◆月郷憧憬

挿絵

<1> 月曜日


 翡翠の目の色は彼の名前の通り鉱石の翡翠色、様々な奥行きの色が混ざった透明な緑色だ。彼は今、床に膝をついてその目で天窓の外に向けた望遠鏡のファインダーを覗き込んでいる。

レンズを向けた先はもちろん夜空に輝く地球だ。天窓越しの夜空に浮かぶ青い惑星。雲があるのでそれほど明瞭ではないが、今晩は少し膨れた半球で、左半分が宇宙の闇の中に沈んでいる。

 それがここ、月から見る地球の姿だ。

 翡翠はたまに小さなうめき声を洩らしながら、いくつかあるハンドルを交互に動かして、顔を離すと膝に広げた説明書へ睨むような視線を落とした。

 遠雷は夕食を片付けたテーブルでビールを飲みながら、ぼんやりとそんな翡翠を眺める。そのうち彼が再び接眼レンズに目を当てて呻いたので、とうとう堪えきれずに吹き出した。そのせいか翡翠に寄り添うように寝そべっていた犬が顔を上げて、遠雷を見る。黒い優しい視線と目が合った。

「タフタ、ご主人様が苦戦中だぞ」

 笑いながら話しかけると、もともと翡翠が座っていたクッションをいつの間にか占領して寝ていた犬が、頭を振って立ち上がった。首輪につけた飾りを鳴らして遠雷の足元へやってきたので、腕を伸ばして顎の下を撫でる。遠雷はタフタが仔犬だった頃の写真を翡翠に見せてもらったことがある。淡い灰色の毛に包まれた、両手に少し余るくらいの愛くるしい姿だった。今のタフタは全身が白と灰色のまだらの毛に覆われて、体重も遠雷の半分近くある堂々とした大型犬だ。タフタは二三度尻尾を振って遠雷を見上げたが、なにももらえそうにないとわかるとその場にまたうつ伏せになった。

「だめだ、倍率を変えた時にピントが合わない」翡翠が望遠鏡から顔を上げると、研究室のと同じなのに、と言いながらそのまま後ろに倒れた。床のクッションに背中が当たる。

「地球の方がぼやけてるんじゃないのか」

「それじゃもう地球に焦点が合う明日にしよう」と、彼はそう言って溜め息を吐くと、天窓を仰いだ。胸の前で両手を組むと、裸眼で地球を見上げる。

「地球人はどうして滅びたの?」

「原因はひとつじゃなくて、複合的な要因だろうけど、まあ環境の変化と戦争かな」

 遠雷が軽く肩を竦めてビールの小瓶に口をつけながら言うと、翡翠は続ける。

「森林破壊と水質汚染は地球人が自分でやったんだって。自然の再生を超える速さで資源を消費して、使い果たしちゃったんだって。人類の生命線なのになんでだろ。自分たちの首を絞めることになるってわかりきってるんだから、止めれば良かったのに。月と同じかそれ以上の技術力があったんだから、可能だったはずだよね」

「簡単には止まらないんだ。それで金を稼ぐ奴がいる限りな」

 そう言うと翡翠が顔だけ遠雷に向け、

「それも良くわかんないなあ」と、仰向けのまま首を傾げる。

「月の通貨はゆっくり減価して、使わないと最後にはなくなるだろ。地球のは逆なんだ。地域によって通貨の単位や価値にいろいろ差があるみたいだけど、利子がついて際限なく増える。通貨自体が商品なんだ」

「遠雷それも良く言うよね。それ、おれにもわかるように論文書いてよ。おれの名前で発表してあげる」

 翡翠がそう言って笑う。

「聞きかじりだ。それほど詳しく理解してるわけじゃない」

「そんなにお金を増やしてどうするの? 使って循環させないと、経済が回らないよ」

「そう。停滞する。でも地球は月の五十倍だぜ。人口も桁違いだ。金を欲しがってる地域に投資って言って金を貸すんだ。借りた連中は死ぬほど働いて、利子を払う」

「そのお金を稼ぎ方のせいで、環境汚染が進むんでしょ?」

「働くってことは何かを生産するってことだろ。地球の資源を使っていろんなものを作ると、自然界では自浄できない化学物質が出来上がる。月では禁止されてるけど、理論的には可能だろ。地球人はそれを地面や海に廃棄したり垂れ流したりして、資源を生み出す生態系を壊したんだな。汚染以外にも乱獲とかあるけど、とにかく資源が減るから次に遺伝子操作で効率の良い動植物を作る。そうしたらその動植物の中で新しいウィルスや細菌が生まれて、人類が治療法を開発するのが追いつかなくなった」

 でも、と彼はビールを飲んでから続ける。

「病原菌じゃ、戦争ほど人は死なない」

「戦争もお金のために起こるって言ってたよね」

「そう。資源の奪い合い。でも、人間同士の争いだからやられた方は憎しみが残るよな。資源の問題が解決しても、そのせいで殺し合いが続く」

「変だよ。地球にも国とか政府とかがあったはずでしょう。国境線が残ってるもん。政府はなにしてるのさ」

「政府が一番金儲けしたがってるんだろ。戦争してる国に武器を売るんだ」

「遠雷、ちょっと酔ってるの?」翡翠が再び首を動かして訊ね、遠雷は頷いた。

「今日、客と飲んじゃって。高いバーボン持って来てくれたせいで、つい」

 遠雷の勤め先は昼は食事を、夜は酒を出す食堂だ。一時間ほど前に帰ってきたら珍しく翡翠が居間にいて、電子望遠鏡を前に呻いていたのだ。

「それで儲けたお金は、投資するか貯めておくんだっけ。経済が停滞するのに」

「所有する資産がその人間の価値になるんだ。だから多ければ多いほどよくて、反対に金が無い奴の命は紙より軽く、粗末にされる」

「人間をお金に換算なんてできないよ。遠雷のその発想、いつもすごく残酷」と、翡翠が苦い顔をした。遠雷は彼に向かって小さく笑う。

「地球で暮らしてみればわかる」

「もう住めないって。ちっとくらいなら行ってみたいけど」

 翡翠は笑いながらそう言って身体を起こし、遠雷の方を向くと、その場に足を投げ出す格好で座り直した。

「それにしても遠雷は、いつも見てきたように嘘をつくねえ。言うことがぶれないもん」

「翡翠のおかげで、俺もだいぶ地球に詳しくなった」遠雷はそう言って少しだけ彼の方へ身を乗り出す。テーブルの下でタフタが彼を見上げた。

「そうだよ。おれに会うまで地球環境学のことなんて、なんにも知らなかったくせに。月面人の祖先は地球人説支持者だし」

「自然発生説支持者の翡翠に比べて、おれは想像力が豊かなんだ。翡翠も研究者なんだから、もっと頭を柔らかくしないと。でもまあ」

 と、遠雷は言葉を続ける前に小さく笑った。

「地球人は四足歩行とか言ってたから、ある意味、想像力豊かかな」

「だって地球の重力は月の六倍だよ?」

 翡翠はわざと顔を顰めて言い返した。

「どうやって両手を挙げてられるのさ。おれなんか重力六倍って考えただけで、内蔵が全部地面に落ちそうなのに」

「常にケツの穴締めて生活すりゃいいだろ」

「下品なこと言うな」

「自分で言ったんだろ」

 遠雷は笑った。ちがうって、と翡翠は呆れたような視線を彼に向ける。

「月面人の祖先が地球人なら、地球人の祖先は何人なのさ」

「火星人かなあ」

「また適当なこと言って」小さく笑ってから翡翠は、

「さ、おれもう寝るよ。明日一限からだ」

 と、立ち上がった。遠雷が時計を見ると日付をわずかに超えている。

「明日、見といてやろうか、望遠鏡」

「うーん」

 と、翡翠は困ったように唸ってから、

「でも遠雷にやってもらっちゃうと自分で調節できなくなっちゃうし」と、言って首を振った。

 翡翠が動くとタフタは身を起こして戸の方へ先回りし、振り返って主人を待った。彼がテーブルの方へ近づいて傍らを通り過ぎるとき、遠雷は念のため、

「煙草を吸っても?」

 と、彼に訊ねる。翡翠は頷いて、

「窓開けてね。おやすみ」

 そう言うと犬と一緒に居間から出て行った。

 ひとりになった遠雷は灰皿を取って窓辺に寄った。カーテンを開けて半分だけ窓を開ける。黒い箱から煙草を取り出し一本銜え、奇妙に捩れた形のライターで火を点けた。最初に見たときはこれでまともに火がつくのかと思った。同僚に見られた時は苦笑いされた。翡翠がくれたもので、彼は遠雷が煙草を吸うことをあまり快く思っていない。それでこんなふざけたものを寄越したのかも知れないが、意外に手に収まる形で使い勝手は悪くなく、オイルを足しながら遠雷はずっとこれを愛用している。

 開けた窓からひんやりとした空気が部屋の中へ入り込む。外は静かだ。昼間はさほど感じないが、夜になると冷える。そういう季節だ。遠雷は吸い込んだ煙を吐き出しながら夜空を眺めた。先程翡翠が望遠鏡を向けていた地球が半球になって見える。地球から月を見るよりも、もっとずっと大きくそれは夜空に輝いていて、手を伸ばせば触れられそうだ。

 地球は彼らの暮らす月と同じように大気に覆われ、海があり陸地があり生物が暮らしている。違うのは月のように人類がいないことだ。元を辿れば地球の方が先に人類が繁栄していたらしい。でも今は滅びてしまった。正確な年代は今のところ特定できていないので、遠い昔に、としか言いようのない遥か昔、地球人は自ら築いた文明で自らを滅ぼした。月から見える地球の海は青く美しいが有害物質に汚染され、陸地の半分は砂漠化し、かつてそこに暮らした人類の築き上げた主要都市は朽ち果てた巨大な墓標と化している。

 翡翠は大学で地球環境学を専攻している。月から三八万四千四百キロ離れた地球の表面を観測し、地球人類の繁栄から滅亡への足跡を解明し、月の人類のために活かそうという学問だ。

 遠雷は目を伏せると、もう一度煙を吸い込んだ。煙草の先が赤く光る。翡翠と同居を始めて間もなく一年経つ。遠雷は少し前から自分がこの生活を気に入っていることに気づいていた。些細な衝突は何度かあったが、翡翠のことも気に入っている。彼の専攻とそれが関係あるのかは、遠雷は深く考えたことがない。

 灰を落として短くなった煙草を皿の底に押し付けてから、遠雷は静かに窓を閉めた。煙草の匂いが残っているが、この程度なら怒られない。遠雷はカーテンを閉める。地球が視界から消えた。彼は電気を消してから居間を出た。薄暗い廊下を歩いて自室に向かう。

 静かだ。


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