<2> 火曜日


 遠雷は犬が鼻を鳴らす声で目を覚ました。彼の横になっているベッドに、タフタが顎を乗せて恨めしそうにこっちを見ている。頭だけ動かすと部屋の戸が開いていた。翡翠が開けたか、引き戸なので少しの隙間があればタフタも鼻先を突っ込んで入り込める。

「ちょっと待て」

 視線を戻した遠雷は、腕を伸ばしてタフタの頭を撫でてから身を起こした。時計を見ると九時過ぎだ。翡翠の授業は始まっている。身支度をしている間、タフタは忙しなく彼の後をついて回った。犬に胴輪を装着して、首の後ろに引き綱の金具を引っ掛けて家を出る。天気は明るい曇り空だ。早く散歩に出ようと全身で引っ張るタフタを引き留めて、遠雷は玄関扉に鍵を掛けた。見上げた屋敷は古いつくりの平屋建てだ。有機工法が主流となった現在では直線ばかりで変形しない家屋は珍しい。百年前には既に廃れた建築仕様。それも当然、居心地の良さを諦めて旧式の家に暮らしたい物好きなんてそうはいない。最も翡翠がここに住むことを選ばなかったら、自分は今ここにいないし、こうやって彼の代わりに朝から犬の散歩に行くこともなかっただろう。

 屋敷を見上げてぼんやりとそんなことを思い巡らせていると、タフタがぐいぐいと身体で引き綱を引っ張った。遠雷は振り返る。近所に住む顔見知りの女性が同じように飼い犬を連れて、彼らの前を通りすぎるところだった。遠雷は挨拶と軽い会釈をして、タフタの進むに任せて通りへ出た。

 月では地上に歩道と自転車道しかない。エンジン付の二輪や四輪は全て専用の地下道を走る。車両のない公園までの並木道を歩きながら、遠雷は昨晩のうちに雨が降ったことに気づいた。地面が湿っていたし、葉から落ちた水滴が遠雷にかかったからだ。そのせいか空気がいつもより澄んでいる気がした。少しだけ冷たい空気。肺いっぱいにそれを吸い込みながら、遠雷は唇の端だけでかすかに笑った。おかしな気分だ。一年前までは自分がこんな生活をすることになるなんて、想像も出来なかった。


 そもそもは犬の、タフタのせいなのだ。

 遠雷が翡翠から聞いた話では、彼が進学する大学が決まった三年近く前の冬、十二年間飼っていた犬が死んだ。死因はもちろん老衰だったけれど、大学が決まり自分が生家を離れることが決定的になった翡翠とって、大事な愛犬が自分と離れ離れになる前に死んだように思えて仕方がなかった。悲しみと喪失感を抱えたまま、それでも彼は家を離れて進学し、学校の提携しているフラットで一人暮らしをしていた。

 半年ほど経った夏休み明け、彼は大学の掲示板に学生アルバイト募集の張り紙に混じって、仔犬の里親を募集する張り紙を見つけてしまった。なんで学校でそんな募集が、と遠雷が怪訝な表情で訊くと、翡翠も不思議そうな顔をして、どこでもそうじゃん、と答えた。犬猫に限らず申請すれば学校や市から愛玩動物のための補助金が下り、その代わり養育に関しての責任がとても重いのが月の常識だと、遠雷はその時初めて知った。

 翡翠の見た張り紙には六頭の雑種の仔犬の写真が印刷されていて、そのうちの一頭、灰色の毛並みの仔犬が、少し前に亡くした犬に良く似ていた。毛色や体型ではなく、奥から覗き込むような目の輝きが。翡翠は一瞬で心奪われ、気づいたときには貼紙の下の連絡先を自分の携帯端末で読取り、保存していた。見るだけだ。手狭な一人暮らしのフラットで犬を飼えるはずもない。でも、実家や知人を里親として紹介できるかも知れない。だから見るだけ。彼は自分にそう言い聞かせてその場を離れた。そして翌日には仔犬が保護されている大学近くの一軒家の玄関チャイムを押していた。連絡は前日にしてあって、家主の中年婦人は朗らかに彼を迎えてくれた。仔犬のいる部屋へ案内しながら彼女は、幸いなことに六頭のうち四頭は既に引き取り手が決まっていると翡翠に教えてくれた。残りの二頭も交渉中で、間もなく決まるだろうとも。それは良い知らせのはずなのに、翡翠の心は裏腹に冷たくなった。

 それでもせっかくだから会うだけどうぞと勧められ、彼は写真で見た六頭の仔犬が縦横無尽に走りまわっている部屋へ足を踏み入れた。そのうちの一頭が顔を上げ、翡翠に気づくとよちよち歩いて彼の足元へやって来た。翡翠はしゃがんで手の平を差し出す。淡い灰色の毛並みの仔犬は鼻面を近づけて、彼の手を匂いを嗅ぐと、短い尻尾を千切れそうなくらい揺らして彼の手を舐め始めた。すぐにわかった。写真で見たとき既に心を奪われていたあの仔犬だ。

 引き取るならこの犬、と会わないうちから決めていた当の仔犬にこんな風に近づかれ、運命を感じない者がいるだろうか。少なくとも翡翠は違わなかった。家主に尋ねると、実際この仔犬を見に来た交渉相手は、まだらの毛並みが気に入らないようなことを言っていた、と彼女は話した。未だ里親の決まっていない二匹のうちの一匹だったのだ。

 それならおれが、と翡翠はその場で引き取ることをすぐに決めた。冷静さは完全に失っていて、犬を飼うのは初めてじゃないし、という根拠のない自信に裏打ちされた勢いだけの決定だった。自分の両手から少しはみ出るほどの仔犬を抱えて、翡翠はやや強引に、自分の名前と住所と連絡先、それに保護者の名前を引き取り証に記入した。

「母犬が中型犬だから、大きくなってもせいぜい十キロくらいでしょう」

 大事にしてあげてね、と言われて、もちろん、と強く頷いて自分のフラットへ連れ帰ったその日に翡翠は子犬にタフタと名付けた。あの犬に似た、でもあの犬とは違う名前。

 大学へは届出を出せば犬の同伴も可能だ。翡翠は小さな仔犬を大事に大事に育てたけれど、予想外だったのは半年ほど経った頃だった。犬の体重は既に十キロを超え、引き取って一年後には三十キロ近くまで成長してしまった。可愛気のある中型犬を通り越し、今や堂々たる立派な大型犬だ。だからと言って、離れるなんて考えは浮かばなかった。だけど困ったのは住まいの方だ。

 ベッドと勉強机とクローゼットがあるだけの学生用のフラットは、人間一人と大型犬一匹が共に生活するには狭すぎた。タフタは当然文句のひとつも言うわけではないが、備え付けのベッドとその脇に無理やり置いた本棚の、狭い隙間を窮屈そうに通り抜ける姿に翡翠の胸は重くなった。実家の広い庭で走りまわる犬を知っているので余計かも知れない。引っ越そう、と翡翠は当然考えたが、学園都市のブリアルドスでは通学に便利な立地で、学生用のフラット以外に手頃な家賃で借りられる部屋があまり無い。もちろん探せばあるのだろうが、情報収集する時間も乏しく、翡翠の目をつけたのが保存建造物だった。

 月の建築はもう百年以上前から有機工法が主流だが、それより前に立てられた建造物の保管も積極的に行っている。中でも民家をほとんどただ同然で貸し、代わりに住人が住居の手入れをする制度があった。市内にも少なくない数の古民家が保存されていて、翡翠はそれに申し込んだのだ。審査にはすんなり通り、翡翠は無事に愛犬を連れて小さな中庭もある平屋の家に引っ越した。が、やはりそこでも躓いた。中庭と納戸のある4LDK。そのうち一部屋は家具置き場になっているが、翡翠が一人で手入れをするには広すぎた。

 整理整頓は好きな方だし、自分の面倒は自分で見られる。だが学生生活に犬の世話、家の掃除と狭いながらも庭の手入れ、その全てはさすがに手に余った。大学は卒業するためにちゃんと単位を取らなくてはならないから、勉強時間を割くことはできない。そこで白羽の矢が立ったのが遠雷だ。

 彼は今でも、どうして翡翠がそれほど親しくない自分をルームメイトに選んだのかわからない。一度だけ理由を尋ねたことがあるが、翡翠も首を傾げて、なんでだろ、なんとなくいいかなと思って、と答えただけだった。その時さらに同居したい恋人はいないのか、と重ねて訊いたが、翡翠は少しだけ決まり悪そうに、そんなのいないし、学生だったら生活時間帯が同じだからルームメイトには向かないし、いたとしても家の手入れなんて言ったら家政婦扱いだと思われて逆に嫌われるよ、と最もなことを言った。だから遠雷もそれきり深く訊ねたことはなかったし、今となってはどうでもよかった。

 一つ屋根の下に暮らすことに不安がなかったわけではない。けれど家は広いし、学生の翡翠とは生活時間帯が若干違う。かすかな不安に尻込みするより、それまでの生活を変えることの方に気持ちが傾いていた遠雷は、やってみればなんとかなるだろうとその誘いを受けたのだ。彼は身一つでこの町に来た。若干の気がかりだった仕事もすんなり見つかった。給料はそれほど高くないけれど、休暇も取れる。それに月では生活費は大してかからない。加えて翡翠と折半だ。光熱費込みの家賃はただ同然だし、今の収入でも充分に、ちょっとした贅沢さえできる。翡翠の実家が裕福なおかげかと思っていたが、翡翠は大学から特別給付金が出るほど優秀な学生だった。実家の支援があるので他の人に譲るため、それを断ったというのは後で聞いた。

 土産物の鳥の模型さえ組み立てられない翡翠が、と遠雷がその時わざとわしく驚いて見せると、翡翠は珍しく不貞腐れた。不器用なことを気にしているとわかったので、それ以来はたまに揶揄う程度にしている。

 唐突に始まった翡翠との同居生活は、今では自分でも思ってもみなかったほど快適だった。少なくとも遠雷はそうだ。翡翠の方でどう感じているのかは知らないが、けっこう気に入ってくれている、と彼は勝手に推測している。


 遠雷は通りを歩きながら、地面に鼻を寄せて歩く灰色の毛のかたまりを眺める。この生活が快適だと感じるのはタフタがいるおかげで、一つ屋根の下に人間ふたりきりではないのも大きい。遠雷はそう考え、自分でも気づかずかすかに笑う。

 そろそろ色づき始めた木々の立ち並ぶ公園を一回りする。その間に、彼と同じように犬を連れた顔見知りと何人も会った。自己紹介したりしないので、お互いに飼い犬の名前しか知らない関係だ。それでも犬の調子を尋ねたり、挨拶ついでにちょっとした立ち話をしたりする。れっきとした知り合いだ。

 歩き疲れたのかタフタがようやく引き綱を引っ張らずに遠雷の脇を歩くようになった帰り道、遠雷は今日の仕事のことを考える。昼過ぎに出勤して仕込みをし、夕方はしばらくホールへ給仕に出る。火曜なので夜の客はそれほど多くないだろう。常連客ばかりの方が仕事がしやすくて良い。ここ一ヶ月余り、同僚と一緒に冬用の新しいメニューを考えている。手隙があれば今夜も何品か作れるかも知れない。こないだ試しに作って翡翠に食べてもらい、好評だった魚料理にしようか。

 ぼんやりとそんなことを考える。遠雷の一日はまだ始まったばかりだ。


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