第三節 異変


「さて……。ソニア、お前に話しておきたいことがある」

「? 先程のお話は……」

「翡翠の戦乙女ともあろう者が、あまりにも思い詰めていた様子だったのでな、許してくれ」

「っ! 殿下まで……」


 皇女は茶化すように微笑むと、一つ咳払いをしてから再度口を開く。


「話を戻そう……アトラ・ラクルス、という女を覚えているか? 以前は母上の侍女をしていた」

「アトラ……ラクルス……」


 皇女から告げられた名前を口にしてみる。だが、その名が記憶と結びつくことは無かった。外見の特徴も教えられたが、それでも思い当たる節はなかった。


 田舎に居た私には、王妃ソフィアと会う機会事態が数える程しかなかった。加えて、王妃の傍に仕えていた侍女がその女一人であるはずもない。幼い私には覚え切れるものではなかったはずだ。


「申し訳ございません。王妃様とお会いしたことも数える程しか……」

「いや、知らないならいいんだ。あまり表に出ることも無かったからな。知っている者の方が少ないだろう。私の方こそすまなかったな……」


 申し訳なく肩を落としていると、皇女から優しい声音が返ってくる。


 お互いにとって、王妃に関する話は、辛い記憶へと繋がっている。皇女シルヴィアにとっては実母の話になる。その苦しさは、私とは比べ物にならないはずだ。だというのにこうして話題に挙げている。わざわざこんな所で昔話に花を咲かせたい訳でもないだろう。そのことに関して、私は疑念を持ち始めた。


「あの、殿下……そのアトラという女性はいったい……」

「生きていた──」


 恐る恐る口を開くと、皇女の短い言葉が続きを遮った。


「この戦場に居る──」

「っ! まさか……そんな」


 皇女はそのままその侍女と再開した経緯を私に語った。この戦場に帝国兵として、彼女がいるという事実を──


 皇女の表情が険しくなる。それに釣られるようにして、心の中がざわめき始める。皇女の放ったその一言だけで、心臓が激しく脈打ち、様々な思考が脳内を駆け巡った。


 そのアトラという侍女が、王妃ソフィアのそばに居たのなら、十年前に王妃と共に死んでいるはずだ。だがこの事実は、私の中の片隅に押し込まれていたあらゆる事柄に次々と繋がっていく。


 十年前の生存者、帝国兵の元侍女、そして国王を暗殺した帝国──


 そもそも、国王暗殺に関しても不明な点はいくつかあった。その中でも一番の疑問は、隣国との交易も殆どなかったドラヴァニアに、だった。


 これ以上考えたくはなかった。だがその意思に反して、疑問の欠片が形を成していく。抜け出せたということは、その逆も可能なはずだ。帝国の暗殺者も、彼女が手引きしたと皇女は考えているのだろう。


「それで、私に何をお求めでしょうか? 我が主」


 返ってくる言葉は、おそらく聞くまでもないだろう。だがあえて、皇女の言葉を促した。


「生きて捕らえろ。私の前まで連れて来い」


 皇女は冷たく、それでいてどこか苦しそうな面持ちであったが、直ぐに柔らかい表情に戻った。


「私の期待に応えてくれるのだろう? 戦乙女ワルキューレ殿?」


 以前王妃の墓前で交わした言葉を思い出す。皇女はあの時と同様、凛々しい表情に小さな笑みを浮かべながら私を見つめている。


「はい! 必ず──っ!?」


 その言葉に答えようとした時、紅い地面が揺れ始めた。そして長い首が持ち上がり、灼竜が拠点を睨むように顔を上げる。


「どうした!? アグニクス──」

『グルル──』


 皇女の問いに答えるように、灼竜は鳴く。二人の間では会話となっているのだろうが、その内容は私には知ることは出来ない。


「……っ!!」


 灼竜へと身体を向けていた皇女は、弾かれるように、拠点に視線を向ける。その横顔は、今までに見た事がない表情だった。まるで、を見て驚愕しているようだった。


 皇女は押し黙ったまま、拠点へと鋭い視線を向けていた。


「……殿下? いったい──っ!」


 皇女に声をかけようとした時、拠点のある方向がなにやら騒がしくなっていた。視線を送れば、遠目からでも分かるほど、一部に人が集まり始めていた。


「アグニクス! お前は動くな!」

「あ! 殿下!?」


 皇女は言い終えるなり、灼竜の背から飛び降りていった。止める間もなくその姿は、一直線に人だかりへと向かって行った。


 こんなに切羽詰まったような行動を取る皇女は初めて見た。さっきの尋常ではない険しい表情から察するに、何らかの予期せぬ事態に陥っているのかもしれない。


『グルル──』

「……灼竜様?」


 灼竜が鳴くと同時に、登ってきた大翼が動く。灼竜に視線を向ければ、宝石のような瞳が私に向けられていた。私に皇女の後を追わせたいのかもしれない。

 その視線に無言で答え、大翼の下り坂を駆け下りて皇女の後を追い掛ける。


(……一体何が)


 少しでも早く追い付こうと、その足を速めれば速めるほど、胸のざわめきも大きくなっていった──

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