第三章、刺客

「行ってきまーす。」

「行ってらっしゃい、車に気を付けるのよ。」

「分かってる、分かってるから、行ってきます!」

 数日後、高校生に向かって車に気を付けろもなかろうと制服を着込み、ついぞ目に止まった、止めてしまった天叢雲剣を背中に帯刀だけは整えて玄関を出た誠は晴天の空と大人しい海の出迎えを受けた。絶好の漁日和である、勇や一は今日も既に船上の人と化し、この大いなる海の何処かで精を出していることであろう。学校がある日はさすがに誠を漁に駆り出そうとはしない、その程度の常識と分別は普通に期待できる家庭である。

 しかしこの時点で誠は本日も重大なミスを犯していた、つまりは寝坊である。実のところ彼の自宅から高校まではほんの五分という至便の距離にある、だが学生の遅刻率は必ずしも学校との距離に比例しなかった。数学者にとっては研究意欲に火を入れられ定理を確立させたい衝動に駆られる対象なのかもしれないが、遅刻常習のレッテルを持つ誠には人類の数学的進化より己の評価点のほうが切に重要であった。

 ここで家族的な言い訳をすると、何分漁師の家は朝が早い。平日では誠を除く全員がまだ夜も開けきらぬ内から出港に備えるべく起き出して準備を進めているのだ。彼を起こす役目は、勇と一が家を出てからのことになるので自然と恵一人の肩にかかってくる。学校に行くまで寝ていて問題がないだけにこの作業は二の次、いやよく言っても四の次程度の優先度であるからほぼリストの最下段と言って差し障りがない。故に起こすのはいつもギリギリか既にアウトの時間帯にずれ込んでいた。もちろん目覚まし時計は鳴っているのだが夜明け前からどたばたと音を立てている家で生活する内に神経がず太く育ったのか、いつしか時計を止めてまだ睡眠の園の住民であることを是としているのが彼の毎日である。

 たまに余裕のある時間に恵が部屋まで彼を起こすためにやって来ることもあるのだが、その度に彼女はぼうっと息子の寝顔を見て時が過ぎ去って行くのを見逃している。

「母さん!そこにいるならどうして起こしてくれないのさっ!?」

「あらごめんなさい。マーくんの寝顔があんまりかわいくて、お母さん見とれちゃっていたの、きゃっ。」

「『きゃっ』じゃないよ、これでまた遅刻決定だぁ・・・もう、行ってきまーす!」

 このような心まで若々しい母との温かい交流が朝から重ねられていた。そして今日は恵が多忙で部屋まで来られなかった場合の日であった、それでも個々の家庭の事情を『そうか、それじゃあ仕方ないな』とまで包容力のある反応を期待できないのが学校というものだ。

「こんな朝からどこへ急いでおる?」

 我関せず、千年の惰眠を貪り食う程度に時間的余裕のある剣は誠に問いかけた。

「学校だよ、学校!」

「学校?学校とは何だ?」

「千年前はなかったのかよ、子供が勉強して立派な大人に成長させる所だよ。」

「学び舎ということか。勉学大いに結構、お主はまだまだ成長せねばならぬ所が多々あるようだからの、頭の中身などは特にな。」

「いいから黙ってろ、急いでんだからよっ。」

 剣の茶々に構っている暇はなかった、もし縮地の術、つまりテレポートなどを使えたとしてもこの時点で遅刻は確定している、チャイムは二分前に自分の耳が確認しているのだから。誠は妄想などに気を取られず、友を救わんとするメロスのように走った。誠がメロスと異なっていたのは、己のためだけに足や心肺に負担を負わせていたことと、ものの三分で目的地に着くという点だった。

 校門もない彼の高校の校庭は静まり返っている、殆どの生徒は既にきちんと登校して一時間目の授業を受け始める時間帯だ。体育の授業すらなく校庭に人影がなかったのはこれ幸いと、誰にも見つからないよう、忍びつつそそくさと校庭を横断して校舎に侵入した。

「こら、誠。」

「な、なんだよ。静かにしろよ、今大事なところなんだからよ。」

 ようやく『誠』呼ばわりまで昇華して剣は彼の名を呼んだ。相棒からの呼び名が変化したことは重要であったが、誠には現時点での更なる重要課題課が他にあるので気に留めることもなかった。

「お主、ここは学び舎であろう、そしてお主は生徒であろう。何をそのようにコソコソ隠れるように廊下を渡っておるのだ、もっと堂々とせよ。」

「だーっ、どこまで空気読まずに話が分からねえんだよ、お前ってのは!俺は今遅刻してるんだ、でもこっそり席に着いておけば悟られないかもしれないだろ。」

「はあ・・・」

 剣は剣のくせに溜息を吐いた。正確には息などしているか分からないので溜息のような音を漏らしたと言うべきだろうか。

「おい、何だよ、その溜息は何なんだよ。」

「いや、なに、どうしてこのような小さき者に我は目覚めさせられたのかと思うと情けなくなってしまってな。我はこれでも神剣なるぞ。それを使役する者がたかが遅刻で罪人のように・・・はあ。」

 目をかけた相手の情けない様子でその者を詰るのはまだましな方である。相手の様子を見て、見ている自分を情けなく思うといよいよ厄介な域に達することとなる。そうなったにも関わらず誠は剣の意見を蔑ろにする。

「言ってろ言ってろ、だからそれどころじゃないんだからよ。」

 たかが剣、少なくとも誠にとってはいくら人語を解しても、いかに歴史的な宝剣であっても大した意味はなかった。自分の治らない遅刻癖の結果をどう取り繕うかだけに必死な超近視眼状態に陥っていた。

 この学校は教室と廊下の境目が腰の高さほどから窓ガラスで仕切られておりお互いに丸見えの構造を成している。身を屈めて歩みを進め、他の教室の教師の目に入らぬように自分の教室へと急ぐ誠。それを見る剣は更に情けない顔を浮かべたかったに違いない。

 廊下を突き抜け階段を上り、ようやく彼は目的地、自分の教室の後ろ側のドア前へと到着できた。ここまでは成功した、さあここからは自席まで更に危険な道が待っていると心に戒めて誠は細心の注意を払う、なにせここには教師の他にも自分の目的を阻む者が少なくとももう一人はいるのだから。そろりそろりとドアを開け、自分のなかなかに誇ることのできる体躯がなんとかすり抜けられる程の隙間を穿った。

 そっと窓から顔を覗かせると、教師は黒板に向かって板書し、大体のクラスメイトの目は机の上と黒板を往復している。今だとばかりにこの隙に突入を図った。自席が教室の一番後ろであったのは救いであるが、最も廊下から遠い窓際であったのは災いであった。

「一から十まで上手くいくなどまずあるまい。」

 天叢雲剣に言葉を求めていれば正論をぶつけてきたのかもしれないが、誠は勿論一言も発さずに匍匐で教室の後ろ側を邁進した。神が助け給うたのか、あと一メートルまで迫った所で目の前の自席との間に人の足が割り込んできた。生徒用の上履きに清潔なソックスが視界を占領する、教師の足ではない、となると・・・誠には答えが分かっていた、と同時に今日もこの者のお陰で己のあくどい行動は失敗に終わったことを悟った。

「いーしーかーりーくーん・・・今日も遅刻ね。」

 顔を上げ声の主に向き直る。誠の確信通り、通せんぼの当事者は教師ともう一人いた邪魔者のクラス委員、日高優子であった。長い黒髪を靡かせ、ぱっちりした瞳には目標の男子を真ん中に捉え、且つ腕を組み、仁王立ちで誠の前に構えている様は本物の仁王よりも迫力に満ちていたのかもしれない。誠はその迫力に蹴落とされて思わず後ろにのけぞる。

「く、くっそぉ~、また日高かよ。あと一息だったのにさ。」

 頭をかきむしりつつ彼女から視線を外しそっぽを向いて悪びれた様子のない誠は反省という二文字から遠い位置にいた。そんな誠に優子も口さがない。

「何よ、人を邪魔者扱いして失礼しちゃうわね。あと一息って思うならあと一息早く起きればいいでしょ。遅刻してるあなたが悪いのよ、いい?」

「あ、ああ・・・」

 優子の正論に言い返す事はできなかった。彼の悪癖最たるものの遅刻癖はクラスメイトも全員が熟知しているほど有名であり、有名であるくらいに毎日、とまでは言えずとも毎日のように繰り返されていた。

「先生ー。石狩君、遅刻です。」

「ああ、改めて言わんでもさっきから十分聞こえとる。しっかしまたか、石狩。廊下に立ってろ。」

「はあ~い。」

 古風な罰を与えて教師は授業を一時中断し出席簿を手にして書き込みを始めると首を折って頭だけを垂れた。誠の遅刻を書き加えたはいいが、彼の欄に居並ぶ遅刻の印の行列を目にしたために怒る気力も萎えているのだろうとは教室中の一致した見解である。

 諦めて踵を返し、突入前に伏せていた廊下へと誠が向かおうとした時彼を背中から呼び止める声があった。

「ま、待って、石狩君。背中のそれは、」

「もぉー、何だよ。背中?」

「ええ、あ、あら?」

 誠によく理解できない発言を放った優子は、まじまじと誠の背中を見たかと思えば右目を右手で、左目を左手でごしごし擦ってみせた。もう一度背中を見た優子は自己完結する。

「な、なんでもないわ。さ、さあ、いつものように廊下で反省してきなさいっ。」

「言われなくても行きますよ。なんだよ自分で呼び止めておいてよ、変なの。」

 ぶつくさ言うのも彼の悪癖だが、これも治す気配なく口を動かしつつ廊下という刑場へと向かった。

「先生、授業を続けてください。」

 何事もなかったかのように優子は席に戻り、教師に本道への立ち返りを求めた。

「あ、ああ。じゃあ続きから行くぞー。」

 一方、折角登校したというのに誠は廊下で孤独と罰を心ゆくまで堪能する機会を与えられた。が、今日は、ともすれば今日からは孤独という単語だけとは決別を果たしたようである。

「少しよいか、誠よ。」

「なんだよ、何かまだ言いたいのか?」

「言いたいことなら山のようにあるが、お主先程の女子(おなご)とは昵懇なのか?」

 妙な所に興味を示す剣に、誠は奇異の目で対応した。

「なんだよ、それがお前に何の関係が・・・あ!もしかして惚れたのか?おい、お前、そうなんだろ?何千年生きてるジジイのくせして女子高生に目が眩んだのか?」

 奇異の目はすぐに好奇の目へと変貌していた。色恋の話になるとここぞとばかりに畳み掛ける誠に剣はほとほと幼児性を感じていた。

「何を言っておるか馬鹿者。あの女子・・・我の姿が見えたようだぞ。」

「はあ?普通の人間には見えないんじゃなかったのかよ?」

 誠は目を変えた、剣が他人に見えるとあっては剣に対して話全般の真偽を揺らがせ、他人に対しては不審物を持ち歩く者として疑いの眼差しを向けられるという点で両方向に対して信頼が置けなくなるのだ。いや、掘り進めば信頼問題だけでは終わらない。誠は更に追及の手を厳しくする。

「お前、見えたんだったら承知しないぞ。お前もただじゃすまないんだからな、その辺どう考えてんだよっ!」

「お、落ち着け、落ち着くのだ、誠よ。見えたと言っても一瞬朧げにだ。その証拠が先程のあの者の態度であるな。」

「あの、目をこすっていたアレかよ?」

「そうだ。結界を強めてより深く姿を消したため、あの者も一瞬見えた我を幻か何かと思うたのだろう。もう覚えてもおるまい。」

「なんだよそりゃ、じゃあ最初から強い結界張っておけっつうの。」

「結界を張るのも難儀なものなのでな、最初から普通の人間には見えん程度には張っておったのだがあの女子は普通とは言い難い力を秘めておるようだな。」

「そうか、そんなことを言われると・・・」

 誠は思い当たるような節があるかのように剣から視線を放し、彼女について知る限りを思い出してみた。

「どうやら、思い当たるようだな。申してみよ。」

「ああ・・・あいつは日高優子って言って、このクラスのクラス委員だ。で、生徒会書記まで兼ねてる、『まとめたがり』ってのかな。あのとおり美人だし、校内でもすげえ人気者なんだ。」

「ふむふむ、それで?」

「ああ、由緒正しい神社の子で、子供の頃は全国ネットの番組で『ちびっ子巫女さん』とかって出て、この辺じゃあ大人はみんな知ってるような有名人なんだ。今も家では巫女の手伝いしてるって話だぞ。」

「うむ、なんとなくだが得心が行ったぞ。その神社は霊験あらたかであろうな、あの女子にはそういった力が強い血が流れているのであろう。」

「神社つっても吹いたら飛ぶようなちっぽけな所だぜ?」

「何事も別に大きければいいというものではない。折に触れてその神社に参るがよい、必ず神の加護があるぞ。」

「言われなくてもうちの初詣は毎年そこって決まってるんだよ。だから日高のことも多少は知ってるつもりだけど、本当に凄い奴みたいなのには驚いたな。」

「おお、されば我を手にしたのはそこの神の加護に他あるまい。」

「って、それじゃとんでもない疫病神じゃねえか!」

 突然、ドアを開ける音がして中から教師が飛び出してきた。

「石狩、うるさいぞ!黙って立っておけ。」

「は、はい。すいません。」

 返事は良かった筈だが教師はつかつかと誠の前までやって来て、自らの額と誠のそれを交互に掌で触ってみた。

「ふううん、熱はないようだな。石狩、独り言が多いしやたら声がでかいぞ。お前今日は疲れてるのか?健康だけが取り柄のお前なんだ、なんだったら帰って寝ててもいいんだぞ。」

 その瞬間、教室からどっと笑いが溢れた。的を得ていた教師の石狩誠評が、廊下を注視していたクラス中のツボに入ったようである。

 ただこのやり取りでやはり天叢雲剣は他人には見えていないことは再確認できた。

「やっぱり他には見えていないのか・・・日高だけが特別なんだな。」

「そうだな、あの者の視線を感じた時は冷や汗が出たものだ。」

 一波が過ぎて静けさを取り戻した廊下で、トーンを落として一人と一振りの会話が再開された。

「そういや、お前を拾った時に出会ったあの化物から何も襲ってこないけど、そっちはどうなってるんだ?」

「妖の都合まで我は知ったことではない。ただ、陽が差している内は奴等の動きは鈍るものだ。だからこそ先日の妖も初めて我に触れたばかりのお主でも倒せたようなものだからな。」

「言ってろ、俺はあの時確かに化物を一刀両断してるんだからな。お前を持つだけであれだけできるんなら怖いものなんてないさ、へへっ。」

「慢心するでない。奴等は狡猾だ、何をしてくるか知れたものではないぞ。」

「はいはい、肝に銘じておきますよ、神剣サマ。」

「まるで心がこもっておらんではないか。」

 剣は誠の軽率さを心配した。力に溺れた者の末路を幾人も見てきた経験が彼もまたこのままではそれらの者に続く危惧を感じたのである。しかし当人は遅刻癖と同じように深く考えてはいなかった。


 二時間目は、単に二時間目の教師が誠の遅刻を存ぜぬだけだったが、授業に加わることを許された誠は一見は真面目に勉学に勤しんでいた。実は一見ではなく本人は至極真面目である。なにせ遅刻魔として評価が悪いため、赤点でも取ろうものなら部活禁止、若しくは土日に補修授業、つまり漁に出ている暇をなくされるのでいずれも御免だとばかりに励んでいるのだ。その位の気概があるなら最初から遅刻をせねばいいと言うのに、惰眠だけは止められないらしい。

 そして一日真面目を通して勉学を終了すると、彼には部活動が待っていた。さっさと教室を発ち、道すがらの空気から意気を補充するように揚々と部室へと移動する。

「いいな、ここで大人しくしてろよ。まさかお前を背負って動くわけにはいかないからな。」

「うむ、それはいいが一朝ことあらば我はお主の前に飛んで来るぞ。」

「わかったって、じゃあな。」

 邪魔な剣は大人しくロッカーに閉じ込め、体操着に着替え部室から出てきた誠は念入りな準備運動の後、グラウンドに飛び出した。肩が凝る学問の徒からようやく自分の領域である体育会系の方面へと羽根を広げられる時間がやって来たわけだ。

 彼はサッカー部に所属していた。実力も折り紙付きで力量だけで言えばトップストライカーの位置にあった。が、この部の現トップは違う人物であった。誰かと言えば三年生の中で最も秀でた先輩がその位置にある。この学校のサッカー部は伝統的に年功序列が生きており、実力は後輩の方があれどもレギュラーポジションは先輩の方が獲ることとなっていた。誠としてはこの伝統には忸怩たる思いを持っている、だがそれは口にしない、何故なら現在のエースである先輩もまた前年の三年生に同じく実力差を持ちながらレギュラーになれなかったという一年前の状況を見てきたから。伝統だとか由緒だとか、ただ昔から続いているというだけのものには拘らないが義理などは重んじる傾向にあるのが彼の特徴である。この付近に天叢雲剣の神格性、重要性を理解しようとしない理由の一端も垣間見える。

「よーし、みんな集まれー。」

 顧問の呼びかけに誠も含め部員全員が集合する。

「今日は紅白戦だ、レギュラーとサブに分かれろ。」

 部員達のテンションの上がりようが歓声となって響いた。トレーニングより試合形式の方が俄然と熱を帯びる。ここで部員たちは二手に分かれた、レギュラーは要するに三年生、よってサブは一、二年生チームということになる。サブの方が人数は多くおよそ倍になるのでこの形式の場合、誠達二年生は前半十五分の出場で、後半十五分を一年が出てくるのが基本であった。

「誠、今日も頼むぜ。」

「ああ、ってーかお前も頼むぜ、俊。」

「大丈夫だって、心配御無用!」

 ホイッスルとともに誠は俊と呼んだチームメイトと共にドリブルで敵陣の只中へ飛び込んで行く。先輩の意地とばかりに誠の前に守備陣が三人も壁を形成する。

「さあこい石狩、今日こそお前を止めてやる。」

「いや、それは僕がやってみせる。」

「いやいや、俺っちこそ。」

 数の優位はあれど連携の悪さを突いた誠はこれを一枚、二枚と交わしたところで横一線にいた俊にパスを出す。難なくボールを受け取った俊は付いていた一枚の壁をやはり難なく交わし一気にゴール前に迫る。

 いざ!と後ろに足を振り上げキーパーも打つものだ、と身構えた所へ俊は器用に足の裏側を使って横にボールを蹴り出した。

 そこに丁度走り込んだのが誠だった。向かってきたボールを直接蹴り込んでシュートを決めた。

「よっしゃあっ!」

「やったな、誠。」

「俊もナイスアシスト、サンキュー。」

 誠と俊がハイタッチで称え合う。彼、上川俊は去年の入部時に誠と初めて顔を合わせたのだが、二人はやたらと息も馬も合い、それ以来ずっと練習を共にしてきて部内随一の名コンビと賞賛されていた。ドリブルやパスの上手さに加えどちらも決定力まで備えているので相手側としてはどちらかに山を張って集中的にか、二人のみに均等且つ集中して守備を敷いている。今回は前者だが実力差がいかんともし難く、毎回いいようにしてやられる先輩たちであった。

 尚、たとえ先輩後輩であってもどちらも手は抜くな、これは現三年生から固く言いつけられている言葉である。よってこの紅白戦も誠も俊も本気で先輩たちに向かっていき、言いつけを大いに遵守した結果としての先制点である。

 三年生達も、できる二人を留めてのレギュラーということで発奮の材料になっているが、それだけで勝てるほど甘い勝負はないらしく、来季の二人の活躍による飛躍を期待するところ大であった。

 結局サブチームの五対二での勝利となったところで、負けたレギュラーには顧問から愛の贈り物、グラウンド十周が贈られた。

 勝った一、二年生チームにはボールを使った練習時間が与えられ、各々ポジションに合った自主練習に取り組む。誠と俊は攻守に分かれてドリブル突破の練習に入る。

「行くぞー!」

「来ーいっ!」

 俊がボールを転がしながら誠目掛けて突っ込む。それを足を広げ身体を大きく開いて立ちはだかる誠。二人のマッチに周囲の部員達は暫し自分の練習の手を止めて推移を見守る。

 俊が右に動く、合わせて誠も左に動く。

 と見せかけて左に動く俊に誠はピッタリと食らいついた。

 振り返ってボールを遮二無二キープする俊に対してプレスをかける誠。

 踵で蹴り出し誠の股の間にボールを通らせて自らは急速ターンして壁をかわしつつボールを再度キープする。

 誠はバランスを崩して膝を折り、俊が確信の笑みを浮かべる。

 勝負あり、俊の勝利である。

「へっへー、俺の勝ちだな。」

「くっそー、今日は負けたけど明日は見てろよ。俺が勝つからな。」

「ふん、見事返り討ちにしてやるよ。」

「言ってろ。」

 アームレスリング的な形の握手を交わし、二人はまた互いに称え合った。そこへ数瞬のショーに魅せられた部員達の拍手が上がる、二人の実力への信頼がそこには現れていた。

 以後も練習を続け、十周を走り終えた三年生も交えて時に個人技を磨き、時にチームプレイの確認を務めて終始良い雰囲気で部活動が続けられた。


「おーーーいっ、今日の練習はこれで終わりだ。集まれー!」

 顧問が大声で、グラウンドに広がっていた部員全員に聞こえるよう終了の声を送った。学校の一応の規則として公式に部活動の練習は十七時までというルールがある、といってもどの部でも形骸化して自主的に居残りで練習、作業する部員は大勢いるのは事実であったが。

「今日はこれから雨も降るし、みんな早めに帰れよ。では解散!」

 顧問の一声で本日の部活動は終了した。確かにもう少しで天の恵みが降り注ぐような怪しい雲が天を包まんとしていた事もあってか早々に部室に戻って着替える生徒が多数の中、誠達五名にも満たない二年生だけが居残る気満々で再度グラウンドに散って行こうとする。

「あれ、俊。お前は今日はいいのか?」

 自分とは異なる方向へ向かおうとする俊に対し、誠は疑問を投げかけた。普段ならいつも自分と一緒に心ゆくまでボールと戯れていた筈だからだ。

「あ、俺今日から予備校に行ってみるんだ、ごめん。」

 あまり予想に易いとは言えなかった答えに誠は少し面食らった。自分も大概だが、俊の方も同じく勉学にそれほど励む方でもなかったと認識していたからだ。

「そうなのか?まあ頑張れよ。」

「団栗の背比べなお前が言うなよ。」

「いけね、それを忘れてた。」

 自虐に笑みを浮かべる誠に比して、真剣さを少量滲ませた表情で俊が言う。

「誠・・・来年は国立行こうな。」

「ん?あ、ああ。当たり前じゃないか。」

 国立、つまり国立競技場であり全国高校サッカー選手権の決勝の事を隠喩していた。彼らの決意は固く夢は壮大だった、後の問題は全国に同じ決意と野望を抱く同類が何名いるか、という点だけである。

「そうだっけな、じゃあな。」

「ああ、じゃあな。」

 二人にとっては今更な科白を吐くことに奇妙を覚えながらも誠は居残り練習の輪に加わっていった。

「お前らも早く帰れよー!」

 顧問のここから先は放置する意の発言を背に、残った数人は練習を再開した。それにしても雲は黒みと厚みをずんずんと増していき、解散から一時間と経たない内に遠くのボールも見辛い明るさが彼らの意欲を蝕んだ。

「もうこれじゃあまともに練習できないな、今日は上がろうか。」

 誰となく言った発言に全員が賛同した、もう少しコンディションが良ければいいのだが残念なことにこの学校にはグラウンドを赤々と照らせるような照明設備は設置されていなかった。

「じゃあ俺、後片付けしておくから。」

「いいよ、全員でやろうぜ。」

「だって俺は家近いからさ、みんなそれなりに掛かるだろ、先行ってくれって。」

「あ、ああ。じゃあ頼もうかな。」

「任せとけって。」

 誠は進んで後片付けを買って出た。サッカーの実力はあれどもそれを鼻にもかけず下働きも全く厭わない姿は部員達から賞賛の目で見られている。これでもう少し勉学にも傾斜していたらと、天叢雲剣などは思うのであろう。何せ彼の保護者達、特に男衆は脳も筋肉のように鍛えればいいという方面に思考の向く質なのであり、その徹底さたるや誠は小学校以来、家族に勉強を教えてもらった試しがない事で証明されていた。

 皆して素早かったのか、誠が十分程掛けて後片付けを終えて部室に戻って来ると、先程まで同じボールを蹴っていた面々は既に帰った後であった。空を見上げては誠も急ぐべきだという思いに駆られる。

「もう降りそうだなぁ、早くしないと。」

 部室の中は一人きり、ぱっぱと制服に着替え直してさあ帰るぞ!という気合に満ちたところへロッカーの内へと立て掛けておいた剣が叫びかけてきた。

「来たぞ、誠!」

「な、なんだよ、びっくりさせるなよ。来たってなんだよ?」

 物音を立てる存在が自分ひとりになったところで誠には多少の油断があった。雨と疲労で帰宅することばかりを気にしていたことも気が緩んでいた一因は否めない。

「察しろ!我が来たといえば妖の類に決まっておろう。」

「なんだって!?」

 剣に直接的に言われて誠はようやく迫りくる危機を理解した。今まで平凡な一高校生であったのだから気持ちを切り替えろと言われても無理はあった。が、やらねばやられるという生存本能に語りかけてくる気持ちの高ぶりは感じられている。

「どこから来るんだ?」

「朝方、そこの広い庭に入ってきた門があろう。その向こうから真っ直ぐ学び舎に向かってきておる。」

「そうか、よし!」

 誠は剣を手に取り、部室のドアを開けて外へと踊り出た。これを持つことで自分が単体では成し得なかった力を引き出せることが彼の異形の者に対する自信に繋がっており、腰が引けて物怖じなどはまるでしていなかった。

 校庭まで出てきた誠はじっと校門の方向を凝視する、彼の目にはまだ何も見えていないが、剣は敵の接近をひしひしと感じるらしく、戦闘用意を促す。

「さあ抜け、我を抜いて構えるのだ。」

「言われなくても、やるさっ。」

 再び天叢雲剣の刀身が放たれる。あいにくの曇天が輝きの元である陽光を遮り眩きこそないが力はやはり誠の身体を駆け巡る。燃えるような漲りを感じ五感が鋭く作用し、彼の視界にも魔物を捉える事ができた。

「見えた!ん?今度は一匹じゃないのか?」

 彼の視界にはこの間のような獣の魔物が三匹映るのが見える。

「そのようだな、しかしたかが三匹など我の力の前では問題はない。問題なのはこれが組織だった動きかどうかということだな。」

「どういう意味だ?」

「先日、我らは一匹の妖を屠ったな。」

「ああ、はっきり覚えてるぜ。忘れようにも忘れられないだろうけどな。」

 つい数日前の衝撃的な出来事を誠は思い出す。記憶と凡そ違わぬ異形の物体が今度は複数目の前に現れ、どれもが喉を鳴らして殺気を放っている。

「そうだ、あの時は一匹で敗れたから本日は三匹でかかろうという事かどうかだ。」

「俺もそう考えるかもな、それの何がおかしいんだ?」

「相変わらず頭の回らぬ奴だな。」

「うるせえっ!」

「よいか、お主でも考えられるという問題ではない。一匹で敵わぬから三匹だ、という考えが誰か意図した者がおるならばそれが問題なのだ。意図した者がいれば、それは即ち我らの敵は物事を論理的に考えられる集団ということになるのだ。」

 勿論、偶然や本能による行動である可能性は無視できないが、それなら余裕で対処ができる。剣は敵の組織だった動きのみを危惧していた。

「あ、悪の秘密結社みたいなのがあるってのか?」

「我にもそこは分からぬ。しかしその可能性は、ある。」

 誠は足りないと揶揄された脳細胞を活性化させて考えてみた。得意のサッカーに例えれば、たとえ十一人全員で襲いかかられたところで味方との連携もなく、ただ個々人が突っ込んでくるならそれはやりようがある。だが互いに目的を持ってコミュニケーションが取れた状態なら三人で作られた壁でも突破は容易ではない。丁度先だっての紅白戦で我先にと自らに立ちふさがって連携を欠いた先輩たちの守備陣が良い例である。あの時も一人一人が目的を被らせず集団でボールを奪おうとしていたら、果たして誠は最終的にシュートを決められていたか、その可能性こそ低かった。

「そうなったら厄介だな、なんか考えはないのか?」

「ううむ、如何せん相手の情報が不足しすぎておる。我が以前地上にあった頃は組織だったとは言っても小さいもので大した労もなく討ち滅ぼせたものだが。おお、そろそろ考えていられる時間は終わりのようだな。」

 見れば魔物達は校内に侵入し、徐々に間合いを詰めつつある。この仕草は先日の妖とも一致していた。ならばそれぞれをよく見れば三匹に増えたところで問題はないと、誠は相手の知恵を獣レベルと侮った。

「よし、一丁やるか。」

 今日は誠の方から動いた。一匹一匹と片付けていけばトリプルヘッダーとはいえ個人戦に持ち込める、そうすれば昨日のように絶対的な実力差を遺憾なく発揮できると踏んだのだ。

 一匹目を自分の間合いに捉えた、神速の剣裁きがそれを捉えようという瞬間に視界の外から何者かが飛びかかってきた。

 二匹目の魔物であった。一匹目に向かわせた刃を回し、二匹目の爪を受け止めて払う。その隙にまた三匹目が時間差で襲いかかってくるのでなんとか攻撃を払う。

「いかん、一旦離れろ。距離を保て。」

「言われなくたって、そらっ!」

 ばっと後ろに跳んで誠は魔物達との距離を取った。奴等も深追いの姿勢は見せず、今味あわせた集団戦法を反芻させ恐怖感を植え付けようかというように動かなかった。この段階では、攻勢に転じた隙を見せれば天叢雲剣の餌食になる未来が覆せていないのだろう。

「ちっ、厄介だな。チームワークができてやがる。」

「こ奴等、集団の戦いに慣れておるな。他のために自分が盾になることを厭うておらん。確かに厄介だぞ。」

 昨日のように一撃必殺とはいかず、誠と剣は戦術の練り直しを迫られた。だからといっていつまでもにらめっこを決め込むわけにもいかない。人の動線が入り乱れる学校という場所柄いつ誰がひょっこりと顔を出してくるか分からないのだ。魔物、それと戦う己の姿を見せつけるわけにはいかないし、また出てきた誰かが魔物の目標にならんとも限らない。力量差はあれども時間に迫られるのはむしろ誠達の方である。

「落ち着け、落ち着けば難なく倒せる相手だ。」

「分かってるよ!」

 誠は剣に強がってみせた。敵には弱みは見せられないが、ついぞ上からの物言いばかりする相棒にもまた弱みを見せたくなかった。そこではっと彼は思いついた。フェイクというやつだ、簡単に言えば右に進むと見せかけて左に進むという相手を騙す手法。これなら行ける!と自信を漲らせる。

 誠はこう考えている。ワンパターンに一度目と同じく一匹目を狙って突進する。すると二匹目がまた割り込んでくるであろうから突進を途中で止め、二匹目を誘い込んで叩く。返す刀で三匹目も斬れば後は一匹になる。そうなればこっちのものになる、と。

「剣よ、また行くぜ。」

「何か思いついたのか?」

「ああ、きっと上手くいく。それっ!」

 誠は思い切ってまた突進した。単調な奴だ、と魔物にも思われたのかもしれない。むしろ思われたのならそれこそしめたものである。そして奴等は誠の願い通りにさっきとまるで同じ行動を取ってきた。待ってましたと誠は急激に勢いを殺した、あるべき場所に獲物を見いだせなかった二匹目の爪は空を切りそのまま天叢雲剣の一閃に体を差し出した。

「まず一匹!」

 斬られた魔物はやはり原子に還元するかのように細かい粒子の集合体と化し、やがて煙と消えた。だんっと地面を蹴って誠は三匹目に襲いかかり、懐に飛び込みつつ剣を縦に振り、三匹目も真っ二つに切り裂いた。

「あと一匹!」

 最後の一匹を捉えようと剣を構え直したその時、彼には不用意だったが当人には当然の権利とばかりに校舎から誰かが出てくるような物音がした。間が悪いと、見てもいない誰かを詰りつつ彼はちらりと目をやり人物を確認した。

「あっ、日高!日高なのかよ。」

 間が悪いと不当に評されたのは優子だった、誠にはよりにもよってという思いが湧く。生徒会にも所属しているから下校が遅くなることは珍しいことではないが、どうしてよりによって今この瞬間に出てくるのかと、彼女の家が祀る神に文句の詰め合わせでもくれてやりたい心境になった。しかし今は箱いっぱいの文句より一人の行動が求められる緊急事態であった。

 残った魔物もまた優子の姿を発見していた、すると何を思い優先したのかそれは目標を誠から優子へと変更し、持てるだけの足のバネを酷使して誠の元を逃れ優子へまっしぐらに襲いかかった。隙を突かれた誠は初動で後塵を拝する、それでも敵の動作を見て瞬時に狙いが変更された事に気付き、すぐさま後を追った。

 剣を握っているお陰で脚力も超人的な域に達していたが相手はそもそもが人外の化生、いずれは追いつける速度差はあったがゴールはほんの数百メートル先の優子である。そこまでに追いつき尚且つ一刀を浴びせるにはまだ速度が足りないのは判断できた。

「日高ーっ!逃げろおっ!!」

 誠は大声で叫んだ。優子は耳が向いていなかったこともあり叫びが聞こえはしたが内容まで聞き取ることはできなかった。しかしこの時は内容が聞き取られなくとも叫びは一定の成果を上げることに成功した。声に気づいた優子が発声源に向き直り、迫り来る脅威に気付き得たのだ。

「何?えっ、きゃあああーーーっ!」

 優子は咄嗟の判断で頭を腕で覆ってしゃがみこんだ。魔物は彼女の上半身に向け飛びかかっており、ゼロコンマ何秒前であれば頭部の存在した空間をそれの爪が虚しく通過し、数メートル先に着地を見た。

 運のいい奴だとでも思ったか、すぐさま全身を振り向かせて次こそ、と感じられる姿勢を取った魔物だったが数メートルの飛びすぎがそれに次なる攻めの機会を永遠に消失させていた。へたり込んでいる優子を飛び越えて追いついてきた誠が右肩より剣を振り下ろした。妖がこの世で最期に見たのは剣の軌跡であった。妖は消え去り、誠は勢いそのまま脚力に物を言わせ優子の視界が届かない物陰まで駆け抜けていった。

 襲いかかる猛禽を辛くも避け、それが何者かにより長い刃物、多分剣の類で斬り捨てられ、斬られた物は粒のように分裂して消えてしまう一連の流れを優子は目の当たりにしていた。自分は今の剣を振るう誰かに助けられたのか?と出来事を思い返していた、しかしあまりの出来事にショックが脳の回転を妨げていたばかりか、目と口は仲良く見開き挙げ句に腰まで抜けていてほぼ茫然自失の状態で、満足に立ち上がることすらままならなかった。

 やがて雲の厚みが保有する水分量に耐えきれなくなり、しとしとと降り出した雨が動けない優子の全身を濡らす。

 彼女が去るのを待ち、成り行きを物陰からじっと見守ることになった誠はまるで動かない優子の姿をやきもきしながら眺めていたが、いよいよ降り出した雨にすら山のように動じず姿勢を維持する彼女についに我慢が限界点を迎えた。

「おい、どこへ行く?」

「決まってるだろ、あいつをあのままにしておけるかよ。」

「待て、あの女子はお主の顔も見ているかもしれん。今出ていっては怪しまれるだけだぞ。」

「んなことは分かりきってるさ。だけど、やっぱり放っておけねえって。」

「待てというに!」

 剣の忠告はもっともと首肯はしておきながら、誠は己の信念を曲げることはできなかった。雨に打たれ続ける同級生の女子を見て見ぬふりなどできなかった。

 優子が我を取り戻した時、雨は止んでいた。正確には彼女の周囲半径六十センチだけに雨粒が落ちてきていなかった。傘が差されていたのだ。でも自分は傘を手にしていない、傘を握る手から腕、胸から顔へと視界を変化させていくと、見知ったクラスメイトをそこに確認した。

「い・・・石狩君?あたし、どうしてここに?」

 記憶に混乱が見られる優子をして、嘘の下手な誠は取ってつけたように取り繕おうとする。

「あ、ああ、なんかよく分かんねえけど。あれ、雷でも落ちてびっくりしたんじゃねえのか?」

 嘘を付き慣れず、顔のろくに使わない筋肉がひくひくしてくるので優子の方を見ずに誠は返答している。剣はと言うと、誠の背で気を利かせようと念を発する。

(ガッシャアーーーーーーーン!)

「きゃあっ。」

 剣の力ですぐ近く辺りに落ちた雷が轟音を優子達の耳に届けた。思わず彼女は耳を塞ぐ。

「ほ、ほらな。さっきもこんな音がしたから、それに驚いたんじゃねえのか?まったく、高校生にもなって雷で腰抜かすとかさ、日高も可愛い所あるんじゃんか。」

 剣の機転であることはなんとなく悟り得た誠は嘘に嘘を積み重ねた。混乱の最中より抜け出せていなかった優子は薄い意識で言われたままを事実のように捉えつつあった。

「そ、そうなのかしら。でもそんなじゃなかったような。」

「多分そうだって。そ、そんな事よりこんな雨の地面に座ってたら風邪引いちまうぞ。ほら、立てるか?」

 誠は傘を左手に持ち替えて右手を優子に差し出し、優子は彼の好意を素直に受け取った。

「う、うん。ありがとう。」

 彼に持ち上げられるようにして優子はようやく冷たい地面から体を起こされた。ところがまだ足に力が入らなかった為、起こされると同時に足が縺れ体ごと誠の胸に飛び込む形になった。異なった意味で更に優子は心の動揺を抑えきれず、すぐに彼の胸の内から飛び退き俯いた。

「ご、ごめんなさいっ。」

 礼を述べた次は謝罪を発したりと忙しない一幕を演じる優子に誠の反応はいまいちであった。彼は彼の方で、彼女が気付いていないか訝しげており嘘まで付いては心が半分現実に向き合っていなかったのだから。優子の方は異性が心ならずも胸に抱きついてきておきながら、自分は心臓の鼓動を上げているというのに相手の反応の薄さに些か気分の乱高下を感じた。

「あれ、石狩君、足?」

「ん?あれ、なんだこりゃ。」

 見れば制服の左脛が半分鋭利な刃物で切られたようにぱっくりと口を開けていた。おそらく三匹との戦闘の最中にいずれかによる些細な戦果を付けられたのであろう。誠は裾をめくり足自体を確認してみたが傷一つなかった。制服が半分もやられていればそれなりの傷を負っていて然るべきところだが、気付かぬ内に剣の超常的治癒能力が働いていた。剣の持つ能力がここでまた一つ証明される形となった。

「何てこたあないさ。服だけは母さんに縫ってもらうか。」

「クシュンッ。」

 優子は容姿に似つかわしい可愛いくしゃみを出した。この現象に対し二人は本格的に風邪を引く前兆という認識で一致していた。

「ありゃあ、これまずいんじゃないか?」

「うん、早く帰らないと。」

「でもお前ん家、山の上だから二十分はかかるだろ。」

 何せ誠も毎年初詣に行くくらいであるから優子の家である神社は大凡のクラスメイトが周知していた。学校からも臨める山上にあり、視界にはありながら坂道の連続と曲がりくねった山道という双生児の為に見た目以上に困難な通学路の先である。

「うん、まあね。」

「うちに来るか?多分もうじいちゃんが入ってるだろうけど風呂も沸いてるから、温まるには打ってつけだぜ。勿論それでもよければ、だけど。」

 誠としては女性に優しく、という家庭の教育の賜を披露したに過ぎない。また、自分が討ち漏らしたから優子が被害に遭ったとも考えられ、そのせいで風邪を引かれたとあっては寝覚めが悪いとの二つの正当な理由で彼は自宅への誘いをかけており、他意は本当に毛頭なかった。

 暫し考えた優子は少し戸惑った様子で彼に答える。

「そ、そうね。申し訳ないけど、ちょっとだけ・・・お邪魔させてもらおうかしら。」

「そ、そうか・・・いいぜ。」

 OKを受けてから男には今更のように自分の大胆な提案に気恥ずかしさが芽生えてきた。他意はないのだから何を逡巡することがあろうかと自分に自己正当化を訴えかける。

「お主、上手いことやったな。」

 剣が思い込みで誠を冷やかしてきた。

「バ、バカッ、そんなんじゃねえって!」

「何か?」

「な、なんでもないよ。」

 元々いくら注意されても治らない悪癖があるとか、自己管理がしっかりしている優子からすると誠は以前から理解しにくい存在であったが、今日の彼は今まで以上に優子の理解力が届かない、まるで見えない何かと話しているような行動が多かった。実際に普通なら見えない物が見えてそれと会話しているのだから仕方ないとは言えるのだが。


 帰り道、優子にとっては寄り道のそれは二人にとって想定外であった。二人して傘を持っていなかったので優子を雨から庇っていた高校の置き傘が一本は調達できたがもう一度置き傘立てを見てみると在庫切れを起こしていたのだ。つまりこの一本で二人が雨を避けねばならないわけで、この条件を満たすためには二人で一つの傘に入るしかなかった。所謂『相合傘』である。

「い、嫌ならいいぜ。これ一人で使えよ。」

「一人でって、じゃああなたはどうするの?」

「海でいつも濡れてるんだし、雨くらい走り抜けたらどうってこと無いさ。」

 誠の発言はクラス委員兼生徒会書記という肩書を持つ世話焼きの優子にとっては看過できない言い分があった。

「そういうわけにはいかないわよ。あの、べ、別に構わないわよ。」

「へっ?」

 実に気が抜け間も抜けた返答を返して煮えない誠に優子が業を煮やした。

「へ、じゃなくって・・・別に一緒に傘に入ってもいいわって言ってるの。ただ、あたしびしょ濡れだから・・・ごめんね。」

「あ、ああ・・・大丈夫、だよ。」

 女性に謝意を伝えられてまでとなると、誠は心を多様な意味でくすぐられた。大人しく彼女の発言のままに、いや彼女の好意に甘えるべきかとの結論に達した。学校から五分の道のり、普段より少し甘い香りのする帰宅の路を歩んでいた。

「若いとは羨ましいものだな、お主。」

 暫くは剣の茶々にも彼は一切無言を貫き通していた。


「ただいまー。」

 勝手知ったる自宅の戸を開けて誠は帰宅を告げた。いそいそと玄関から奥に入ろうとする動作に優子の声が制動をかける。

「ちょ、ちょっと待って、石狩君。」

 言葉なげに誠は疑問の顔で振り向いた。

「あたし、上がっていいのかしら?」

 何を今更、と誠は思う。家の玄関まで連れてきておいて入場券を発行しない話はとかく見聞の経験がない。疑問の顔が解けない誠を見て、優子が更に続ける。

「あの、だってこんなにびしょ濡れで、人の家に上がるわけにはいかないわ。」

 見れば確かに頭の天辺から靴先まで水が滴っていたが、それを決して水も滴るいい女と表現できない様なぐしょ濡れの衣を纏っていたので躊躇はむしろ当然である。

「大丈夫だって。じいちゃんも親父も海水だろうと泥だろうとひっついたままで家の中ウロウロしてるんあだから。」

「い、いえ、それは・・・」

 それは自分の家だからだろうというものだったろう。優子は他人であるだけに誠の言葉が免罪符とはならないでいた。

「なんじゃあ、友達でも連れてきたのか、誠よ?」

 風呂上がりで作務衣姿の勇が玄関先での聞きなれぬ声との会話を聞きつけ二人の前にやって来た。すると勇は目を大きく丸くさせ、

「な、なんと!お・・・おお、おおっ!」

 何処から発しているのか不明な声を上げた。

「一!一はどこじゃ?恵さん、恵さん!誠が、誠が女友達を連れてきおったぞぉ!!」

 あまり経験がない様を目撃して上気したらしい勇は声を張り上げて奥へと家族を探しに行った。祖父の自由さに孫のほうが赤面し、顔に手を当ててばつの悪さを表現していた。

「あちゃあ・・・気、気にしないでくれよ、日高。」

「え、ええ・・・」

 勇との温度差が二人のそれぞれの時間をゆっくりと流させた。その内に次は勇の大声に何だと言わんばかりの一が二人の前に襖の間から顔を覗かせる。

「おう、誠か。じいちゃんのあの騒ぎようは何だ?あっ!」

「親父、ただいま。実はさ、えっ?」

 誠の話を待たずして一はずかずかと玄関までやって来たかと思うと誠の頬を思いっきりひっぱたいた。誠は立っていられずにその場へと腰が砕かれたように崩れた。

「痛え~、いきなり何すんだよ、親父!」

「いきなりもくそもあるか!あれほど女にゃ優しくしろって言い聞かせたつもりだってえのにこんな可愛い子をびしょ濡れにさせるたぁ、バカ息子にも程があるぜ!」

「えっ?」

「えっ?」

 現在の状況証拠だけで勝手な結論を立てた年長者の短慮が年少者の二対の目を丸くさせた。誠はすっくと立ち上がると自らの潔白を主張しようとする。

「違うって、何言ってんだ親父。」

「言い訳するとは更に見下げ果てた奴だ、このっ。」

 更にもう一発の平手打ちが誠を襲う、両頬を朱く腫らせた誠は再度へたり込んで床と蜜月を築く羽目になった。

「っ痛てえ~、だから違うって言ってんだろ!」

「まだ言うか、このバカ息子っ!」

「ま、待ってください!」

 意を決した優子が二人の争いの間に割って入り、一の再三に渡る平手打ちの来迎の前に身を晒した。一の腕が最大限で制動をかける、彼女の十センチ手前で平手が宙に止まり優子に危害を与えるには至らず大事は回避なった。

「お、お嬢ちゃん。なんだ、どうしたんだ。」

「違うんです、お父さん。石狩君は私がびしょ濡れなのを見かねて家に連れてきてくれたんです。」

「えっ?」

 次は一が目を丸くさせた。自分の思い込みとは全く異なった事情を告げられ、思考を巡らせる。流石は脳筋と揶揄できる男の面目であろうか、頭より先に手が出ていた反省が頭を過ぎる。

「あっ、あ、ああ。ああっ!」

 ようやく状況と事情に納得がいった一が手を下ろし優子の頭に乗せる。

「そ、そうかそうか、冷たい雨ですっかり冷えたろう。風呂が沸いてるからゆっくりしていきなさい。ん?よく見たら日高さんとこの嬢ちゃんじゃないか。」

 一家で初詣に行くような神社である。その上一はの神社の神主、つまり優子の父とは知己があるので優子のこともそれなりに知っている。

「は、はい、優子と言います・・・父がいつもお世話になっています。」

「いやいや、世話になってるのは俺の方だ。いつも旨い酒をご馳走になってるからな。そうかそうか、優子ちゃんか。いつの間にか大きくなったなあ。」

「いや、当たり前だろ。俺と同い年なんだから子供のままなわけないっての。てゆーか親父、この張り倒された分どうしてくれるんだよ。」

「あ、ああ、それか。それはな・・・それだ、紛らわしく玄関に居座っていたお前が悪い!ああ、そういうことだ。」

「な、何だよそれ!言い訳するならもっと立派な言い訳してみろよ。」

 一は頭の中に反省の二文字は過ぎったがそれをこの期に及んでも表に表そうとはせず自分の非は認めたがらぬ父、勇譲りの頑固さを見せていた。だが頑固さは息子にも遺伝を示し、誠も引き下がらぬ姿勢を見せている。

「あ、あのぉ・・・」

「あーらあら、みんな仲がよろしいのね。」

 一触即発にして優子も立ち往生という場面に水を差しに現れたのは恵であった。父と息子の間に割り込み、所在を失っていた恵を引き取り、持っていたバスタオルを頭からかけてやる。さらに手には恵専用の石鹸等バスセット一式も所持している。

「ほら、可哀想に。こんなにビショビショの美人を放り出してうちの男はいつまで油を売ってるんでしょうね。」

「あ、ありがとうございます。」

「いいのよ、ほら。こっちにいらっしゃい。おじいちゃんが入った後だけどお風呂が沸いてるから入って温まりなさい。」

「は、はい。」

 恵に優しくエスコートされ、優子は風呂場の方へとようやく足を進めることができた。

「あ、でもあたしのせいで床が。」

 優子の歩いた後ろには彼女から

「いいのよ、あの分からず屋のお父さんが奇麗にしてくれるから。ね、一さん。」

「え、なんで俺が?」

「いいわね、一さん。」

 恵は笑っていた。笑ってはいたが反問を許さない、次はないというオーラが一だけにははっきりと感じ取られた。ここは引き下がらねば不味い、長年の夫婦関係が彼に危険信号を必死に伝えていた。

「は、はい。やっておきますです。お嬢ちゃんはゆっくり温まってきてくださいね。」

「は、はい・・・」

 豹変を極めた一の口調は優子に引きを感じさせる。長年この豹変を見てきている筈の誠にすら自分の父をじとりとした視線で一種の侮蔑を向けている。

「ああ、マーくんも早く着替えなさいね、この子はお母さんが責任持って介抱しますからお部屋で待ってるのよ。」

「マ、マーくん?」

 高校生くらいの年頃が母親から呼ばれるには幼そうな呼び方に優子は再び引きを感じた。それに誠も気付きかなりのばつの悪さを感じた。

「母さん、人前でそれは止めてよ。」

「あらあら、ごめんなさいね。マーくんが帰ってきたと思ったら、つい。」

「つい、じゃないよ。」

 言い足りない誠を尻目に恵は優子を連れて風呂場の方へと立ち去っていく。次に顔を合わせる時はどんな顔をしておけばよいのかと誠には宿題が残されてしまった。


「じゃあ、ごゆっくりね。」

 優子は恵に手渡されたバスセットを手に、代わりに恵は上から下まで濡れきった優子の衣類を全て頂戴する。優子は風呂へと、恵は何処かへと立ち去る。きっと洗濯まで世話になるのだろうと彼女は申し訳なく思った。

 身体を丹念に丁寧に洗い湯船に方まで沈んだ優子は放課後の出来事を思い出す。

「雷にびっくりして腰を抜かしていたですって?・・・あり得ない、絶対そんな音聞いてないわ。」

 剣の機転による落雷も虚しく優子の記憶は整合性の構築を伴って回復しつつあった。狼のような何かに襲われた・・・狼のようなものは斬られて消えた・・・助けてくれたのは制服を着ていたから自分の学校の生徒・・・人気が少ない放課後に残っていた誠・・・数々の点を線で繋ぐと一つの仮説に辿り着いた。実は仮説は真実を突いていたのだが、仮説のあまりな非現実的な様相に自分でも突拍子の無さに戸惑いを覚え、口まで湯船に浸かって仮説の封印に努めた。

 一方で預かり知らぬ所で仮説にかけられた中心人物は、父に叩かれた両頬の痛みを未だに覚えつつ自室で剣に説教を食らうという突拍子も無い現実に晒されていた。

「お主の優しさを否定する気はない、人が人であるために重要な感情であるからな。しかし同時に軽挙さは褒められたものではない。」

「じゃあどうしろってんだよ。あのまま日高を雨の中で放っておけってのかよ。」

「そうとは言うておらん。少し考えれば他にやりようはいくらでもあったのではないかと言いたいのだ。お主は頭を回さずに手が動くという悪癖があるようだからな、この際それは美徳ではなく欠点と言わざるをえん。」

「大きなお世話だ、先に手が動くのは生まれつきなんだ、仕方ないだろ。」

「その物言いが頭を回すことを放棄している物言いなのだ、だいたい我の力が公になるのは不味いと言い聞かせたのはお主ではないか、分かっておるのか。」

「ああ分かりませんね。」

「だから考えぬ内から口にするな!」

 自分の言うことをまるで理解しようとしない人間に困惑を隠しきれない天叢雲剣。神の力を宿すはずが一人の人間すら諭せないとは情けなさすら感じていた。

「マーくーん、皆さーん、ご飯よー。」

「はーい。」

「こ、こら、話はまだ終わっておらんぞ・・・行ってしまったか。」

 恵の呼びかけが聞こえ、誠は剣の小言も中座してどたどたと部屋を後にする。剣は追うこともせず己のみで暫しの長考に入る。

 食堂の襖を開けた誠は我が家という陳腐さに満ちた空間で新鮮な驚きに襲われた。

「えっ、日高?」

「え、ええ。お母さんに借りたんだけど・・・変?」

「う、ううん。」

 食堂には皿を並べる優子の姿があった。しかも恵の服を着ているではないか、若々しく普段の服装も年不相応なものが多く十代の女性が着るのでは?と思わせる恵の服は、十代の優子には丁度良い雰囲気を醸し出させており、誠は生唾を飲みこみ、言葉も出てこずにいた。彼が何も言わなくなって自分を見つめている様はかえって優子に劣等感を抱かせる。

「やっぱり、変なのかな?こんな可愛い服、あたしには似合わないから。」

「そ、そんなことないって・・・俺は、制服しか見たことなかったから新鮮っていうか。」

 素直な気持ちを話したのだったが、優子はあまり嬉しい顔を示さなかった、言葉の選択を間違えたかと焦る誠の気持ちは関せず優子が語りだす。

「ありがとう、お世辞でも嬉しい。」

「お世辞じゃあ・・・」

 劣等感が少なからず心を苛むためか、優子は彼の褒め言葉を言った通りの意味に捉えることができなかった。目の前の男は世辞を舌に乗せられるほど女性の扱いに長けているわけではなかったが、そのような相手の事情まで知っているほど親密な関係性は二人の間に結ばれてはいない。

「あたしの家は、お父さんが全国の神社を飛び回ってて、あまりお話することもないの。特に最近は声も聞いてないわ。お母さんは家庭のことはほったらかしのお父さんに愛想を尽かせて出て行っちゃってるし、そんなだからこんな可愛い服も着たことなかったから。」

 優等生の誉れのような優子だが、人には人の、自分とはまた異なる悩みの一つ二つあるものだと誠は知らされた。己が変われば解消する悩みが多い誠より、自分よりずっと人として成熟している感のある優子は周囲に悩みを抱えておりずっと深刻の度合いが強い。

「そうなんだ、意外なもんだなあ。」

「何が?」

「何って、ほら、日高って頭良くて生徒会もにも入ってて、有名じゃん。絵に描いたような優等生だからお嬢様みたいな暮らししてると思ってたんだよな。」

 大きく見せる鏡に映った像のように自分を見てくれていた誠に優子はあまり悪い気はしなかったが、虚像は虚像であることを伝える気になった。

「そんな風に見てたんだ、あたしの事。でもそんな事ないわよ。むしろ家にいたくないから、外面良くして学校の生活を楽しんでた、って方かしら。生徒会なら居残る言い訳にもなるし。」

「なんだかぶっちゃけるなあ、どうかしたのか。」

「うーん・・・」

 優子は暫し考える人になった。

「そうね、羨ましかったのかしら?」

「羨ましい?俺が?」

「うん、お父さんお母さんにおじいちゃんまでいて、みんな優しくしてくれるのが、羨ましかったのかな。」

「こんなでもか?」

 どれだけ力一杯引っ叩かれたのか、遠慮や躊躇という漢字を一に辞書で引かせたい程赤みのまだ引かない頬を指差して誠は言う。

「うん、だって愛情のビンタでしょ。」

「そんなカッコいいもんじゃないよ、あのウスラトンカチ親父は。」

「マーくん、お父さんをそんな風に言うものじゃありませんよ。めっ。」

 完成した料理を台所から運んできた恵がふわりと息子を窘めた。息子は窘めにしおらしくなるどころか、やはり言っても聞いてくれていない自分の要求に対して再度の宣告を試みる。

「母さん、だから『マーくん』は止めてくれよ、恥ずかしいんだからさ。しかも『めっ』て何だよ、子供じゃないんだから。」

「ふふふふふっ。」

 優子は二人のやり取りに堪えられずに笑みを吹き出した。

「ほら、笑われたじゃないかぁ。」

「あら、ごめんなさいね。」

 謝罪の言葉を口にしつつも恵は悪びれる様子もなかった、実際に反省もしていないので今後も同様の光景が繰り返さっれるのは優子にも理解の及ぶところであった。

「さあ、ご飯にしますよ。今日は優子ちゃんにも食べていってもらいますからね。」

「そうなんだ。」

「だって、帰っても今日もお父さんがいないそうじゃない。なら食べて行ってもらっても構わないと思って。なんたってマーくんの大事な彼女ですからね、お母さん大歓迎よ。」

 優子は並べる寸前であった人数分の箸をテーブルに落とし、誠の方も席に向かおうとした一歩を畳の上で滑らせる曲芸を披露する。

「お、お母さん。あたしそんなのじゃありません!」

「そうだよ母さん、何言ってんだよ。」

 二人がむきになって否定する様を達観したような微笑み一つで受け流す恵に二人は言っても聞いてない風を理解せざるを得なかった。男は口下手故に、女は深く食い下がることでの藪蛇にも警戒した結果だった。結局攻め手を欠いたまま忸怩たる思いだけを胸に誠は食の席に着く。

「あー腹減ったな。うん、なんかやけに賑やかだな・・・おおそうかそうか、うちの息子もようやくだったな。」

 荒い声を張り上げて一が食堂へと入ってくる。くるりと食堂中を一瞥して賑やかしい原因を一人で納得させていた。

「何がようやくなんだよ、親父?」

「無理すんな、俺には全部分かっているからなーんにも心配することはないぞ、誠よ。」

 誠の後ろを通る際に一は彼の背中をばんばんと叩いた。この家の男共は遺伝的に力の加減というものが余りに苦手で誠は頬の上に背中まで赤らめることとなった。

「よっしゃ、揃っておるようじゃの。というか・・・おお、そうかそうか。今日は一人多いんじゃな。」

 最後に家長の勇が現れて訪問者の存在を再確認した。心なしか語尾にやたら機嫌の良さを乗せているようにも聞こえる。

「はい、お母さんのご厚意に預からせて、」

「固いことはよいよい、メシは大勢のほうが楽しいからの。いつでも来なさい。なんじゃったら毎日来てもよいんだぞ。のう、誠よ。」

「ああ、構わないぜ。」

 勇の発言を額面通りにただの好意と受け取った誠は二つ返事で彼に同意した。反面、勇の発言の真意を裏読みした優子は何も口から出せずに、賑やかな夕食は始まった。


「じゃあね、服は洗ってお返しするから。」

「ああ、また学校で。」

 夕食を終え、優子を途中まで見送った誠はそのまま家の向いの方向にある海辺へとやって来た。夜の帳はしっかりと降り、道路を照らす街灯がおまけのように海辺も斑に照らしている。かの光から外れれば足元も深い闇に包まれ地と水の区別もままならない。本日の学校での戦いが前回より苦戦した事実は彼の心に多少伸し掛かっており、剣に慣れようと練習にやって来た次第である。

「なあ、どうしたらもっと強くなれるんだ?」

 素振りをしつつ、誠は剣に尋ねる。

「数刻前まであの調子だったお主が、どのような心境の変化だ?」

 自分の説教にまるで聞く耳を貸さなかった男が急に真面目に強さを求めた姿に疑問を覚えない筈はなかった。

「ああ、優等生だって悩みはあるんだなって。」

「それだけか?」

「いや・・・俺に本当にあいつや、家族を守れる力があるなら自分の力で使いこなしたくなった、ってとこかな。」

 ほんの些細な変化だったが、己を振るう者に相応しい心意気に開眼が見られたことは剣に満足を与えた。自分の家族と食事を共にすることに終始笑みを絶やさなかった優子の姿には幾ばくかの触発を受けていたのは間違いない。

「ふっ、いい心がけだな。」

「サンキュ、うおっ。」

 突如一陣の風が誠の周りを舞った。次の瞬間、周囲の空気が一変する。

「騒がしいことだな、お前の家は。」

 聞いたことのない声が誠の背後にあった。誠は咄嗟に振り向きざま剣を構えて見せた。ここで普通の若者とあってはくるりと声をした方に顔を向ける程度になるだろうが危機感を抱けるようになったのは剣としては親のように嬉しい成長である。

「誰だっ!」

 誠の声に応え、暗がりから街灯の届く範囲に足を進ませてきた何者かの姿は、誠と同じか若しくは年下に見える、無機質な声と表情に生気を感じさせない薄く青みがかった長髪を風になびかせ、所謂ゴシック・アンド・ロリータの気を感じる黒系色でまとめられたドレスを纏った少女と、二十歳前後程度で体つきは中肉の朗らかに薄い笑みを浮かべる人は良さそうで、昼日中であれば目にも眩しかろう白いスーツに身を包んだ青年だった。

「私はエマ。お前に話があってやって来た。」

 女性の方はエマと名乗り、簡潔に要件を伝えた。

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