第五章、試練
翌日、誠とエマは木曽山中の奥深くにいた。見渡す限りの山々に囲まれた、人家も建造物の一つもない大地にぽつねんと二人の影が落ちる以外は大自然の息吹を体全体で感じる事ができる、秘境の一歩手前のような場所だった。
「いいな、これから一週間、いやもう六日、私は修羅と化してお前を鍛える。」
「あ、ああ、頼むぜ。」
表立って見えては来ないが、エマの内々たる決意は気配として誠にも伝わってくる。彼とて決意は固めているのにエマは彼のそれを上回る気配を放っているのだ。
「な、なあ、やけに気合入ってないか?」
「そんな事はない、行くぞ!」
目尻がくっと上がった表情で明確に否定するエマの言を誠は信じられなかった。到着するまで何度聞こうと同じ答えが返ってくるというのに誠も諦めが悪かった。彼としては無口なエマを相手に旅の最中に話の種が不足していただけなのだが。
「私のことよりお前のことだ。こんな無茶な話を快諾してくれた家族には感謝することだな。」
「あ、ああ。」
無茶な話、それは昨夜のことだった。誠は自宅で家族を相手に誠心誠意の願い出をしていた事に端を発する。
「何を言うておるんじゃ誠よ。そんな話、はいそうですかって言えるわけないじゃろ。」
「そうよマーくん、おじいちゃんの言うとおりよ。せめてどこに何をしに行くのかお母さん達にちゃんと言って。」
「ワシだけならまだしも、恵さんまで心配させるわけにはいかんぞ。」
「ええ、なんでも上川くんも交通事故で入院したって言うし、そんな時にこんな話するなんて、お母さん心配でたまらないわ。」
所詮は小さな一学区内の出来事であったが、俊のことは交通事故で入院した、という事で近所中に話題が蔓延していた。最初から虚構である噂の出処は誠にだけはおよそ推せば自ずと理解できていた。
「だけど頼むよ、お願いだ。一生のお願いだよ。」
誠は平伏して畳に額を付けて懇願する。そこまでするが理由を明かさない孫、もしく子に当たる者の存在が二人には今までに感じたことのない違和感を覚えさせる。
「一生ってなあ、誠。お前はまだ高校生だ。この後何回、一生のお願いというのをするつもりだ?一生ってのは二回もないんじゃぞ。」
勇の言葉は子供によく言って聞かせる言葉に説明書があれば最初の数ページに掲載されているような文言であった。さりとて誠としては説明書を読んだ経験も少なく、引用したのは記憶をたどる限り初の試みであった。
「あまり心配かけないでね、マーくんいなくなっちゃったらお母さん生きていけない。」
おもむろにハンカチで目元を包み込んで涙を拭く動作を行う恵。いつもこうすると誠は折れて自分の言うことを聞いてくれる、すると笑って彼を暖かく出迎えるのだ。言ってしまえば嘘泣きである。嘘とはいえ効果は絶大な技ので彼女は濫用する、その濫用のつけが祟ったのか今日の誠にこの手は通じなかった。
「母さん、今日だけは泣いても俺の気持ちは変わらないんだ、だから頼むよ。」
「ま、マーくん・・・」
「おう、帰ったぞ。ん?なんだこの空気は。」
母の泣き落としも通じないで勇も恵も困り果てた所に、呑気にも漁具の点検で家を離れていた一が帰宅してきた。誠は彼に対してまた一からの説明を要することになる。つまり、一週間学校にも行かず行方をくらませるが心配せず外部には取り繕っていて欲しいという身勝手極まりない要求を。
どっしりと腕を組み胡座をかいて息子の要求に聞き耳を立てていた一は、一通り聞き終えたところでようやく発言する。
「誠よ、それは正しいと思っての上でのことか?学校には適当に嘘付いといてくれ、挙げ句母ちゃんにまで心配かけて家出してぇ。こんな無茶が正しいと思ってお前は言ってんのか?」
「ああ、親父にも母さんにも、じいちゃんにもみんなにすまないと思ってる。それが正しいかどうかは分からないんだ、正しくないのかもしれない。」
「なら・・・」
「だけどさ。」
一の発言を制して誠は力強く続けた。
「だけど、やらなくちゃならないんだ。正しかろうとそうでなくても、俺がやらなくちゃいけないことなんだ。」
父を見つめる息子の目は真っ直ぐに見開いて凝視しており、一は彼の目の中に迷いや曇りを見いだせずにいた。
「そうか・・・分かった。お前の好きにしろ!」
「お、親父。」
「一さん、何言ってるんですか?」
「息子よ、お前とち狂ったか。」
一の声には誠のはっとした表情に比して、勇と恵の周章具合は対照的であった。
「親父、恵、ちょっと黙っててくれないか。」
「何を言っとるんじゃ、一。」
「こいつは俺の息子だ、何かあったら俺が責任を取るから黙っててくれ!」
一の目も真剣そのもので勇に向かった。彼の眼力に勇は黙りこくる。いつまでも半人前扱いしてるようであったが、すっかり逞しく成長していた中年を迎える息子にむしろ目頭の緩みを感じる勇だった。
(ワシも老いていたもんじゃ・・・)
「恵さん、どうやらワシらの出番はないようじゃ。ここはどうじゃろう?コイツ、この不肖の息子に任せてやってはもらえんじゃろうか。」
「え、ええ・・・でも、」
「恵、頼む。」
勇に諭され、息子どころか一にまで頭を下げられて恵は不本意ながら撤退を承知せざるを得ない状況に追い込まれた。祖父も母も引き下がり、父と一対一に向かうことになる誠。
「いいか、誠。多分、今お前が決心してることはお前が思ってるよりも遥かに大変なことだと思う。」
「あ、ああ・・・」
「だけどな、やるからには胸を張って全力でぶつかれ。正しいか正しくないかは後からついて来る。だがお前は正しいと思ってるんだな?」
「もちろん!」
「なら問題ねえ、お前が正しいと思ってんならそれに全力でぶつかっていけ。俺はそれでいい、それでいいと思ってる。」
「いいのか、親父・・・?本当に。」
「ああ、構いやしねえ。お前も俺の息子だ、俺が信じずに誰が信じてやれるんだ。」
この時の一は、かつて誠が見聞してきたどの一の姿よりも男らしく頼りがいのある立派な父親像に見えていた。普段は勇にどやされてばかりで正直なところ祖父ほどに認めていない所が多々あったのだが、今はこれまでの認識を改める場合であった。
「もし、もしだけど、俺が間違っていたら?」
「やる前から間違いを気にしてりゃ物事は前に進まないだろ。その時はその時だ、頭を下げて詫びでも入れとけ。」
父の言葉は、誠に決意の萠芽を促すに十分だった。
「分かったよ親父。俺・・・その言葉、胸に留めるぜ。」
「ああ、行って来い。こっちのことは何も心配すんな。」
「ありがとう。絶対に目的を達成して無事に帰ってくるからな。」
一が何を想定して物申していたのか、誠には分からない。ただ、剣を振るって魔物退治をするための修行に出るだなどとは、現実的にも物理的にも考えついていなかったであろう。とにもかくにも、一時はウスラトンカチなどと評していた父親の柔軟性に富んだ心に助けられ誠はこの場に立っていた。いずれ帰れば彼の父親に対する見方も変わっていることであろう。
心地よい風が二人に靡く、修行の地が自分を歓迎しているかのような気持ちが誠に芽生える。だがそのような軽い思いは初めての土地を訪れた旅人の精神的高揚がもたらすただのまやかしであることを彼は即座に痛感することとなる。
「行くぞ、誠。」
「おおっ。」
二人は修行場へと山肌を駆け下りた。ここは秘境の一歩手前、国有地の名のもとにエマ等の機関が実質的に所有し、何人の侵入も許さぬ地。修行には打ってつけであった。
荷物をおろした誠は早速エマの指示を受ける。
「いいな。時間は少ない、無いと言ってもいい。限られた時間の中でお前を精一杯鍛えてやる。それでも奴と戦えるまでに成長できるかは分からない・・・だが私は全力を尽くす、だからお前も全力でかかって来い。いいな?」
「・・・」
返答はなかった。
「どうした、返事くらいしろ。」
「いや、今日はやけに口を動かすんだなって。」
誠はこの場に着くまでのエマの会話量を鑑みる。饒舌も極まった感はあるが、エマは彼の下らない意見を封殺する。
「そんなことはどうでもいい、返事をしろっ!」
「は、はいっ。」
表情一つ変えずに怒号を放つエマの気合に負けて誠は背筋を伸ばして目上に使うような語を発した。教官役とはいえ同輩と思える女性に敬語とは、という淡い忸怩を思う。
「と、ところでさ。」
「何だ?」
「あと六日で俺はどうなればいいんだ?遮二無二修行したって最終目標がハッキリしないと自分でもよく分かんねえよ。」
「ふむ、それはそうだ。」
一つ考えたエマは、足元から掌に余る大きさの石を拾い上げた。
「まず生身でこの位できればな。」
まるで力を込めた様子もなく、エマは掌中の石を紙でも拉げさせるように握り潰してみせた。再び開かれた手の中には、人の手としては余りに強大な力で粉々に分解せしめられた石の粒が無数に遺されていた。
「な、生身でこれを・・・か?プロレスラーじゃあるまいしできるわけねえよ。」
「なら、どうして私はできる。」
「ならって、そりゃあ修行の成果ってやつだろ?」
「そうだ。修行の結果、私の体内には『フォルティア・ミーラ』と呼ばれる力が覚醒した。この力の源はそこにある。」
「フォ、フォオーミュラ?」
「フォルティア・ミーラだ・・・名前はもういい。お前にもフォルティア・ミーラを覚醒させるのが私の役目ということだ。だから、お前にもこの位できる修行を与える。」
およそ自分にできかねるレベルへの到達を求められている期待に対し誠は身震いした。
「どうした、怖くなったか?」
「震えているではないか、昨日家族に向かって大見得を切った威勢はどこへ消えた。」
エマにも、腰の剣にも痛いところを突かれたが退路は自分の手で断った、退く気すらないのだ。無茶であれ何であれ、彼にはやるしかなかった。
「む、武者震いってやつだよ。ほら、俺にもそんな超人みたいな力が出せるって思うとさ、自然に震えてきてさっ。」
「ふうん。」
「まあ、そういうことにしておこう。」
エマと天叢雲剣の白眼視は受けつつも、彼は修行の第一歩を踏み出すべく新たに決意した。石だろうとなんだろうと砕いて、奴の、あの妖を仕留めて鉄二や俊の無念を晴らすのだと。両手で両頬を叩き、気合を入れると共に下らない迷いを断ち切った。
「よし!さあ何でも言ってくれ。まず何から始めればいい?殺陣か?それともその辺の木でも真っ二つにするのか?」
迷いを捨てた風な誠を見て心中安堵したエマだが、表面上はおくびにも出さずに誠を見据える。
「剣など使わない、少なくとも今は・・・ついて来い。剣はそこに置いていけ。」
歩み始めたエマについて行くように誠も歩き出す。剣は槍と並べられて荷物を下ろした近くの大樹に立て掛けられた。
「いい機会だ、私もお前を教育しておこう。お前が海の底にいた千年近く余りに何があったのか、知っておくのも悪くはあるまい。」
「・・・素直に聞いてやるとしよう。」
神器相手とはいえ教えを請うのは矜持に反するのだが、己の無知が今後の枷となるは避けねばならない事を承知していた天叢雲剣は、不本意さを隠しはせずグングニルの講義を受けることとなった。
「そっちは頼むぞ、私はそこまで手に負えない。」
エマは専門外の事となる天叢雲剣の方は相棒へと委ねた。自身は九百年も生きていないのだからこれが適材適所と彼女は考える。
「任せておけ、其処のひ弱な坊主を一人前にすることだけを考えておくといい。」
「ひ弱って、なかなかだな。」
「いいから、行くぞひ弱。」
「まったく・・・」
一人はぶつくさと言いつつ、もう一人はまた黙りこくりつつ二人が向かったのは、ここは日本かと思わされるような瀑布だった。
「すげえ・・・」
誠は初めて見る光景に心奪われた。テレビで見る日本の奥座敷のようなものではない、むしろダムの放水に近い大音響で圧倒的水量を落下させている。ここに飲まれればまず命はなかろう。
「入れ。」
「えっ?」
「あそこに岩場が見えるだろう。滝の裏側から道は続いている。あそこで滝に打たれろ。まずはそれだ。」
エマの指示した先には確かに滝の流れに抗うように瀑布のど真ん中に突出した岩場があった。しかしそこへ流れ落ち来る力は想像を絶する。
「じょ、冗談・・・だよな?」
「冗談を言っている暇はない。」
エマの目は真剣だった。決意していたとはいえ自然の力をまざまざと見せつけられてそれに抗しようというのには俄然勇気が必要となる。誠の場合、抗するに微妙なだけ勇気が勝っていた。恐恐と言われた裏の通路を伝い、滝の流れで先の見えない先端部の手前までやって来た所でまごついた。
「さあ、行け。」
誠に躊躇はあったが、エマに遠慮はなかった。覚悟を決めるしか無い誠は恐る恐ると滝の流れに身を入れていく。
「ぐああっ!」
叫びの源はみるみる下方へと流れていく。滝の流れに負けて押し出され誠が滝壺へと転落していってるのである。
「やれやれ。」
ばつの悪い思いと無表情を湛えてエマが誠を追って滝壺へと飛び込んだ。彼を抱え込んで瀑布が爆音を上げて落ち込む坩堝から難なく泳ぎ抜けていく。岸まで引き上げられた誠はしこたま飲み込んだ水に咽び咳き込み、だらし無い様を存分に見せつけた。
「本当にやれやれだ、この位できんとフォルティア・ミーラなど夢のまた夢だぞ。」
「と、とは言ってもよお。あんな滝に打たれるのって人間業じゃないぞ。」
「それもそうだろうな、私も修行を始めてから一年経ってようやく一時間耐えれれた項目だ。」
「ええっ?」
誠は顔から血色が引くのを感じた。原動機付自転車の運転免許を取りに行ってF1が出て来る、いやそれ以上の飛び級を彼は感じる。
「お前には時間がないと言ったはずだ。基礎から順序よく課題をこなしている暇など無い。」
無表情を崩さないエマであったが、強弁と手口は鬼教官のそれと同一であった。
「大丈夫だ、落ちる度に助けてやるからあと一時間、滝に打たれるんだ。」
「た、助けてくれるのはいいけどさ。それって何か違わないか?」
「違わない、グズグズ言うな。」
鬼教官の迫力に蹴落とされ、またしても滝に打ち落とされては教官殿の救助を仰ぐスパイラルが誠を襲う。さすがに見捨てる訳にはいかないエマにはこの単純作業の繰り返しによるフラストレーションの蓄積が尋常ではなかった。
「あいつの調子の良さに騙された私が愚かだった・・・」
あいつ、つまりアーサーはエマに誠の修行を預けてまた連絡と称して行方を眩ませていた。彼の去り際は調子がいいの一言に尽きていた。
「戦闘能力はお前のほうが上だ、これは明らかだな。」
「うん。」
エマもアーサーも、その他機関に属する人間の誰もが認めていたことに、こと戦闘という話になればアーサーは年上ながらエマの足元にも及ばないという事項があった。模擬戦の対戦結果がダブルスコアなら健闘した方という記録が顕著な証拠となっている。
「然るにだ、お前は連絡能力と報告能力が決定的にない、欠落してると言ってもいい。これも分かるな?」
「よく理解している。」
「とすればだ、俺が本部との報告に出向く、お前が誠を鍛える。これが適材適所、無駄のない効率的な人員配置というものだ、だな?」
「そうだな、その通りだ。」
「分かればいいんだ。じゃ、そういう事でな!」
それがアーサーの別れの挨拶となった、彼はすぐに消え去り、当然残ったエマが誠のおしめを替える役目を押し付けられた格好となった。彼女が後悔するのは役目を押し付けられたと悟った今この時であった。故に天叢雲剣の面倒までは見る気も起きず、適材適所の名の下に相棒の槍に、言ってしまえば押し付けていた。
一時間の滝行で滝に打たれているより溺れて救援されていた時間の方が圧倒的に長いのは無理からぬことであった。だが『無理からぬ』を『無理ではない』にする必要が二人にはある。このような所で立ち止まってはいられぬとエマは次のカリキュラムへと移行する。
潰されない程度にとエマの微かな愛情の分だけ差し引かれた重量の大岩を背に乗せての腕立て伏せ、足を木の枝に括り付け頭を下にしてぶら下がった状態からの腹筋、新聞紙四分の一程度の広さだが高さはビル並の岩場での座禅、曲芸士であろうと音を上げよう修行のリストが次から次へと言い渡され誠の息は絶え絶えであった。無論すぐにエマが救助に発たねば今頃絶え絶えの息すらしていない状態ではあったが。
「なあ、剣は、剣は持たせてくれないのか?」
やっと訪れた休憩の合間に誠は天を仰って伸びている状態でエマに問うた。
「神器を持つなどまだ早い。お前に足りないのは己を鍛えることだ、今の状態はただの高校生でしかない。それでは駄目だ。奴に勝ちたいのだろう?」
エマも頑なに彼の現状を糾弾し、上への指向を求めた。
「ああ、そうだ。俺は奴に勝つんだ!エマ、次の修行は何だ?」
気合と共に勢い良く立ち上がった誠をエマはいい気にならずに掣肘した。
「落ち着け、休憩はまだ五分ある。休める内に休むのもまた修行だ。」
「お、おう、分かった・・・」
とたとたと登った梯子を素気無く蹴り倒された誠は大人しく後五分のオアシスを満喫することにした。無論五分でも五十分でも、それっぽっちでここまでの疲労が抜け切るようなことにはならなかったが。
そしてその後も剣すら持たされず己が肉体と精神を鍛える修行が一日中続き、ようやくエマの終了の合図が出た頃には陽もすっかり沈み、焚き火の明かりだけが闇を裂く漆黒の夜が訪れていた。なにせ電灯もガスも、人の力が生み出した灯りというものは何一つ存在しない秘境であるから帳の深さは誠が未経験の暗さである。
時間的な終了をかけただけで、一日目の成果としては甚だ不本意なものをエマは思っていた、この調子では修行の完遂を見るに一週間どころか年単位を要するのが見えている。とはいえそれだけまだ普通の人間と言って遜色ない誠の身体に過度の負担をかけることはできないため、両者のバランスという狭間で彼女の葛藤がせめぎ合っていた。
「エマ、明日も頼むぜ。」
しかし相変わらず悩みも外面に出さないエマから誠はそのような葛藤を感じ取ることはできず、一日消費したエネルギーを取り戻すべく夕飯を飲み込むようにがっつきつつ脳天気な発言をしていた。
「・・・ああ。では睡眠に入るぞ、ここで神器を持っておけ。」
「なんでだ?」
「お前、まだ分かってないのか。神器を持つことで依代の疲労は飛躍的に回復する。だから睡眠中も神器を握っておけば明日の朝には体力も回復してる。」
「そうだったのか、俺は寝るときは枕元にコイツを置いていたから分からなかったぜ。」
「お前は本当に呑気だな・・・言ったぞ、今日からそれを持って寝ろ。」
少女が人形を抱いて眠るのとは訳が違う、色気のない寝姿を想像するに誠は拒絶の意思を表明したかったが、背に腹は変えられぬ事情とエマの反問を許さない鬼教官ぶりとが彼に従順ならしめることを強制した。
渋々と天叢雲剣を携えて、エマが用意していたテントに向かう誠はここであることに気付いた。
「おい、テントが一つしかないけど、どうするんだ?」
「何がだ?」
誠の質問の意図がまるで分かっていない様でエマは聞き返してきた。
「何がって、テントが一つってことはどっちかしか入れないじゃないか?」
「案ずるな、二人が寝られる位のスペースはある。」
「いいっ!?」
互いの感性がずれているのを誠だけが理解できた。外人さんは進んでるのか、という思考で納得できたものではない。
「待てよ、俺達、男と女だぜ?」
「そうだが、今更何を。」
「考えてもみろよ、男と女がこんな狭い中で一緒に寝ていいのかよ。」
「下らないところを心配する奴だな、私は問題ないが?」
「大有りだってえの!もっと身持ちを固くしろよ、お前。」
「お前、何か疚しい考えでもあるのか?その時は・・・」
エマはグングニルを構えてみせた。
「誠よ・・・変な気を起こしたときはお前の最期と心得よ。」
グングニルの殺気ばった声に誠は引きを覚える。
「し、しねえよ、年下趣味ねえしよ。」
「失礼だな、私は二十歳だぞ。」
「いいっ!?お、俺より年上かよ。」
風貌から見ればよく言って同い年という認識で今までいただけに、自分より四歳も年上であったことは彼に衝撃を与えた。と同時に年上の女性という甘美な響きで語られる感情も多少芽生えようかとしていた。
「・・・何を、考えている?」
グングニルの冷たい輝きが冷酷に彼を捉え、誠は芽生えようとした感情を根こそぎ取り払った。
「い、いえ、なんにも。」
取り払ったとは言え、過ちに走らない保証も何もなかった。誠は逸る気持ちでテントに進入したが、寝袋に入ると同時に昼間の疲れがどっと押し寄せ間を置かずに深い眠りに落ちていた。
翌日も誠は剣を佩かず身一つでエマの与える過酷な試練に挑むことを余儀なくされていた。これがまた人とは案外できるもので、昨日は十秒までは耐えられた滝行も二、三十秒の忍耐を越え、一回できただけの大岩乗せ腕立て伏せも三回を数えられるに至った。
「素質はなくもない・・・だが、」
だが、現状のペースではやはり一週間、いや後五日でフォルティア・ミーラの覚醒に至るには到底及ばなかった。日一日とエマの焦りは募っていく。
一方、運動部の有望株として健康には定評のあった誠が突然学校を休むようになって三日が経った日、溜まったプリントを届ける名目でクラス委員、つまり優子が彼の家へと見舞いにやって来た。だが不在である誠には当然会えず、応対に出たのは恵一人であった。
「あらあら、わざわざありがとうね。」
「いえ、これもクラス委員の務めですから。」
「まあ、務めだなんて、立派な口実ができて良かったわね。」
「ちょ、お母さん。あたしそんなのじゃ!」
恵の天然に見えて内実計算し尽くしてるかのような言動は優子にはどちらなのか測りかねながらも、一定の動揺を与えた。
「いいのよ、無理しなくて。女同士なんだから隠し事は、な・し・よ。」
かわい子ぶるのが優子から見ても様になる恵の物腰はとても同級生の母親とは思えぬ可憐さを放っていた。むしろ自分よりも様になっているのでは、と優子には敗北感に似た感情が湧く。彼女は必死さをなんとか押し殺して本題へと切り替える。
「そ、それで、誠くんは、重症なんですか?もう三日も休んでますよね。」
「そ、そうなのよ。えっと、そうそう。お父さんに船から突き落とされちゃってね。そのせいで大風邪引いちゃってずっと寝込んでるのよ、お、おほほほ。」
誠の安否となると急にたどたどしげな言動を取る恵には優子も疑念を抱いた。どうも彼女は嘘を付けない体質と優子は見抜いた、ちょっと突っ込んでみてもいいかとの探究心が彼女にもう一声を吐かせた。
「一目だけでもお会いできませんか?」
「い、いえね、大風邪だから優子ちゃんにうつしちゃいけないわ。だから今日はまだ、ね。デートならまた今度にね。」
「えっ、だからお母さん。あたし達はそういうのじゃ!」
「いっけなーい、お魚を焼きっぱなしだったわ。プリント頂くわ、ありがとう。じゃあまた今度ね。」
嘘は付けなくても優子のように免疫の低い女子の扱いには長けていたようで、彼女の出足を払った所で逃げるように恵は優子を締め出して玄関を閉じてしまった。優子としてもこれ以上の詮索の機会は恵まれない事を悟り、大人しく踵を返した。
「でも、明日はこうは行きませんよ、お母さん。」
この時、優子の思考は誠の安否の確認から恵との勝負へと移っていた。言ってしまえばこの時点で誠が事件に巻き込まれてようと何であろうと彼の安否という点は優子の思考からあろうことか除外されてしまっていた。
しかし恵は難敵である、自分など経験の低い者などは正面きってかかったところでいいようにあしらわれるのが落ちなのは今の流れで理解できる。それでいて自宅という要害に立て籠もってると来てはなかなかの話である、優子の心は今、攻城心に沸き立つ武将のそれに近かった。
「おーいっ、優子。」
ふいに後ろから自分を呼ぶ声に優子は振り返った。言葉の主は優子に一定の安心感を与える存在であった様でその手招きに彼女は迷いなく応じる。一瞬、彼女の視界が暗転した。その後には優子ではない、彼女を呼び寄せた者が一人佇むだけであった。
同じ頃、三日経っても亀の歩みの進歩しか見せない誠にエマの苛立ちはもうピークに達しようかとしていた。今も大岩の下敷きになり必死の形相で腕立てに苦闘している不肖の弟子は教官の忍耐の限界が敵より早く訪れるとは露知らないでいた。
彼女は鬼たる決心をし、誠に告げだした。
「誠・・・心して聞け。」
「な・・・何だよ?」
石の重みで聞き耳も半分がやっとの誠である。
「このままお前がフォルティア・ミーラを得られないままあの妖に殺されれば、私は一度機関に戻らねばならん。」
「そ、そうなのか。そんときゃ、せめて俺の敵も討ってくれよ。」
「そうもいかない、何故ならそもそも私の任務はお前を機関の本部まで連れ帰ることであって、あの妖を倒すことではない。」
「・・・!?」
声には出せなかったが、誠はエマの突然の告白に戸惑った。
「私はお前が死んだら即座に召還されることとなろう。そうすればあの妖はまた野放しとなる。するとどうなると思う?」
返答のなかった誠をよそにエマは語り続けた。
「お前の関係者は皆奴の牙にかかるだろう。お前の家族も・・・」
誠の脳裏に家族の顔が代わる代わる巡る。
「あの重傷の、俊も・・・」
俊との思い出が頭を過る。
「そしてあの日高という女も、お前が関わった者達は邪魔になるというだけで皆、抗う術もなく奴に殺される。」
優子との浅い記憶が蘇る。誰のどの存在も彼には欠かせない、そんな彼らを邪悪な魔物の毒牙にかかって消されるなど耐え難い苦しみである。
「そんな事は・・・させない!させないために俺はこうしてここで修行してるんだ・・・」
誠に訪れた些細な変化を見逃さなかったエマは続けざまに言い立てる。
「そうだ、その気持ちだ。守りたい気持ちをとことん高めるんだ。」
「うっ、うおっ、うおおおーーっ!」
誠の身体が閃光を放ち、やがて一本の光の柱へと収縮する、上に向けられた光は彼の上に鎮座していた大岩を粉々に粉砕してしまった。
身軽になった誠は、膝を突きつつ両の手に目を落とし自らの放った光に状況を理解しようとした。
「こ、これがもしかして・・・?」
「そ、そうだ。それがフォルティア・ミーラだが・・・こうもあっさり習得するとは正直驚いた。」
目がきょとんとしているエマの隠せない驚きようが練熟された彼女をして誠の開花速度が尋常ならざるものである証となっていた。
「よ、よっしゃあーーー!」
誠は雄叫びを上げ、全身を打ち震えさせて込み上げる感情を爆発させた。
「どうだ、これでいいのか?いいんだな、エマ。これで俺も資格者ってやつになれたんだなっ。」
「落ち着け、気が早い。」
「何がだよ?」
これで修行が成ったと気が急いた誠はエマに詰め寄る。
「フォルティア・ミーラはどうやらお前に体内に宿ったと見える。しかしだ、フォルティア・ミーラを宿したことと使いこなすことは全くの別問題だ。」
「何っ、それってどういう意味なんだ?」
「ここからはお前の宿したフォルティア・ミーラを使い熟す修行へと移る。ひとまずはおめでとうと言っておこう。」
「何、何っ、何ぃーっ!」
まさかの二時間目の宣告に誠は喜び勇んだ心がぽっきりと根本から折れた。腰が砕けてその場に倒れ込み天を向いて神を呪う文句を考え始めていた。
「寝てもいいとは言ってない、起きろ。」
エマの声は誠の脳にまで届かなかった。このまま果てて寝入ってしまおうかと精神が完全にだらけきった時を同じくして、今の今まで蒼天であった空に雲が立ち込めてきた。雲は異様な流れを示し、上空数十メートルの位置で一点に集中する渦を描き、どす黒さを増していく。その様子に吉兆を感じられる人間はまず存在しないであろう。
「何だ、あれって・・・?」
誠の疑問は時を置かずして解消された。雲がかき集められ密度を増した中心部から見覚えのある異形の者がのそりと姿を現したのだ。
「あいつは・・・こないだの!」
「くっ・・・早い。」
妖の回復力はエマの想定を悪い方向に裏切っていた。おどろおどろしい雲の渦の内より現れい出たのは紛うことなく鉄二と俊の敵たるあの妖そのものであったのだ。
「このような所で何をやっているというんだか、探し当てるのに苦労したぞ・・・この傷の恨み、貴様達の血と腸で贖ってもらう!」
エマの槍が貫いていた片目の傷は九割がた塞がれ、人間なら眉の位置から目を縦断して頬の上までに至る傷跡のみが彼女の一撃を物語っていた。そして傷跡の中央にある目からは殺気に満ち溢れた視線を眼下の二人へと向けて邪念を放っていた。
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