愛おしき彼女と愛のある慈悲

 捨て犬。というよりは、捨て子犬か。申し分程度のタオルを敷き詰められた段ボール箱に、その子犬は入っていた。小説や漫画でよくみる光景は、多分この状況に「雨」という要素が追加されていると思う。特に降ってはいない。どころか雲一つない。

 いくらここがスラム街とはいえ、捨て犬はいる。俺も時折見かける。彼女はいつもそういう捨て犬捨て猫を目一杯可愛がる。見つけた途端に可愛がる。だが、結局飼わない。俺達が住んでいるあのアパートは、やはりペットの飼育は禁止されている。「ちぇー」と、目一杯かわいがって満足した彼女が、「行こうよ」と、俺を促す。

 というか、ここがスラム街だからこそ、野良と化す犬や猫は多い。病気を運んでくるものも一定数存在していて、その場合は即殺処分である。しかし、そうした殺処分を専門にするような、いわゆる保健所の存在は、ここにはない。各々殺せ、ということらしい。その後の処理も含めて。

 だから、捨てられた動物を見ると、「いつか殺さねばならない」と思ってしまう。どんなに可愛くとも、そいつが病原菌の運び屋にならないとは限らないから。尤も、そういう存在に出くわせば、有無をいわさず殺しているのだろう。以前に、街で見かけて可愛がっていたことも、殺した後に思い出すのだ。


 買い物から帰って来た時、一○五号室の住民から、病気が流行っているらしいと聞いた。詳しい病名までは聞いていないものの、いろんな動物に見境なく感染するらしく、つまりそれは犬や猫なども媒介者と成りうる、ということである。できれば動物は殺したくないが、病気に罹るのは困るので、とりあえず、犬や猫は、見かけたら殺すことにした。多分、アパートの屋根にいつも留まっているカラスこと「クロウさん」も、殺処分対象なのだろう。人肉を貪るカラスという、ゾンビ映画から飛び出してきたような稀有な存在だが、よくよく考えてみれば、人の肉を貪っている時点で、あいつはいろんな病気の媒介者になっているのではないだろうか。だけどできれば殺したくないので、俺は恐る恐る屋根を見る。いない。ホッとした。とりあえずここしばらくは戻ってこないようにしてほしい。どこか別の場所で、凶弾に撃ち落とされないよう、羽を休めてもらいたい。肉を食えないのは我慢してくれ。

「というわけで、気をつけような」既に彼女は靴を脱いでリビングに寝転がっている。

「病気にはかからないよ、私は。だって、そういう体質だもん」

「わかってるよ、だからあの仕事に向いてるわけで」

 死体解体という彼女の仕事も、常人にとってはかなり危険だ。死体が生前、どれだけ健康体であったとしても、解体者は感染症の危険性からは免れない。素手で血液に触れるだけでも危ないというのに、彼女はこれまでにずっと、素手とハンマーとノコギリと、特注のミキサーを使って、主に風呂場で解体してきた(当然、俺は使っていない。あくまで彼女専用の仕事場であり、俺が体を洗うための場所ではない)。感染症の危険を、彼女は幾度もすり抜けてきたのだ。だから病気は俺だけが心配するべき問題なのだ。

「気をつけてって言ったのはね、不用意に、無邪気に、あまつさえ無意識に、動物に肉をやらないようにってことだよ。少なくとも、病気の流行が沈静化するまではね」

「ええ、あげちゃだめなの?」

「少なくとも、病気が流行らなくなるまで、の話だよ」

「うーん、わかってるけど」

 俺が「肉」と言ったのは、やっぱりそれが死体解体の際に飛び散った「欠片」であるからで、そういう意味じゃ、彼女は無意識に病原菌を媒介させている悪の存在であったりする。というか日常的に動物に人肉を与えるって、そういう発想がヤバい。

「というか、肉をあげてるのって、クロウさんだけじゃなかったんだね」

「私は食べられないから、皆に食べてほしくって」

「ちょっと何言ってるかわかんない」

「だから、施しなんだよ」

「施しなら、もうちょっとまともなもの食わせてやれよ。人の肉とか、どう考えても罰ゲームだろ?」

「嬉しそうに食べてるけどな」

 住んでいるアパートがあるこのスラム街には、狭い路地によく人間の死体が転がっている。腐臭がすれば、だいたいあるのは死体なのだが、稀にその死体をハイエナみたいに貪り食う動物がいたりする。犬を始め、猫やカラスもいる。人の味を覚えたそいつらは、鮫みたいに、血の匂いを覚えるらしい。だから一時期、死体のある場所にはいつも動物が肉を求めてやってきたりしていたし、血を流しただけでも、どこからかその匂いを嗅ぎつけて、まだ生きているのに襲いかかって喰おうとしたりする。俺もその状況に出くわしたことがあって、だけどその時には既に時間を操る能力を得るに至っていたので、間一髪、といったところ。もちろん、やってきた動物は殺した。残らず殺した。覚えてはいけない味を覚えた以上、悪趣味な連中は殺すしかないのだ。

 ラジオが病気の流行状況を報道した。所構わず感染しているらしい。しかし、感染経路自体は割とはっきりとしているらしく、どうやら媒介者も判明しているらしい。

 それこそ犬だった。先ほど彼女が可愛がっていた犬とは別のものだろうか。多分別物だろう。

 今のところ、死者は出ていないようだ。それほど深刻な病気というわけでもないらしい。

 


 昼に山ほど食料を買い込んだにもかかわらず、買い忘れがあった。彼女の大好物である蜂蜜である。一日に一回は、水飴のようにそれを口にしていて、時々禁断症状も起こす。彼女が起こす蜂蜜禁断症状は、俺にとってはとても愛らしく、毎回、発症するごとにカメラに映像を収めたくなるほどなのだが、この前は勢い余って壁を突き破りかけた。おかげで一○五号室の小説家に迷惑をかけるところだった(実際、既に迷惑をかけている。なお謝罪済み)ので、名残惜しくも、急いで蜂蜜を与えた。

 スーパーで蜂蜜を買い、急いで帰る。

 と、道を塞ぐように、犬が。昼の買い物の際に、彼女が可愛がっていた捨て犬だ。感染を広げた張本人というわけでもないが、一応、「見かけたら殺せ」との勧告だ。仕方ない。

 俺は時間を止める。

 そして銃で撃つ。弾丸は、銃口から飛び出した瞬間に止まる。止まった犬の方を向いて、そのまま止まる。

 急いでその場を離れ、アパートへ。

 俺は時間を動かす。

 多分、撃った銃弾も勢いを保って犬に到達し、犬は殺されているだろう。

 それとも、何かの偶然で、間一髪、犬は助かっているだろうか?

 敢えてその場を離れてから時間を動かしたのは、俺の中での可能性としての結果を、そういうふうにあやふやにしたかったからだ。シュレーディンガーの猫みたいな話である。俺があの場に戻るまで、犬が生きている状態と犬が死んでいる状態の二つが存在しているのだ。

 確かめるつもりはない。俺の中で、その二つが存在していればそれでいいのだ。

「ただいま」

「おかえり、早く蜂蜜ちょうだい! 死にそうなの、お願い」

 俺は蜂蜜を彼女にトス。受け取った彼女が蓋を開け、スプーンを突っ込み、蜂蜜を食べる。

 その際の至福な表情もまた、可愛い。愛らしい。

「犬とかに出くわしたりした?」と、落ち着きを取り戻した彼女が一言。

「一応会ったよ。昼間に可愛がってた犬だった」

「うわー、最悪だね、今まで見かけた中じゃ、結構可愛い方だったんだけどな」

「毎回それ言ってる気がする」

「で、殺したの?」

 彼女がシュレーディンガーの猫を理解してくれるかどうか。いや、理解はしてくれるだろうけど、俺がそういう状況を作り出した理由までを悟れるかどうか。悟れなければ、説明はするけど、その説明を、自分でうまくできるかまではわからない。不安だ。

「殺したよ、しっかりね」

「そっかー、残念。でもまあ、仕方ないね」落ち込みつつ、蜂蜜をもう一口。蜂蜜は昨日の時点で底をついていたので、禁断症状も寸前だったようだ。「クロウさん、大丈夫かな」

「カラスは頭良いからね。特に、クロウさんなんかはずば抜けて利口に見える。その辺りも察して何処かに隠れて潜んでそうだな」

「そうあってほしいな。またお肉あげるから」

 人肉をあげるという狂気。

 というかクロウさんそのものが、いよいよこのアパートのマスコットキャラクターになりつつある。俺たち以外の他の住人も、あのカラスの存在には気づいていて、彼女が名付けた「クロウさん」も定着しつつある。人肉を食べることには、誰も触れてない。触れたとしても、好意的に受け入れるだろう。少なくとも、そういう人間ばかりがここに住み着いているのだ。

 だから、当時こそ気持ち悪がっていた俺でさえも、今ではすっかりフレンドリー。

「ああ、あいつも、肉を待ち望んでるだろうさ」

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