第五節 帰郷
桜華の候 五十七日目 ドーラ森林東部
任務を受けたあの日から八日が経過。俺はフレイアと共に、任務を果たすためにクライスベル平原を目指していた。
現在位置はドーラ森林。王国に侵攻されているベルネ丘陵地と、ガレオ大渓谷を抜けた先にある緑豊かな森林地帯。若い緑の隙間からこぼれる陽の光と涼やかな風に包まれながら、この先にある目的地へと進んでいる。
視界は緑葉の天井に包まれ、二頭の馬の蹄の音と鳥のさえずり、木々を優しく揺らす風の音が耳に心地よい。戦いの色はどこにも見当たらない平和そのもの。先日までの出来事が、まるで別の世界での話だったのではないかと疑ってしまう程だ。
「ヴァーリ様──」
周囲の緑に気を取られている間に、先頭に立っていたフレイアが、馬の速度を落として横に並びながら、声をかけてきた。
「傷の具合は……痛むようでしたら、ここで少し休憩を──」
そう言って、藤色の瞳が俺の左腕へと向けられる。
「問題ないよ、先を急ごう──」
いくら傷を負っているといっても、俺達は任務中なのだ。そうのんびりもしていられない。こうしている間にも、味方の兵士達は背後にそびえる大渓谷の岩壁の向こうで戦っているのだ。
痛みに耐えながら馬を進ませる。次第に森の先から光が見え始め、次第に大きくなり俺たち二人を迎え入れていく。
「……久しぶりだな──」
光が穏やかになり、目の前に広大な敷地が広がっていた。
クライスベル平原──緑色の絨毯のように草木が生い茂る。その殆どは放牧地や田畑となっており、この田畑からさらに東へ行くと民家が建ち並んでいる。この場所だけは帝都周辺よりも時間がゆっくりと流れているような、何の変哲もない田舎の集落。
その中を道なりに進んでいくと、石造りの古い城のような建造物が視界に現れてくる。クライスベル平原を治める領主の住む古城だ。この古城が、今回の目的地となる。
俺の養父である領主は、世間からは変人扱いされている。軍からの要請にも、首を縦に振ることは滅多にない。その為、今回の任務に俺が選ばれたのだ。養子であれクライスベルの名を持つ身内だ。少しは聞く耳を持つだろうと、ルナリス准将は考えているらしい。
「……」
次第に大きくなっていく古城を眺めていると、三年前の事を思い出す。
あの古城から、半ば逃げる様にして立ち去ったこと、それに異を唱えることも無かった領主の後ろ姿。送り出してくれた使用人達。彼らのことを思い出すと、後ろめたい気持ちで胸の中がいっぱいになっていく。帰省という形になるが、その心持ちは暗く重たい。
その感情に反して、馬はその歩みを止めることなく、速足で古城へと向かって行った。
✱✱✱
「「「お帰りなさいませ、ヴァーリ様──」」」
馬から降りて古城の城門をくぐると、石畳の通路の両脇に整列した使用人達が総出で出迎えていた。
「なんで……」
ここに来る事は伝えていないはずなのに、こうも都合よく出迎えができるわけが無いと、動揺しつつも思考を巡らせていたが、横からフレイアが顔を出してくる。
「私が出発前に事前に報せを送りました。その方が都合がよろしいかと……」
いつもの如く手際が良い。これなら任務の話も手早く済む事だろう。
フレイアの言葉に少しばかり安堵していると、出迎えの列から一人の使用人が近づいてくる。領主に仕える使用人達を束ねる、白髪白髭の執事長だ。
「ヴァーリ様。旦那様がお待ちです──」
柔らかな表情を浮べながら、しわがれた声で執事長がそう告げる。
「分かった──」
短く答えて、馬の手網を執事長に渡して城へと向かって行く。
✱✱✱
「……」
領主執務室の扉の前で立ち尽くしてしまっている。きっとあの時と同じく、扉偽を向けるようにして窓の向こうを眺めているに違いない。その後ろ姿にどうやって声をかけていけば良いのか思い浮かばない。扉に手をかけようと手を伸ばすが、途中で止まってしまっている。
「ヴァーリか?──」
「っ!?──」
落ち着き払った男の声が、扉の向こうから俺の名前を呼んだ。
「入れ──」
短くそう告げて、その後は何も聞こえてはこなかったが、早く入れと言う事だろう。
「失礼します──」
呼吸を整えて、扉に手をかけてゆっくりと開けて中に入る。広い空間の中に置かれた質素な作りの家具と、壁一面を埋めるように並ぶ本棚の列。その部屋の一角にある大きな窓から外を眺めている男が、俺に背を向けるように立っていた。
ガエル・クライスベル──十年前、死にかけていた俺を助けてくれた命の恩人にして養父であり、この広大な平原をたった一人で統治する領主。いつも厳しい表情を崩さない寡黙な人物だ。
「報せは読んだ──」
俺に背を向けているのにも関わらず、よく通る渋い声がそう告げる。
「ここが、戦場になるのか……」
いつもと変わらない口調で、領主は続けて口にする。フレイアが事前に送った報せにどこまで書かれていたのかは分からないが、俺達がここに来た理由は、おおよそ把握しているらしい。
現在大渓谷の向こう側で展開されているドラヴァニア王国との交戦。劣勢を強いられている帝国軍は、このクライスベル平原に最終防衛線を構築し王国軍を迎え撃つ計画を進めている。その為に、この地にいる領民達を東へ避難させるよう領主に要請するのが俺に与えられた任務の内容だ。
「……はい。少なくとも、現司令官はその考えで動いています──」
領主の言葉に返事を返しながら、居た堪れない気持ちになり下を向いてしまう。
「二十日だ──」
「え……」
下を向いていた俺に、領主の言葉が飛んでくる。顔を上げれば、厳しい表情を浮かべた領主が振り向いて俺を見ていた。唐突に告げられた数字に、少しばかり困惑している俺に構うことなく、領主は口を動かし始める。
「ここに居るのは領民だけではない。数多くの食糧も保管してある。これを放棄するのは、帝国にとっては大きな痛手となるだろう。これら全ての食糧、領民達を安全な場所まで避難させるためには、最低でも二十日は必要だ」
領主は淡々と告げる。
確かに彼の言う通りだ。クライスベル平原は、帝国の食糧生産を一手に担っている場所だ。ここを奪われ、食糧まで失っては他の戦線にも影響が及ぶのは明白だ。だがひとつ疑問が浮かんでくる。この平原は広大だ。避難に必要な日数が二十日では少なすぎるのではないかと思っていると、領主が再び口を開いた。
「他方に
流石と言う他ない見事な読みだ。本来ならばその倍以上の日数がかかってもおかしくはない。
「猶予はどのくらいある?」
先程と変わらない口調で、再度領主が口を開く。
「二十日なら、なんとか持ちこたえてくれるはずです」
「……だが急ぐに越したことはないな。避難の準備を急がせよう」
俺の言葉を聞いた領主はすぐさま答えを出し、顎に手を当て考え始める。この男なら、この僅かな時間の中でも最善の手段を導き出すことだろう。そもそも、この思慮深さのおかげで残り二十日での行動が可能なのだ。全くもって感心するしかない。
「俺も手伝います──」
俺にも何か出来るはずだと考えながら一歩前に出るが、領主が掌をこちらに向けて静止させる。
「人手は足りている。お前は腕を治すことに専念するといい。いつまでもそのままでは、フレイアも心配するだろう」
「ですが──」
「負傷した軍人を見ても、誰も安心などしないだろう? 今は、お前にできる最善を尽くせ」
食い下がろうとしたが、すぐに帰ってきた領主の言葉に止められてしまう。
確かに彼の言う通りだ。今の姿では民の不安を煽るだけ、片腕では大きな荷を運ぶことすらままならない。ここへ来ても、殆ど何も出来ていない。
その事実が身体に重くのしかかり、上げていた顔が再び下を向いてしまう。
静まり返る部屋の中で、鈴の音が鳴り響く。領主が使用人を呼ぶ時に使う鈴の音だ。その音の直後、俺の背後にあった扉がゆっくりと開いた。
「医者を呼んでくれ。それと、ヴァーリを部屋へ──」
「かしこまりました──」
入ってきたのは、白髪白髭の執事長だった。執事長は俺を部屋の外へと促し、部屋へと案内するために俺の前を歩き始める。
「ヴァーリ様。あまり気を落とさないでくださいませ。旦那様はヴァーリ様の事を心配なさって……」
足取りの重い俺を気遣ってか、執事長が穏やかな口調で俺に声を掛けてきた。
執事長の言いたいことが分からない訳ではない。領主である彼が、俺のことを気にかけてくているのは理解している。彼は誰よりも人の為に尽くしている人情味ある人だ。でなければ、俺はここには居なかっただろう。
「あぁ。分かってる……分かってるよ──」
俺は恵まれている──
俺のことを気にかけてくれる人がこんなにも沢山いてくれる。全て失った俺を助け、育て、名前まで与えてくれた。こんなにも人の輪に、出会いに恵まれることなどそうは無いだろう。だがそれでも、俺の足取りは重たいままだ。
この場所がどんなに優しさに溢れていたとしても、此処に俺の居場所はどこにも無いのだから──
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