


「どきなさい、これはファーヴニルであるヴァンが選んだ選択」

「嫌ですわ!!」

「テレーゼ……」

「リヒテルお兄様は仕方がないかもしれません、ですが……私はヴァンまで失いたくありません!!」


 テレーゼの必死の嘆願にグスタフが苦笑する。


「おいおい、母親さん、娘が噛みついてきたぜ。どうするよ?」

「別に構わないわ。自分の子供が自分より劣っていては悲しいじゃない。噛みついてくるくらいが可愛いのよ。独り身の貴方には分からないでしょうけど」

「そうかい……だが、娘は未熟だぜ。どうやら状況を把握してないようだ。噛みつく相手と噛みつく状況が間違っている」

「その時は蹴り飛ばして、理解させる」


 テレーゼに苦笑したグスタフが今度は噴き出した。余程、面白かったのか、腹を抱え……ることはリヒテルと対峙し、剣を突きつけているためできないので、苦しそうだ。


「お前ら二人は本当に似ているよな、最終的に暴力に頼るところなんかそっくりだ」

「当たり前よ、親子なのだから……」


 何を言っているのだ、とばかりにアーデルハイドは首を傾げ、そしてテレーゼの接近を感知して向き直った。

 どうやらテレーゼは時間を稼ぎ、ヴァンを逃走させる考えのようだ。

 だが、ヴァン自身がそれに従わない。


「私が時間を稼ぐから、貴方は逃げなさい!!」

「その心遣いだけで十分です。私は戦います。リヒテル様に忠誠を誓います」

「ヴァン、貴方……そんなにもお兄様を」

「違います、私にはそれだけしかないのです。いかせてください。私は自分の義務を遂げる」


 ヴァンより早く、テレーゼがアーデルハイドと肉薄する。テレーゼは本気の一撃、だがしかし、母親に致命傷を与えないように腕を狙ったそれは、いささか、軽率であったと言える。

 元より実力差を鑑みれば、手加減して戦える相手ではないのだ。だが、アーデルハイドは避けなかった。その体は既に不死、一度や二度斬られる程度、何ともない。

 それどころか、剣でテレーゼの攻撃を払えば体勢が崩れる。それはテレーゼに続いて攻撃をかけるであろうヴァンが付け入る隙となる。

 影に覆われたアーデルハイドの右腕に斬りつけたテレーゼはその感触の無さに愕然とした。攻撃がすり抜けている。次の瞬間、テレーゼはアーデルハイドの、斬りつけた右腕から続く、裏拳を胸に受けて吹き飛んだ。

 痛覚と同時に触覚もマヒしているアーデルハイドだったが、長年の経験からろっ骨にひびを入れたと推察、テレーゼを一撃で戦闘不能にしたと確信した。


「この身は人に非ず、ただ、バルムンクの刃なり」


 ヴァンは右手にカトラス、左手にナイフのように短く、細長い物を持っていた。恐らく、ナイフを投げて牽制し、カトラスで一か八かの急所を狙うのだろう。

 身体が影に覆われている中、実はアーデルハイドの顔から首のあたりだけが幻覚魔術の範囲外だ。狙うのは首、通り過ぎざまに首を斬り落とす算段だ。ヴァンにはもはやそれしか方法がない。


「剣と戦士は天上へ、ヴァルハラへと還りなさい、ファーヴニルのヴァンよ!!」


 ヴァンが左手の得物をアーデルハイドに投げつける。狙ったのはテレーゼと同じく、剣を持つ右手。本来ならば、剣で払うか避けるところだが、それではわずかなりとも体勢が崩れる。

 その手には食わない、あえてそのまま得物を受ける。小さい音がする、だが右腕には何の支障もない。

 右腕には痛覚も動かしているという感覚もない、だが右腕が動く、ならばなんの問題もない。

 アーデルハイドはヴァンの、構えた剣ごと両断するべく、上段から剣を振り落す。

 ぶつかる剣と剣、そして、黒く染まった血と肉、骨を撒き散らしてアーデルハイドの右腕が砕け散った。


「なっ……!!」


 まるでハンマーで殴られた石膏のように粉々になる腕、驚愕するアーデルハイドを見据えるように、トネリコの枝が静かに地面に降りたつ。

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