愛おしき彼女と愛らしい解放
絶対零度。温度にしておよそマイナス二七三。「とても冷たい」では済まされない温度である。その意味を含んでいるのか否かはわからないが、彼女の名前には「零」の漢字がある。「零」以上でも以下でもない。それが彼女の名前、零以である。
彼女の職業は解体屋。解体するのは建物ではない。死体だ。壊し屋とも呼ばれている。殺し屋ならぬ壊し屋。俺達が住むアパートには、数人の殺人犯と殺し屋と、一人の小説家が住んでいる。もちろん、大家は殺し屋である。普通の世界じゃこんな悪魔の巣窟みたいなところを、ただで置いておくわけがない。俺達が平穏な生活を過ごしていられるのは、実は彼女の存在あってこそなのである。政府のお墨付き。政府御用達。英国王室で言えば、彼女はナイトやデイムのような、何らかの称号をもらっている存在である。ただ、表沙汰にならないというだけの話だ。
ただし、あまり優遇はされない。彼女をはじめとする、このアパートの全住人の存在が明らかにならないことが「優遇されている」内に入るのは言うまでもないが。ボロアパートと称するとおり、このアパートは大層古い。
なんといっても、冷房が効かない。大問題である。
少しでも涼しくなりたかったので、結局アイスを二人で食べるなどして夏を過ごしたわけだが、その夏の終わり頃の話である。
葉月、という名の男がやってきた。姓か名かはわからない。ただ、いくら訊いても「葉月」としか答えない。
用件は、「私を消して欲しい」。
消す。「つまり?」と念を入れて訊く。「何を消すんだ?」
死んだ目をした彼は答える。「何もかも」
「つまり死にたいってことか?」
「そうじゃない」
「じゃあどういうことだよ」
「死にたいわけじゃない。存在そのものを消してほしいだけなんだ」
「透明人間をご所望ってか?」
「違う。透明になっても肉体は残るでしょ。肉体そのものを消してほしいんだよ」
と、このようにわけのわからない応酬が続いた。
「つまり、」と、ここで零以が口を開く。可愛い声をしている、と、俺はずっと思う。彼女が喋る、その間中ずっと。「幽霊になりたいってことかな、肉体を持たない存在になりたい、と」
「そうそう、そういうことだよ」
わけがわからん、と、もう一度思う。
「じゃあやっぱりまず死ぬ必要があるね」彼女が続ける。
「死にたくないよ」と、訳の分からない回答をする葉月。
「そうは言っても、肉体を失くすための儀式みたいなものなんだよ、死ぬってのは」
「……そうなの?」葉月は俺に確かめるように訊く。肉体を失くすための儀式。それが死である、と。正直、俺も初耳だし、彼女自身が死について語ったところはあまり聞いたことがない。死体を解体しているとはいえ、その辺りは何も考えていなかったりするのだろうか。そうだとしたら、彼女の発言はデタラメ、ということになるが。一度決めたらもう引っ込まない。それが彼女である。部屋の隅に置いてあるハンマーを持ってくる。
少々苦しいが、俺は彼女のデタラメに賛同する。「まあ、そういうことになるな」
「そう……」葉月が考え込む。そんな暇はない。今すぐ外に出るか風呂場へ行ってもらわないと困る。何が困るって、この部屋が葉月の破片で汚れることが困るのだ。彼女はここで殺すつもりなのだ。
彼女がハンマーを振り上げる。もう、俺の声は届かない。経験則から学んだ彼女の習性である。彼女は以前にも、このリビングで撲殺をやり遂げ、俺がその後始末をする羽目になった。彼女は嬉々と解体した。
「じゃあ、殺して」という咄嗟の返答。
その返答が終わった瞬間に、彼の頭は失くなった。
「はいよ」と、彼女が答える。口よりも先に体が動いている。彼女の返答は、もう届いていない。
「ここでやるなよ。ましてや俺の目の前で」脳味噌が顔に貼り付く。他人の脳味噌なので、尚更気持ち悪い。部屋の壁にも貼り付いている。嫌だ。また掃除をしなきゃいけないのか。
「しょうがないでしょ、今殺さないとまずかったんだよ」
「まずかった?」制限時間でも設けられていたのかよ。
「外見て」カーテンの隙間を指差すので、覗く。
数台の車が停まっている。黒服の男がゾロゾロと降りてくる。みんな、片手に両手に銃火器を持っている。
「この葉月って子のボディガードだよ」
ボディガード? ご冗談を。監督不行届で即刻クビだ。葉月は目の前で死んだ。
しかしどうしてこの量のボディガードの目を盗んでまで、わざわざここまで殺されに来たのだろう?
「多分、あの生活に辟易してたのかもね。常に見られる、常時監視状態の自由のない生活に」
とんだローマの休日だ。抑圧からの解放が肉体からの解放だとでも? そう教えた奴がいるなら、真の殺人者はそいつだ。
「とにかく、どうするんだよ」
「いつも通りだよ」
なるほどね。部屋の後始末よりも先に、ボディガードを始末しなければならないわけか。「死ぬボディガードの量は多いほうがいいなあ、沢山解体できるから」
「できるだけ逃がさず殺すさ。わかってる」逃げられて援軍を呼ばれたんじゃたまったもんじゃない。解体する死体が増えて彼女は喜ぶだろうが、俺は逆に人間を死体にしなければいけない。その労力たるや。
というわけで俺は武器を片手に外に出る。顔にはまだ葉月の脳味噌が貼り付いている。程よく恐怖を煽れそうな気はする。
ボディガード数人が俺の顔を見る。
しかし狼狽えはしなかった。
それどころか、「よくも葉月を!」と、同じような怒号がいくつも飛んできた。脳味噌だけで葉月と判断するのか。
気持ちが悪い。
ボディガードが武器を構える。
対して俺は、時間を操作する。
さて、何もかもが止まった心地よい空間を渡り歩きながら、ボディガードそれぞれの眉間に、銃弾を撃ち込む。淡々とした流れ作業である。動いているのは俺だけど。ライン生産方式で死体を大量生産。なにも面白くない。鬱に陥る奴の気持ちを少し理解する。これはつまらなすぎる。
全てのボディガードに銃弾を撃ち込もうとするも、弾が足りなくなったので、このまま取りに戻る。これを二回繰り返した後、時間を動かす。
すると俺に狙いを付ける前に次々とボディガードは倒れていく。
楽しいのはそこだけだ。
こういった感じで、葉月は死に、ボディガードも死んだ。
不気味だったのは、俺がこの後家に戻る際のことである。
「すごーい!」と、手を叩く音が聞こえた。
音の方を見ると、眼鏡を掛けたボサボサ頭の女が立っていて、かなり興奮した感じで俺を見ていた。一○五号室の住人。殺し屋でも殺人犯でもない。小説家である。
「……見てた……?」と、恐る恐る訊く。
「見てましたよ、凄いですよね! 一瞬で複数の人間を殺すなんて! どんな技を使ったんですか? 何か裏技があるんですか?」
答えるのが面倒なので、「タネも仕掛けもありませんよ」と、気取った返答をしてみる。
「流石ですね! ただただ尊敬するばかりですよ!」ここまで、その小説家はずっと手を叩き続けていた。なんというか。反応に困るタイプの人間だった。
「早速なんですけど、小説のネタにしてもいいですか!? あっ、もういっそのことその「倒し方そのもの」を全体の謎にして一本書いていいですか!?」と、興奮冷めやらぬ感じで矢継ぎ早に。
「……いいですよ」と答える。別に困らない。俺が殺し屋であることがバレても。「ああ、でも、彼女のことは、どうかご内密に」
「わかってますよ。このアパートはそのための場所ですからね」
小説家は俺の許可を得ると、そそくさと部屋に帰っていった。
現実で人を殺す俺達とは違い、彼女は虚構の中で、自らの頭の中で人を殺す。
人を殺していることだけに着目するなら、彼女も相当の数を殺しているに違いない。以前もらった彼女の作品を読んでしまっているので、尚更そう思ってしまうのだ。
そういう意味じゃ、このボロアパートには人殺ししか住んでいない。
常識的に考えれば、異常の中の異常である。
部屋に戻ろうとすると、逆に零以が部屋から出てきた。
「次の死体、まだ?」
もう解体したのか、と呆れながらも、俺はボディガードの死体群を指差す。
彼女は目を輝かせながら、その死体たちに駆け込んでいく。裸足で。
ハンマーを容易に振り回すほどの腕力があるので、死体を運ぶことは、彼女にとってそれほど苦痛ではない。
俺は部屋に戻る。飛び散って貼り付いた脳味噌を取り払って、綺麗に掃除しなければならないのだ。
掃除が終わるまで、何度か吐き気を催したが、吐くことはなかった。もうほぼ慣れているのだ。毒されているとも言える。
俺の掃除が終わると共に、彼女の解体も終了した。かなり興奮していたのか、いつもよりも解体スピードが速くてびっくりした。
「終わったね。楽しかった」と彼女。
「ああ、終わった。辛かった」と俺。
「疲れてる中申し訳ないんだけどさ……」と彼女が言うので、「アイス食べたい?」と俺が訊く。
「食べたい!」と、元気いっぱいに答える。かわいい。
そういうわけで、アイスを買い、アイスを食べて、八月は無事に終わった。
八月最後の日に葉月と名乗る男がやってきて最期を遂げた。
八月の最後に葉月の最期。
サイコである。
サイコでいて最高で。
隣でアイスを頬張る零以は最強にかわいいのである。
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