第3章 水底の神様

 ジジっと音がして、何かが上から落ちてきた。そのままジタバタと足掻いていたが、そのうち静かになって、ようやく俺は目を開いた。

 視界には、古ぼけた神社の屋根、そして暑っ苦しい太陽の光を受けて輝く木々の葉。ゴロリと寝返りを打ち、視線を下に向けると、木漏れ日が落ちる石畳の上に蝉が一匹転がっていた。

 本当に死んでるのか、弱ってるだけかはわからねぇが、ミンミンジージーと煩い奴らも段々と落ちる頃か。鬱陶しい奴らだが、今年は憐れだと思ってやる。長い間土の中に居て、ようやっと外に出て、鳴いて、交尾して子供成したというのに、その子供が産まれることはない。何も残せず、苦労は水の泡だ。

 もうすぐこの村は終わりを迎える。

 公共事業だかなんだがで、この辺りはダムになり、この村は水底に沈む。

 大人は難しい顔をして何かをしていたようだが無駄に終わり、俺たち子供は未来より明日なにして遊ぶほうが大事で、毎日この神社や野山を駆けずり回っていたが、とうとう誰も来なくなった。

「暇で死にそう」

 ミーンミーンと何処かで誰かを呼んでる。お熱い事で。

「あら、今日は一人なの?」

 凛とした、鈴の鳴るような声が聞こえ、神社の入り口の方を見ると、真っ白なワンピースを着た、どこか浮世離れした女が立っていた。

「ミズハか……」

「何? その残念そうな顔は」

 こんな蒸し暑いのに、どこか涼し気で奇妙な女は、ふらりと現れては子供に交じって遊び、またふたりと消える変わった奴だった。

「皆は?」

「今日何日だと思ってるんだよ、皆家族と一緒に準備してる」

「そっか。君は?」

「面倒臭いからな」

「サボりだ」

「はいはい」

 ミズハは、笑いながら俺の隣に腰を掛けた。

「ここは水の神様の神社なのに暑いね」

「お前の名前に似た神様だからな、怠惰なんだろ」

「あら、私は怠惰ではなくてよ」

「どーだか」

「生意気ね」

 ミーンミーンと二人の間に声は降ってくる。仕方なく身体を起こして、固まった身体を伸ばす。

「いつもここは賑やかなのに、今日は静かで寂しいわ」

「そうか? 今日も虫や鳥で煩えぞ」

 落ちた蝉は、どうやら本当に力尽きていたようだ。

「この神社、どうなるか知ってる?」

「どうもならない。村と一緒に終わるらしいぞ。村の大人たちが言ってた」

「……そう。何処にも行けないのね」

 ミズハは黙って下を向いた。

「ま、何かはいずれ終わるものさ。悲しむ必要なんてねぇよ」

 俺がそう言うとミズハは、くすくすと笑う。

「貴方、小さいのに何処か達観してて生意気ね」

「こちとらお前より大人なんでね」

「どこがよ。私より小さい癖に。大人ぶるほうが子供なのよ」

「へいへい」

 蒸し暑い空気を払拭する涼しい風が静かな境内を吹き抜け、ミズハの髪を靡かせる。

 本当に、この村は終わるんだ。もう野山を駆けずり回る圭佑の声はしないし、いつも俺の手を引いていた紗季は、昨日村を出ていった。泣き虫な涼太の泣き声も、勝ち気な姫子と喧嘩っ早い虎太郎の喧嘩の声も、聞こえない。皆いない。誰も彼も家族とともに過ごし、そして村を出ていく。

 いつもの面子で最後に残ったのは、ミズハと俺という奇妙な二人だけ。

 パキッと音がして見るとミズハが二つセットの棒付きアイスを割っていた。そして片方を俺に差し出した。その水色のアイスを黙って受け取り、頬張ると、ソーダの味と冷たさが体に染み渡る気がした。

「蛍の季節よね、もうすぐ」

 暑さですぐに溶けるアイスと格闘しながら返事をする。

「そうだな」

「今年こそ皆で見たかったのに」

 そういえば去年、圭佑達が蛍をみるだのなんだので騒いでたのを思い出した。

「去年、お前は行かなかったな」

「ちょっと抜けられなくてね」

 垂れてきたアイスの汁をズズッと吸う。ミズハは俺とは反対に上品に食べていた。

「最後に蛍、見に行きたいな」

「危ねぇから一人で行くなよ」

「行かないわよ。折角だし君も行こう?」

「なんでオメーと夜に出なきゃならねぇんだよ」

 心底嫌そうに言えば、悪戯っ子のように笑って

「逢引よ、逢引。こんな綺麗なお姉さんとでぇと出来るのよ」

「どこの誰が綺麗だって?」

「あらひどい」

 だんだん可笑しくなって二人で笑った。この日初めて神社に明るい声が響いた。

「夜にここで待ち合わせしましょう? 良い? 絶対よ」

 まぁ、女一人夜の田舎を歩かせて何かあったら目覚めが悪いが。

「はいはい、まぁ気が向いたらな」

「素直じゃないんだから。じゃあ今日は何して遊びましょうか」


**


 空がすっかり闇に飲まれた頃、白いワンピースが薄っすらと浮かび上がる。パッと明るくなったと思ったら、どうやら懐中電灯を付けたようだ。

「あ、ちゃんと来たの」

「暑いから涼みに散歩に出ようと思っただけだ」

「もう素直じゃないんだから」

 すっと、ミズハは白い手を俺に伸ばしてきた。

「何?」

「暗いから手を繋ぎましょ」

「仕方ない。お前が迷子になったら困るしな」

「君が、でしょう?」

 雪みたいに白くて柔いミズハの手は、見た目の印象に反して温かった。

「君の手は冷たいね」

「悪かったな」

「違うよ。ひんやりしていて気持ちがいいって言いたかった」

 二人は、昼間遊んだ小川に向かう。暗くて田んぼに落ちてしまわぬよう気をつけながら、ゆっくりと歩く。

 昼間とは違い、蝉の合唱ではなく蛙の声が田んぼに響いて、その上を心地よい涼し風が走っていく。空には幾つかの星が輝き、ミズハが指を指しながら星の名前と星座を言う。

「あの一番白く光ってる星がベガ、天の河を挟んで、鷲座の一番光るのがアルタイルで、白鳥座のデネブ。三つ結んで夏の大三角。南にあるあの赤い星はアンタレス。蠍座の心臓」

「お前は色々なことを知ってるな」

「ずっと空を眺めていたからね」

 悲しそうに、寂しそうに、でも、誇らしげに言った。

「でも、覚えられねぇな。もっと簡単に覚えられるものは何かねぇのか」

「我儘ねぇ」

 そう言うと、ミズハは、

「あかいめだまの さそり」

 と、節を付けて言った。

「なんだよそれ」

「宮沢賢治の、星のめぐりのうたよ」

 ミズハは指で、星を指しながら歌う。


 あかいめだまの さそり

 ひろげた鷲の  つばさ

 あをいめだまの 小いぬ、

 ひかりのへびの とぐろ。


 オリオンは高く うたひ

 つゆとしもとを おとす、

 アンドロメダの くもは

 さかなのくちの かたち。


 大ぐまのあしを きたに

 五つのばした  ところ。

 小熊のひたいの うへは

 そらのめぐりの めあて。


 何度も何度も繰り返して、次第に俺も釣られて歌う。

 何度も何度も二人で歌っている内に、視界を星が流れた。否、蛍だ。

 蛍の光が、淡く、星の瞬きのように光っては消え、光っては消えを繰り返している。気がつくと、光は溢れて、歓声を上げると、懐中電灯を消し、二人で地面に座った。

 空高く、星は瞬き、蛍は命の光を燃やして瞬く。隣では闇の中、蛍の光に照らされて美しい相貌が浮かび上がる。なんと幻想的な景色だろう。

「星の光はね、長い長い時間をかけて、長い長い道のりを経て、私達の元に降ってくるのよ」

「人も、虫も、星も変わらねぇんだな。長い時間をかけて、何かを残して、その残ったものがまた何かを残す。そうして繰り返していく」

「何かを残す?」

「虫や人は、子供を残す。モノを残す。星は心に感動や勇気を残す。お前は何かを星から貰ったから何度も空を眺めていたのだろう?」

 ぎゅっと強く手を握られる。

「そうかもしれないわね。同じ場所からただ眺めてる空は悲しくもあったけど、綺麗で、自由で、何度も眺めた。きっと明日を生きる気力を貰ってたのね」

 ミズハは、空から地面に視線を落とす。

「こんなに綺麗なものをどうして人は消してしまうのだろう」

 村に似合わない沢山の武骨な工事車両と、人が消えた家々を思う。ここで得た思い出も、生活も、すべて水に沈む。

「ミズハ。この村は秋が来る前に終わる。この村だけじゃない、いつかは綺麗なものも、汚いものも全て終わりがやって来る。けど、それを悲しむことは無い。蛍や蝉、星の光の様にこの村も長い時間をかけて長い道のりを経てきっと何かを残すさ」

「何かって?」

「さぁ?」

 涙をそっと掬ってやる。

「……ねぇ、君は村が沈んだ後、どこに行くの」

 ミズハは目を揺らめかせながら問う。俺はそれに答えられない。

「俺は……」

 その時、誰かが走ってくる音がした。あぁ、迎えが来てしまった。俺は立ち上がり、ミズハを立たせる。

「ミズハ、お前の病はきっと治る。だから、生きて沢山綺麗なモノを、色々なモノを見て誰かの心に何かを残せよ」

「急にどうしたの? それになんで病気の事……」

 まだ人に気がついてないミズハは、キョトンとしていたが、

「瑞葉!」

 という走ってくる男の怒鳴り声でようやく人の存在に気がついた。

「お父さん」

 ミズハが呟く。

「お前、また抜け出して! 探したんだぞ! お前は体が弱いんだ、体に障ったらどうする! それに夜に一人で出歩いて危ないだろう!」

 蛍は男に驚いて、消えていく。

「ごめんなさい。でも、一人じゃないのよ。ほら、この子と一緒に蛍を見てたの」

 男は、ミズハの父親は困惑した顔で、

「何を言っているんだ。誰も居ないじゃないか」

 と、言った。ミズハはえっ、と驚く。

「ミズハ。俺はどこにも行かねぇよ」

 さっきの問いに答えながら、俺は、今までずっと繋いでいた手をそっと離した。お前、案外泣き虫だったんだな。

「俺はずっとこの村にいる」

 泣きそうな目で、呆然とした顔で、俺を見ている。

「馬鹿なこと言ってないで帰るぞ瑞葉」

 父親に瑞葉は簡単に引っ張られる。

「待って、ねぇ、どういう事なの! ねぇ」

 半分引きずられながら、必死に俺に手を伸ばすが届かない。

 俺は、二人が闇で見えなくなるまでそこに居た。いつの間にか蛍は戻ってきていた。

 今度は独りで歌を歌う。あんまり楽しくは無かったが、寂しくは無かった。


**


 ずっと昔から独りだった。

 ずっとずっと昔、雨乞いの生贄にされてから、あの神社で独り、ずっと村を眺めていた。

 いつしか誰にも祀られなくなり、気がつけば子供たちの遊び場になっていて。あんまりにも煩くて寝付けなかったから怒鳴り込みに行ったら、いつの間にか遊びの輪の中にいた。どうやら子供にしか俺の姿は見えないらしい。

 俺の正体は何だと言われてもわからない。神様モドキかもしれないし、ただの幽霊かもしれない。

 あれからミズハと会うことは無く、村はダムの底へと沈んだ。それから何年、何十年とただ眠り続けた。

 すっと目が覚める。水面は随分と近くて、キラキラと揺らめいている。

 寝返りを打って、立ち上がり、水中の村を見て回る。誰も居なくなって、腐っていく村を遊々と魚たちが泳いでいる。人々が居なくなっても、虫たちの命が潰えても、今度は違う生き物たちが新たな生活を築いていた。

 俺は何十年ぶりに水面の外に出た。

 空には見たこともない大きな星が浮かんでいた。

 あぁ、とうとうこの星の終わりが来たのだとわかった。

 俺はダムの横にある道路に座って村を見下ろしながら、暫くその星を眺めた。

「地元の子?」

 声がして振り向くと、白いワンピースを来た女が居た。

「……そうだけど?」

「ここのダムに村が沈んでるのって本当?」

「あぁ。それが?」

「そっか。良かった、あってた。あぁ、ごめんね」

 女は鞄から古ぼけた手帳を取り出した。

「私の祖母がね、昔この村に住んでたの。私が小さい頃に、この村には子供が好きで生意気な事を言う神様が独り、水の底に眠ってるんだって良く聞かされたわ」

 大事そうに手帳を撫でる。

「お婆ちゃん、ずっとこの村に帰りたがってた。で、世界が終わる前にその村を見てみたくて来てみたの」

 俺は何か胸の中がぞわぞわした。苦しくて、なんて言葉にしたら良いのかわからない。あの日、二人で瞬く光を見た時に似ている。

「その手帳は?」

「お婆ちゃんの遺品。骨はお墓に入っちゃったけと、この手帳はずっと大事にしてたし、この手帳にもこの村の思い出やお婆ちゃんの人生の色々が詰まってて、お婆ちゃんの魂そのものだと思うから。これだけでもこの村に返してあげたくて。あと、お婆ちゃんが言っていた神様に会ってみたくてさ。でも、神様なんて居るわけないか」

 ミーンミーンと蝉がなく。

「会って、どうしたかったんだ」

 そう聞くと、女は、

「どうだろう。お婆ちゃんは幸せでしたよって教えに?」

 と、答えてから手帳をダムへ投げた。ポチャンと音がして、どんどんと沈んでいく。それを見つめ、ポツリ。

「そうか。ミズハは、幸せだったか」

「うん。あれ、何でお婆ちゃんの名前……いない……」


**


 沈んだ手帳を拾い上げ、再び水面へ上がった。水面から顔を覗かせている高い木の枝に座って、ページを捲る。

 もうこの村の空にはあの時の星々は見えないが、アイツの書いたものを見ると、満点の星空が浮かんでいる様に見える。

「あかいめだまの さそり

 ひろげた鷲の  つばさ

 あをいめだまの 小いぬ、

 ひかりのへびの とぐろ」

 もうすぐ、世界は本当に終わる。

 何もかも、あの彗星によって消えてしまうのだ。

 それでも、今まで積み上げたものは決して無駄になったりしない。そう、今の俺には思えた。

「大ぐまのあしを きたに

 五つのばした  ところ。

 小熊のひたいの うへは

 そらのめぐりの めあて」

 世界が終わるまで何度も歌いながら、アイツが残した美しいモノを読み続けた。それが読めただけで俺は救われた気がした。

 きっと、この星の光も何億光年離れたどこかの誰かに何かを残すだろう。

 俺らが星の光から命の輝きうつくしいものをもらったように。

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