第二章、胎動

 いやよいやよも好きの内、というものではなかったがどんなに突き放しても付き纏ってきてしまう剣を仕方なく抱き、関門海峡を貫く唯一の歩行者が海を横断できる関門トンネル人道を潜り、元乗っていたボートがほど近い、しばしの留守を強制させられた故郷たる山口県側に向かおうと一歩踏み出したその時、誠は我が手に抱く珍品に気付く。

「おい、いくら神剣とか言ってもこんな御大層なもの持ち歩いて人前は歩けないぜ?」

 誠の言ももっともである。しかし時代錯誤の感性を持つ天叢雲剣にはこの二十一世紀の常識も通じなかった。

「なんだ?いかな民も我が行幸するとあっては道を開けて両端にて平伏するものぞ。」

「いつの時代のどこの話だよ。今はそんな時代じゃないんだ、警察に通報されてそれで終わり、分かるか?」

「警察?」

「犯罪者を捕まえる仕事だよ。」

 赤子に物を教えている気分になった誠はぶっきらぼうに答える。

「ああ、この世では検非違使を警察と呼ぶようになっておるのか。それは面倒じゃな。」

「お、なんかやっと分かってきたのか。」

「うむ、あの連中の中には我の尊厳がまるで分かっておらん奴もおったでな・・・あまり関わり合いたくないものだ。そう、今のお主のように。」

「一言余計なんだよ、とにかく今の日本はお前を堂々と持ち運びできるような世界じゃないんだよ。」

「ならば、こうしよう・・・ぬうっ。」

 一言、気合を込めたような声を発しただけで剣は黙りこくった。見た感じ、剣自体にも周囲にも変化が見られた気配はない。

「な、なんだ?お前、何かやったのか?」

「なに、我自身に結界を張っただけだ。これで普通の人間には我の姿は見えぬし、我の声を聞くことも、触れることすらできん。」

「お前、けっこう便利なんだな。つっても俺にははっきりお前が見えてるぞ。」

「それはお主は我が認めておるからな。既に普通の人間というわけではない。それ、腕の傷を見てみよ。」

 誠が先程の戦いで妖から一撃を食らった左腕の傷を見る。指先まで流れるほどに長い傷を負わされていたにも関わらず、傷跡こそ残れど出血は完全に止まっていた。

「おおっ、もう血が止まってる。これもお前の力なのか?」

「うむ、我を扱う者はそのくらいの傷など本来跡すら残さずにすぐさま完治できるようになるのだ。惜しむらくはお主が我を持つ前に受けた傷であるため、完治とまではいかなかったことだが。」

「なんにせよ助かったぜ、これはありがとよ。」

 誠は此処に関しては素直に礼を言った。あり得ない速度での治癒能力は怪我も多い生活を送っていればなにかと有り難みを感じられている。

「じゃあとにかく、まずは本当にお前が周りに見えていないか確認しないとな。」

「疑り深い奴でもあるのだな、大丈夫だ。」

「とは言ってもよ、俺には思いっきり見えてるわけだから、信用ってものすら見えないんだよなー。」

 不思議な力は己の身で体験できたにせよ、現に自分は見えているものが、他人の目からは見えないという事態の経験がない誠としては信用にも信頼にも足るだけの証拠がなかった。少なくも客観的事実くらいはないとなにせ派手派手しい宝剣の類を持った高校生など一般市民から見れば通報の対象となるには十分な存在なのだから。

 まずは岸壁を上がり公道へと出た。帰り道のトンネルまでは道なりに進めば三分もあれば着く。今公道の前後に人影はなかったが、トンネルの手前で数人が地上に出現する場面に出くわした。誠は何食わぬ顔を装い、普通にトンネルを横断する高校生の体で彼等とすれ違う。

(頼むぜ・・・)

 誰に対して頼んでいるのか曖昧な誠の願いは叶った。確かに天叢雲剣を手にした状態で見知らぬ者達が己の存在を認識した状態ですれ違ったが、何に対しても興味や関心を示さず誠の後方へと去っていった。彼はここで安堵の息をつく。どうやら他人に剣が見えないというのは嘘でもなかったらしい。

「だから言ったであろう、我の言葉を信じておけば間違いはない。」

「とは言ってもなあ、学校じゃ絶対教えてくれないレベルの出来事が重なりすぎて半分訳わかんなくなっちまってるよ。」

「そうなのか。我がまだ地上にあった頃は魑魅魍魎の類など日が暮れればそこかしこを遊弋闊歩していたものなのだが。」

「だからいつの時代だよ!ってか昔は妖怪がその辺を歩いてたのか。」

「うむ、こちらから危害を加えなければ何もしない者も多かっただけに物味遊山で見物している連中もいたくらいだからな。」

「時代どころか次元が違うぜ、さすが千年前だな。今と違いすぎてさっぱりイメージできねえ。」

 浮世離れの極限を醸すような話に想像の翼がついて行かないまま誠は一人エレベータを抜け、トンネルに足を踏み入れていた。剣の姿も声も見えない一般人が乗り合わせていたら、独り言で会話している高校生として、違った意味で通報されていたかもしれない。

「だが一つだけ気をつけることがある。お主は我を持っていればこそ人ならざる力を発揮できる、故に我を手放しては今まで通りの力しか出せん。ゆめゆめ忘れまいぞ。」

「あ、ああ。分かった。」

 軽い気持ちで答えたがこれはなかなか厄介な話である。四六時中口を利く剣を側に置かなければならぬのは何かと面倒であるからだ。とはいえそれより大事な面倒事が己の意志に反してやって来るのであれば、小事の面倒事として甘受せねばならない。

「それよりもお主、何処へ行こうというのだ?ここは我が眠っていた海底よりも更に深いようだが。」

「よく分かるな。」

「我は感覚が鋭くできておるからな。で、どうしてそのような深い場所をお主は平気で歩いておるのだ?」

「ここは海底トンネルだからな、そりゃ歩けるさ。」

「『とんねる』・・・何だ、それは?」

「またこのパターンかよ。」

 嫌々になりながらも、誠は与えられた質問に対しきちんと返答する。

「人の掘った洞穴みたいなもんだな。これがあるから俺達も普通に本州と九州を歩いて行き来してるのさ。」

「なんと!我の頃は波の静かな時を狙って船を漕ぎだしてようやく九州に渡ることができたと言うにこのような穴を用いていたとは、人も侮ることはできんな。」

「ははっ、ようやく現代文明の凄さも分かってきたみたいじゃないか。」

 出会って以来、自分ばかりが剣とのカルチャーギャップに悩まされていた所を初めて剣に対し知識的優越を感じた誠はやっと心が晴れたような気になれた。

 行き交う人の目にも注意を払う必要を認めなくなった頃、本州側のエレベータに到着した。もうこうなると一般の通行者となんら変わらぬ誠は日頃と同一の歩様を取り戻し、地上に到着してからは乗り捨てた形になっているボートに近い岸まで歩みを寄らせ、躊躇なく海に飛び込みボートへと舵を切った。

 せいぜい二百メートルといったところの距離を難なく辿り着いた誠は装備と獲物を確認した。海中で共に巻き込まれた網と銛は無かったが、獲物はじめその他の物はここから最後に海へと飛び込んだ時のそのままであった。二百メートルとはいえ海の上だ、地上に比してそうそう置き引きが起こるものでもあるまい。紛失ないしは破損という事態はままあることなので不審がられる事はあるまいが、ばつが悪いのは間違いない。

「なあ、さすがに落とし物を拾って来るなんて芸当はできないよな?」

 誠は藁よりはましという程度で剣に語りかけた。

「当たり前だ、お主は神の力を何か得体の知れない便利屋と勘違いしておらんか。」

 そう来るだろうな、答えは誠の想像の範囲内であった。神が魔法使いみたいに痒い所に手が届くような力を有していれば世間が世知辛い話で埋まっているわけもあるまい、そのくらいの分別は未成年の彼にも所持できていた。

「そうだよな~、そりゃまあそうだよな~、うん。」

 それが余りに剣の力を侮辱したように聞こえた天叢雲剣は必死さを出して自らの有り様を抗弁する。

「ば、馬鹿にするでない!要は力の適材適所だ、我の力はお主などに仇なす妖共に対しての絶対的な力がある。失せ物探しなど些少な要件などは道端の神にでも頼むがよい。」

「それはつまり、普段使いなら道端の神様のほうがお前より役に立つってことか?」

「そうではない、たかが失せ物で我を愚弄するな!そうか、およそお主には神罰を見せ付けんといかんようだな。」

「神罰?」

 剣の一言に誠は怪訝な表情を浮かべる。元々初詣には行くという程度の信心ではあったが神の存在、少なくとも神の力は一瞬にして信じざるを得ない状況に陥った。それでも神罰、所謂『罰(ばち)』に関する意識は希薄であった。神は無辜の民を守るものという基本を額面通りに信じ、自分は無辜の民であるのは間違いないから神に害される道理がないという考えがあったのかもしれない。

「うむ、神罰だ。今こそ見せようぞ、我の更なる力を。」

 剣が一瞬光を放った、その輝度の高さに誠は目を塞ぎ咄嗟に腕で顔を覆った。光はほんの一瞬だけ輝いたので誠が腕を下ろし瞳に再び光を取り入れた時には何事もなかったような景色が広がっていた。

「なんだぁ?なんともないじゃないか。」

「慌てるな、見せ場はこれからぞ。」

 剣の勿体つけた言い草に誠は今度は訝しげな表情を浮かべて辺りを見渡した。だがやはり何の変化を確認することもできないでいる、そこへにわかに陽光を遮る物がやって来た。突如として黒雲が沸き起こったのだ。

 雲が現れた、と確認できた刹那、豪雨が誠の周囲一帯を襲う。彼が乗っているのは小さな船だ、上からの多量の浸水となれば程なく沈没は免れない。ボートに在る唯一の人は慌てて底に溜まりだす水を掻き出そうとする。

「わわわ、これってお前がやってるのか?」

「そうだ、我には雨を呼ぶ力がある。しかもこのような芸当もできるぞ。」

 誠は剣がにやりとほくそ笑んだような感覚を覚えた、無論剣に顔などないのだから誠の錯覚であったなのだが、次の瞬間の事象はそのような感覚など過去の深淵に追いやる衝撃とともに齎された。

(ガシャアアアアアアアアアアアアン)

 船の近傍に浮いていたブイに雷が落ちる。幸いにして電気や熱が伝わるまで近くはなかったが、稲光と雷鳴は誠の肝を冷やすには十分すぎる量を有していた。

「うわっ!!これもか、これもお前の仕業なんだな。」

「うむ、そうだ。かの雷は金属にであれば我の思い通りの位置に落とすことができるぞ。ふふふふふ、我の力の一端がその貧しい頭でも理解できたことであろう。」

「分かった、分かったから雨と雷を止めてくれえっ!」

 先程までの無気力的な剣への視線は何処へやら、そこには滝のような雨と天空の怒りを代弁したかのような雷にすっかり意気消沈して必死に船を維持しようと躍起になる少年の姿があった。

「分かればよい。」

 剣は満足気な声を発した。すると今しがたまでの嵐がぴたりと止み、上空を覆っていた重々しい雲は箒に掃かれた綿埃のようにその姿を掃き清められていった。

「危ねえなあ。」

 誠はどっと疲れてボートにひっくり返った。百メートル単位で泳いだところでびくともしない体力はあったが、急な危機にどっと精神をやられたらしい。

「妙な男だな。妖と戦った時は疲れを見せなかったというに、この位で音を上げるのか。」

「あのときは、アドレナリンでも出ていただけ、あ、アドレナリンつっても分かんねえか。要するに、興奮してたからだろ。」

「興奮すると疲れないものなのか、我にはよく分らぬ。いずれにせよ我の力はよく分かったであろう、これからはもう少し敬意を持つように。」

「わ、分かったよ、くそおっ。」

 悔しいながらも誠は剣の人知を超えた力の前に屈服の道を強制させられた。目の前に雷を落とされる絶大な超人的能力を見せつけられれば仕方のない話である。

 そこからは誠も無駄口を叩いて下手に剣を刺激しないよう努め、ボートを港に戻す作業に専念した。


 港には祖父の船が先着していた。陽は既に南中を越え東方から西方に向きを変える頃。朝が最も賑わう港は既に夢の跡と化していた。後片付けに入っていた初老の漁師が見知った誠の姿を見付けて声をかけてきた。

「おう勇さんの孫、いいのは獲れたか?」

「ああ、いいのが獲れたよ。」

 『勇の孫』、それが港、つまり漁師連中の間での誠の通称となっている。誠としては祖父のおまけ扱いなのが気に入らないのだが、反面自分が生まれるより前から漁師として荒波の中を駆け回っていた勇がこのコミュニティに於いて確固たるポジションを築いているからこそ誠自身も船を乗り回して好きに漁に出られる事実を差し引くと不満より現実を認める思考に優勢があった。また、『勇の所の坊主』という呼び名もあるが、これは先行して父の一に呼ばれている通称で中年を迎える年になってもまだ呼び続けられているので誠に使われる例は少ない。

 一も一でこの通称を返上しようと息巻くところがあったが、父の壁の厚さの前に野望は頓挫していた。

「そいつぁよかったな。勇さんと坊主はとっくに上がって来たからお前さんも早くしな。というか今日はやけに遅かったな、途中までさっぱり獲れなかったのか?」

「あ、ああ。まあそんなとこ。」

 誠は言葉を濁した。魚介類を狙っていたのにとんでもない、というよりは変と言ったほうが納得に近い大物を獲ったなどとは言えないし、言ったところで信じてももらえまい。この老人にも剣は見えていなかったようでもあるのがその大きな理由である。

 色々な初体験はあったがようやく陸に上がった誠は獲れた戦利品を担いで一路家へと向かった。買い付け人もほぼ全員目的を果たして踵を返していた漁港ではせっかく獲れた物を置いておいても腐らせるだけなのはよく分かっていたので全てを持ち帰っていた。

「ああ~あ、今日の小遣い稼ぎはゼロか。」

 普段からボートを乗り回しては小遣い銭を稼いでいた誠としては本日の最終結果、つまり一銭にもならなかった事態は甚だ不本意なものであった。

「どうした、何か不満があるようだが。」

「お前のせいだよっ!」

 またしても空気の読めない剣の発言に、天罰のことは忘れたかのように誠は吠えかかった。

「なんだ、突然虫の居所を悪くして。」

「なんでもないよ、お前に言ったところでなんの解決にもならないんだからな。」

 もはや剣とがっぷり四つで弁を戦わせる気力もなくなった誠は家路を急いだ。せめて獲れた物を家族で美味しくいただきでもしないことには一度暴れぐせのついた腹の虫に着地点を見出すこともできないでいる現状である。特に朝から漁に出ていて既に昼も過ぎ、正午よりむしろ夕方の方が近しい時間帯ということは昼食を獲っていないということになる。これは十代の健康的な若者にとってなかなかの試練である。この事実も、空間の十分に空いた胃の中を腹の虫が蹂躙する理由となっている。

 ぶつくさと口の中から零れない程度に文句を数珠つなぎに並べつつ、あれこれと問いかける剣の質問は右耳から左耳へと受け流しながら彼は家路への帰途を急いだ。

 誠の家は港からほど近い、海岸沿いの道路の山側にに面した位置に建っている。玄関を出れば海の状況を見渡せ仕事場にも近い、漁師には絶好のロケーションを誇る。

 二階建ての木造家屋で、誠と両親に祖父という四人で暮らすには多少広いくらいの家である。家屋の中央に佇立する引き戸を開け、勝手知ったる我が家へと誠は帰宅を果たした。既に祖父と父も自宅の徒となっていることであろう。

「ただいまー。」

「あらマーくん、おかえりなさ~い。」

 手に持つ獲物を引き渡しに台所へと向かった息子を待ち受けていたのは余念なく夕飯の支度に没頭していた母の恵。息子の帰りを確認するや、お玉を手にしたまま駆け寄って抱きしめてくる子煩悩ぶりを示す。

「今日もおかえり~。一瞬大雨が降ったみたいだけど大丈夫だったぁ?」

「う、うん。だから苦しいって、いつも言ってるでしょ母さん。」

「あ、あら、ごめんね、マーくん。つい、ね。」

 とても高校生にもなる息子がいるとは思えない若々しさの美人妻と近所でも評判の母は息子にとっても自慢の母である。ただ、一応自分も高二とそこそこ立派に成長しているのだから幼児を扱うような振る舞いから常々卒業を求めている。もう少し頑として声を張り上げれば結果に変化をもたらすことも可能なのかもしれないが、父たる一が、

「女性は大事にしろ、特に母親はな。」

と誠がまだ子供の頃から立派な教育を施していたので母に対して乱暴な態度は取り得なかった。過日、といっても小学生それも一年だったか二年だったかの頃、親子でデパートに行った際、何かを買って欲しいと駄々をこね、恵に向かって悪態をついたのだが、その時の一が烈火の如く猛り狂って誠を叱ったもので、そのため誠は今でも当時の恐ろしい思い出が精神的外傷となって心に楔が打ち込まれていた。

「毎日毎日、『つい』じゃないよ。もう、いつまでも子供じゃないんだからさ。」

「ごめんなさい、でもマーくんはいつまで経っても母さんの子供なのよ、ね?」

「そうだけどさぁ。」

 父による精神的外傷はあれどもこういう時、心の何処かでいつも満更ではないという感情がこみ上げてきては二の句を告げられなくなってしまう。なんだかんだで誠もまた恵には甘いのだ。

「うんうん、分かればよろしい、いい子いい子~。」

 扱いは全く子供に対するそれで、恵は誠の頭を撫でる。憮然としつつも内心は逆の心情がこみ上げているから誠は始末に窮する。恵のように感情を完全に開放できれば楽になれるというに、男の沽券はなかなかに素直にさせてくれない。

「そうそう母さん、今日は遅くなったから全部持って帰ってきたよ、はいこれ。」

 誠は今日の戦利品を港で詰め込んでおいた保冷バックを床に置いて蓋を開けた、中からはなかなかの量が現れ、恵の機嫌を更に良化させる。

「まあ、大量ね。四人じゃあ食べきれないかもしれないからご近所さんにも御裾分けしちゃいましょ。」

「えっ、そこまではないよ。」

「それがねマーくん、今日はお父さん達も大漁だけど売り物にならない魚まで大漁だったって沢山持って帰ってきてくれたのよ。ほら、あれよ。」

 恵がお玉で指した方には誠の持って帰ってきたバッグと同型のものが三つばかり転がっていた。どれからも魚介類が顔を覗かせて我が家の時ならぬ水族館具合が伺えた。

「凄いなこりゃあ。よし!俺も何か手伝うよ。」

「嬉しいわあ、それでこそわたしのマーくんね。じゃあ、まず、うーんと何してもらおうかしら?」

「何でも言ってよ。何でもするからさっ」

 誠は腕を突き上げて気合を見せた、ところがそれが不味かった。

「あら、マーくん?その腕はどうしたの?」

 突き上げた腕が恵の真正面に長い傷、いや既に傷跡となっていた魔物との戦闘の証を見せ付けた。

「あっ。」

 何せ剣の力で痛みすら引いていたので傷を負ったことを忘れていた誠は焦りだした。

「こんな傷、母さんは知らないわよ。どこでどうしたの?言ってみなさい。」

 恵の優しげしか感じなかった美しいソプラノ声が急激にドスを利かせたテノール声に変質する。機嫌が明らかに急降下しているのが声ではっきり分かってしまう。

「こ、これは・・・あの、」

 どう言い繕えばいいのかと誠は頭を悩ませるが、このパターンに陥った場合、大抵正解を導き出すには至らずに終局を迎えるのが常であった。

「怒らないから言いなさい、マーくん。」

 既に噴火の直前であることは誠はよく分かっていた、だからこそ正解を出したいのだが残念ながらこの短時間で彼女の怒りを沈められる言葉を見出すには、誠の脳には俊敏性や気転に富んではいなかった。

「あ、そうそう、これは・・・銛で突いちゃったんだ。で、銛も海の中に落としちゃって。」

「マーくん・・・」

「な、何、母さん?」

「刃物は危ないから気をつけて使いなさいっていつも言ってるでしょ!どうして母さんの言うことが聞けないのっ!本っ当にこの子は、そんなに母さんを悲しませたいのっ!?」

 向こう三軒に聞こえそうな大音量で恵は誠を責めた。声質の変化も声量の肥大化も心配の裏返しなのだが、とにかく迫力が勝ち過ぎた上に瞳からは大粒の涙をぽろぽろと落とすのだ。こうなるととにかく誠には謝罪の一手しかなかった。

 必死で謝りつつも宥めようとする誠の言う事には殆ど耳を貸さずに恵は思った通りの行動を取る。救急箱を取ってきてはもう薄皮の張っているまで回復している傷を消毒してガーゼを包帯をこれでもかとぐるぐる巻きに巻き、ご丁寧に三角巾までかけて

「もうこれで大丈夫よ、何も心配することはなりませんからね。痛いの痛いの飛んでけ~。」

 声もすっかり元の綺麗な声に戻り機嫌の修復を伝えてくる。父の説教も怖いが、母を怒らせた時はその更に上を行く、息子が一番恐れるは彼女の怒りである。

 尚、勇も一もこの騒ぎの中に在宅していたのだが、大声にも驚くことなく二人それぞれに自分の作業を進めていた。勇は帰宅早々に日課にしている一番風呂での入浴で湯船につかり鼻歌を交えており、一は漁師道具の点検に没頭している中で件の叫びを聞いた。叫びには気付いたが反応は全く示さず、片や心ゆくまで入浴を満喫し、もう片や細かいところまでの点検を通していた。なにせ、まま日常茶飯事のことであったし下手に手を出すことで心配の対象が誠ではなく己の身となる場合もあるだけにこの状態にすっかり慣れていたのだ。

 向こう三軒に当たる近所の住民も『またか』という思いだけが先行している。中には腹の虫に据えかねる住民もいたのだが、普段の恵が聖母のような微笑みで近所付き合いも進んでするものだから彼女を悲しませるわけには、と自分の方が折れようという者ばかりで大事には至っていなかった。

「人とは面倒なものだな。」

 事の成り行きを見守るだけにしていた天叢雲剣は、第三者としての客観的且つ関心の薄い感想を思うに留まった。

 一悶着あった後は誠も恵を手伝い、やがて立派な夕食が食卓に並んだ。イサキやスズキに鱧、鮑、雲丹、サザエに混じって誠には因縁の鯛まで並び水族館どころか竜宮城の装いを呈していた。

 この時、天叢雲剣は誠に背負われていた。漫画やテレビの世界でよくある風景を見よう見まねで模倣してみたのだが、これが意外にしっくり来ていた。

「みなさーん、晩ご飯ですよ。」

 恵の一声がハメルンの笛吹きのように勇と一を食卓へと呼び寄せた。どやどやと食堂へと入ってくる、屈強な体躯を誇りいかにも大食であろう二人。彼らと居並ぶと同年代となら体つきのいい方に入るが、まだまだ少年の域を出ない誠の見劣りは大きい。

 二人が畳にどっかと腰を下ろしたところで恵が茶碗にご飯を山盛りによそって準備が万端なる。そこで初めて勇が口火を切る。

「よし、それではいただこうか。いただきます。」

「「「いただきます。」」」

 家長である勇の号令に続いて他の者が挨拶をして石狩家の食事が始まる。家長が一声挨拶をかけて後、他の全員が挨拶する、これがこの家の食事の際に何代も前から連綿と続くルールであった。

 食が程よく進んできた頃、既に焼酎を浴びて出来上がりつつあった勇が誠に今朝の体たらくをからかってきた。

「おう、寝ぼすけ坊主。今日はお前も大漁だったそうじゃないか。」

「じいちゃんが起こしてくれなかったからな、おかげで大漁だったんだよ。」

「減らず口をたたくな、どんなに朝早くとも自分ひとりで起きられてからがようやく半人前じゃ、わっはははは。」

 大声で勇が笑う、すると口に含んでいた飯粒がやたらと飛ぶ。それを見る恵が眉も顰めずに布巾でテーブルを拭きだす。

「あらあらお義父さんったら、またテーブルを汚しちゃって。いけませんよ。」

 そう諭してくる恵はむしろ笑みを浮かべているものだからいい気分の勇は目尻の下がりきった顔で彼女を労ろうとする。

「おうおうすまんのう、恵さん。本当ーっにできた嫁じゃわい。うちの一なんぞによくぞ降嫁してくれたもんじゃ。一、お前なぞにはつくづく勿体ないわい。」

「親父ぃ、そう思うなら恵に世話焼かせるなよな。」

 こっちは存分に眉を顰めていた一が父のだらしなさに辟易していた。何も俺はお前の世話を焼かせるために嫁を貰ったんじゃないと強烈な視線を浴びせていた。が、勇は意にも介さず息子の嫁の手料理をほいほいと胃袋へ送り込んでいた。

「ったく・・・」

 ほろっと毒づいて後、一も自分だけ豪快にもどんぶりに盛られた飯を豪快に放り込みにかかる。全くこの二人にかかれば近所に御裾分けせずとも全ての食材を骨や殻に至るまで平らげるのではないかと、自分の家族ながらどこぞの化物か妖怪のように思う時もある誠である。その誠にしても山盛りの茶碗飯を二杯こなし今既に三杯目をよそってもらっているところなのであまり周りの家族だけを人外視できたものでもなかった。

「誠よお、お前も早く嫁さん貰えよ。でもって今度は俺がお前の嫁さんに世話焼いてもらうんだ。」

(ぶっ)

 誠は思いがけない父の暴論に含んでいた食事を吹き出した。親にやられている行動をそのまま子供に意趣返しするだけでも大概だと言うのにあまつさえ未成年に結婚の勧めとは気が早いにも程がある。

「な、何言ってんだ親父。」

「まあ、一さんも。マーくんはまだそんな年じゃありませんよ。でもマーくんが選んだ彼女なら誰でもお母さんはいつでも大歓迎よ。」

「母さんまで、だから俺はまだそんな年でなければ彼女もいないんだから。」

「なんだ、いないのか。」

 一は意外な返答を聞いたように目を丸くして呆気に取られた。

「俺の息子にしちゃ存外甲斐性ないんだな。俺の若い頃なんて彼女がいない日はなかったくらいだぞ。」

 一はだらしない息子への発奮のつもりで嘘か誠か怪しい自慢を語ったのだったがこれは思わぬところからの奇襲を呼び込んだ。

「一さん、私が一さんと出会ったのって、二十歳を越えてからでしたよね・・・」

「ああ、そうだが。おうっ!?」

 一が妻の方に向き直った時、彼女の長い黒髪はその一本一本に至るまでが逆立って天を衝いていたように見えた。彼女の怒気が具現化したのが見えていたのかもしれないが、声もまたドスが利いており、自分の知らない頃の夫の浮いた話に嫉妬心を膨らませているのは明白だった。既に我が身に矛先が向いていないのが直感できた勇と誠は防衛体制を取って食卓から数歩下がっている。

「ま、待て、待て、恵!あ、あれだ、なんだ、若い頃の話だ。もう昔の事だ。そ、そう、なんだ、俺が愛しているのはお前だ、お前だけだっ!」

「まあ、一さんったら、そんなこと言うなんて、いやだわ恥ずかしいっ、もうっ。」

 一の叫びが通じ、恵は黒々としたオーラを脱ぎ捨て普段の彼女へと還元した。瞬間最大風速的に嵐が通り過ぎたと直感した男衆は一様に胸を撫で下ろすのであった。

 食卓に再び明るい笑みが灯った。この朗らかな様子を感じ取った天叢雲剣は一人思う。

(楽しんでおくがよい、誠よ。もしかすると我はこの者達から愛する子や孫を失わせるかもしいれんのだからな。)

 剣は声にこそ乗せないが楽しい家族団欒の食事に似合わない悲痛な叫びを思っていた。あるいは己が再び地に出るべきではなかったのかもしれなかったのだが、出てしまったのだ。もうそこから論じる気はない。今やるべきことはこの小さな家庭から笑みを絶やさせないことと剣は思いを新たにしていた。

 そんな一家を照らすように月は真円を描き煌々と輝いていた。


 夜中、調度品が整然と居並んでもまだ余裕のある広い部屋に差し込む満月の明かりのみを頼りに高級感溢れるデスクに向かい読書に勤しむ影。この場に眼科医がいれば目を労るよう忠告の一つも投げかけたくなるであろう風景である。興味のない分野の解説書でも読んでいるのかと思える無表情な読書顔には感情というものが微塵も感じられない。日課的に読書量を一定までこなすだけの人形にも見えなくもない。

(コン、コン)

「どうぞ。」

 部屋のドアを叩く音が聞こえる。彼は無表情な表情にまた似つかわしい抑揚のない声を上げて客人を迎え入れた。

「失礼します、マギステル。」

 部屋の主をマギステルと呼んだ客人は女性の声を放った。しかし月明かりの届かない位置に留まっており姿は殆ど見えない。

「やあ、エマ君。どうしたのかね?」

「KUSANAGIが、目覚めました。」

 エマなる女性は要件のみを簡潔に伝えた。それのみでマギステルの手がぴくりと反応して書物を一枚めくる途中の動作を中断した。ようやく彼に人らしい、イレギュラーに対する反応が見られた。

「KUSANAGIが・・・それは本当かね?」

「私の他にも感じた者がいます、間違いありません。」

「ふうむ、そうか。」

 マギステルは読みかけの書物を静かにデスクの上に閉じた。数瞬黙りこくった後にエマを見つめ、彼女に問う。

「エマ、日本まで行ってくれるかい?」

「それがマギステルのご命令なら。」

「命令ではない、お願いしてるつもりなんだけどね。」

「・・・それが、マギステルのお望みなら。」

 エマは言い直すことでマギステルの意に沿った、二人の間にはお互いの関係に対する認識のずれがあったようだ。

「よろしい。ではアーサーを付けよう、二人で私の願いを叶えて来て欲しい。」

「一人で大丈夫です。」

「そうは行かないよ、年頃の娘を一人で極東の最果てまで行かせて何かあっては私の管理能力が問われるからね。」

「はあ・・・」

 エマの方には彼の人選にかなりの不服があったようだが、これ以上の拒絶は彼女の口から聞かれなかった。

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