資格者(サンクトゥス) 神を纏いし者

桜庭聡

第一章、邂逅

 この世には、人に見えるものと見えざるものがある。見えざるものも時には人の世に接し彼等を惑わせ、時には命を奪うこともある。もし人が見えざるものに触れられたとしたらそれは天が与えた機会なのかもしれない。


 天気晴朗且つ波低し。絶好の海日和に小型ボートで沖に繰り出し素潜り漁に興じる若者の姿がある。日焼けして軽く浅黒さを醸し出す肌色は恒例的に漁を行っている証左であるが、潜水の時間や深度もまた水に慣れた様子を現している。潜る度に獲物を捕えてくることで漁にも一定以上の経験があることが見て取れる。

 何度目かの潜水より、やがて浮かび上がった彼は大きく息を吸い、ボートに乗り込んで体中で空を見上げ一休み付いた。

 熱い日差しが体中に降り注ぐ、直射熱がそれを物語っている。腕をかざして指の隙間から大きな空を見上げると雲一つない青々さが目に染み渡ってくる。空はどこも同じ空だと言うが、普段の高校生活で毎日見上げる空より海上の空は澄んでいる気がする、若者は常にそう思っていた。この場所は己が十数年の時を過ごしてきた場所に他ならないから特別な空に思えるのかもしれない。

 彼、石狩誠は空を見上げていた。漁師一家の長男にに生まれ物心付いた時には漁船に揺られ、この下関から家業の漁に付き合っていた。小学校で漢字を覚えるより早く漁業のイロハを飲み込み、以来十余年祖父や父と共に船上の人をかこっていた。漁船で延縄漁や一本釣り、身一つでなら素潜り漁に飛び込んでは中学に上がる頃にはもはやすっかり漁師姿も板に付いてきている優等生ぶりである。

 子供の頃からそのような生活故に海には少々の自信があった。今日の彼は一人で岸からすぐ沖合にある、そこで素潜り漁を行っていた。海底まで辿れば雲丹や鮑、サザエなどは転がっているし水深が浅くとも魚達もそれなりの数が泳いでいるので銛と籠が放せないでいた。

(ブルルルルっ)

 全身運動で軽度に疲労した体を船の上で休めているところに携帯電話の着信が入った。画面を見れば祖父からの着信であった、誠は迷わず電話に出る。

「おうっ、誠か?」

 自分から選んでかけた相手であるはずなのにまず相手を確認する作業には何の意味があるのだろうか、などと深い考えは誠になかった。

「じいちゃん、もう帰りなのか?」

 沖合の漁では携帯電話の電波も通じないエリアで漁をすることなどざらである。だいいち漁の最中におちおち電話をかける行為自体、行っている暇はない。

「ああ、今日は大漁じゃった、これもお前が寝坊してくれたおかげかのう。」

「酷いよじいちゃん、そんな日に俺だけ置いてけぼりなんてさ。」

「何を言っとる。寝坊する奴なぞ役に立たんから置いていったまでじゃ、はっはっは!」

 仕事には厳しく、役にも立たず船上でまごまごしていようものなら息子であっても海から突き落とす勢いを持つ祖父の勇(いさみ)。息子の、つまり誠の父である一(はじめ)に尋ねてみると、『勢いどころか、何度突き落とされたか分かったもんじゃない』という剛毅な漁師像だが、孫には甘味料の配分を間違えたが如くの甘やかしようであった、ために寝坊という懲罰対象の行為も笑って済まされていた。

「ちぇっ、つまんないの。いいよ、こっちはこっちで近場に出てるから。」

「おうっ、じゃあ先に帰って待っとれよ。山ほど獲れた魚達で目にもの見せてやるからな。せいぜい寝坊の神様を呪うこった。」

「ああ、じゃあ楽しみにしてるよ。」

 誠は悔しまぎれで電話を切った。八百万とはいえども寝坊に神など存在するわけがない、むしろ存在するとすれば人に堕落を植え込む勤勉な悪魔の類であろう。

「ああ、切っちまいやがった。もうちょっと付き合ってくれてもよかろうに、薄情な孫じゃ。。」

「親父は誠に甘いくせに、からかいたがるんだよな。」

「当たり前じゃ、どこの世界に孫が可愛くないジジイがおるというんじゃ!」

「はいはい。」

 悲しいかな、そのような者は枚挙に暇がないのが現実だと一は思うが口には出さない。一にとっての勇は父であると共に畏怖の対象でもあり絶対君主とさえ呼んでも支障ない存在である、ために誠を甘やかしてばかりでいつか孫のためにならない事案に繋がりかねない危惧を抱えつつも、勇に直言できないでいる。

「それより船倉は冷やしておけよ。」

「万事抜かりありませんよ、船長どの。」

「そうかそうか、はっはっは!」

 甘やかしと対極の船上生活を送ることを余儀なくされながら育った一は、勇に言われるまでもなく漁の一から十までをすべてこなせている。勇がいつ引退しても彼の手腕があれば後顧の憂いなどどこ吹く風であるのだが、頑固親父にありがちの風景として勇は自身の引退などまるで考えていなかった。もうそろそろ、と諭そうものなら誰であっても真っ向から否定して争う姿勢を前面に押し出すものだから家族も皆諦めて勇の口から引退宣言を待つというあてのない持久戦に持ち込まれていた。

 勇が衰えを見せていないのは気骨だけではなく外面も同様であった。逞しく丸太と見まごう腕や腿に堂々とした胸板、白い頭髪だけが年月を感じさせるものはあれども地肌を大きく見せつけるにも至らない、実に堂々っぷりな齢七十近くの老人である。一も一で、父親に負けぬ体躯と、明らかに勝利している毛髪の数量と青々しさを有してはいるのだが、内面において父親の男らしさを凌駕するに至らぬ弱さがあった。

「ふむ・・・そろそろかのぅ?」

 陽を見上げて勇は呟いた。


 一方的な扱いを受けた、寝坊で漁船の漁に出遅れていた孫の方はと言うと、電話を切った直後に気合を入れ直し再度海中に身を投じた。そろそろ時間切れを迎えるのは分かっていたが、やたらと祖父の言が孫の負けん気を刺激してきていたので時間いっぱいまで粘って少しでも大物もしくは数を獲って祖父と父からなる連合軍との差を詰めたいとの意識が彼を動かしていた。この意識が、誠の人生を大きく変化させようとはこの時点ではそれこそ八百万の神であろうとも、誰一人知り得なかった。

 海中を彷徨い、獣の如く獲物を見定めている誠の視線の先に水中を停滞している魚影が確認できた。赤い鱗のそれを一瞥で確認する、鯛だ。なかなかの体格を誇るクラスでもあったのでこれを獲って少しでも漁の足しにしてやろうと誠は獲物へとそろりそろりと泳ぐ足を進めて距離を詰めていった。

 銛の射程に入ったか、と直感した矢先、隠しきれぬ誠の『欲』という名の殺気に似た気配を感じ取ったか、鯛が急に泳ぎ出した。これがまたなかなか図体に似合わぬ華麗で俊敏な動きで敵から距離を取る方向に逃げ果せようというもので、誠もこの際大人しく近づくという行為は脱ぎ捨て、全力を以て獲物の追撃を開始した。

 足ひれという文明の利器の力で誠も人としては異常な水中速度を誇ってはいたがここは相手の本領というべきか、獲物は加速するかのように誠との距離を増大させていく。そしてやがて追撃開始から三分四分と経った頃、追う側の息に限界が訪れた。誠は苦しさを感じてきた肺に新鮮な空気を送り込むがために海上へと上がる。

「くっそぉー、鯛まで俺をバカにしやがって。」

 鯛の心情が理解できるわけではなかったが、先程の祖父の言いようが癪だった延長で鯛にまで邪念を感じる心が誠にあった。大きく息を吸って再度獲物を狙うつもりで誠は海中に没した。

 程なくして誠が海上へと転じた付近に舞い戻ると、追跡劇の相手はまた海に身を任せるようにしながら、先刻とほぼ同じ位置を滞留していた。

(しめしめ、今度こそ・・・)

 誠は与えられた泣きの一回を活かそうと、慎重かつ大胆な泳ぎで獲物へと近付く。鯛の後方且つ海流の下方からの接近であったためか獲物はとんと気づく様子がない。今度こそは!と銛を引いた瞬間、彼の体はあらぬ方向に押し流されていた。

 海流だ!潮目が変わった?誠の脳は瞬時に己が身に対する衝撃を分析した。上物を追いかけるがあまり、潮の流れが変わる時間帯と流れが速くなる位置まで追いかけっこの動線が伸びていたのだった。

 甘やかされた、といっても漁師の端くれであることは間違いない。潮目の変わる時間や危険な海域など十分に教えられてきた筈であった。だが今回は『つい』という犯罪にも似た動機が彼の命を危険に晒した。

 反して当の追跡される側はと言うと、する側が流れ巻き込まれたのと同時にすっと岩場の隙間に身を寄せて流れに巻き込まれるまいと回避していたようだ。追跡者のみを早い潮流に陥らせようとは、考えあってのことならこの鯛はとんでもない策士であったろう、しかし誠にとってそのようなことはこの際、路傍の小石である。まずは潮に乗せられている自分の位置を改めねばならなかった。獲物を追っていた時よりも力強く手足を動かせてみせたが、流れに逆らうどころかまるで効果を生じ得ずにいる。足ひれによるドーピング効果も、ものの役にも立たずにただ海水をその場で切り裂くだけのように足を舞わせていた。

 誠は苦しく藻掻く中で調子に乗りすぎていたことを後悔していた、つい勇達に何らかの成果を見せ付けてやろうという欲目が身の破滅を齎した事は大いに反省すべき点である。何分勇に甘やかされつつの漁生活で海の恐ろしさを過小評価するきらいもあった、その結果が招いた現在の状態である。海流に流され、上下の感覚も麻痺しつつあるほど身体が回転させられている。このままでは不味い、直感が危険信号を送り続けるのに比して身体の自由は完全に奪われ、浮上することすらままならないで呼吸はじめ苦しさは幾何級数的な増大を示した。

 数分間の海流との格闘の末に苦しさで口が大きく開き、ぼわっとなけなしの空気を吐き出し、いよいよ意識も薄らいで来た時、誠の手が金属の棒のようなものに触れた。海底に突き刺さっていた鉄パイプといったところか、目も開けられなくなっていた誠にはそれが何なのかはっきりとは認識できなかったが、両腕でがっしりと鉄の棒と思われる物体を握りしめ、流れに逆らう姿勢を示した。

 が、次の瞬間、棒は海底との密接な関係を失い、海底の未確認物体から海中の漂流物へと変貌し誠の身体と共にそのまま流れに委ねられていった。途切れゆく意識の中で誠は最後の希望も途切れられたと観念し、早すぎる死への回廊への進入を覚悟していた。

「これで・・・死ぬのか。バカみたいな死に様だよ・・・親父、母さん、じいちゃん・・・ごめん。」


 人類社会にいかなる変化が起ころうと、誰の身に何が起ころうと、夏の太陽は眩しく熱い照射を行っている。誠はあまりの暑さに意識を取り戻した。

「ん・・・そうか、俺は調子に乗って潮に流されて・・・生きてる?」

 意識を取り戻したばかりの誠は脳の活動も制限され、身体も俊敏な動きは見せられない状態にある。上体に力を入れて身体を起こしてみると海が見える。そしてすぐ右手には関門橋が大きな図体を対岸まで伸ばして偉容を誇示し、その対岸には立派な容姿を誇る赤間神宮にある水天門の朱が目に留まった。以上の建築物から自分の置かれた場所の想像は容易だった。そして想像は的確に的を得ており、彼は関門橋の門司側の岸壁に打ち上げられていた。

「けっこう流されたんだな・・・」

 ぼおっとした頭で海峡を見つめる誠に生還の喜びはまだ湧いてこないでいた。ぼおっとしたなりに考えを巡らせてみようとしたが上手くまとまらない。とにかく家族に余計な心配はかけたくないので、さも何事もなかったかのように帰りたいという思いだけはあった。

 とにかく向こう岸まで戻ろうと、全身を見渡してみた。痛みもないので特に怪我などはしていないようだ。しかしふと右の手を見てみると、しっかと握りしめられた棒状の物体を発見するに至る。海中の岩よろしく全体に藤壺等がびっしりとくっつき、一見して木刀なのか鉄パイプなのかも判別できない状態にあった。

「ああ、そういえば潮に流された時に何か棒のような物を掴んだっけな。これか。」

 誠は気を失う前の記憶を手繰り寄せた。すると、確か海中で潮に揉まれた際に手が触れた鉄パイプのような物を、藁をもすがるような思いで握りしめた途端すぐに引っこ抜けた挙句にまとめて流された、という記憶が蘇ってきた。

「助かったから良かったけど何の役にも立たない棒っきれだな、木なら薪にでもしちまうぞ。」

 棒も、何もお前を助けるためにそこに在ったわけではないと言い返したくなるような不条理な物言いが誠の口を劈いて発せられた。

 ふと棒を持ち上げてみる。質量を感じる、木などではなく金属であるようだ。金属とは認識できれども、やはり鉄なのかはたまた金や銀なのかも判別できない程に年季の入った藤壺まみれである。しかし少なくとも可燃性という可能性は低いため、残念ながらこれでは薪にもならない。

 試しにコンクリートに擦りつけて付着物の一部を削ぎ落としてみた。するとどうだろうか。殻まみれの下から現れたのは見たこともない厳かな彩りの装飾であった。

「なんだこりゃ?かなり立派な物みたいだぞ・・・よし。」

 誠は本気になって物体から付着物を除きに掛かった。やがて大凡彼の前に晒された物体は鞘から鍔、柄まで全身くまなく彩りを放つ剣、それも宝剣の類が浮き彫りとなっていた。装飾の細かさ、神秘さは文化的な価値も大いに有り得る風を示している。

「驚いたなあ、こんな田舎の海の中にどうしてこんな立派な物が沈んでんだ?」

 彼が予想の思考を働かせようとした瞬間、耳に声が届いた。

「少年よ・・・そこな少年。もっと大事に扱わんか。」

 ふいに聞こえた抑揚の差がない声は、声だけは確かに聞こえてくる。だが辺りを見回してみても人影は見つけることができなかった。幻聴でも聞いたかと思おうとした矢先にまた同じ声が彼の耳めけて進入してきた。

「少年・・・ここだ、少年よ。」

 耳に入ってくるというより誠の脳に直接呼びかけてくるような聞こえ方がする、二度も聞けば幻聴とは思えにくい、誠は再度辺りを見回したがそれでも人影は全く見えなかった。

「少年よ、ここだ。そなたの右手だ。」

 声の通りに誠は己の右手を凝視する、彼の右手には件の宝剣が握られてるだけであった。

「何だ、これは?」

 誠の疑問に謎の声が回答を齎す。

「我だ・・・我こそが声の主だ。」

「我?我ってどこだよ?」

「ここだ、そなたの右手と言っておろう。」

「右手?」

 誠は右手を上げ、持っている剣を掲げた。何処にでもあるというわけではないが非常識的なものを想起させるほどには特別な印象を受けるものもなく無機質な形状を醸している。

「剣だよな・・・」

「うむ。貝のような物が満面に付き纏い話すこともままならぬところであった。方法は乱暴であったが湿っぽい海の底から救い出してくれた事も含め、礼を言うぞ。」

「やっぱり、剣か?剣が・・・喋ってるのか?」

「うむ、いかにも。我こそは、」

「うわ、うわわわあっ!」

 誠は気持ち悪い物を放つように剣を手放した。更に腰を落としたまま後ずさって剣と二メートル程距離を取った。岸壁のコンクリート上に落とされた剣は甲高い音を立ててコンクリートと五回十回の接吻を交わし、やがて静止した。

「こ、こらっ!そのように乱暴に扱うでない!」

「け、剣か?剣がやっぱり喋ってるのか?」

「だから先程から何度もそのように言っておろう。」

「な、なんで剣が喋ってんだよ。」

「知らぬ、我は剣の形として意思を持つものだ。この世にい出た時にはもうこの姿を成しこの様に口が利けただけのことだ。」

「犬や猫が鳴くってわけじゃあるまいし、そんな非常識が分かるかよっ!」

「我には何の疑問もないのだが。」

「そっちになくてもこっちには大ありだっつうの。いきなり物が喋りだすなんて常識じゃねえよ!」

「常識?常識とは何だ?」

「何だって言われても、常識は常識だよ。」

「常識などというものはそなた達が勝手に定めた定規であろう。自らの定規で測り様のない事態を『非常識』などと一括りに称して目を背けようとするでない。」

「な、なるほど。って、なんで俺が剣なんかに説教喰らわなきゃいけないんだよ!」

「剣なんかとは失礼な。我は、」

「ああ、もういい。何言っても無駄だ。」

 禅問答に辟易した誠は剣の話もそこそこに帰るとばかりに立ち上がり、居丈高に講釈ぶる物体を無視する形で岸壁から道路に上がる体制を取った。

「待て、何処へ行くのだ?」

「何処って帰るんだよ。早く帰らないと家族に心配かけちまうから。」

「我をこのままにしておいてか?」

「喋るくらいなんだから手足でも生えて動くくらいできんだろ?」

「人を化物のように言うな、そのような事は出来ぬ。」

 口を利くことはできても自ら動くことは叶わぬらしい。中途半端に能力を持っているものへの鬱陶しさを舌打ちに込め、彼は剣の方に向き直した。

「あー、もうっ!なんだよ面倒臭えなあ。警察にでも持っていきゃあいいのか?」

 誠は言葉遣いこそ丁寧とは表現できるものではなかったが、性格は冷酷や非情に徹しきれないところがあり、たとえ未知の物体であってもけんもほろろに扱うことができなかった。

「手間を取らせるな、少年。」

「乗りかかった船だしな、もうちょっとだけ乗ってやるよ。」

「助けてもらうついでにもう一つあるのだが・・・」

「あー、もう何でも言っちゃえよ。叶えてやれるかは別問題だけどな。」

 誠はすっかり投げやりな気分で開き直り、話だけは聞いてやるといった体の目上な態度を取る。

「奴が・・・迫っておる。」

「奴?奴ってなんだよ。また訳の分かんねえ言葉が出てきたぞ。」

 聞いてやるんじゃなかった、誠の感想はそれのみであった。

「よいか少年、我を刷け。そして纏うのだ。」

「はく?まとう?」

 二十一世紀の少年には剣から『佩く』だの『纏う』だのと言われてもどういった動詞なのか漢字にも直せなかった。むしろ後者の『纏う』に関しては直訳では普通の人間には意味は全く通じなかったであろう。およそ剣を纏うなどという文章は通常では成立しないのだから。

「いいから早く我の言う通りにせよ!」

 尚も居丈高な口調で物申してくる剣に対して誠の辛抱は苛立ちを隠しきれないレベルが続いていた。

「あのなあ、そんな威圧的な言い草で『はいそうですか』って従ってくるのはよっぽど物事知らない子供くらいのものだぞ。人に頼み事をする時はな、」

「いいから早くせよ!」

 誠の話に割り込んでも剣は即行を求めた。よほどの事が差し迫っていたのだろうが言葉だけを放つのではその必死さが誠に伝わるのは互いの意思疎通が時間的にも物量的にも余りに少なすぎた。

「うわっ!風、いや突風かっ。」

 誠が次の言を発するより早く、丘の方より一陣の疾風と共に黒い影が岸壁に飛び降りてきた。突如巻き起こった強風に誠は腕を出して身を守る姿勢を取る、腕の隙間から風上を凝視する。巻き起こる風の中心に存在するものは誠を挟んで剣と対峙するような位置にて強力な風で姿を隠していたが、身を包んでいた矮小な竜巻が徐々に勢いを弱めていくに連れ姿を白日の下に晒していく。

「犬?なんだ、犬かぁ。喋る剣の次だからもっと怖いものでも出てくるかと思ったら、脅かしっこなしだぜ。」

 中心から現れた、日常の風景でもよく見るような大型犬の姿に誠は安堵の色を隠さずにいた。犬と認識されたそれの風体は実は狼だったのだが、狼を見たこともない日本の一般的高校生がそれを正確に狼と言い当てるには知識と経験の両者に酷な任務を与えることとなる。元々が動物好きで大型犬にも恐れを知らない誠がそれに対して手を伸ばそうとする。

「馬鹿者っ!すぐ手を引くのだ。」

「えっ?」

 剣の悲痛さをも帯びた叫びに振り向いた誠へと犬、いや狼は牙を向いて飛びかかった。顔こそ後ろを向きつつ、体の前方から俊敏に襲いかかる猛禽の殺気は誠にも速やかに感じ取ることができた。襲い来る牙を紙一重の差でかわしたつもりだったが、前足の爪が彼の左腕をかすめる。かすっただけにも関わらず誠の腕に長い傷を這わせ、指の先まで達した鮮血が行き場をなくして宙を伝って地に落ちている。奴は追わせた傷が致命傷には程遠い浅さであることをすぐさま判断し反撃を恐れてか、すかさずほぼ元の位置より更に後ろまで飛び戻り、彼との間合いを十分に取った。

「うわあっ!」

「大丈夫か?だから引けと言ったのだ。」

 冷静さを取り戻し抑揚をまたも失った剣の声が誠に確認をかけた。

「痛つつつ。な、なんだよこの犬。」

 出血した左腕を右腕で庇いながら誠の目は手傷を追わせた相手を直視する。やはり彼の目からは凶暴でありつつもただの大型犬、その程度にしか見えない。だが左腕に負わされたものからそれの敵意が自分に向けられていることは存分に理解できる。かなりまずい、生物としての本能が誠に危機を感じさせてきた。速度は向こうの方が圧倒的な以上、主導権も握られ逃走を図ることもままならない。詰んだのか、せっかく溺れた所を助かった命がほんの少し長くなっただけなのかと運命などという意味の分からぬ存在を呪う誠にあの声が響く。

「少年、すぐに我を佩くのだ。」

 剣が先程と同じ声を彼に向けてきた。誠は視線だけは敵と呼べる何者かに対して外さず、耳と口を剣に貸した。

「『はく』?だから『はく』って何なんだよ。」

「分らぬ男だな、よいか、我を掴め。握れ。そして鞘から我を抜き放つのだ。」

「なるほど、それなら言ってる意味がわかるぜ。まったく、最初っからそう言えよ。そうすればどうにかなるんだな?」

「うむ、保証する。」

 誠は意を決した。にじりにじりと後方に落ちている剣に向かって後退を始める。但し敵もまた、目標が一歩分下がると一歩歩を進め、距離の均衡に変化を起こさせない。彼我の距離は一定を保ちつつ誠と剣の距離はじわじわと詰まっていく。

(だけど、剣を持ったら勝てるのか?俺、銛はあっても剣なんて持ったことねえぞ。)

 誠は独語する。もとより彼は普通の高校生、剣道部でもないのだから剣など手にしたこともないのだ。

「案ずるな、我を手にすればそのような雑兵、たやすく倒せる。」

 誠の心を見透かしたかのように剣が彼に語りかける。信じるしかないか、と彼は思う。牙や爪という強力な武器をむき出しにする相手、次に飛びかかられた時にそれによって生命に重大な負傷を負わないとは限らない、むしろ負う可能性のほうが高かろう。せめて剣をぶん回しでもすれば素手よりはよほど助かる可能性はある。今は信じよう、怪しげな剣であっても眼前で敵意を惜しげもなく放つ怪しげな獣よりは信じる価値はあった筈だ。

「お、おう。仕方ない、お前を信じるぜ。」

 誠は心をしっかと持ちながら剣へと更に近付いた。体制を崩さずに後退しつつある誠に対し攻撃の機会を伺っている狼は余裕なのか軽々に再攻撃に入ろうとはしなかった、これは現在のところ有効な対策のない誠にとって好都合である。

 そして彼の足は、しゃがめば剣を手にすることができる位置までの到達に成功した。しかしながら敵の目は虎視眈々と相手の体制が崩れるのを待つようである。今剣を取ろうとしゃがもうものなら奴の口が己の喉笛を掻っ切るなど造作もない想像がひしひしと誠を襲う。

「くそっ、あと一歩なのに・・・あ、そうか。」

 思い付いた誠は鞘の先を足に掛け、回転を利用して柄を大きく上に上げ、見事その手にすっぽりと柄を握った。

「ば、馬鹿者、我を足蹴にするとは、如何様な天罰を下しても知らぬぞ!」

「ばーか、何言ってんだよ、たかが剣のくせに。」

「たかがとは何だ、たかがとは!」

「そんな事よりよ、お前を持ったぜ。これで何とかなる・・・んだよな?」

 剣は状況を鑑み、腹に据えていたものを抑えたように誠の言葉に答える。

「う、うむ。そうであったな。では少年よ、我を抜け、鞘から剣を抜くのだ。」

「お、おう。こうだな。」

 剣に指示されるがまま、誠は鞘と柄に手をかけ、刀身を陽に晒していった。するとどうだろうか、白銀を思わせる様に眩く傷一つも、また錆一つもない刃が鞘より現れい出た。刀は陽光を受けて煌めき輝き、しつこくも貼り付いていた藤壺の類は輝きに目を覆ったとばかりに全て崩れ去る。抜けば玉散る氷の刃とはこのことを差すのか、海の底に沈んでいたというに傷の一つすら見付けられぬ美が感じられる。

 誠も信じられないほど美しい輝きを放つ金属に目を見張った。と、すぐに我に返った。己を狙う剣狼の存在を思い出したからだ。が、剣狼は剣の放つ光にたじろぎを見せ、自分から一瞬でも目を離した誠を襲うことなどできようもない様子であった。

「これは・・・どういうことなんだ?」

「我の放つ光は神の光、此奴のような妖の類には効果覿面ぞ。」

 問うたわけでもないが、剣は誠の疑問に答えた。

「さあ、力を抜け。我にその身を委ねよ。」

「え?」

「よいから力を抜くのだ。少年よ、お主どうせ剣を振るった事などなかろう。」

「そ、そうだけどよ。」

「ならば我の言うことに従え。助かりたいのであろう、悪いようにはせん。」

「わ、分かったよ。力を抜けばいいんだな・・・」

 誠は反骨の精神もにじみ出たが、目の前の脅威から助かりたいとの切実な思いから剣の言うがままにすうっと力を抜いた。体の緊張を解くとともに外部から体の中に流れ込む力を感じる。

「熱い、手が・・・熱いぞ。」

「そうか、我の力を感じるか・・・これは思わぬ拾い物をしたようだな。」

「拾い物?」

「何でもない、こちらの話だ。それよりもお主が今感じている力だ。その力を体全体に行き渡らせるように想像せよ。」

「あ、ああ。」

 誠は手から流れてくる剣の力、それによる熱みを己の五体へと滲み渡らせるイメージを描く。熱が体中を熱くさせる、力が漲り剣が紙細工を握っていると錯覚するように重量を感じなくなった。そして大いなる宇宙の中に身一つで漂う感覚が彼を襲い、体の中心から何かが発光したようだった。次の瞬間、脳裏に剣を振るうイメージが出来上がっていた。

「何だ・・・?力がこみ上げてくる。分かる、分かるぞ。剣の使い方も分かる。」

「よし、心を解き放ったな、そうだ。そして奴を見よ、分かるな?」

「ああ、分かる。今なら俺でも・・・倒せる!」

 保証などなかったが今の誠には分かっていた、この剣の前では手傷を追わせた獰猛な獣も赤子に等しいことが。何よりの証拠に徒手空拳の際は己に向けて浴びせていた殺気を帯びた獣の目が、剣を抜いて後は歴然たる力の差を本能で感じた動物の目へと変容していた。

 誠は腰も引かず背筋も伸び、凛として所謂中段に構える形を自然に取っていた。攻撃にも防御にも汎用的な対応が可能で、剣道でも最も基本とされている構えである。そして初めて敵に対し一歩踏み出す、今度は間合いを保つために敵の方が前足を後ろに退く。攻守は完全に逆転していた。

 じりっ、じりっと誠が獣を追い詰める。間を置かずに獣の後ろ足は岸壁の端へと歩を置いた。そこで踏みとどまろうという姿勢から、これはどうやら海か水が苦手のように見える。

「アイツ、海が駄目なのか?」

「そうだな、陸に住まう妖は陸から離れられず、海に住まう妖は海から上がれないものだ。」

「そういうものなのか?」

「うむ、故に我が何百年と海の底で何者の阻害も受けず惰眠を貪れていたわけだ。だが気を付けろ。今の奴は海を背にして進退極まっている、窮鼠と化していつ攻めに転じてくるやも知れぬ。」

「ああ、分かった。というかお前、海の中で何百年も寝て暮らしてたのか?」

「そのような事はどうでもいい!奴から目を離すな、それだけだ。」

 誠の目は獣から離れていなかった。湧き起こる力のお陰で冷静に敵を見つめることができ、その一挙手一投足に対して注意を払えていた。

 更に一歩を印す誠に対し敵は踏み留まり、結果として間合いが詰まる。敵がガルルルと唸り声を上げる。いよいよ切羽詰まってきているのを感じる誠も気合と緊張を高めてまた一歩を踏み込む。

 次の瞬間だった、一瞬敵が屈んだ直後、足のバネが反発するように跳ねて誠めがけてついに、いやようやく牙と爪を向いてきた。しかし敵にとって不幸だったのは先程は難なく一撃を食らわせていた相手が今は絶対的力を得て冷静に自分の攻撃を見透かしていた事だった。

 誠の振るった剣が横に一閃、刃が口から尾にかけて敵を真っ二つに切り裂いた。地獄で後悔することになるだろうか、相手には断末魔の叫びすらなかった。上下二つに別れた元は狼の形をしていた物体は地表に躯を投げ出すでもなく、斬られた直後に粉状に分解したかと思えば、粉の一つ一つが弾けるように煙のように消えて果てた。

「消えた・・・?」

「倒した証拠だ、奴らは存在した証を残さぬ。これも妖の為す技だな。」

 誠に感慨はなかった。感覚的には切り裂いた剣の鋭利さが抜群だったのか紙を切るかのように殆ど抵抗を感じず、心情的には普段から銛で魚を仕留めているだけにそれが妖、つまり魔物であっても外面は狼を倒したと考えるに過ぎなかった。

「俺が倒した、のか?」

「うむ、誇るがよい。この『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』に認められ、あまつさえ即座に妖の一体を葬ったのだ。並の人間ではこうは上手く運ばん。」

「あま・・・?なんだって?」

「天叢雲剣だ。」

「それがお前の名前なのか、やけに言いにくいな。」

「お前だとっ・・・まあよい、素質は十分でも性根には問題があるのは今後時間をかけてじっくりと直してしんぜる。我は天叢雲剣、この国で最も尊ぶべき宝剣なるぞ。」

「尊ぶ?たかが海の底に沈んでいた剣が偉そうに。」

「好きで沈んでいたわけではない!元はといえばお主達人間たちの争いに巻き込まれて幾星霜を薄気味悪い海の底で過ごさざるを得なんだのだ。そもそも我が何故このような最果ての地に置かれたかというとだな、」

「やれやれ、次は偉そうに授業かよ。一番嫌われる教師のパターンそのものだぞ。」

「いいから黙って聞け。お主こそ嫌われる生徒そのものではないか。」

「はいはい。」

 剣は己の身の上を切々と誠に説いて聞かせた。天叢雲剣、それは日本の古代神話より登場する由緒ある剣である。須佐之男命が出雲の地にて八岐大蛇を退治した時にその尾の中からこの世に現れたとそれは言う。その後、平家滅亡の折にこの下関(壇ノ浦)の海中に没したまま実に九百年程の時を過ごしていたそうだ。

「という事じゃ。少しは我の尊さを理解できたか?」

「なんだ、けっこう里帰りじゃねえか。出雲って隣の県だぞ。」

「そういう問題ではない!やれやれ、此奴には我の尊さを理解できる頭はないのか。」

 剣は自らの講釈が徒労に終わったことを嘆く。だが聞きたくもない授業を強制的に受けさせられた方にも言い分はある。

「うるさいな、大人しく聞いてたら人のことを馬鹿呼ばわりしやがって!」

「呼ばわり?いや馬鹿そのものであろう。」

「あー、もう、ただの剣のくせに鬱陶しい!」

 腹立たしさの極限を突破した誠は上からの講釈垂れる剣を岸壁のコンクリートに叩きつけるべく力いっぱい地に向けて投げつけた。だが剣はコンクリートに接触する前に空中に静止し、あまつさえ誠の胸の前まで静かに戻ってくるではないか。

「なんだよ、お前はっ!」

「お主を認めたと言ったではないか。お主が我を捨てようとしても我はこれ、このように必ずお主の元へ戻ってくるのだ。故に、もっと大事に扱うことじゃ。」

「剣なんかいらないっての。迷惑だ、とっととまた海の底に戻りやがれよ。」

「連れないことを言うでない。せっかく引き揚げてくれた礼くらいはさせてもらうというのに。」

「礼?今、礼って言ったよな。」

 その単語に誠は現金にも反応する。剣にも彼の目の色が変わったのはよく理解できたようだ。

「お主、矜持というものは持ち合わせておらんのか?」

「『キョウジ』?そんなの知らねえけど、絶対貰って嬉しいものじゃないだろ。それよりお礼って何くれるんだよ?」

「う、うむ・・・」

 剣は、彼の余りに欲望に正直すぎる態度について行けなさつつも話を進める。

「これからお主の周りには、先程のような妖が押し寄せてくる。それを我を用いて滅するのだ。それが礼だ。」

「はあ?どういうことだ?俺はお化けに襲われる謂れなんてねえぞ。」

 今しがたその『お化け』と呼称できる内の一体を仕留めた事実は棚上げして誠は異形の者に命を狙われる理由がない潔白を主張する。

「それは、我に認められた者ということは我と同様、奴等にとっては己の存在、命を脅かす存在となったということだ。奴等にとってはそれだけで十分お主を狙う理由となる。」

「なんだよそれ、俺はつまりお前の巻き添えを食らってるだけじゃないのか。」

「そうとも言うな。」

「あっけらかんに言うな!」

「ならばそもそもお主が我を引き抜かなければよかったのではあるまいか。海の中で我を掴んだ時にお主の運命は決したのだ、諦めて受け入れよ。」

「なんだよ、それ。」

 とほほな感情が誠を支配した。ついてない、人生最悪の日だ、十六年の短い歳月で気の早い落胆を示す。さっきコイツを触らなければ、更に遡れば鯛を追わなければ、勇達への対抗意識など燃やさずにとっとと引き上げていればこのようなことには出くわさなかったのだろう。今の運命へと達する積み重ねられた積木の下、そのまた下を一つ一つ嘆いては自分の過去における分水嶺での選択を後悔した。

「これ程の礼はあるまい。何せ我はこの国随一の神剣なるぞ。およそ一人の人間が持つなどということはあり得ん。ましてや我がお主を守ってやろうというのだ、何が不足か。」

「不足とか足りないってんじゃないんだよ、こんなのただの押し売りじゃねえか。クーリングオフだ、クーリングオフ!」

「『くーりんぐおふ』?大凡それこそ貰って嬉しいものではあるまい。では、これからよろしく頼むぞ、相棒よ。」

「だーっ!人の話を聞け、俺は絶対認めねえぞ!」

 クーリングオフはおろか、誠の否定を一切合切聞く耳持たないで己の今後の権利のみを主張する。とことんまで身勝手と上からの物言いに誠はとうに辟易していた。

 実は天叢雲剣自身も己の身一振りでは何もできない。振るう者が必ずあってこそ剣の力が発揮できる。つまり誠が単体で魔物に襲われても何もできないのと同様、剣もまたそれだけでは敵対するものに対しては無力であった。そこを知らせずに己の要求のみ叩きつけた天叢雲剣は神剣とは名ばかりのアンフェアな交渉であった。

 こうして石狩誠は望まざる相棒、天叢雲剣との邂逅を果たした。この出会いが彼にとって今後いかなる運命を齎すのか、この時点での彼には想像だにできなかった。

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