出会いと再会
まず最初に、でかいな、と思った。私がベンチに腰掛けていることを差し引いても十二分な長身だ。
それから顔に視線を下げる。黒縁の眼鏡をかけた、端正で柔和そうな顔。見覚えはない。はて、どこかで会っただろうか。
「ちょっとそこ退いてくれますか」
男は言う。そこで私は気づく。顔に見覚えはないが、声には聞き覚えがあった。低く、滑舌が良く、同性の私からしても甘く感じるような声。
「……
「ん? うん」
男は不思議そうな顔をした。
「そうですけど」
「……はは。人が悪いよ。まるで知らない人かと思った。いつもの着ぐるみはどうしたんだい?」
そこまで言うと、ぽかんとした顔だった男はようやく合点がいったと言いたげに笑った。
その仕草に今度は私が合点がいかず顔をしかめると、彼は笑みを深くする。
「ああ、違う。あれは俺じゃないんです」
「俺じゃない……とは? だって、君、羽鷺君だろう?」
「いや、羽鷺ではあるんですけど。あんたが言ってるのはたぶん着ぐるみ着てる小説家の方だ」
彼の言うとおり、私の言う『羽鷺』は同業者、つまり文筆家の知り合いである。常に兎の着ぐるみを着ている突飛な男で、そのくせとても綺麗な文章を書く。
羽鷺なんて珍しい苗字が他に居るとは思えないのだが。
「あれは双子の弟なんです。あっちは
「羽鷺君、兄弟なんか居たんだ」
「はい。……で、そこ退いてもらえますか。ちょっとずれるだけで良いので」
「え? ああ、はい」
私が右側へ腰をすべらせると、司と名乗った男はさっきまで私が居た場所に腰を下ろした。
「この時間はここで時間を潰すと決めているんです。いつもの場所じゃないと座りが悪いもんで」
「そうなんだ」
「いきなり話かけてしまってすみませんでした」
「あ、ええと……ねえ、敬語やめて良いよ。羽鷺君の声で敬語を使われると、なんか、むず痒い」
司は声を上げて笑った。
その笑い声さえ聞いていて心地よいのだから、声が美しい人は得だと思う。私も別に素っ頓狂な声はしていないつもりだが、特に褒められたこともないので羨ましくなった。
「……ああ、そうだ。僕は花吉生誉という。よろしく、司君」
「よろしく兄弟」
「兄弟?」
「兄弟の兄弟なんだから兄弟だろ」
「……えっと」
弟の知り合いだから俺の知り合いでもあるだろう、と言いたいのだろうか。
英語圏の俗語でしばしば友人をブラザーと呼ぶことを知らない人はほとんど居ないだろうが、現代日本で恥ずかしげもなく他人を兄弟なんて呼ぶ人間はかなり珍しい。
変わり者なのだろうな、と凡愚な私は安直な結論に至った。
隣を盗み見ると、変わり者の彼もこちらを見ていた。目が合って気まずくなる。
お互いに目を逸らし、しばらく無言が続いた。
「……それカッコいいな」
司が口を開く。
「ん?」
「足のそれ。左足の」
「ああ、義足?」
「うん。……あ、いや、あんま触れねえ方が良いのかな、こういうのは。気を悪くしたら謝る」
「構わないよ。気にする人も居るんだろうけど、僕は生まれつきだからいろいろと慣れてるし」
「ふうん……」
それっきり司は黙った。
兄弟なんて呼び方をされたものだからもっと、良く言えばフレンドリー、悪く言えば馴れ馴れしい男だと思ったのだが、存外彼は一般的な心の距離感覚を持っているらしい。そのギャップは非常にアンバランスな印象を私に与えた。と同時に、私は彼に興味をそそられた。
小説家の性というわけではないが、興味深い人間を見るとどうしてもじっとして居られなくなる。
「司君は、平日の昼間にこんなところで何してるんだい?」
「あんたもな。……俺は仕事が毎日二十二時からなもんで、昼間は暇なんだ。だからここで時間潰してる」
「夜からの仕事なのかい。バーの店員とか?」
「いや、ラジオで喋ってる」
「へえ」
「今は休業中なんだけどな」
「どうして?」
「内緒」
「気になるじゃないか」
「内緒」
「……ふうん。分かった」
知りたいという下世話な気持ちは消えないが、話したくないことを無理やり話させるのは嫌なやつのすることだ。それ以上の詮索はよしておくことにした。
「あんたはどうなんだ、兄弟」
「僕は……」
聞いて楽しい話ではないけど、と前置きをしてから言葉を続ける。
「僕は作家の端くれで、この前に長編をひとつ書き上げたからこれから休暇なんだ。旅行にでも行こうかと思っていたけど、その矢先に父が亡くなってさ、何をやる気もしないから手持ち無沙汰にここに来た」
「……重い話だな」
「ああ、ごめん。初対面の人にする話じゃなかったね」
「いや、別に」
気にするな、とでも言いたげに司は喉の奥で笑った。
その笑い方に父の最期を思い出したが、ガラガラと鳴るだけなのと伸びやかな甘い声とではとても似ているとは言えない。
失った寂しさで何でも父に繋げてしまうのだろう、と自己分析をして、虚しくなった。
笑うとこじゃねえな、ごめんな、と司は一人で喋っている。
「なあ」
「うん?」
「親が死んだら、やっぱ悲しいか?」
「……変なこと訊くね。そりゃ悲しかったよ。悲しいっていうか、寂しかった」
「……そっか。あんたの父さんってどんな人だった?」
「え? えっと……優しい人だったよ」
「そうか」
「……うん」
無難で抽象的な私の答えにも関わらず、司の『そうか』には不思議な重みがあった。
様々な感情が複雑に絡まっているような、そんな気がしたのだ。
私はますます彼に興味を惹かれた。やはり私は作家などではなく、ただの野次馬なのかもしれない。
ひとまず何か話題を作って、もう少し彼を詳しく知ろうと決めた。
「……司君は、本とか読むかい?」
「多少」
「どの作家が好き?」
「乱歩とか好きだな」
「ああ、良いよね、まさに娯楽小説って感じでさ。悪い意味じゃなくて、エンターテインメントだなって思うよ」
「そうだな。詳しくねえけど、『指』は面白かった。あと『鏡地獄』とか」
「君は短編が好みなのかな」
「かもしれない。あんた作家先生なんだろ、何かオススメあったら教えてくれよ」
「そうだなあ……夢野久作の『瓶詰の地獄』なんてどうだろう」
「それ頭おかしくなる作家だろ」
「本当にそうだったら発禁になるよ」
「そりゃそうだな」
「うん」
それから私は三十分ほど司と話をした。
表面的な、なおかつ一部でしかないが、それなりに彼という男を知ることができた。
羽鷺司。私より三つ年下。札幌生まれ。現在は東京で一人暮らし。妻や恋人は居ないし作る気もない。好きな食べ物はシベリア。嫌いな食べ物は特になし。
それからさらに一時間ほど話し込んで、私は司と別れた。
家に帰るまでの道中にて彼のことをぼんやりと考える。
不思議な男だ。やはりどこかアンバランスな感じがする。特に人を見る目に優れているわけでもない私が言うのは滑稽かもしれないが、司の内側の深いところに『何かある』ような気がした。
「……そんな、こと、考えてる暇、ないんだよ、なあ……」
意味もなく変なふうに言葉を区切り、私は独りごつ。
不思議な男より行方不明の母だ。
手がかりはアルバムの写真一枚のみ。頼みの綱のそれも三十五年前のもの。果たして母を探すことは可能なのだろうか。
……いや、不可能だったとしても私は母を探す。そうしたいと思う。
会いたい会いたいばかりで手段はまるで思いつかないまま、私は帰宅した。
義足を外し、手すりに掴まりながら書斎へ向かう。
ひとまず心を落ち着けよう。そう、落ち着くのだ。好きな詩集でも読んで。
冷静さを欠いたまま何かをやろうとすると、おおよそ碌な結果にならない。これは小学生でも知っていることだが、どうしてか大人も子供も揃って同じ轍を踏む。
畢竟理性などは感情に勝てないという証明なのかもしれない。
それでも私はなるべく抗いたい。本棚から宮沢賢治の詩集を引っ張りだして流し読みをしつつ、落ち着け、落ち着け、と胸の内で繰り返す。
数分でまともに活字を追えるくらいには頭が冷え、私は本を閉じて深呼吸をした。
……喉が渇いた。茶でも飲むか。
書斎を出て小さな台所へ向かう。ほとんど自炊をしない私は、ここに立つこと自体ご無沙汰だ。
とても良い生活だとは言えないが、独り身の男など誰もそんなものだと思う。
煎茶をいれて居間に入って、熱いそれを飲み下す。味が薄い。まるで出涸らしだ。
視線を滑らせると、テーブルの上に置きっぱなしだったアルバムが無言でそこに居た。
またページを開いて、まじまじと母の顔を眺める。私はこの人に似ているのだろうか、自分ではよく分からないな、と私は数日前と同じことを思った。
「……どうにせよ、一人じゃ無理だな」
呟く。私一人がどう頑張ったところで限界があるだろう。限界があるどころか、ほぼ何もできない。
私は電話の受話器を取り、すっかり指が覚えてしまった番号を打ち込んだ。
彼からの返事は「今すぐ来い」だった。
面影橋で路面電車を降り、ぼけっとしていたら通り過ぎてしまいそうな目立たないビルディングの階段を上ると、『夜深探偵社』と書かれた素っ気ない看板が出ている。
私は何の躊躇いもなく看板の傍らの扉を開いた。
薄暗い中に微かな香のにおいが鼻をつく。
窓は全て板張りで光は一切入ってこない。
入ってすぐ応接間となっており、背の低いテーブルを挟むようにシンプルなソファが置いてある。
彼はソファに座って、組んだ足を行儀悪くテーブルの上に乗せていた。
「やあ、しばらくぶりだな」
病的なまでに白い肌。真っ直ぐな黒髪。青色の目。
「久しぶり。その後探偵活動は順調かい?」
「活動だなんて同好会みたいな言い方をするな。俺はこれで飯を食っている」
「こんなとこに客が来るとは思えないけどね」
「ちょっと会わない間にえらく生意気になったな。さっさと用を言え」
私が向かいに座ると、荒木はようやくテーブルから足を下ろした。
「電話でも軽く話したけど、人を探してもらいたいんだ」
「人探し、ね。懐かしいな、中学生のときお前が惚れていた宮沢さんが転校することになって」
「その話はよしてくれ」
「それを知ったお前はショックのあまり苗字が同じってだけで古本屋で宮沢賢治を買いあさり」
「よせ」
「俺を巻き込んで彼女の引っ越し先を調べ、恋文と共に『春と修羅』を送り付けたのだったな。思えばそれが俺の初仕事だった。人の住所を調べるのが存外難しかったもので驚いたよ。結局あれに返事は来たのか?」
「よせって言ってるだろ!」
荒木は愉快そうに笑った。昔からこういう余計なことをべらべら話すやつなのだ。
このやろう、と心の中で拳を振り上げる。
それからやっと、こんなくだらない話をしている場合ではないと思い至った。
「これを見てほしい」
鞄に入れて持ってきたアルバムを取り出す。例のページを開くと、荒木は身を乗り出してそれを見た。
「お前の母親か」
「……何で分かったんだい?」
「顔がそっくりだ」
「そ、そうかな」
やはり似ているのか。喜べば良いのかなんなのか分からない。
「探してどうする」
「そりゃ、会うよ」
「会ってどうする」
「……話がしたい。父の話とか、居なくなった理由だとか、それから……名前の話をしたいんだ」
「ふうん」
良いだろう、と荒木は言った。
「他に資料は?」
「ない」
「は?」
「これしか手がかりがないんだ」
「これだけで探せと? お前はなかなか無理を言うなあ……」
ふう、と浅く息を吐いて旧友はアルバムを手に取る。
「
「然るべき情報筋って?」
「同業者だ。この業界は横の繋がりが多いのだよ。聞き込みなどは向こうに任せている」
「ずいぶん人任せだね。君は働かないのかい?」
「人聞きが悪いな。俺の仕事はどこで何を調べるかの指示と、集まった情報をまとめて結論を出すことだ」
それはほぼ人任せということにはならないのだろうか。
しかし日光を何より憎むこの男がよく探偵などやっていられるものだと不思議に思っていたが、なるほどそもそも外に出ないで済んでいるのか。
私立探偵は商売敵をも味方にしてしまうらしい。探偵がそういうものなのか、荒木紅造がそういう人間なのかはさておいて。
「このアルバム、しばらく預かるぞ」
「汚したりしないでくれよ」
「もともと薄汚いから大丈夫だ」
「ひどい」
「事実だろうが」
荒木はアルバムを自分の傍らに置き、またテーブルに足を乗せた。
「しかし本当に久方ぶりだな。てっきりもう会うこともないものだと思っていた」
「ひと月に一回は手紙出してるだろ」
「読んでいない」
「だから返事来なかったんだ……」
愕然とした。なんて男だ。筆舌に尽くしがたい仕様もなさだ。もっとも、こんなやつを一番の友人としている私も大概なのかもしれないけれど。
「会っていない間、何か面白いことは起こったかね」
「面白いことね……面白くはないけど、父が亡くなったよ」
「どうしてそういうことを早く連絡しないのだお前は」
「だから連絡したって。君が読まずに捨てた手紙の中に混じってるよ」
「電話を寄越せば良かっただろう」
「電話も出なかったじゃないか」
「……それは俺が悪いな」
「うん」
「すまない」
案外素直に謝り、荒木はがしがしと頭を掻いた。
そんなにしては髪型が乱れてしまうではないかと思ったが、そもそもこの男は昔から自分の外見にこだわりがない。現在もよれたシャツと色褪せた洋袴がそれを物語っている。
ちなみに私はと言えば、潔癖症ではないのだが服に汚れや皺がついている状態が気に食わなく、さらに言えばネクタイがないと落ち着かない面倒なやつだ。
そしてどうせなら良い物を着ようという欲が働いて服屋でわざわざ仕立ててもらったりする。
また、義足を作る際もけっこうなわがままを言った。『かえり屋』という義肢屋の店主は、私より二つ年下にも関わらず確かな腕を持っていて感心したものだ。
と、そんなことはどうだって良い。
「……ああ、それから。不思議な人に出会ったよ」
私は羽鷺司の話を荒木に語った。
荒木は「ふうん」とか「へえ」とか適当な相づちを打ちながら私の話を最後まで聞き、あくびをした。
「羽鷺司ね。彼のことはよく知っている」
「え、知り合い?」
「知り合いではない。俺が一方的に知っているだけだ。ラジオで彼の声を聴くことが数少ない楽しみなものでな」
「そうなんだ……」
二十年以上の付き合いになるが、この男がラジオ番組を楽しみにしていることは知らなかった。
「でも司君、今は休業中だって言ってた。最近は聴けてないんだろ?」
「ああ」
「寂しいね」
「そうだな」
「紹介してあげようか」
「いや、やめておく。彼をこんな陰気な場所へ呼ぶことは憚られるから」
陰気だという自覚はあるのか。
それにしても、自分が会いに行くという発想を持たないで司がここにくる前提で話す辺りがこいつらしい。
「……じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
「ああ。何か分かったら連絡する」
「うん、ありがとう」
「手紙はなるべく読むようにする」
「そうしてくれ。本当に」
ソファから立ち上がって背を向ける。
外に出ると、しばらく浴びていなかった日光に少しクラっとした。
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