第4話 「すき」

風の音が駆ける砂浜をあおとうみは歩いていた。雲に覆われていた月は徐々に姿を見せ始め、闇夜の二人に僅かな光を差し伸べた。


「あお、ワタシ、お腹がすいているのだけれど。今日、何も食べていなかったから。」


あおの前を歩く背の低い少女、うみは振り返ってそう言った。真っ黒な髪が彼女の動作に遅れまいとついてくる。


ずっと食べていないの?それは、大変だ。どこか、食事の出来る場所を探そう。


あおがそう言うと、


「ふふっ。」


とうみが笑った。その笑顔にきょとんとしたあおに向かってうみは続けて口を開く。


「あお、君はなにも覚えてないって言っていたけれど、何も食べなくちゃ、何も飲まなくちゃ、大変なことになるっていうようなことはちゃんと覚えているのね。」


あ、あー、そういえば。命に関わるようなことは体で覚えているのかな、きっと。


「ふふっ、それって素敵ね。生きてるって感じだわ。」


歩きながら言葉を交わす二人の前に、いくつかの光が現れた。月光のようにささやかなものではなく、何者かがそこに生活しているであろうことを表す強い光だった。


「あ、あそこ。光が見えるわね。人が暮らしているのかしら。」


そうだとしたら、なにか食べ物を恵んで貰えるかもしれない。行ってみようか。


あおとうみが踏み入れたのは十数の住居が立ち並ぶ集落のような場所であった。家は細部を除けばどれも同じような造りだった。木を主材料としたそれらは、大きなテントのような形をしていて、所々に呪術的な施しが見られた。二人はその中の一軒の扉の前に立った。うみがすうっと一息吸って、手の甲で扉を叩いた。


「なんだぁ?誰じゃあ?」


家の中からしゃがれた男性の声が聞こえた。力強く、圧倒されるような声だった。


「ワ、ワタシたち、旅の者です。食糧に困っています。宜しければ分けていただけませんか。」


うみがそう告げると、数秒の沈黙の後、立ち上がる動作音が聞こえた。ギギッと音を立てて扉が開く。


家の主は老人だった。顔の皺から伺える年齢にしては、筋肉質で胸や腹、腕など身体の各所に刺青が認められた。上半身は裸で、下半身には麻か何かで作られているであろう薄汚い布を纏っていた。膝の辺りは擦れて穴が空いていた。耳には、集落の家々で見られた装飾と似たような呪術的な飾りを揺らしていた。


「おめぇさんがた、ここまで大変じゃったろう。こんな子供二人きりで。親はどうしたとか、家族はどこにいるだとか、そんなけったいなこたぁ聞いたりせんで。まずは、食べなせぇ。人間、腹が減っちゃあなにもできねぇ。生きていくことだけじゃあねえ、笑うこともなくこともできやぁしねぇよ。そうさ、人間として生きていくことができなくなるからな。」


老人は二人の姿を見て、その事情を改めて聞くと優しい言葉をかけた。その、物騒な見た目からは想像もできない、温かい老人だった。


「二人とも、魚は食えるか。ここは、海の近くなもんで、海の幸にゃあこと欠かねぇ。今日、若ぇ衆が捕ってきた新鮮でうめぇやつがある。それを食うといい。」


あおは言われるままに目の前に広げられた、魚の塩焼きのうちの一尾に手を伸ばし、口に運んだ。


ぱちっ


老人があおの手の甲を叩く。


「おめぇさん、そりゃあいけねぇよ。食事をするってこたぁ、命を頂くってことだ。いくら腹が減っていようが命への感謝は忘れちゃいけねぇ。それくらいわかるだろう。」


「ごめんなさい、彼、記憶を失っているの。なにもかも覚えていないわ。」


うみが口を挟むと、老人は


「あ、ああ、そうだったのかい。そりゃあ悪かった。だが良かった、おめぇさんは命を軽んじてるってぇわけじゃあなかったんだな。ゆっくり覚えればいい。命を頂く前には、『いただきます』、頂いた後は、『ごちそうさま』だ。」


あおたちは食事を終えた。そして、老人にこれまでの経緯を伝えた。


「するってぇと、そうかい。おめぇさんは、記憶を探してるってわけかい。そりゃあ大変だな。」


うん、本当に、何も、いや、一つだけ、海に来たことがあるということは覚えているんだけど。だから、海の近くを歩いていれば何か思い出すかと思って。


あおがそう言うと、老人は


「それもいいが、まぁ人間ってのは人間と関わんなきゃあ生きていけねぇもんだ。沢山の人間と関わることももしかしたら必要かもしれねぇな。いつか、おめぇさんと関わりのあったやつと出会うかもしれねぇ。」


人間、か。


「あとは、『すき』と『きらい』を集めるってことだ。人間と人間の関わりの間には必ずその二つが付き纏う。すきもきらいも人の愛だな。相手を人間として意識すりゃあ、必ずどちらかの感情を抱くんだ。記憶を探すばかりに気を取られて、人間らしさを失っちゃあいけねぇ。人間として生きるんだ。どちらにしても、やっぱりな、人間との関わりは必要だな。おいおい、そんな難しい顔するなぁて。ワシは、おめぇさんが『すき』だよ。会って、どれほども経っちゃあいないが、人間の感情にゃあ時間なんか関係ねぇってことも充分にあるんだ。よぉく覚えときな、おめぇさんたちは綺麗で強い目をしてる。まるで海みたいだ。だから、ワシはおめぇさんたちがすきだよ。」


老人の言葉にあおはすこし戸惑った。


ボクのことを「すき」だと言ってくれる人がいるかな。あなたの他に。














ちゅっ 。














「ふふっ。」


隣にいたうみがあおの頰に軽くキスをした。あおは紅く染まった頰を抑えながらうみの方にゆっくりと向き直った。


「いるじゃない。ここに。ワタシは、あなたが『すき』よ。ねぇ–––––––––––––––––––––
















********************


––––––––––––––––––––––––––––––あお。」


********************





ジジジジっとあおの脳内にノイズが駆けた。微かに、だが確実に声が聞こえた。自分の声でも、うみの声でも、そして、あの、あおの脳内に何度か流れた声でもない。また、別の声が彼の名を呼んだ。あおはしばらくそのまま動けなかった。





********************


あつめた「すき」:2


あつめた「きらい」:0


********************





キューブ状の部屋の中に、無精髭の男が再び勢いよく入ってきた。













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