第3話 あおとうみ
君の名前は?
沈黙に耐えかねた彼、あおは目の前の少女にそう尋ねた。特に少女の名前が気になったわけではなかったが、それ以外に適切な質問が思いつかなかった。
「ふふ、そうよね、あなたはあおという名前を名乗ったもの。ワタシも名乗るのが当然というものよね。もとよりあなたの名前は私が付けたのだけれど。」
少女は、一瞬俯いて何かを思索する様子を見せた。ただ、先程あおの名前を考えている時とは異なって少し哀しそうに見えた。
いや、名乗りたくないのなら無理に名乗る必要は無いよ。
「そういうわけじゃないのよ。でもね、そうせざるを得ないのかもしれないわね。」
あおは少女の言葉に戸惑った。少女の顔には海の底みたいに暗い陰が宿った。辺りに落ちる夜の帳の仕業によるものではないことをあおはすぐに悟った。
「ワタシね、記憶力はいい方なのよ。あなたみたいになんでも忘れちゃったりなんかしないわ。だけど、ワタシ、自分の名前だけはどうしても思い出せないの。ある日からね、気付いたらワタシは名前を失くしてしまったのよ。」
ふふっ、と少女は言葉の最後にちょっと付け足すみたいに笑った。
それならボクがつけてあげようか。さっき、君がつけてくれたみたいに。もちろん君が嫌じゃなければ。
「ふふっ、素敵よ。名前の交換こね。とっても素敵。」
少女は言った。
あおは少女の言葉を受けて、少し戸惑った。自分は少女の名前を考えてあげられるほど言葉を知らなかった。記憶のどこを探してもそこにはどこまでも広く空っぽな空間が広がっていた。まるで海のように。
「そんなに悩まなくてもいいのよ。あなたが考えてくれる名前ならなんでも嬉しいもの。」
わかった。じゃあ、うみ、というのはどうかな。名前をつけてあげるとは言ったものの、僕には海の記憶しかないから、残念ながら。
あおは恐る恐るそう言って、少女の表情を伺った。
「うみ。素敵じゃない。残念がることなんてないわ。この名前はあお、あなたの記憶の全てなのよ。あなたの全てを独り占めできて、ワタシ嬉しいわ。」
少女の言葉にあおはまた体の芯が熱くなった。
じゃあ、うみ。今日から君はうみだ。
「ふふっ、ありがとう、あお。」
少女、うみはおそらくこの瞬間初めて心の底からの笑顔を見せた。少なくともあおにはそう感じられた。
「さて、ワタシたちこれからどうしようかしら?あお、あなたはどうしたい?」
ボクはやっぱり、自分の記憶を探したい。どこにあるのかはわからないけれど。君は、うみはどうしたい?
「ワタシはもうあなたに名前を貰ったものね。だから名前を探したりしたいわけではないけれど。でも、あおのことをまだ教えて貰ってないから、やっぱりあなたの記憶を探すのを手伝うわ。」
うみはそう言うとあおの手を取って立ち上がった。あおは、少しよろめきながらうみのよこに並んだ。
二人は特に示し合せることもなく、砂浜をシャクシャクと歩き始めた。辺りはもうすっかり闇に包まれていた。月は出ていなかった。あおは、その暗さのせいでうみの真っ黒な髪と冷たい空気を見分けることができなかった。彼女を認識する証拠としては、そのてのひらの温もりの他、残されていなかった。いや、もう一つ、彼女から香る微かな海の匂いがあった。
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メーデー、メーデー、作戦コード「碧の箱庭」始動。
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あおの頭の中にあの声がまた現れて、しかし、彼がその声に気づくと同時にまたどこかへ消えた。
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