第2話 あお

遥か彼方に見える水平線に薄橙の光の玉が沈もうとしていた。空はまるでインクを垂らしたみたいに徐々に黄昏に侵食されていった。しかし、彼と少女の頭上にはまだ薄らと水色が残っていた。自分の居場所を守るように。


「そうか、あなたは何も覚えてないんだもんね。ワタシに話せることなんて何も無いか。」


隣に座る少女は少し悲しげに彼を見つめた。


ボクは海の匂いを覚えている。ただそれだけ。でも、確かに海に来たことがあるみたいだ。


「ふふ、やっとちゃんと喋ったわね。あなた、ケッコウ高い声をしているわ。」


少女がからかうみたいに笑った。彼は不思議と体の内側がほっと熱くなった。彼が少女の方に目を向けると、少女はまだ彼を見つめていた。少女の目は青色だった。彼女の着ている色褪せた浅葱色のワンピースよりも、もっと深い青色だった。


********************


メーデー、メーデー、聞こえますか。


********************


「ねぇ、大丈夫?あなた、ちょっとぼーっとしてたわよ。」


少女に話しかけられて、彼はハッと我に返った。どうやら、一瞬、気を失っていたらしかった。彼の頭の中に心当たりのない声が谺響していた。彼自身の声でも、ましてや少女のものでもない声。ジジっとノイズ音の様なものが脳内を駆けるとその声はどこかに消えた。


「あなた、名前は?名前も覚えていないの?」


覚えてないよ。


「じゃあ、ワタシがつけてあげるわ。あなたはきっと海の近くで生まれて、海の近くで育ったのよ。だってそうでしょう?なんの記憶も無いのに、海のことだけは覚えているんだから。」


うーん、そうねぇ。と少女は悩む動作を見せた。夕暮れの潮風に乗って真っ黒な髪が泳いだ。


「思いついたわ。あなたは、あお。あ、およ。海の色。あなたがきっとそこで生まれて育った海の色よ。どう?」


彼はゆっくりと2回頷いた。


ありがとう。ボクはあお。海の色か。綺麗な名前だ。


「ふふ、気に入って貰えて嬉しいわ。」


少女は目を少しだけ細めて笑った。青い目玉が瞼の隙間から覗いていた。


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