愛おしき彼女の愛という守護(5)
ディグロはポカンとしていた。腑抜けた表情で俺の質問に答える気がないようにも感じる。「何を当たり前のことを訊いているのか?」とでも。そりゃ当たり前といえば当たり前だ。ディグロはディグロである。紛れもなく彼はディグロ・ウェルズ。
だがその前提を覆さなければならないかもしれない。
アズライールは分裂するダガーだ。そのダガーの影響を受けて崇道も分裂する。
俺は今まで、分裂したものが崇道雅緋自らの分身だと思っていた。誰だってそう思うだろう。一般的に、人間が持ちうる人格は一つしかないのだから。
そこでアルファの情報がやってくる。
崇道雅緋は多重人格者である。
恐らくアルファは崇道雅緋に関しては全て知っていて、なおかつ、その中から情報を選びそれから俺たちに与えたわけだ。与えられた情報と、考えること。そして、ディグロ・ウェルズに対する違和感。これらを以て、崇道雅緋とディグロ・ウェルズの関係性を解けとでも問うているかのように。
だから考える。
そして疑問に辿り着く。
ディグロ・ウェルズは何者か?
「俺が誰かなんて、そんなの今関係あるの?」
あるのかないのかで簡単に答えられたらどんなにいいか。濁さずに答えるなら、関係は。「ある」
「どうして?」
「アルファの話を聞いてたろ。ヤツは多重人格者なんだ。しかも分裂しやがる。じゃあ、どうだ、どうなる?」まるでアルファが俺に促したことをそっくりそのままディグロに対してやっているみたいだ。「ダガーの影響で崇道雅緋が分身する。それはいい。だがその過程だ。多重人格者の崇道雅緋がタダで分身すると思うか? 姿形から性格まで、そのままの崇道雅緋として……或いはこう言ったほうがいいかもな……崇道雅緋の人格そのままを完全に保って分身すると、思うか? 思えるか?」
「んん? どういうこと?」ここで零以が唸る。「分裂したシリアルキラーさんは、別の人格を持ってるかもってこと?」
「一部だけ説明すればそうなる。全部説明すれば、分裂したものが持ってるのは人格だけじゃないかも。容姿も性格も別のものだって可能性もある」
「じゃあ別人格ごと分裂するってこと?」
「そういうことだ」
「ああ、うん、そういうことか」ディグロは納得した素振りを見せるがまだ咀嚼しきれていない部分があるのだとわかっている。「そこまではいいよ。だけど、俺が誰なのかってことと、それがどう関係するの?」
「アンタは崇道雅緋と面識がないと言ったな。だがヤツの方はアンタを狙ってる。それがどういうことかわかるか?」
「さっぱり」ディグロは顔をしかめる。俺もだ。ディグロが置かれている状況を把握し、彼の出自を推測する。それだけの簡単な話なのだが、俺がそうしようと思った動機を上手く言語化できないでいる。
考えろ。電話越しのアルファの言葉が脳裏に響く。
崇道雅緋は多重人格者だ。それも一緒になって響きやがる。
ディグロ・ウェルズは何者か?
考えろ。考えろ。言語化をしなければ伝えることはできない。俺がディグロに言いたいこと、問いたいこと。それを上手く言語化しなければならない。
なぜ俺はディグロに違和感を持った?
それは彼の口調や仕草が時折別人のそれになるレベルで豹変するからだ。
それと崇道雅緋との関係は?
そう、肝心な部分だ。
崇道雅緋は多重人格者である。
ディグロ・ウェルズにもその兆候があると俺は言いたいのだろうか?
いいや、違う。もっと単純だ。
崇道の動機について。
「久川家の人が勤務してるビルだから、俺も一緒に狙われたってことじゃないの?」
「それはそうかもしれないけど」俺が考えている横で、零以がディグロと推理の応酬を繰り広げている。「あなたが実際に清掃員だったかはまだわからないもん」
その言葉で、また新しい疑問が生まれるのを感じる。
久川家の人間全員を殺した上でビルを襲撃する必要はどこにあった?
「じゃあどうして、」とディグロが零以に詰め寄るところを、俺が割り入って止める。
「久川家の家族全員を家で殺したにも拘らずだ。何故わざわざ深夜に、久川家の人間が勤務していた会社があるビルを襲う必要がある?」
俺がディグロに伝えたいことを表現するには、まだ遠い。俺は考えながら続ける。
「この疑問が出てきたらどうなる? ああ、そうだな、「崇道がその会社に対して、何らかの因縁があったのか?」という疑問自体が揺らいでくる。真っ昼間でも良かったはずだ。商業ビルにしたって、会社があるのはビルの上方の階だろうし。人が少なくなる終業間際を選んでも良かったはずだ。なのに深夜を選んだ。勤務している人間がいない深夜にだ。既に久川家の人間全員を殺しているにも拘わらずだぞ。どういうわけだ?」
呆気にとられる二人のうち、零以が口を開く。「……ということは、どういうこと?」悩むディグロがそれに続く。「その会社には因縁がなかったってことになるの?」
「そうさ。目的は会社じゃない。ビルそのものでもないだろうな。だがどのビルでも良かったわけじゃない。崇道にはどうしてもあのビルじゃなきゃダメだった理由があるわけだ」
「そこで目的が会社ではなく清掃員になる……もっと飛躍すれば、その清掃員の中の、ディグロなんじゃないかってことになる?」零以の推測に俺が頷く。清掃員狙い。清掃員殺し。仮に崇道が、単に清掃員のみを殺す清掃員キラーだったとしても、ディグロを狙う理由は「殺し損ねた上に姿を見られたから」となる。筋は通る。はずだ。
「じゃあ十二箇所の傷はどうなるの?」
「下手すりゃ模倣犯の可能性だって視野に入れるハメになるかもな。だからこの際、ビルに関連した推測は切り離すことにしよう」ビルを調べるなんてのは外部の警察にやってもらう。そこに何かが見つかれば万々歳だが、俺達の知ったことじゃない。
「久川家の人間が勤務していた事実こそ消えないが、動機はそこじゃないし目的も違う。清掃員を殺し、アンタを殺したが生き返るせいで殺せなかった。だからこの街まで追ってきた。ビルが目当てなんじゃない。殺し損ねたアンタが目当てなんだ」
「話が見えないよ」ディグロは言う。当然だ。「殺し損ねたから負われる身になった」という、一見もっともに見えそうな推測は、俺が「ディグロ・ウェルズが何者なのか」という疑問を投げた理由にはなりえない。俺は崇道を単なる清掃員キラーだと考えた訳じゃない。あくまで課程としての思考だ。崇道とビルとディグロ。この三つの要素を一旦切り離さなければならなかっただけだ。
「これから見せてやるさ」全てを疑え全ての可能性を考えろ、アルファは言った。だから荒唐無稽であることを承知の上で俺は考えながら推理を続ける。
ハッ、推理か。
探偵気取りになるのは好きじゃないが、考える必要はある。アルファの言う通り、俺は今まさにその役目を担っているのだ。どうしようもあるまい。
拙い頭で考えた今この時点で、どうにか輪郭を掴んだ感触はしている。崇道の目的が最初からディグロだったということ。そして、崇道がディグロを狙っている理由。
これらがようやく説明できる気がする。
「アンタが崇道を知ってるかどうかは問題じゃない。崇道がアンタを知ってることが問題なんだ。ビルで殺し損ねたから狙われてるんじゃない。最初からアンタが目当てなんだ」
心を鬼にさせてもらう。色々質問しようじゃねえか。
「だから武器を買う道中で話してくれたアンタの身の上話について、詳しく訊くとするか」
零以に協力してもらう。「久川建人がインターネットでなにか情報を残してるか調べてくれない?」零以は「はいよ」と携帯を取り出す。「ディグロじゃなくて、久川建人でいいの?」「そうだよ」「オッケー」
俺はディグロに一歩詰め寄る。零以は逆に一歩下がる。
「まず一つ。インド出身だそうだが、インドで生まれた時の記憶はあるか」
「勿論。朧げにあるよ。ガンジス川で泳いだんだ」
「インドのどこで生まれた?」
「ニューデリーだ」
「ここまでどうやって来た?」
「それは、」ディグロは言葉を詰まらせる。その意味。質問の意図。それに答えかねているらしい。「日本に、ってことなのか、それとも君たちの家にってことなのか」
「広い意味で、かもな。日本にどの手段で来たのか。或いはどうやって俺達のところにやってきたのか。両方の意味を含んでいるってのもある。そもそもあのアパートは居住者関係者以外立入禁止だ」日本政府が日音を通じて出した通達ではあるが、全く機能していないことはもうわかりきってることだ。今更その点を問い詰めても意味はないか?
ディグロはしばし考え始める。質問の意図を得たとて、やはりどこから話すべきかは悩むところかだろうな。
切羽詰まっていたのはわかる。だが、何故俺達なのか……こればかりは運命とやらを恨むしかないらしい。或いは呪縛か。何かの呪いに二人まとめて縛られているのか。その縛っているものが、どうか赤色の糸であれば喜んで縛られたままでいられる。どうかそうあってほしい。
「日本には憧れてたんだ」ディグロが口を開く。「子供の頃からね。日本語学校に通って、いつか日本で暮らしたいと思ってた。それで働いて勉強して、ようやくここまでたどり着いた。ビルの清掃員をやりながらこの街の外のビルを眺めつつ暮らしてたんだよ? 今までね」
「……それで?」
「このアパートに来たのは……ただの偶然だよ、そう偶然なんだ……ここに来てあいつに殺されたとき、何も考えてなかった。頭の中に場所が思い浮かびさえすれば、そこに瞬間移動って感じで生き返ることができる。でもここは全く知らない。外から見ればここは、大通りの側面をズラッと高いビルが並ぶ光景が延々と続いてるようにしか見えないんだからね。こんなに道が入り組んでるだなんて思いもしなかった」
「だから殺されたあと、気づいたらこのアパートの近くに?」
「そう、蘇った」
「封筒も一緒に?」
「持ち物もそのままに蘇るから」
俺はあの朝、拳銃から弾を全て抜き取った。ディグロは崇道に対し撃って抵抗している。崇道に打ち込まれた銃弾ごと復活するということか。
「家があるなら住所まで教えてくれ……あと、ビルの清掃員と言ったな、入館証は持ってるか?」
「あの、」
「何もかもが妄想でない証明を頼むから今ここでしてくれ」
「質問攻めにするのはいい! だけどその理由をまず言ってくれよ」
「なら言う。ディグロ、アンタには疑いをかけてる。この俺がだ。疑いはこうだ、「ディグロ・ウェルズは崇道雅緋の別人格であり、分身であり、大元となった久川建人の別人格である」」
ディグロは反応できないらしい。荒唐無稽な俺の疑いを前に、どう返したものか迷っているのか。頭がイカレたのか。どうかしたんじゃないのか。そう言いたげだ。
「……そうかもしれないってことさ。俺がした質問に少しでも答えられるのならば、答えられるほどにその可能性は消える。だから答えろと言ってるんだ」
「待って。待ってよ。それってつまり、俺が「崇道雅緋から分裂した、崇道雅緋の別人格だ」って言ってるの?」
やけに察しがいいな。だが都合もいい。「そうなれば理屈は簡単につくだろ?」
「それは屁理屈でしかないだろ?」
「そうかもしれん。だが、飯を食ってる時に俺は話したよな……この街での言語の理屈についてだ……ディグロ、アンタは英語を話してた。リネーマーは言った。白い象。無用の長物。宝の持ち腐れ。アンタはこれらの意味を全部知ってるってことでいいか?」
「……俺がこの武器を持て余すことになるだろうってからかったんでしょ?」
零以が俺をつついて耳を貸せと合図をする。「インドの公用語にはヒンドゥー語と英語があるよ。だから多分、その質問は的外れっぽい」
「ありがとう。それは知ってる」
「試したんだね」
「そういうこと」
俺はディグロに向き直る。ディグロは……ディグロの目は泳いでいる。視線があちこちに飛んでいる。冷や汗でも流しそうだ。
だが、それならそれでいい。俺は続ける。
「まだある。『羅生門』のあらすじはどこで知ったんだ? インドで知った? それとも日本に来てから知った?」
「どこで知ったかは覚えてない」
覚えてない?
そもそもその点に疑念があるが、まだいいとして。
「じゃあ、平群との会話で引用した『こゝろ』は? 「向上心のないやつは馬鹿だ」って引用しようとした。あれは……作中の後半部分だ。全部読んでないと到底意味など理解できないだろうさ。さもなければ、アンタが日本語教育の中で教科書の部分だけを読んだか、だ」有名作だから、知ってても不思議はないのかもしれないが。
「日本に来て読んだよ。もともと読書が好きなんだ。日本語の勉強も兼ねて、『こゝろ』も読んだし『羅生門』も読んだ。引用したのはその場の空気に合わせたんだ。向こうがプリンスを引用したんだから、俺も引用して返してやろうと思ってね」ディグロはスラスラと言ってのけた。人は嘘を吐くときほど、その口調は……いいや、ディグロには当てはまらないかもしれない。震えたり震えなかったりと口調の揺れが激しいのに一般的な人間の動向を当てはめてもしょうがない。
「ならいいんだ」と俺は言う。
ならば少し試してみよう。
今度は俺が零以の方をつついて耳を貸せと合図をする。
「少し話でもしとくか」
「どうしたのいきなり」
ディグロに聞こえるほどの音量で俺は言う。「今ヒンディー語を話してる。零以は今からタミル語で話してくれ」
「わかった。今話してるのはタミル語だよ」
「俺はその会話に対してアッサム語で返してる」
「私は英語で返したよ、ホラ」
「うん、そうだな、サンスクリット語で話してるけどどうしたものか」
「グジャラート語で話してみたらどう? それか、何か質問してよ」
「ネパール語で質問してみるか。零以、今の調子はどう?」
「今はベンガル語な気分だけど、早く帰って蜂蜜食べたい」
「わかったよ、さっさと終わらせてとりあえず今日は帰ろうぜ。今のはウルドゥー語な」
「オッケーわかった。今のはヒンディー語だよ。インドの言葉で知ってるのはそれくらいかなぁ」
「ありがとう、愛してるよ、零以」
零以はかわいい笑顔を見せてくる。
ディグロは呆気にとられている。
「ねぇなに、その、ダンニャバード? とかメイン? タンヘ……ピヤカルタ? ってのは」
確定した。
ディグロ・ウェルズはインド出身じゃない。
インドの人間でもない。或いはカーストの名残を受けて、言語教育を受けられなかったか。日本語学校に通ってまでこうしてここにいるのならば、少なくともインドの言語事情くらいは知っていてもおかしくはないはずだが……?
「今の俺達の会話、わかったか?」
「えっと、「私は英語で返事をした」ぐらい? あとはわからな……、」
言葉が途切れた。自分でも気づいたらしい。「ちょっとまってよ、今のは」
「二十二程あるインドの指定言語のいくつかを抜粋して俺達は会話をした。最後に言ったのはヒンディー語で、」
「「ありがとう、愛しているぜ、愛しの零以」だってさ! あっなんか俳句っぽい!」カッコつけて俺の言葉を意訳しながら、嬉しそうに飛び跳ねる。五七五に無理やり合わせたんだろうけどそれもまた粋なもんだと思う。
「でも、俺は英語を話せてるだろ」
「ああ、そうだな、だが少しも訛りがない。インドに住んでたなら、英語にも訛りが出てくる」
「……どういう、仕組みなのさ?」
「石板に触ればいい。簡単だ。知ってる限りの言語を話そうと思えばその通りに話すことができるし、意識的にその機能を使わないようにだってできる。言ったろ、言語におけるベルリンの壁を崩したって。ドイツのは観光名所として一部が残ってるが、ここじゃ逆だ。壁は完全に崩れ去ったよ」
ディグロは何も言わない。目はまだ泳いでいる。温度の低そうな汗がディグロの顔を伝い落ちる。自分の正体がバレそうになって慄いているのか、あるいはアイデンティティが崩壊を始めている。
擁護とまでは言わないが、とりあえず補足もつけておこうか。ディグロが今ここで何をするかわからない。わからくなってきた。「混乱した人間ほど怖い者はない」と俺たちの顧客の一人が言ってたのを思い出す。
俺も零以も一歩だけ引き下がる。ディグロは銃が入った紙袋を持っているのだ。それも、メイカーお手製の特別なものを。
「……なぁ、インド出身とはいえ、生まれて間もなくアメリカに渡航したりすれば話は違ってくるかもしれないよな」
ディグロはまだ何も言うことなく震えている。
ひょっとすると、ディグロの殺意は、ただ単に身を潜めていただけなのかもしれない。牙を剥くべき時に備えていたのかも。声の震えの有無が関係していそうだが、そうなると俺たちに対して殺意を剥き出そうとしていたって話にもなり得る。「恐怖は人の背中を簡単に押す」……これは確か別の顧客の口癖だ。
「道中で聞いた限りだと、インドからやって来たって言ってたがどうだ?」我ながら馬鹿げた質問だとも思う。インドで生まれアメリカで過ごして、またインドに帰ってきてそれから日本に来たとでも? さぞかしインドでの言語生活は大変だったろうさ。二十二の言語だって指定言語に過ぎない。英語にだって訛りが出てくる。その英語はあくまでも準公用語で、公用語はやはりヒンディー語だ。
しかしディグロはヒンディー語を理解できなかった。
その事実は消えない。
と、ディグロが口を開く。唇の動きが覚束ない。
「確かに、俺は……僕は……今の言語を理解できなかった……どういうことなんだ、自分でもわからないよ」
震えた声に殺意を感じなかったのは、恐らく彼が本当に自分のことをインド出身のディグロ・ウェルズだと思いこんでいたからだ。涙声。彼は泣いている。「インドで過ごしてきた記憶は確かにある! 僕は確かにビルの清掃員で……いや、違う……違うんだ……わからなくなってきた……どうして……」
震えながら顔を押さえて座り込む。キャラのブレではなく、自身のアイデンティティのゆらぎが生じ始めているらしい。
「……僕は誰なんだ?」彼は遂にその言葉を口にした。
ここで俺がどう言葉を返すべきかで迷いが生じる。だが……今更どう言い繕うべきか。彼はすっかり自分を見失ってしまっている。いつか知ることになる事実ではあったかもしれないが。
「アンタは紛れもなくディグロ・ウェルズさ」俺は言い放つ。さっきとは真逆のことを平気で言う。「巷で噂の崇道雅緋でもなく、ディグロ・ウェルズだ。その事実は消えない。アンタの姿も声も話し方も、ディグロ・ウェルズのものだ。そして、アンタがインド出身の人間でないこともまた事実だ。それを証明する術はない。八方塞がりだよな。誰も何も、アンタの出自を解明できないんだ」
ただ、と俺は付け加える。
「一つだけ可能性がある」
「可能性……?」
「可能性っつーか、出自を考えるに当たっての手がかりみたいなとこだな……簡単さ、俺がさっきアンタを疑った内容と同じだ。アンタが崇道雅緋から分裂した別の人格だって可能性だ。あくまでも仮説だが。それで説明はつく」
「どうして?」
「その仮説こそが、崇道がアンタを狙う理由として考えられる唯一の動機だからだ」
「動機? 俺を殺し損ねたから狙ってきてるんだろ?」
「いいや? アンタを狙い始めたのがビル襲撃よりも前だって可能性はまだ否定されてない。否定する要素もない。要素があるなら言ってくれよ」
ディグロは黙ってしまう。「ビルを襲撃するのは目的じゃない。計画していたわけでもない。ただの結果だ。清掃員は殺されてしまったが、清掃員を殺すことが目的なわけじゃない。あくまでも狙いはディグロなんだよ。アンタを殺せるのならば、アンタがいるなら、どのビルだってよかったしビルである必要もなかったんだ」
「崇道雅緋が僕のことを知っていて、それでいて僕を殺そうとする理由は、僕が崇道雅緋の分身だから……?」
「そうだ、その通りだ」
「僕は崇道雅緋の別人格なのか?」
「そういうことになるな」もしくは、元々ナイフを持ち合わせていた久川建人の別人格。崇道雅緋と言う人格もまた同じように。
俺はまだ付け加える。「別に記憶がなくてもいい。世界が五分前にできたってムチャクチャな考え方があって、アンタの場合、崇道の場合、それがありえるわけだ。作られた記憶なのさ。アズライールの入手者である久川建人によって生成された記憶であり人格なんだよ。アンタは混乱しまくってるようだが……とりあえず言えるのはこうだ。崇道雅緋かもしくは久川建人の別人格だったんだ。インド出身で日本にやってきて清掃員やってるってのも全て久川建人が作り出した記憶。ぶっちゃけちまえば設定だ」
「でも、僕はこうして確かに存在している。存在して考えてる。自分の頭で」
「我思う故に我有りってか。今まで久川建人の頭の中でだけ存在していたお前のことだ。久川建人の中に何人の人格が存在していたかはわからんが、今まで一つの肉体を複数の人間で共有していた状態だった。それが分裂したことで、共有から解放されたんだ。頭の先から爪先まで、脳の隅から隅までディグロのものだ。だから勝手に考えることもできる。自分の居場所が狭い部屋だったとして、それが突然広い部屋に変わった。同居人もいない。当然、混乱するだろ? お前は今その状態なのさ」
どうして。ディグロが呟く。どうして。何度も。人格ごと肉体が分裂した理由がダガーによるものだと説明されても、まだ疑問は残る。
人格が分裂した理由。なぜ久川建人の中には複数の人格が?
「人格が分裂する要因はいろいろあるだろうさ。色んな事情があったんだろ」強烈なストレスか何かの類。人格を作り出し、そいつにストレスあるいはその原因を仮託する。
もしかすると、仮託されたそいつが崇道雅緋だって可能性もあるか。
「まぁ、それは割愛するとしてさ。それよりも深刻な疑問点がある。何故日本人である久川建人が日本人ではない人格を作り出したか。それに答えるぞ」
「もう、そんなことまでわかるの?」これについては簡単だ。零以から携帯を受け取る。「思った通りだったよ」と。「久川建人くんはSNSをやってたんだよ」
名前、性別、年齢、経歴、趣味等々書かれているプロフィールのページ。「久川建人って名前で検索しただけなら何人も出てきたけどね、みんな生年月日書いてあったから、それですぐにわかっちゃった」殺害時二六歳。プロフィールの年齢と同じだ。
そして最近の行動についても書いてある。こまめに日々投稿を続けていたらしい。ダガーナイフを買った旨の投稿はなかった。だが、最新の投稿のコメント欄に、複数人による追悼の意が込められているであろうメッセージが複数。本人で間違いなさそうだ。
顔写真の欄に貼り付けられた久川建人は、髪も短く随分と日焼けしていて、それでいて朗らかな表情を見せていた。
遺影にしてもいいくらいだ。
「旅行が趣味だったらしいぜ。世界各地を旅行して、写真撮ったり現地の人と仲良くなったりしてる」その投稿内容を画面に表示して、ディグロに見せる。「三年前にはインドに行ってたらしい」
インド……俺の言葉をかいつまんで復唱する。何度も。インドインドインド。
「で、そのまた五年ほど前にはホームステイまでしてる。アメリカでな」八年前の投稿を見つけ……貼付されている写真を見て俺はまた一つ確信する。
写真をまたディグロに見せる。
その写真を見たディグロは……また表情が歪む。そして自分の顔のあちこちを触る。
写っている人物の顔との造形を比べているらしい。その様子を伺いつつ、さらに遡って、ホームステイの投稿を詳しく調べる。
ビンゴだ。
「ディグロ・ウェルズ。アメリカでホームステイしたときのホストの名前だな。アンタの名前の由来がこれでわかった」インド人のディグロ・ウェルズか。記憶があちこちで混ぜ合わされて人格形成に至ったわけだ。
人格形成の時期はいつ頃だろうか。三年前に初めてインドに旅行したと久川建人は書いている。だからディグロという人格が生まれたのも、インド旅行以降のことになる。久川建人はその頃二十三歳か。随分と精神に過剰な負荷がかかるような出来事に見舞われたらしいな。
ディグロは座り込んでいた。何かをブツブツと呟いている。髪を全て後ろに撫でつけて押さえているバンドを爪でひっかいている。今コイツを襲っている混乱状態がいかほどなものか。俺にはわからないが、相当なパニック状態であることは確かだ。発狂寸前といってもおかしくないか。
ディグロ。俺は呼ぶ。全ての動作が止まり、顔がこちらを向く。
血走った眼が、俺を睨んでいる。
「アンタの出自がわかった今、する事は一つだ」
「わかるよ、俺を殺しに来る崇道雅緋を殺せばいいんだよね?」
「わかってるじゃねぇか」
「でも疑問はまだ残ってる」
「崇道がアンタを狙う理由か?」
「それもだ。だけど一番わからないのは、俺の記憶が作られた記憶だっていうなら、どの時点で俺はこうして肉体を手に入れた状態になったんだ」
「それも説明した方がいいか?」どの道こうして一から百までディグロに言ったところで推測の域を出ないのは確かだ。
それに、あとやることは、やはり崇道を殺すこと。殺させること。
それだけしかないなら、まぁいいかと言う気もしてくる。
「ふわあぁ」零以が欠伸をする。「いつまでこんなとこで井戸端会議やるの? もう帰ろうよ、もう少しで蜂蜜切れになる」
「そりゃ困る」崇道が如何にしてディグロを見つけだすのかも考えつつ、一旦ここは帰っておくべきか。「じゃあとりあえず、帰りながらその疑問について話すか」
俺たちは帰路に、
「おい」
着くはずだったが。
「ここにいたか」
思ったよりも嗅覚が鋭かったらしい。
「どうして死なない?」
それとも何か? 元の人格の持ち主が同じだからって理由で、惹かれ合っているとか、そういう類か?
「死ぬまで殺してやるからな」
シンクロニシティってのは、こういうのを指すのか?
「逃げられると思うな。絶対に殺す」
ディグロがどの時点で受肉を果たしたか?
ディグロを殺そうとする理由は何なのか?
答えが自分からやってきたようなものだ。
直接訊けばいい。
崇道雅緋。
アンタにな。
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