第八節 護るべき居場所
小鳥たちのさえずりが聞こえ始めた。窓の向こう側はようやく空が白み始め、穏やかな朝が訪れようとしている。
それよりも早く、俺は身支度を整えていた。姿見鏡の前に立ち、黒の軍服に袖を通した左腕を動かし違和感が無いか確認する。
「……よし」
左腕に向けていた視線を、鏡に映る変わり果てた自分自身へと向ける。
母から受け継いだ鮮やかな赤髪は赤黒く淀み、空色だった瞳の色は、輝きを失ったように陰っている。今や幼かった頃の自分を感じることすらできない。もし仮に、俺が【ユリウス・オルバ・ドラヴァニア】だと名乗ったとしても信じる者はいないだろう。
──
これは事実だ。変えることなどできない。今、目の前に映るこの姿がそれを証明している。それでも、俺が前に進むためには
ひとつ静かに息を吐き、部屋の扉へと向かい手を掛けたその時、ピタリとその動きが止まった。この扉を開ければ、もう止まることは許されない。それは理解している。だが、その後はどうなるのかと、ふと考えてしまった。
このまま西の戦場へ向かい、戦いの隙に乗じてフレイアと共に王国領へと潜入する計画を立てた。運良く戦死として扱われれば良し、そうでなければ脱走兵だ。そうなれば二度と、この場所に戻ることは叶わないだろう。
「……覚悟の上だ」
そう自分に言い聞かせるように呟き、静かにその一歩を踏み出した──
✱✱✱
自分の無力さから目をそらす為に、この場所から飛び出した。どうにもならないと分かっていても、あの優しさは若過ぎた俺には耐えられなかったから──
自分の非力さを誤魔化す為に軍に入った。力があれば、もう誰かを失わずに済む。そして願わくば、あの女への復讐をと、果たせるかも分からない願望を抱きながら、俺は軍服に袖を通した──
そして過去と向き合うため、
「ヴァーリ様……」
古城の城門前で、二頭の馬を引き連れたフレイアが待ち構えていた。先んじて出発の準備を整えてくれていたのだ。馬の背には装備が一式揃っている。
フレイアから
「……行こう」
「待て──」
背後から、渋くよく通る声が俺を呼び止めた。振り向かずとも分かる。領主ガエル・クライスベルだ。その足音は、すぐ近くまで来て立ち止まった。
「行くのか……」
「──はい」
俯いたまま返事を返すと、短い会話はすぐに途切れてしまう。もとから何も言わずに出ていくつもりだった。その為に夜明け前から準備していたというのに、言葉なんて用意しているわけもない。
いつもよりも長く感じるこの静寂は、領主の諦めにも似た、何かを吐き出すようなため息で打ち消された。
「戦いが終わったら……いや、全て終わったら帰って来い」
「……っ!」
予想外の言葉に驚き、思わず振り返ってしまう。その視線の先には、いつもと同じ厳しい表情があった。
「お前には、覚えてもらわなければならない事が山ほどある。その為に
そして一つ間を置いて、領主は真っ直ぐに俺を見据えた。
「此処はお前の帰る場所だ。お前の居場所は此処にある」
「……」
予想もしていなかった言葉だった。顔色一つ変えずに贈られたその言葉に、どれだけの思いが込められているのか、今の俺にはその全てを理解する事は出来そうにない。
(全く……今まで何をしていたんだろうな、俺は──)
酷く自分が情けなく思えてしまう。今までの俺は、周囲の優しさに甘え好き放題振る舞う子供そのものだ。そんな事にすら気が付くことができなかった俺を、今尚こうして支えようとしてくれている。
俺は恵まれている──
あの時、死んでいてもおかしくはなかったはずだ。だが、俺はこうして生きている。こんな俺を守り、支えてくれる人が居る。これでも恵まれていないと、一体誰が言えるだろう。
「……」
何か言わないと、そう思えば思うほど上手く言葉が出て来ない。必死に頭を巡らせていると、視界の隅から朝日が顔を出しはじめた。留まっていられる時間はあまり残されていないようだ。
ひとつ大きく深呼吸をする。難しい言葉は必要無い。出発を彩る言葉はいつも簡単だ──
「……行ってきます」
一言、ただ一言をしっかりと言い放ち背を向けて馬を引き始める。領主の返事は無かった。その代わりに俺達が城門を抜けるまで彼の視線が途切れることは無かった。
✱✱✱
ドーラ森林東部
戦線へ復帰する為に、馬にまたがり来た道を戻っていく。
「全て終わったら、か……」
「ヴァーリ様、どうなさいますか?」
領主の言葉が、不意に口から漏れ出した。その言葉に並走していたフレイアが反応する。
領主の思う全てと、これから俺がやろうとしている事の全ては、おそらく一致はしない。だがそれでも、領主はわざわざ言い直したのだ。すぐには帰らないというのは察していたのだろう。そう考えると、本当にあの人は凄い人だと思わずにはいられない。
何気なく振り返ろうとしていた身体を途中で止め、目の前にそびえるガレオ大渓谷の赤壁を見上げる。
「やるべき事に変わりはないよ。ただ……」
もし、あの人が何もかもお見通してあったなら、俺の心の不安も見透かされていたに違いない。であれば、背中を推してくれたと解釈しよう。その上で、今の俺があの人たちの為に出来ることをやるだけだ。
「やるべき事が増えただけだ」
赤壁を見上げたまま言い放つ。
「……あの場所を守る」
それが、あの人たちの為にできる数少ない恩返しの形だ。
「……ヴァーリ様」
「ん?」
フレイアに呼ばれ顔を向けると、優しい頬笑みを浮かべた彼女がいた。滅多に見せない表情に戸惑っていると、フレイアが口を開いた。
「ようやく、良いお顔になられましたね」
そう言いながらフレイアは、何かを懐かしむように俺を見つめていた。今まで苦労ばかりかけてきたせいで、こんな表情も出来ることを忘れていた。
「悪いけど、もう少しだけ付き合ってほしい」
「はい。御身のあるところが、私の居場所でございます。必ず……必ずお守り致します」
俺の言葉にすぐさま返すフレイアは、いつもの鋭さの宿る表情に戻っていた。だがその表情も、今までのような冷たさは感じなかった。信念のこもった力強い表情だった。
(ようやくか──)
命からがら国から逃げ延びて十年と少し、ようやく前に進むための一歩を踏み出せたような気がする。
「……少し急ごう」
「はい──」
そう言って馬の速度を上げる。蹄が地を蹴る音も、身体が風を切る音も、心無しか力強く聞こえてきた。
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