<3> 水曜日
遠雷が台所で朝昼兼用の食事を作っていると、玄関の方で物音がした。続いて翡翠の声がする。今日は午前中の授業が休講になったと言って、のんびりとタフタの散歩に出ていたのが帰ってきたのだ。翡翠は一度遠雷のところへ顔を出し、戸棚から犬のおやつを取り出しながら、朝ごはんなに、と遠雷に訊ねた。パエリアもどき、と答えてから、野菜のオムレツ作ったら食べるか、と訊くと、食べるー、と言いながら姿を消した。遠雷が冷蔵庫から卵を取り出していると、家に上がったタフタが廊下を歩く足音と首輪の飾りが揺れる音が聞こえた。
テーブルに皿を並べていると、遠雷の視界の端におもちゃの鳥が飛び込んできた。ゴム動力で羽ばたく、うみねこかカモメか判別のつかない鳥の模型だ。普段は居間のキャビネットの上に吊るして飾ってある。それを外して翡翠が遠雷に飛ばしたのだ。
「人に向かって飛ばさない」
羽ばたきが鈍くなり落ちる前にそれを受け止めながら言ったが、笑ってしまった。翡翠を見ると、同じように笑ってる。
「はたきがけしてるのに、なんか埃が溜まってる」
そういわれて遠雷は模型を顔に近づけて眺めた。確かに胴体に渡したゴムと軸の隙間にうっすらと埃が溜まっている。
「綿棒で掃除しよう」
翡翠はそう言って近づくと、遠雷から模型を取り上げた。彼はそれを一瞥して、また皿に向かう。
模型はここへ来てから遠雷が組み立てた。買った翡翠が羽の部分を上手く組み立てられず途中で放り出してあったのを、見つけて完成させたのだ。簡単な組み立てだったが、不器用な翡翠にはできなかったらしい。この鳥は遠雷が翡翠と初めて会った場所、晴れの海と雨の海を見渡す土産物屋のあちこちで売られているありふれた製品だ。つまり翡翠は遠雷がブリアルドス市にやって来るまで一年近くも、中途半端に手をつけたまま放ったらかしていたことになる。綿棒を取り出した翡翠は、望遠鏡の前の床に座って鳥の模型を目の高さに持ち上げている。遠雷はそれを眺めて、思い出した。
遠雷が翡翠に初めて会ったのは三年近く前だ。もっとも、お互いに正確なことは覚えていない。場所はブリアルドスから遥か千キロ近く離れたコノン市だった。ふたつの海に挟まれた陸地には月最大のアペニン山脈がある。他にもブラッドリー山やコノン谷を抱える起伏に富んだこの土地は、月の中でも有数の観光地だ。あの時、遠雷は晴れの海を見下ろす位置に建つ宿泊所で働いていた。ホテルなんて上等な施設ではなく、学生や団体客向けの、館内は広いが最低限のサービスをするだけの安宿だった。遠雷の仕事は要するに下働きで、館内と客室の掃除、客の送迎に荷物の運搬(発注は上の人間の仕事だ)、食器の出し入れや食堂での給仕に時には簡単な調理の手伝いなど、人手が必要なことならなんでもやった。
晴れた日には宿からアペニン山脈と晴れの海、そしてハドリー・デルタ山を臨むことできた。そしてハドリー・デルタ山の中腹にある、公立の天体観測所も。遠雷は行ったことがないが、小高い丘にぽつんと円筒型の建物が建っていて、日によって屋根が開閉し、そこから巨大な望遠鏡が覗いていることも知っていた。
遠雷がそこで働き始めたのは翡翠に会うよりさらに一年前、通りに雪が残る季節だった。
そこに決めた理由はなにもなかった。ただこの土地を離れたくなかったのと、住み込みで雇ってくれたからだ。保証人もなく身元もどこかあやふやな遠雷は、そこにもぐりこめて幸運だと思ったし、とにかく真面目に働いていた。苦労することも大してなかった。給料は多くはなかったけれど部屋はある。金は使うところはあまりなく、必要なものを買っても少し余った。月の通貨は使ってしまわないと減価していく。それがどういうことなのか最初は実感できず、慣れるまで紙幣を持ち越してしまい、買い物するのに余計に支払ったりした。それでもとにかく暮らしていけた。
学生の団体が春、夏、冬と訪れるのにも気づいていた。彼らの目的は様々で、山の場合もあれば海のこともあった。大勢で遊びまわっているだけの団体もいれば、会議室で講義を行う団体もいた。遠雷はその会議室(という名前がついてるだけのだだ広い部屋だ)に椅子や机を運んだりしたので気がついた。それ以外にも宿泊所には晴れの海の臨める広い裏庭がある。そこは申し込みを受けた宿泊客のために解放されていた。
庭を使う目的はほぼ全て自炊で、つまりバーベキューをしたり焚き火をしたりするのに使われる。宿ではもちろんそのための道具を貸出していて、それを運ぶのも注文を受けた食材を運ぶのも遠雷の仕事だった。だから学生たちと顔見知りになったし、遠雷はもともと愛想の悪いほうではないので、軽い世間話をすることも多かった。
けれど学生たちにとってはあくまで合宿で休暇だ。長くてもせいぜい一週間で去っていくし、数も多い。遠雷はその場では愛想よく受け答えしていても、すぐに彼らのことを忘れてしまった。翡翠が参加している研修会のグループも、そんな団体のひとつでしかなかった。後から考えると犬を連れている一団があったのは覚えている。でも動物連れは決して珍しくなかったし、翡翠の初めて参加した夏の課外演習(翡翠はそう言った)の時も、その冬の短期合宿の時も、顔くらい合わせているのだろうがお互いに全然覚えていない。
それでも彼らが来るようになって二年目には、遠雷は自分に話し掛けてくる二三人の女子学生の顔くらいは見れば思い出せるようになっていた。滞在予定は五日間で、夏のハイシーズンで宿は混雑していた。遠雷はいつものように忙しく働いて、顔見知りになった彼女たちを連絡役に、食事の時間や出入りする時間を調整していた。その二日目のことだ。
宿から出払っていた学生たちが、日が沈みかける頃に戻ってきた。まだ海を見通せる明るさが残っていて、宿の窓から海上に低く黒く雨雲が垂れ込めているのが見えた。同時に、遠くに雷の音を聞く。天気予報では雨の確立はとても低かったが、ひょっとするとあの雨雲が上陸するかもしれない、と遠雷を始め宿の従業員は考えていた。庭を使う予定が三組ほどあったが、雨が降ったら使えない。代わりに広間や部屋を提供することはできるので、どうするか聞こうと遠雷は、学生の姿を探した。そのわずかの間に、さらに雲行きは怪しくなり、急速に日が翳ってきた。入り口の玄関から少し離れた廊下の脇に、顧問を含めた三人の学生たちが立ってなにやら話し込んでいる。それを見つけるのと同時に、透明な扉の向こうで雨が降り出したが見えた。
遠雷は空模様はそれほど気にしていなかった。庭に出してある道具を片付ければそれで済む。それを告げようと彼らに近づいて、全員の表情がどこか深刻なのに気がついた。
「失礼ですけど」
と、遠雷は声をかけた。彼らがいっせいに遠雷を振り向く。
「雨が降ってきたので、庭は諦めたほうがいいかも。代わりに部屋を用意できますけど」
先着順で、と言い掛けた遠雷は、そこで彼らの様子を改めて眺めてやっと、
「なにかあったんですか」と、訊ねた。
「翡翠が帰ってこなくて」
外を見るとすっかり暗くなっている。雨音が激しくなっていることには気づいていた。
「翡翠?」
遠雷は首を傾げる。
「生徒のひとりなんですが」
と、顧問の若い男性は言った。年齢は遠雷とさほど変わらなそうだ。彼の言葉を引き取るように、遠雷と顔見知りの女子学生が続ける。
「犬を連れて来てて、散歩に出かけるって。でも、まだ帰ってきてなくて。もうすぐ日が暮れるから、すぐ戻るって言ってたんですけど」
この建物を含むコノン市の大部分は、公立観測所があるせいで光量規制されている。日が沈むとかなり暗い。
「携帯端末は」
「それが部屋において出てちゃったみたいで。メッセージ、さっき送ったんだけど」
そこで鳴ってて、と彼女は部屋のある階上を指差しながら困ったように言った。
「探しに行った方が良さそうですか」
顧問は曖昧に頷いた。誰も反対しなかった。遠雷は踵を返すと、オーナーに会って話をした。彼は車のキーを彼に投げて寄越した。遠雷は軽く会釈して、学生グループのところへ引き返した。手短かに自分が探しに行くことを告げると、別の女子学生が自分の端末で翡翠の写真を見せてくれた。改めてみると確かに見覚えのある顔だ。華奢なので大学生には見えないが、言われてみればいつも大きな灰色の犬を連れている少年だ。散歩コースはいつも海沿いだと、彼女は教えてくれた。
外に出て初めて土砂降りだとわかった。既に辺りは真っ暗だが、頭上で稲光が光とその時だけ景色が浮かび上がる。傘とバスタオルを助手席に放りこんでから、雨の中車に乗り込みキーをまわした。フロントライトを最大にすると、雨粒が光る。遠雷は宿の駐車場から通りへと車を走らせた。この辺りは月でも数少ない車両通行許可の出ている土地だ。
幸い彼らを見つけるのにはさして時間もかからなかった。言われた通りの道を走り、見当たらないので逆方向に車を走らせてしばらくすると、街道沿いの樹木の下にフロントライトに照らされて、一人と一匹の姿が浮かびあがった。人影はしゃがんで犬を抱えるようにしている。前も後ろも対向車も、一台もいない。
遠雷は彼らに近づき、路肩に車を止めた。自分に近づく車の光に、人影が緊張で身体を強張らせたのがわかった。遠雷はウィンドウを下ろす。雷が轟いた。弱まらない雨が吹き込んできたけれど、構わず外に身を乗り出して、
「翡翠? 翡翠か?」
と、雨音に負けないよう声の調子を強くして訊ねた。翡翠は怪訝な顔をして遠雷の顔を覗き込み、あ、と小さく声を上げると、
「宿の…?」
と、呟いた。遠雷に見覚えくらいはあったようだ。
「探してた。乗れよ」
彼は親指で後ろを示した。翡翠は頷いてすぐに後部座席の扉を開けると、
「タフタ」と、犬を上がらせた。
遠雷は彼の犬の名前を、その時初めて知った。
ビニールシートをひいた座席に、身体に毛がすっかり張り付いた犬が怖々と乗り込む。それを後ろから押し込むようにしてずぶ濡れの翡翠が続き、座席に座ると勢いよく扉を閉めた。
「びしょぬれだな」
小さく呆れたように笑って、遠雷は助手席においてあったバスタオルを投げた。翡翠は真っ先に、犬の毛皮にタオルを当てる。
「犬が先か」
車を出しながら遠雷は訊ねた。翡翠がびくりとしてバックミラー越しに遠雷を見る。最も、遠雷は雨の暗闇に目を向けていたので、視線は合わなかった。
「えっと、あの…」
翡翠が戸惑ったように手をとめて、それから犬を拭いたバスタオルで自分を拭こうとしたので、遠雷は慌ててそれを止め、もう一枚放った。
その瞬間、犬が座席の上に立ち上がり、毛並みを逆立て全身を震わせる。
「ああっ、タフタ!」
悲鳴のようにそう叫ぶと、翡翠は慌てて自分の犬をタオルで押さえた。けれど既に遅く、水飛沫が車内に飛び散っている。遠雷にもかかった。隣にいた翡翠にはもっとかかっただろう。
「すみません…」
身の置き所のなさそうに弱弱しい声で、彼はそう言った。その恐縮しきった姿を見ると、遠雷は怒る気もしなかった。
「いいよ、どうせ掃除するのはおれだし」
「手伝います…、すみません」
項垂れながら繰り返した時、タフタがもう一度全身を震わせた。翡翠は諦めたようすで、犬が再び座ってから身体を拭き始める。
「犬だけじゃなくて、あんたもびしょぬれだ」
そうですね、と翡翠は答えて遠雷の投げたタオルで自分を拭った。けれどそれもなおざりに、また犬を拭き始める。犬は大人しく吠えも唸りもせずに、主人に身体を預けていた。
「あの」
と、ひと段落したところで翡翠が顔を上げて、バックミラー越しに遠雷を見た。
その時ちょうど、彼らの車の脇を緩い速度で別の車が通り過ぎる。その光に車内が照らされた瞬間、今度は目が合った。それで初めて気づいた。翡翠の目は彼の名前の通り翡翠色だ。光に反射して、彼の目が一瞬だけ輝く。
「ありがとうございました。宿の方ですよね。お名前は」
「遠雷。遠雷だ」
「遠雷って、雷の?」
翡翠は人差し指を立てて外へ向けた。さっきから断続的に雷が続き、鳴り止まない。
「そう」
と、遠雷はその音を聞きながら頷いて、
「シートベルトを」と、気づいて言った。
翡翠が慌ててシートベルトを締める。
「道に迷ったのか」
道路に出ながら遠雷は訊ねた。翡翠が困った様子で、
「タフタが…、犬ですけど、雷の音でパニックになってしまって。おかしなところに行こうとしたんです。家にいるときは、こんなことなかったんですけど」
遠雷はバックミラー越しに犬の姿を見る。今は飼い主の手に鼻を寄せて大人しく、翡翠の言葉からは想像できない。
「気がついたら真っ暗だし、雨は降ってるし、動けなくなってしまって。携帯置いてきちゃったし」
車体に雨粒の当たる音がする。ワイパーが激しく左右に動く。束の間、車内が沈黙に包まれる。犬の吐息が大きく聞こえた。遠雷は自分でも珍しく、気詰まりになる。それでさして興味もなかったが、口を開いて訊ねた。
「大学のゼミなんだろ」
「そうです。毎年恒例なんです」
「犬は預けてくればよかったのに」
「おれ、一人暮らしなんです。家族とは離れてて、置いていくのも心配だし辛いし。連れて来てもみんな面倒みてくれるし」
「雨が降って残念だったな」
自分が庭に運ぶ予定だった食材と道具を思い出しながら、彼は言った。だが翡翠は、
「どうでしょう。楽しみにしてた人もいるけど。それより…」
と、曖昧に頷き、遠雷の方へ身体を向ける。
「本当にすみませんでした」
と、彼はもう一度、申し訳なさそうに言った。
「いいよ、謝らなくて。客を迎えに行ったりするのは珍しいことじゃないし、仕事のうちだから」
翡翠が恐縮した表情でまた項垂れたので、遠雷は話題を変えようと、
「昼間はどこへ?」
と、訊ねる
「観測所です。公立の天体観測所」
翡翠はそう言って窓の外を指差す。けれど今は闇の中で、なにも見えない。それでも遠雷は頷き、
「宿からも見えるよな。あそこの観測所だろ? 星の研究をしてるのか」と、言葉を続けたのに深い意図はなかった。翡翠に暗い顔をしてほしくなかっただけだ。
「はい」と、彼は少し明るい調子で頷く。
「地球を。地球環境学を専攻してるんです」
その答えに遠雷の心臓は跳ねて、思わぬ方向にハンドルを切りそうになる。でも、そう思ったのは一瞬だけで、現実には自分の両手はしっかりとハンドルを握りアクセルを踏み、車の進む先はひとつも変わらない。翡翠も彼の動揺に気づいた様子はなかった。
「地球が見えるのか」
遠雷は言った。声の調子が変わらなかったことに、彼は心の中で安堵する。
「見えますよ」
と、翡翠は言って小さく笑った。またしばらく沈黙があった。遠雷は顔には出さなかったけれど、動揺をまだ引きずっていて、続ける言葉を思いつかなかったのだ。けれど先程までのように気詰まりではなかった。しばらくするとぽつりと翡翠が口を開いた。
「同じ講座の女子が、あなたのこと、冗談が通じる面白い人だって言ってました」
「そりゃ光栄」
雨が少し小降りになってきた。車のライトの先に、宿の建物が浮かび上がる。玄関先に人影があった。翡翠がそれに気づいて身を乗り出す。きっと知り合いだろう。玄関を回り駐車場に車を停める。ずぶ濡れの犬を抱えて車を降りてから、彼は遠雷に向かってもう一度、
「ありがとうございました」
と、頭を下げた。気にするな、と遠雷は答える。
自分でも不思議だが、本当に翡翠にこんなことを気にしてほしくなかった。階段を上がって建物に入りながら、
「車を洗うの、本当に手伝います。呼んでください」
翡翠はそう言い添えると自分の部屋の番号を告げた。タフタが湿った身体のまま遠雷に近づき、手の辺りに顔を近づけると鼻を引くつかせた。
「タフタ」
と、翡翠は声をかけて、引き綱を軽く引く。薄暗い廊下に出た。
「またな」
遠雷が言うと、翡翠はわずかに驚いたように目を上げる。それからすぐにはにかんだように笑うと、頷いて、
「おやすみなさい」と、言って背中を向けた。
遠雷は車の鍵のついたキーホルダーをならしながら、オーナーの部屋へ向かった。
嵐の過ぎ去った翌日は快晴だった。遠雷はさっそく翡翠に洗車を手伝ってもらった。昨晩、宿で丸洗いされたタフタは車の周りをうろうろしていたせいで、また水に濡れた。作業しながら遠雷は翡翠のことを尋ねた。翡翠の通う大学のこと、彼の暮らし、タフタのこと。反対に翡翠も遠雷のことを尋ねたけれど、彼は少しだけ話してあとは曖昧に誤魔化した。翡翠がかなりの人見知りだと知ったのは同居するようになってからだったけれど、あの時はそれほどには感じなかった。車の洗車が終わる頃には、翡翠は遠雷の軽口に笑うようになり、口調もずいぶん砕けていた。
それから彼らの滞在が終わるまで、翡翠は遠雷を見かけると声を掛けてきたけれど、立ち話程度だったし、遠雷の方では別に親しくなったとも思っていなかった。
次に再会したのは年の瀬だ。翡翠は遠雷を見つけると近寄ってきて挨拶した。会うのは四ヶ月ぶりだったが、夏に別れた時と同じ、打ち解けた態度だった。タフタはまた大きくなり、夏に会った時よりも精悍な顔つきになっていた。遠雷を覚えていたのか、彼の姿を見ると一声吠えて尻尾を振った。
そのまま数日が経ったけれど、夜遅く、遠雷が食器室で明日の朝使う分を数えて出しているところに、翡翠がタフタを連れて現れた。聞くと夏のお礼にとわざわざ菓子折りを持って、最初に遠雷に渡したいから、と自分を探してくれたのだ。律儀な奴、と遠雷は意外に思ったが、別に嫌な気持ちにもならなかった。
彼は遠雷の様子を尋ねた。当たり障りのない会話をしながら遠雷はあの時、この仕事を続けるかどうか迷っていた。年が明ければ三年目だ。居心地は決して悪くなかったが、かといってここに留まる理由も見失っている気がしていた。それで思い出したようにふと、
「おれ、ここ辞めるかもしれない」
と、彼は翡翠に告げたのだ。
今になっても遠雷は、自分がどうして唐突にそんなことを切り出したのかわからない。ただ、ここを去ったらもう翡翠と会うことはないだろう。そしてこれを告げる機会も、今を逃したらないだろう。そう思ったのは確かだ。翡翠は小さく息を飲んで、目を丸くした。
「なんで?」
「なんでって…、大した理由があるわけじゃないけど。もうここにいる必要もない気がして」遠雷は彼の反応を見て小さく笑う。
「前は理由があったの?」
翡翠が首を傾げる。遠雷はどう答えるか迷った。けれど結局、
「実は人を探してたんだ」と、正直に言った。
「ここのあたりにいればなにか手がかりがつかめるかも、会えるかもって思ってた。でも二年経っても、なんの音沙汰もないし、なにも見つけられない。いっそここを離れたほうがいい気がして」
「次はどうするの?」
翡翠が訊ねた。遠雷は首を振り、
「まだ全然決めてない。何も考えてないけど、とりあえずここを離れようかと」
「それならさ、遠雷」
と、身を乗り出すようにしてあの時、翡翠は言ったのだ。
「ブリアルドスにこない? おれ最近、保存家屋に引越したんだ。広くて家賃が安い変わりに家の手入れをしなくちゃならないんだけど、全部に行き届かなくて」
遠雷が一緒に住んで分担してくれたら、すごく助かるんだけどと、彼は続けた。
翡翠からそう持ちかけられた時、遠雷は自分でも思いも寄らず、心が動いた。
このままコノン市に残っても無駄だとも思っていた。ここへ来てもうすぐ三年、それは長いとは言えない時間だけれど、短くはなかった。そしてその間に遠雷は、ここでの暮らしに慣れてしまった。
テーブルを挟んで翡翠と向かい合った遠雷は、彼が皿に取り分けた見た目をパエリアに似せた炊き込みご飯を頬張るのを見ていた。彼はそれに気づいて飲み込んでから真顔で、
「玉ねぎいっぱい入ってる」と、言った。
「好きだろ? こないだ安かったから箱で買ったし」
遠雷も真顔で返すと、翡翠は堪えきれなくなったように笑って言った。
「美味しいよ」
その言葉に遠雷は、肩で息を吐く。翡翠がそれを見てさらに笑った。
「大袈裟だなあ」
「久しぶりに作ったし、その割に適当だったし」
遠雷はそう言ってから自分の作った食事を口にする。翡翠の言ったとおりだ。ちゃんと思ったとおりの味に仕上がっている。何度かスプーンを口に運ぶ。翡翠はオムレツも取り分けていた。
「レパートリー増えたね。もともと料理上手だったけど」
口を動かしながら翡翠が言った。
「まあ来年、試験受けて免許取りたいし」
遠雷はそう言って肩を竦める。
食事が済むと翡翠と分担して皿を洗った。翡翠は料理こそできないが、片付けには協力的だ。皿を拭きながら遠雷は、そうだと思いだして脇にいる彼に訊ねる。
「夕飯どうする? なにか作っといてもいいけど」
遠雷が仕事なので、翡翠は夜、帰ってきてもひとりだ。彼はちょっと考えこんでから、
「いや、いいよ」と、首を振る。
「友だちと食べに行くか、家に寄らせてもらうかも知れないし。そうだ、それより遠雷」
と、翡翠が思い出したように彼の顔を覗きこむ。
「来週の火曜日って午後空いてる?」
「空いてるけど、なんで?」
「そろそろ毛布を買いに行かないと」と、翡翠が答えた。
「ああ、荷物持ちな」わざとらしく溜め息を吐いてそう言うと、翡翠が怪訝な顔をした。
「遠雷のだよ」
そう言われても、すぐにその意味が飲み込めずに遠雷は翡翠を見つめ返した。今度は翡翠がわざとらしく溜め息を吐く。
「遠雷のだよ。いつまであの薄い夏掛けで寝る気?」
「セントラルヒーティングはあるし」
市内の家屋には全て公設の暖房が整備されているし、ましてや保存を目的としたこの家には当然ついてる。
「ブリアルドスだって、冬は雪が降るんだよ?」
翡翠が呆れたように肩を竦める。
「毛布はおれが実家から持ってきた一枚しかないからね。買わないと」
「別になんでもいいけど」
「どうせなら気に入ってるのにしなよ」
そして翡翠は顔を顰める。少し悲しげに。
「たまに遠雷は、変なこと言う」
知ってたけど、と翡翠は顔を背ける。
「翡翠」
と、遠雷は呼んだが、彼は顔を向けない。仕方なく横顔に向かって続けた。
「悪かった。毛布、来週一緒に買いに行くよ。それにお詫びにドーナツも買うから」
ドーナツ、と言う言葉に翡翠が振り向く。
「オールドファッション、二個だよ」
「おれのぶんは」
「遠雷は甘いもの、そんなに好きじゃないじゃん」
「ミートパイかな。ビールにも合うし」
家を出るのは一緒だった。翡翠は今日はタフタを連れている。途中まで一緒に歩きながら遠雷は空を見上げた。地球が見える。昼間見る地球は太陽の反射がないせいで、色が薄く、霞んで見えた。遠雷が帰宅するのは日付も変わる頃だ。その頃には青く輝く地球が見えるだろう。
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