第2章 夕暮れの彼女
力尽きた蝉が地面に落ちて、ジッ、ジッと震えた後、動かなくなった。
茹だるような暑さも引いてきて、そろそろ夏が終る。まぁ、世界も終るが。
明日、世界が終るらしい。
人間の持てる武力を行使すれば避けられるが、それをすると地球に人が住めなくなる。本末転倒是非も無し。滅びしか無く、後はいもしない神様の奇跡を信じるのみだ。
そんな世界の終焉でも、変わらず日本という国では人々は働き、機能し変わらぬ日常を過ごしていた。襲いかかる死の恐怖に耐えきれず集団自殺をする事件や変なカルト宗教が生まれたりしたが概ね日常に変化は無かった。しかし、流石に世界最後、滅亡前日にようやく社会は停止した。
やっとこさ休みが取れた俺は、恋人の病室にやってきた。
一年前に事故で意識不明になり、未だ目覚めていない彼女は、目覚めること無く世界の終わりを迎えるのだ。
俺は、今となってはそれで良かったと思う。ゆっくり、じわじわと来る死の恐怖を感じること無く眠りながら死ねたら最高だろ、と空に薄っすらと見える星を見る度に思った。
そう思うと集団自殺した人たちの選択も正しかったように思えてきた。俺にはその選択は出来ないが。
彼女の病室の前に来た。ふっ、と深く息を吐く。俺はこの扉を開くのが苦手だ。
普段意識していなくてもこの扉の向こうには死の存在がある。いつ様態が変わるかわからない緊張感と平穏が同居している病室は来るものを不安にさせ、いつまでたっても足が震える。
おかしな話だ、今世界はどこにいてもこの病室のような空気感になっているのに、俺はこの扉の前でしか恐怖を感じ取れない。俺も大分可笑しいのかもしれない。
そっと開けると、狭い病室に、ゴォー、ゴォーという呼吸を助ける機械の音とピッ、ピッという心音と静かな彼女がいつも通りそこにいた。
彼女の体は看護師がいつも綺麗にしていてくれて、爪も綺麗に整えられていた。髪だけは伸びっぱなしで、「あぁ、今度許可貰って切らなきゃな」と、考えた所でその「今度」が二度と無いことを思い出した。
彼女の頭をそっと撫でる。この一年ずっと通って、いつか目覚めるのを待ち続けた。遂に声を聞くこともなかったが、今ではそれでも良いと思う様になっていた。
彼女には身寄りがない。今つながりがあるのは恋人の俺だけだった。俺が見捨ててしまったら彼女は独り、この病室で過ごすのだ。それを俺は耐えられなかった。意識がないとはいえ、彼女を独りに俺はどうしても出来なかったのだ。だから、いつ訪れるかわからない死に怯えながらも通い続けた。もし、目が覚めたときに俺すらも彼女から離れてしまったら彼女は壊れてしまう気がした。
そうしている内に世界が終ると聞いて俺は不謹慎だが、なんだか肩の荷が降りた気がした。恋が冷めたわけでは決して無いが、待つ、というのは疲れるものだ。
その日は一日、ずっと彼女の寝顔を眺めて終えた。
「明日、また来るな」
と、言い残し病室を後にする。すっかり日の沈んだ地球最後の夜は、星がとても綺麗だった。
*
やはり神様の奇跡は無く。世界は終わりに近づいていた。
俺たちは日が沈む頃に、死ぬらしい。
空を見上げると肉眼で月よりも大きな物が徐々に大きくなってきているのが確認できた。
午前中は家族と過ごした。両親にありったけの感謝を言って、抱きしめあって、母には泣かれたが、どうしようもない。俺は家族よりも彼女と最後を迎えると選んだのだから。父が母を慰めていた。
「じゃあ、行ってくる」
「あぁ、気をつけてな」
「……今日の夕飯は、ハンバーグだからね。ちゃんとあの子と一緒に帰ってきなさいよ」
母は、震えた声で告げた。これは最後の別れでは無いとでも言うように。
「ん。わかった。楽しみにしてるよ母さん。じゃ、行ってきます」
父は母の肩を抱いて、微笑んだ。
「いってらっしゃい」
これが最後の会話だった。俺は振り返らずに彼女の元へ向かった。
世界はやはり混乱していて、交通機関ももちろん停止しているため、病院に着くまでいつも以上に時間がかかってしまい、日が傾いてしまっていた。空には隕石が近づいてきているのを肉眼で視認できた。
世界は喧騒に包まれていたのに、病院内は怖いほど静だった。
彼女の病室の前にやってくる。やはりこの扉を開けるのは緊張した。ふっと、一呼吸吐き、扉を開くとふわりと中から風が通り抜けてった。
夕陽が染めた病室には、いつもは閉まっている窓が開き、カーテンがちらちらと揺れていて、ベットに座っている彼女の髪を風が優しく撫でていた。
俺は、病室の入り口で立ち尽くした。
「なんで」
声に反応してか、ゆっくりと彼女がこちらに振り向く。一年前から開くことの無かった瞳で、俺を写し微笑んだ。
俺は幽鬼のように、ゆっくりと近づいていきベットの横に跪いて、彼女の手を取った。温かい。
神様はなんて酷いのだろう。なんで、あと数時間彼女を眠らせておいてくれなかったのだろう。
少しかすれてしまっているが、確かに彼女の声で俺の名前を呼ぶ。彼女の意思で俺の頭を撫でてくれる。
この時をずっと、ずっと待っていて、嬉しくして仕方がないのに、それ以上に悲しくて、彼女の体を抱きしめた。
なんでどこにも逃げ場は無いのだろう。今なら何を捨てても逃げるのに。
何も知らない彼女は俺を抱きしめて、泣き虫ね、と笑っていた。
俺はただ強く強く温かい彼女の体を抱きしめた。
強い風が吹いた。
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