第三節 嫌う名前
「では、失礼します。リール技官、改修作業も滞りなくお願いします──」
それだけ言い残して、ルナリスは木箱の森の向こうへと消えていった。
三人だけ残された空間は、誰一人言葉を発することなく一気に静まり返る。未だ彼女の放った冷たい空気が漂っているかのように、冷たく静まり返っている。
「全く、アイツは……」
その空気を振り払うように、呆れたようなため息を吐きながらマティスは頭を抱えながら呟いた。
「リーゲン女史、悪かったな……怪我してないか?」
「はい、問題ありません。それに技官が謝罪する事ではないかと」
「え、あぁ……まぁそうなんだが……」
申し訳ないとでも言うような表情でフレイアに声を掛けるが、フレイアの返答に対してどうにも端切れが悪い。実際彼に非は無いのだ。それどころか被害者でもある。それなのに、どうにも彼女を庇っているようにも見受けられる。
「なぁ、マティス。さっきのやつなんだが──」
「ん? あぁ、あれか──」
彼女の見せた行動の中で、気になる事が二つできた。それをマティスに聞こうと声をかけたが、この内容では伝わらないだろうと言い直そうとしていたが、即座にマティスが口を開いた。
「アレは【性質付与】だ。魔導機工学の中でも精密さを要する分野だよ。物質を浮かせる、動かす事ができる。もちろんその分負荷も大きいし、扱うのにも技術が必要だ。訓練次第でどうにかなるが、より精密な操作のできる人材は貴重だ」
疑問の一つは、マティスがすぐに答えてくれた。あの浮かぶナイフの真相は、彼女の扱う技術によるものらしい。
「私からもお聞きしたい。准将が何故、自身の名を呼ばれることを嫌うのか。技官は准将と親しげな印象でしたが、何かご存知でしょうか? 差し支えなければ教えていただきたいのですが──」
俺の聞きたかったもう一つの疑問を、フレイアが代わりにマティスへ問い掛ける。フレイアが二度同じ事を繰り返すとは思えないが、刃物を突きつけられたのは彼女自身だ。理由を聞きたくなるのは当然だろう。
「ん? あーまぁ、ちょっとした知り合いだよ。それだけだ──」
マティスは寝癖のついた茶髪を掻きむしる。言葉に困ると彼はこうして頭を搔く。この話は彼にとってあまり触れてほしくない事柄のようだ。だが、マティスは言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いていく。
「アイツの家、ボナパルト家は帝都でも名のある軍閥の家系だった。だがアイツの親父さんが軍規違反を犯しちまってな……瞬く間に没落しちまったのさ──」
「……軍規違反?」
彼の言葉に思わず聞き返してしまうが、彼は構わず言葉を続ける。
「仲間殺しだよ──」
その言葉で、この場の空気が一瞬にして重みを増した。
湿った空気が肌を撫でる音も、靴底が地面を擦る音すら不快なものへと姿を変えて、俺の肩に重たくのしかかる。
「大規模演習の最中、突然錯乱して銃を乱射したらしい。親父さんはその場で射殺されたそうだ。当主の失態によりボナパルト家は一気に落ちぶれていった訳だ」
マティスは一度言葉を区切り、近くにあった木箱へ腰をおろして深々と息を吐く。これまでの作業の疲労のためか、その息はとても重たく見えた。
「この国じゃよくある話だ。築き上げてきた財力、権力、その全てが一瞬にして失われる。気が付いた時には奈落のどん底だ。アイツの場合は、それが他の奴よりも大きかっただけの事さ……」
言い終えると、マティスは再び重たい息を吐き捨てる。機械の事となると、年甲斐もなく子供のような振る舞いを見せるのが、マティス・リールという男のはずなのだが、今は見る影もなくひどく疲れた表情を浮かべている。
「それよりもだ、ヴァーリ。アイツを待たせるとあとが怖い。行くなら早い方がいいぞ」
これ以上語ることは無いのか、あるいは語りたくはないのだろう。ふと思い出したように顔を上げたマティスは、俺を見ながら話題を変えた。
彼の言うアイツが、誰の事を指しているのかは言うまでもなく、西方軍司令官ルナリスの事だろう。このあと俺は任務を言い渡されることになっている。彼女のことをよく知る彼の助言なら、素直に聞いておいた方が良いのは考えるまでもなかった。
「あぁ、そうだな……そうさせてもらうよ。お前も、あまり根を詰め過ぎるなよ?」
マティスの話題に答え、天幕の出入り口に向けて歩き出す。これに合わせるようにフレイアも後ろをついて歩く。歩きながら、一応忠告はしてみるが、これを素直に受け取る男ではない。魔導機工学が絡めば、三度の飯よりも機械いじりを優先させるだろう。案の定、適当に手を振りながら応えるマティスの横を通り過ぎる。
「ヴァーリ──」
マティスの横を通り過ぎた直後、マティスから声がかけられ足を止める。
「お前も、一応は気を付けておけよ? 周りの目には、もう少し気を配った方がいい。でないと地獄を見る羽目になる……」
この国ではよくあることであると言っても、自分の知人がそんな目にあうのは気持ちの良いものではないのだろう。マティスがいつになく真剣な口調で俺に忠告してくる。
俺は少しだけ振り返り、マティスの方へ顔を向ける。視界の隅に、彼の背中がかろうじて映る。
「大丈夫だよ。フレイアもいるし、そんなに心配することは無いさ。それに──」
最後の一言は誰に聞かせるでもない独り言のように呟いて、木箱の森へと再び歩き始める。
「地獄ならもう見たよ──」
最後の言葉は、きっと彼には聞こえていない。後ろにいるフレイアですから聞き漏らしているかもしれない。そのまま来た道を戻り、入ってきた出入口から天幕を抜け出していく。
そのわずか数十秒の中で、ある記憶が脳裏に蘇る。炎の海に呑まれ、徐々に崩れ落ちていく屋敷をただ呆然と眺めるしかなかった過去の光景。俺から全てを奪い去った地獄の炎が、衰えることなく心の中で揺らめいていた。
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