ほんとうのかぞく
九良川文蔵
父の死
名前は親から最初に貰う贈り物だ、という言葉は大抵の人が聞いたことがあるだろう。
実際にそうなのだと思う。名前をつける際には、多かれ少なかれ、親は子供の幸せを願っている。まあ、末っ子だから末男とか、生まれたときに父親が五十六歳だったから五十六だとか、そういう例外はあるが。
それでも、別に不幸にしようと思って名付けたわけではあるまい。
私の名は
きよ、と言えば女の名前だ。面識のない人間に名前だけで女と勘違いされることも珍しくない。幼い頃は名前に似合って可愛らしい子ですねなどと言われて良い気になっていたが、三十路を過ぎた男が女に間違われたところで恥ずかしいだけである。
だから私は、あまり自分の名前が好きではない。
小説家という職業の手前、本名を隠すことができるのが救いだ。いや、本名を隠せるから小説家になった、と言った方が良いかもしれない。
それからもうひとつ、名前には関係ないのだが、作家になることを選んだ理由がある。
足の欠損。
左足の膝の辺りからをぽっかりと忘れて生まれてきてしまった私は、家でできる仕事に就くしかなかった。
現状に不満はないが、ずいぶん未来の選択肢が少ない生まれ方をしてしまったものだと自分で思う。
さて、自己紹介はこのくらいで切り上げよう。
私は列車に揺られていた。旅行をするにも帰省をするにも中途半端なこの時期の車内は当然人が少ない。子供でも居たらきゃあきゃあと声がして気分も和むことだろうが、私の他には老夫婦が一組居るばかりだ。
ガタンゴトンと揺れる静かな車内に私が居る理由は、先日病床の父の危篤の一報が入り、至急故郷へ帰らなくてはならなくなったからである。
丁度ひとつ長編を書き終えてこれから休暇という時期だったのが救いだが、こんな理由で実家に帰るのは内心穏やかではない。
アナウンスが故郷の名を告げて、私は杖を握り直し立ち上がった。
下車して無人駅を出る。懐かしいとは思うが、今は子供時代を思い出して温かい気持ちになっている場合ではない。
できる限り足早に病院へ向かって、急く心を抑えながら受付の女性に花吉ですと名乗った。
「
淡々とした声音に、少しだけ腹が立った。病院という場所に務めている以上、いちいち患者の死に取り乱していては仕事にならないことは分かっている。それでも腹が立った。
エレベーターで二階まであがり、五番目の病室の扉を開く。
そこには父が居た。痩せ細って、肌も土色で、生きているのか事切れたのか分からないような状態ではあるが、確かに私の父だ。
「父さん」
声をかける。
「……生誉か」
掠れて消え入りそうな声で父は応じた。
「よく、来てくれたな。悪いな、遠かったろう」
「そんなことはどうだって良いよ。体はどう? てっきり意識がないものかと思ってたから、ちょっと安心したけど」
うん、と父は唸った。
「まあ……もう長くはねえな」
「そんな……」
そんなこと言わないで、とはどうしてか言えなかった。父はもう歳だからとどこかで諦めているからかもしれない。なんだか、自分がとても嫌なやつに思えた。
「……喋れるうちに、喋った方が良いな」
父は苦しそうに深く息を吐く。
私が生まれてすぐ母が行方不明になり、他に身寄りのない私達親子はある種閉鎖的な人生を歩んできた。父と二人きりで飯を食い、二人きりで眠る。そんな少年時代だった。
私が独り立ちをして家を出てからは、父は本当にひとりぼっちになってしまっていたのかもしれない。そう思うと、どうしようもない後悔の念が沸き立ってくる。
どうしてもっと傍に居てやらなかったのだろう、どうしてもっと大切にしてやれなかったのだろう、とぐるぐる考えてしまう。
決して父を不幸になんかしていないのに。……これは、私がそう思い込んでいるだけなのだろうか。
「……生誉」
父は今度は大きく息を吸い、弱々しく言葉を発する。
「お前、自分の名前、嫌いか」
「……そんなことは」
「怒りゃしねえから、正直に言え」
「……そう、だね。……あんまり好きではないかな」
「そうか……そうだよなあ……」
父の喉の奥がガラガラと鳴った。それが笑い声だと気づくのに一瞬の間があった。
「……お前の名前はな、母さんが、考えたんだ」
「……」
母。顔も覚えていない母。
子供の頃はよく父を責めたものだ。どうしてうちには母さんが居ないの、どこ行っちゃったの、いつ帰ってくるの、と。
そのたびに父はすまねえな、どこ行っちまったんだろうなと悲しそうに言っていた。
「俺は貧乏で仕事ばっかしてて学がなかったから、母さんに名前を決めてもらったんだ。お前の母さんはな、いくつもいくつも考えてはやめてを繰り返して、やっとお前に生誉っつう名前をつけたんだ。だから、変な名前だろうが、あんまり嫌わないでやってくれ。父さんからの最後の頼みだ」
父の言葉を聞き終えて、私はかろうじて「うん」と返事をする。
そんなことを言われてしまったら、この名前に対してどんな感情を抱けば良いのか分からなくなってしまう。
軽々しく嫌いだと言えなくなってしまう。
どうして、最後に、こんな話を。
「……生誉。お前は気立てが優しくて、賢くてよ、本当に母さんそっくりだ。顔も母さん似だな。俺に似なくて良かった」
父はまた喉の奥をガラガラと鳴らし、少し眠いな、と言った。
私は名残惜しさを感じつつも父におやすみと告げ、病室を出た。
その晩、父は死んだ。
父の死に涙は出なかった。驚きもしなかった。
ただひたすらに、寂しかった。
すぐに葬儀の準備に取り掛かったが、先ほども記したとおり他に身寄りのない二人だけの家族である。参列者などほとんど居ない。
式は地味でこぢんまりとした静かなものとなり、それが余計に寂しさを掻き立てた。
葬儀が終わってから、私は遺品を整理しようと一人で実家に向かった。
立て付けの悪い戸を開くと、埃っぽくて安っぽくて懐かしいにおいがする。
父が遺していった荷物は悲しいまでに少なかった。まるで父の人生そのものががらんどうだったかのようにさえ思える。
私が子供の頃に使っていた教科書やノートや、父の日なんかに贈った下手くそな絵や馬鹿馬鹿しい手紙などばかりが大切に保管されていた。
あらかた捨てることを決意し、押し入れを開く。一人分の布団や座布団が申し訳程度に入っている。
それらを引っ張り出すと、奥の隅っこに隠すようにして置いてある何かが見えた。
「……アルバム?」
手を伸ばしてそれを取ると、それは色褪せてボロボロになった一冊のアルバムだった。
はてこんなものがあったろうかとページを開くと、埃が舞って私は少し咳き込んだ。ひとしきり咳をして改めて写真を見ると、どうやら若かりし日の父が写っているらしい。
四角に縁取られた若い父は笑っていたり真顔だったり、あるいは半開きの目をしていたりして、恥ずかしいような嬉しいような不思議な気分になる。
ぱらぱらとページを捲っていると、一枚だけ妙な写真があった。
父と、赤ん坊と、知らない女の人。
写真の隅っこには父の字で『十月二十日、鶴影、陽子、生誉』と書かれている。
そう頭の良くない私でもすぐに分かった。
これは父と、赤ん坊の私と、母だ。
初めて見る母は切れ長の目と筋の通った鼻が美しい人だった。父は私を母似だと言ったが、自分では似ているかどうか分からない。
その翌々日、私は父の遺骨を知り合いの住職が居る寺の共同墓地に預け、アルバムを持って東京に戻った。
戻ったは良いものの、何をやる気もしない。もう少し故郷にとどまるべきだったのだろうか。せめて仕事の締め切りが迫っていれば気も紛れただろうに。……しかし、締め切りから解放されてすぐだったおかげで最後に父に会えたことも事実だ。
世の中は事を多角的に見ろと言うが、そんな見方をしているから分からなくなることもあるのだ。
私はゆっくり、と言うよりはだらだらと服を着替えて外に出た。
一応車椅子もあるが、私は出かけるときは大抵義足に杖をついて行く。当然不自由はあるが、車椅子にばかり乗っていると申し訳程度に生えている右足も弱ってしまう気がして嫌なのだ。
ともかく、私は外に出た。
どこへ行くというわけでもなく出てきてしまったものだから、家から出て数歩でどうするか困った。
断っておくが、私は普段からこんな無計画に生きているわけではない。むしろ綿密に一日の予定を練りあげてそれを遂行することに懸命になり、それが原因で恋人に鬱陶しいと振られるような男だ。
「……」
一体自分は誰に言い訳をしているのか。
ひどく白けた気分になった。
ひとまず歩き出し、近所の比較的広い公園へ向かう。
父が散歩をすることが好きだったことを思い出した。物欲もなく、酒も煙草も飲まず、女遊びもしない父の唯一の趣味だったように思う。
公園に着くと、甲高い声を響かせながら遊ぶ子供達とそれを見守る母親の姿が見えた。
隅っこのベンチに腰掛けて子供を眺めながら考える。
父は幸せだったのだろうか。
なんの娯楽もなく人生の半分くらいをただ私のために過ごして、それで幸せだったのだろうか。
父を不幸にしたつもりはない。しかし、幸せにした覚えもない。
子の幸福が親の幸福とはよく聞くが、そんな俗説は眉唾物だ。子だろうが親だろうが、人間が二人も三人も居て意見が一致するわけがない。仮に家族の幸福が全員一致しているものだとしたら、きっと母は居なくなったりしなかっただろう。
「……母さん」
私を生んだ女の人。
私に名前をつけた人。
会いたい、と思った。
今までは存在しないものとして気にもしていなかったが、父を失った今、初めて母が恋しくなった。きっと喪失感と寂しさで頭が少し変になっているのだ。
一度そう思ってしまえば心を止めることができず、私は母を探す決意をした。
その瞬間、
「こんにちは」
突然頭の上から声が降ってきた。
母のことで頭がいっぱいで人が近づいてきた気配にさえ気づかなかった。
私はびくりとしてから、声のした方に顔を向けた。
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