星で想いを

桜庭聡

第1話

 --平凡でいい、細く長く生きたいとは思うけど、別に今すぐ人生が終わってもそれはそれで別に構わないかもしれない。

 中二の夏というこれから青春の本番を迎えようという年頃にして既に人生の本道を下りた、いや乗る前から乗車を拒否している様を吐く内向的、悲観的な心を除けばごく普通と言ってもいい人生を送っている一人の少年、司裕介。学校の期末試験も終了のチャイムが鳴り渡り、あと数日「登校」という悲しい義務を履行すれば「夏休み」という学生生活のみに存在する大きな幸福が待ち構えている。そのような時期だというのに、彼の思考は幸福に向けた期待に胸膨らむでもなく、およそ正のベクトルとは掛け離れたところにあった。


「やあ、司くん。」

「オッス、裕介。」

「や、やあ、おはよう。」

 裕介に挨拶をしてきたのは小学校時代からの同級生。先んじて挨拶をしてきた男子が明るくいつもナチュラルスマイルが絶えずクラスでもムードメーカーな山本千章。後に続いたのが彼らの属する友人グループの中心、リーダー的存在の伊東孝志。裕介とは前者とは六年、後者とは実に十年の付き合いになる。

 二人からすると裕介は親友と言って差し障りない存在なのだが、裕介からすると彼らとの間には一本、ないし二本の溝の存在を設ける節があった。それでも彼らにしてみると自分と正反対の面がある性格を持つ裕介が気になる存在であり、性格が逆でも馬は合うので一緒にいる時間が長くなり今の友情期間が続いていた。

「暗いなあ、期末でも悪かったのかい?」

「いや、全教科七十点は越えたよ、自己採点だけど。」

 しれっと自分の点数を大きく凌駕する発言を聞かされて孝志は顔に手を当てつつ天を仰いだ。机上の勉強に対しては裕介は二人に大きなアドバンテージを持っている。教えている教師としては、本文たる勉学に口を挟む隙間はないのだが、別の所で大いに口を挟んではなかなか結果が結べないでやきもきする所大である。

 教師が気を揉ませる一つが遠慮がちな点。実際全教科八十点を越え九十を上か下かというくらいなのに友人に対しても遠慮がちな嘘を付く。それがまた微妙な嘘なのでたまには露呈する、その度にそんな下らない気を遣うな!と叱責されるのだがどうも遠慮がちな性分がついつい下らない嘘を付いてしまうのだ。この嘘も数日後のテスト返却の際にあっさりと発覚してしまう。

「な~!テストも終わったそんないい点取った、なのにどうして暗いんだよ。」

「どうしてって、普通なんだけど。」

「普通!?普通じゃないって。もう少し千章を見習えばちょうどいいのにな。」

「じゃあ爪の垢やろうか。」

「いらないって!」

 裕介は笑って千章に応える。裕介にも多少の冗談は理解できる、だが気心の知れた人間からの発信に限定されるので他グループのクラスメイトは勉強を教えてもらおうとするときなどに多少気を遣うきらいがある。

「どうしてその態度が他のやつにも取れないかなー?」

「えっ?」

 孝志のこの発言には現実との誤差があった。裕介はこの二人以外のクラスのほぼ全員と男女問わずあまり打ち解けておらず、冗談めかしたことを言うのが苦手である。ただ、女子に人気があり性別別け隔てなくクラスの全員と付き合っている孝志には、裕介が特に女子との絡み具合が薄すぎるのも気になっていた。

「昨日も、みゆきちがせっかく勉強聞きに来たのに、見ちゃいられなかったぞ。」

「ああ、ありゃあ傑作だったね。」

「だってさ・・・」

 内向的な割に異性を敏感、むしろ過敏に意識してしまうのは裕介にも自覚があった。昨日もそのみゆきちと呼ばれる少女、本名は篠原美幸というクラスでも指折りの容姿と気立てで男女問わず人気のある女子が、数学で分からない所があるから教えて欲しいと彼の所にやって来たのだ。これは男子にしてみれば可愛い同級生が向こうから自発的に自分に助けを求めにやってくるという垂涎の舞台でありながらこの裕介という男、周囲の予想通りの反応、つまり最後の解だけすげなく教えるという、およそ男子としてもあるいは教師もどきとしても落第点を叩き出していた。

 これにはむしろ彼よりも彼の友人達が体中が痒くなるむずさを覚えていた。特にこの孝志と千章は思春期真っ盛りの男子よろしく、男女の仲の機微に対し歳相応以上の興味を示している。反面、歳相応以下の反応を示す裕介には、二人のこの辺りがあまり気のそぐわないところであった。実際は二人のみでなくクラスの男子の殆どがむず痒さを覚えているが、裕介は彼らへの関心が少ないだけにそれを気にするまでは至っていない。

 また幾ばくかの同級生は勉強となったら美幸は裕介の所に尋ねるのに対し嫉妬感を覚える者もいる。だがそれに関しては裕介の内向ぶりが功を奏し、彼の体たらくでは恋のライバルには成り得ないという安心感が嫉妬心の膨張を抑えていた。

「『だって』じゃないって!俺なら勉強教えるついでに告っちゃうぜ、お前もそうしちゃえよ。」

 孝志にはこういう軽いノリがある、男女の機微には反応が大きいが、あまり自分の恋愛感情は成熟していない。それだけに特定の女子のみと深い付き合いをせず、クラス全ての女子とライトな関係を築いていた。勿論その中には特定の男子との付き合いが深い、若しくはある男子が狙いを定めている女子も含まれるが、付き合いの平等さと孝志の気持ちの良い存在感が怨嗟を無縁のものとさせているのだ。

「伊東くんはすぐ茶化すんだから。」

 とは言いつつ千章も普段のにこやかな表情に薄くにやついた笑みを滲ませていた。彼としては裕介を美幸とくっつけたがっているのである。

「で、司くんとしては、篠原さんがどうなんだい?」

「ど、どうって?」

「決まってるだろ、君は篠原さんが好きなのかどうかだよ。どうなんだい?」

「な、なんでそんなこと!」

「そんなこと?そこが一番大事じゃないか。」

 言いながら千章の顔はにやつきを膨らませていた。眼鏡をしている彼は時々光の反射の加減で目の色を確認できない時があるが正に今はそれの時である。よって本音は見えないが、口元の綻びは確実に笑みをこぼしている。また千章は孝志と違い直ぐに確信に迫ってくるところがある。普段は優しい友人なだけにいざ踏み込まれた時の対処が非常に難しいのはいつもあけっぴろげな孝志より厄介なところだ。

「別にどうでも・・・」

 どうでも?別にどうでもいいとか言ったつもりはない。本音を言えば、声をかけてくれるだけに気にはなる存在であることは否定し得ない。しかしこの時祐介の口から飛び出した言葉は本音から遠く及ばない科白であった。

「どうでもってことはないだろ~。お前なあ、あんな可愛い子がお前を頼りにしてるんだぞ。」

 孝志のにやつきの色が濃くなった。面白がってる、祐介は感じた。それは間違ってはいない。が、祐介は彼らが面白がってるだけで自分をからかってるだけだと思い込んでる。逆に二人は結構本気で祐介を美幸に近づけさせたい気があった。

「だって、別に勉強くらい僕でなくても教えられるじゃないか。」

「だーかーらぁ、僕でなくてもいいのに僕が選ばれてるって事に気付けよ、祐介。」

 祐介は何に一番自信がないかといえば、自分自身に対する自身があまりにも無かった。人と比べる事でコンプレックスばかり抱き、例えば眼前の二人に期末試験ではいい点が取れているというのにそれも「どうでもいい事」と感じ、彼らは自分より明るいから羨ましい、などのような思考に走るのだ。

「自信持とうよ司くん。僕の見立てでは篠原さん絶対に君に気があるよ。」

「えっ?」

「ま、まあまあまあ、この辺の秘密会議は昼でも食べながら。」

 千章は通学路にある「いつもの」ファストフード店を指した。心がコンプレックスの塊であろうが体は数時間前の食事を消化すればきちんと腹は減る、祐介も食事に関しては了承の合図で三人仲良く腹を満たしに店に寄った。


「じゃ、俺が場所取っておくから二人、先にいけよ。」

「ああ。」

「うん。」

 孝志がしれっと場所取りを買って出、祐介と千章がまず調達にカウンターへと向かった。思い思いのメニューを購入し、千章が席に帰ってきた所で孝志が交代でカウンターで注文を出す。孝志が帰ってくるまで二人は食べるのを控えており、三人揃った所で口を付けだす。力関係というと聞こえが悪い感はあるが、裕介と千章からすると孝志へのグループリーダーとしての依存度は非常に高い。良き友人であり頼れる同い年という見解は孝志の前にいる二人には共通している。

 食を進めつつ、裕介は十分前に千章の発した美幸が自分を気にしている発言の真意を気にしていた。でも二人の話はテストの話題にぶり返してからの夏休みの生活に転じ、十分前の話題などどこ吹く風であった。それがまた陽気に話すものだから、裕介としては話題をそこに揺り戻す機会を見出すのに苦労し、来た会話にはうん、だのそうだね、と心あらずな相槌を打つのみで精一杯であった。

「ね、ねえ。千章くん。」

「はいっ?」

 会話の切れ目に目をつけて、ようやく裕介はこの数分間で話の主導権を初めて握った。

「さっきの外での話だけど、篠原さんって、」

「おっ、司くんやっと女の子に興味が出てきた?」

「おっと、裕介からみゆきちの話題とは珍しいな、これからゲリラ豪雨か?」

「そ、そうじゃなくって、あの、篠原さんの好きな人って、」

「なになに、彼女好きな男子がいるのかい?」

「だからそうじゃなくって、さっき山本くんがああいう、」

 裕介のみ話が咬み合わないこと甚だしかった。千章も先刻の自分の発言などすっかり忘れており、興味は裕介が女性の話題をふるという万に一度あるかどうかという絶滅危惧種を発見した時のような興味に移っている。

「ふーん、バカな男三人が何わめいてるのかと思えば女子の話題?」

 男子の四方山話を切り裂く女子の声が六つの耳に侵入してきた。しかも彼らには聞き覚えのある声であり、その事が必ずしも良好な感情を呼び起こすものではないという事実を教えてくれる方面の声である。

「あっ、佐藤・・・」

「や、やあ佐藤さん。」

 彼女は佐藤香、色気の話に花を咲かせている男子三人と同じクラスの女子である。女子に対しては姉御肌のある面があり、クラスの女子から最も慕われてる女子の一人なのだが、孝志と千章が明らかにどん引きの口調で挨拶する、口調どころか体制も逃げ腰で彼女を苦手にしているのは明々白々。第一声が示すように彼女は女子にはそうではなかったのだが、男子に対しては真逆で冷淡な風当たりなので異性人気を地に貶めているきらいがある。

「なーんだ、香か。」

 裕介ときたら反応は二人より更に冷淡な空気を吐くように対した。。

「なんだとは何よ、スケベ。」

「だ、誰がスケベだよ!」

「ふんっ、こんな所で女の子の話なんかしちゃってるからスケベなのよ。」

 かなり極端な売り言葉に裕介の買い言葉も値を釣り上げた。

「こんなくらいでスケベ呼ばわりするなよ。そんなこと言ったら男なんてみんなそうだし、そっちは男子の話なんてしないのか。」

「お生憎さま。私たちは時と場所を選んで話してるから大丈夫なの。」

「な、なんだよその屁理屈。」

「屁理屈じゃないわよ、ただの事実!」

 時と場所を選んでる者が公衆の面前で痴話喧嘩なのだから説得力も何もあったものではない。裕介と香は睨み合った後、同時にふんっ!と相手から目を逸らした、そのまま香はバーガーを乗せたトレイを手に二階席へ上がっていき、ようやく台風は去った。

「祐介・・・お前どうして佐藤とだけはそんなに仲いいんだ?」

 嵐が過ぎ去るのを待つだけ待っていた孝志が、台風一過で雨戸を開けた開放感を味わうように再び口を紡ぎだした。

「仲いいって?そんなわけないだろ。いつもあいつからつっかかってくるから五月蝿くってさ。」

「そうだよな、佐藤も何かと司くんが鬱陶しいみたいだしな。はあ。」

 孝志も千章も目が急激に輝きを失せていた。勝ち気と生意気さで、とかく男子諸君に不人気である香がやたらと裕介に絡んでくるのは快く思っていなかった。裕介も香にだけは強気に出てしまう、この元気の数%でも他人に示せば、とは自分も他の二人も思うのだが。

「小学校の頃はあんなのじゃなかったのに、中学に入ってからしょっちゅうこれだよ、ホントに。なんなんだよあのブス。」

 裕介には珍しい悪態をつく所を二人は目撃した。とはいえ香も顔は悪くないのは大抵の男子は認めるところであった。ただ男子が女子に悪態をつくときの単語はだいたい相場は決まっている。裕介は相場に転がってる単語を拾い、口から放ったに過ぎない。彼女とも小学校入学以前より九年十年の知己であり、小さい頃には孝志を交えて三人で遊んでいたこともままあった、のが今は見る影もない、寄らば斬るぞの交戦状態であった。

「でも昔は仲良かったくせにな。佐藤と二人で『ままごと』やってて、「男のくせに『ままごと』やってる」って泣かされては、佐藤が泣かせた奴らを本気で追い回してたしな。」

「泣かせた本人が何言ってるんだよ。」

「え、そうだったっけ?まあ昔のことだからいいじゃん、いいじゃん。」

 裕介がじろっと孝志を眺めた。裕介は基本的に物事を真面目に捉えすぎる向きがあり、孝志は不真面目に捉える方向にある。普段はうまく行ってるが、稀にこの指向性の違いが軋轢を生む場合もある。今日は稀の場合ではなかったらしく、孝志がすげなく流すのを裕介も深く追求しないでいた。

 小さい頃は三人、今のメンバーではない三人、つまり裕介、孝志、香。この三人でよく仲良く年相応と言える幼児らしい遊びに興じていたのだ。香が男の子っぽい遊びをすれば三人で盛り上がるが、件のままごとなどのような女の子っぽい遊びになると孝志は頑として遊ばなかった。反面、裕介は喜んでままごとでもお人形さんごっこでも香に付き合っていた。それが面白くなく、また一人暇をかこつ身となった孝志は暇に飽きたら裕介をからかって楽しんでいた。そうすれば裕介はやたら甲高い声を上げて泣き叫ぶから、幼児ながらに母性本能をくすぐられでもしたような香が孝志を退治する、という図式が繰り返されていた。当時は実のところ、三人でも特に仲が良かったのは裕介と香であった。十年という時は意地の悪い事で、蜜月だった二人を現代ですっかり険悪な仲へと変えていた。

 そして裕介は嫌な思いも一緒に喰らうように食を速め、無言のまま最後の一口をジュースで流し込んだ。


「あーあ、佐藤に会うなんてついてなかったなあ。」

 ファストフード店を出てからも、千章の残念ぶりは続いていた。期末試験の日なのだから同じクラスなら大体が同じ時間に帰宅するのは当然で、香ならずともクラスメイトと遭遇する確率は高かった、が確率に恵まれたのがよりにもよって香だったとは、三人は三様に天を仰いで運命の神に向かい子供の口から出る程度の悪態を心中で呟いた。

「ホントホント、折角テストから解放されたと思ったらアイツに会ってまた嫌な気分だぜ。」

「つくづく嫌だよ。はあ・・・また恥かいちゃった。」

 ファストフード店などという場所で派手にやりあったことを今更のように後悔して恥じ入る裕介、後の祭りとはまさにこの事。学校では実のところよくある風景なので生徒間では何事もなさげなイベント扱いだが、今回は学外でもあっただけにちょっと堪えていた。

「裕介、言っとくけどアイツとまともにやりあってんのお前だけだぞ。」

「うんうん、この際佐藤さんと付き合っちゃえば?彼氏相手なら彼女も黙るだろうしさ。」

「やだよそんなの。山本くんが付き合えばいいじゃないか。」

「芸人じゃないんだから、罰ゲームは自分からは行きたくないさ。」

「それは僕だって。」

「でもお前、昔は仲良かったじゃないか。すぐ泣きわめいたのに佐藤に『お~よしよし』って頭撫でてもらったらピタッと泣き止んだよな。」

「おやおや先生、そんな頃から女たらしだったんですか?」

 昔をよく知る、しかもやけに当時の記憶力が良い孝志の告白に千章が目ざとく食いつき、再び邪悪なる笑みを浮かべた。少なくとも裕介には千章の笑みに邪悪性を見ていた。

「そ、そんなの昔のことだよ。」

 思わず赤面して二人から視線をそらす裕介。先刻の威勢はどこへやら、親友にすら茶化されると脆くも守勢に回ってしまう。

「おやおや先生、十四歳にして昔の女の話とは恐れいりました。」

「その『おやおや先生』はいいから!絶対違うからっ!」

 裕介は自分が昔は香にあたかもペットのように懐いていたと確かに記憶している、言ってしまえば彼女なしでは生きられないくらいべったりと。だがそれだけに、最近になり急激に態度が硬化したことが裕介が普段抑えてる感情をここぞとばかりに押し出しているのかもしれない。

「我が右手に篠原、我が左手に佐藤。古の契約により両手に花を参らせたまえ!」

「はははっ、すっげえカオスワード。」

 千章の上手い表現に孝志が調子に乗った。所詮二人より精神が成長の実を熟れさせていない裕介は顔を真赤にして無益な抵抗を試みる。

「もうっ、やめてよ!じゃ、じゃあ僕、こっちだからね!」

 裕介は照れ隠しも含めて、普段より急ぎ足で二人と別れる道を進み、やがて角を曲がって二人の視界から完全に消えた。後に残された形となった孝志と千章にしてみればやれやれ、といった風である。正直、彼らには自分達により香に対してのほうが心を開いている状態に嫉妬心のようなものがあった。開き方が屈折しているというのはあれども。

「あーあ、逃しちまったよ。」

「伊東くんはいつも聞き方がいやらしいんだよ。」

「だってよ、お前だってあんな分かりやすいの弄りたくなるだろ。な?」

「伊東くんは、司くんを誰とくっつけたがってるんだ・・・?」

 千章は肯定しなかったが否定もせず、ただほくそ笑んだだけだった。煮えきらない裕介をからかっているのは確かなのだが、お節介となろうと少しでも彼の殻を割る手伝いになればと思うのは親友二人共の本心である。ただ、そこに己の興味を抱く事も忘れていないだけで、決して悪心ではないが不純物の混じりようは間違いなかった。

 だが香が裕介とくっつくと仮定すると、自然自分たちも彼女との交際が質量共に増大するのは明らかなのでそれは二人にとってはあまり歓迎したくない話だった。


 二人と別れて更に住宅街を歩いて五分、そこに裕介の自宅があった。ニ階建てで、狭いながらも洗濯物を干すには十分過ぎる程度の庭もある。とはいえこの付近の住宅はどこも裕介のそれと同じ規模の住宅が立ち並んでいるので、とりわけここの家庭の経済状態が周りと比べ著しく高いわけでもなければ低いわけでもない。

 裕介は自宅の敷地に進入し、持っていた鍵で玄関のドアを開ける。靴を脱いで二階の自室に上がり、鞄を置いて制服のボタンを緩めて腰を休めた。一連の動作の最中、発する言葉はなかった。発しても受ける相手がいないのだ。

 彼の家は両親との三人家族、共働きで両親ともに帰りは遅い。二人共あまり話をする機会はないし密度もまた薄い。たまの休みに顔を合わせても「学校はどうだ?」などとよく聞くような話が出るだけで、裕介はそれに「楽しくやってる」、「普通だよ」、「いつも通り」という受け答えでローテーションを組んでいる。親側がそこから先を追求しようとしないので図らずもそうなっているだけであった。学校の生活の結果として証明されるのは試験の答案と通知票であり、これらに於いてけちを付けられないためにも裕介は学業のほうで努力は怠らず、両親の期待通り、と裕介としてはそう信じてる結果をもたらしていた。

 裕介にとって自宅は最も孤独を感じる場所であった。この孤独感の延長により、学校でも深い友人付き合いができないでいる。そんな裕介にとって孝志や千章の存在は実に貴重である。また裕介にもうっすら自覚はあるのだが彼の殻はなかなかにして堅牢であった。

 部屋の中を見渡す、いつも通りの小奇麗な様子で目に留まるものもない。夜遅くまで一人である以上、洗濯物の片付けや簡単な掃除は彼の役目であるので普段から片付けはできているのだ。そんな中に部屋の数%を占領し一際異彩を放つことで存在感を示す物体があった、それなりに質のいい天体望遠鏡である。これは田舎の祖父が昨年、裕介の進学祝いにプレゼントしてくれた、彼には非常に大切に思っている品である。

 両親とは家庭内疎遠の風があるが、祖父にはよく懐いていた。いわゆる「おじいちゃんっ子」というやつであり、長い休みの時に祖父の家へ行くのが彼の数少ない楽しみの一つとなっている。

 昔々のある夜、まだ小学校にも入る前に裕介は祖父に連れられて田舎の山に登った。山とはいえ老人や子供でも気楽に入ることができる、小高い岡を気持ち程度起伏に富ませた程度のもので、特に祖父は彼自身が子供であった頃から駆けずり回っていたような場所とあっては危険もない筈なので両親も咎めることはなかった。

 そこで裕介は祖父から、天上を仰ぎ見て世にも素晴らしい絶景を魅せつけられた。つまりは満天の星空である。

「裕介、どうだ、この星空は。」

「すごい、すごいよ、おじいちゃん。すっごくキレイだよ。」

 当時はまだ5歳かそこらで、さすがにひねくれた感情の持ち合わせもなかった裕介は、心大いに揺り動かされた感動を素直に祖父に告げる。

「そうかそうか。裕介、この星空を見ているとな、おじいちゃんは人の世界の事なんて何もかもちっぽけな事に思えてくるんだよ。」

「ふーん・・・」

「星は何千年、何万年かけてやっと少し動くんだ。それに比べて人間の人生なんてたった百年もないくらいだ。いいか祐介、星に比べれば短いからこそ色んな事を経験して豊かな人生にするんだぞ。」

「うん・・・分かった・・・」

 祖父の言葉に耳を貸しつつも、五歳の彼にその言葉を解するには無理があった。ただ星を見上げる祖父が非常に良い顔をしてその瞬きを眺め続けていた印象だけが裕介の脳裏には記憶されていた。彼の思いは祖父の話も地上の喧騒と同列が如く、頭上の遥か遥か遠く、幾千万光年の世界へと馳せていた。空気の澄んだ山の上で見る星空は絶景である。およそ都会では見たくとも見られない等級の星さえもが手が届くかと思えるようにはっきりと網膜に焼き付くのだ。

「あのなあ、裕介。あれを見てみろ、おおぐま座があるだろ。」

「うん。」

 祖父の教えの中では星座の見方だけは五歳の孫も習得できていた。

「あの星座もな、ここからではおおぐま座の形をしているが、うーんと遠く、銀河系の端などから見ればこんな並び方はしていないんだ。どういうことか分かるか?」

「どういうことなの?」

「自分がどうしたって他人はなかなか変われるもんじゃない。けど自分が視点を変えれば他人も変わって見えるってことだよ。」

 やはり五歳の坊やには理解が及ばなかった。いい事は言っていたつもりだが孫の暖簾に腕押し加減を見るにつけ、同じ人生観話を将来の楽しみにとっておこうと彼はぱたりと小難しい話を止めた。

 祖父の紆余曲折、波乱万丈、であったかもしれない人生は十四歳となった今でもまだ理解できるものではなかった。

 この時の感動が元で裕介は星に興味を持った。祖父から子供用の天体図鑑まで貰い、家に帰るとずっと読みふける毎日を過ごし、その後も祖父に会いに来る度に山へ行くことをせがんでは、星が見たいと駄々をこねた。曇天で星など見えない夜には雨を呪い天気の神を蔑んでは疲れきるまで泣き喚いて両親や祖父母を困らせたものであった。

 ただでさえ可愛い孫に自分の趣味を理解してもらえた喜びが堪らなかったのだろうか、裕介にも両親にさえも何も伝えず卒業式の日に裕介の家までこの天体望遠鏡を自らがわざわざ運んできたのだ。その後両親は祖父に何やら苦言めいたことを小一時間話していたようだが、席を外してるよう言われた裕介は早速自分の部屋に望遠鏡を持ち込んで満面の笑みで贈り物をあるべき形へと組んでいた。小学生以上中学生未満の腕一つでは案の定途中で作り方に窮してしまったので祖父に助けを求めに行くと、祖父は嬉々とした表情で裕介の部屋へと向かった。この喜びはどちらかと言えば、息子夫婦の説教からの解放が成った喜びであったろうか。

 祖父の喜びは孫へと直接伝染したようで、裕介はそれからは5日と開けず週に二度は一番近くの小高い山へと天体望遠鏡を背負い、夜食や水筒まで準備した重装備で自転車を蹴っては「星空」という恋い焦がれる相手との逢瀬を楽しみに行っていた。


 祐介と星との蜜月は長くは続かなかった。中学に入学して間もなく、祖父が急逝したのだ。学校から帰ると珍しく両親が家におり、しかも慌ただしく動いていた。祐介も言われるがままに用意を整え、祖父の家へと向かい通夜からの準備に駆りだされる筈だった。

 今まで葬式に参加したことなどはなかった。人が亡くなるという観念も理解できていない祐介だが、物言わぬ祖父の抜け殻と対面した時、そのなんたるかがようやく理解の第一段階に達したのだ。

「おじいちゃん・・・?」

 返事はなかった。

「おじいちゃん、祐介だよ。」

 眼前には熱を失った人体が横たわっているだけで、周囲も何も声をかけられなかった。

「おじいちゃん、今年の夏休みも星を見に行くよね?」

 約束はしていなかった、祐介にとっては夏休みの実家旅行は既定路線であり祖父にとっても孫の来訪はやはり同様であったろう。しかし結ぶまでもなかった筈の約束は永遠に叶う機会を失った。その事をようやく悟るに至った祐介の瞳からは水分が止めどもなく溢れ出してきた。

 祐介の嗚咽が祖父の寝室に激しく響く。祐介のショックの大きさを悟り、彼を諭しつつ隣の、彼らが今夜睡眠を営む部屋に連れて行かせたのは祖父宅の隣に住まう祖父の親友だった。父親は祖父、つまり彼の父の横にあり身動き一つ取らなかった。隣室でも祐介は泣き通し、やがて泣き疲れ、一足早く布団の虜となった。結局通夜からの準備には参加できず、彼の抜けた穴は両親と近所に住まう祖父の友人知人達による負担となった。

 翌日の葬儀中も祐介は悲しむばかりで、ただ言われるがままに祖父の遺影を抱いて火葬場に行き、彼が天に還るのを見送るのみであった。

 今にして顧みれば、祖父をきちんとした態度で見送ることができなかった事は祐介には心残りでしかない。己はさんざよくしてもらっておきながら最期の見送りがあれでは薄情の謗りを免れまい、彼の脳裏に悔恨という杭が打ち込まれた瞬間がそこであった。


 以来祐介は以前にも増して内に篭もる性格を強めるようになった。週二であった星空との邂逅も二週に一度程のペースとなり、何より今までは自ら進んで楽しもうという思いで星と会っていたものが、単なる悲しみからの逃避行動へと滑落していた。

 友人達も祐介の多少の変心には気が付いたが、それをどう行動に表せばいいかも彼らには経験が欠落していたので接する態度に大きな変更は表していなかった。こういう時ばかりは祐介の人との距離を置く態度は、今まで厚く接していたものを急に畏まったり、などとせずに済むので、かえって友人達には有り難いものとなった。


 そして時はふたたび今へと戻る。それより一年が経ち、裕介も今では少なくとも表向きには平生を取り戻したように見えていた。彼は望遠鏡をじっと眺める。昨年の春頃には喜悦の境でこれと共に夜を過ごしていたというのに熱い石に冷水をかけられたような温度変化が彼を苛み、部屋の中に鎮座する限りでは送り主の不幸を悲しむ物体以上の存在ではなかった。

 やおら立ち上がり部屋を出た。日毎、日課となっている掃除に出たのだ。ぼうっと呆けているよりはいい、体を動かすことは思考の集中を良い意味で阻害してくれる。昨日は台所を掃いたので今日は居間と風呂場、という風にルーティーンだけを脳裏に描き機械的な作業でテーブルを拭いて掃除機をかけていく。そして風呂場に向かい浴槽を磨いた。

「いただきます。」

 やがて掃除が終わったところで日も暮れる時間となり夕飯を摂る。食事だけは毎朝母親が朝早くから用意してくれている所謂「チンして食べてね」というメニューで、味そのものは悪くはないが、いつも味気ない感覚を覚えながら摂っているのは食事に対してもあまり礼節を守った作法とも言えなかった。故に食事も彼に対して味という正当な報酬を惜しんでいるようであった。

 夕飯も摂り終えた祐介はテレビを少し見てから食器を洗い片付け、風呂を沸かし入り、また自室に篭もる。ここまでにこの家に新たな帰宅者の姿が現れることはなかった。時計を見ればもう二十一時も過ぎているが、この家の両親の毎日はこんなものである。むしろ祐介が起きている間に鍵の開く音がすれば早い方だから。

 そして今日は、祐介がドアが開く音を導眠剤として活用する事はなかった。


 明くる朝、祐介が目覚めた時に鍵の音がした。これは開けるのではなく閉めるほうの音で両親のいずれかが出て行った事を示していた。勿論鍵をかける必要のないもう一人の方は既に出掛けた後であることはいつものことである。

 まだ温かさの残るトーストを食みつつ祐介も登校の準備に追われる。いつも朝に少し慌てて躓いたり物を落としたりする様は、学校に行けば少なくとも孤独感からの解放は為るという悦が彼の足を些か脳が理解する半歩前に押し出しているのかもしれない。

 いつも決まった時間に改めて鍵をかけ、最後の一人がい出てこの家は住民が再び帰ってくるのを待ちわびる空き家と化す。

 中学までの道すがら、祐介を呼び止めるのは決まって、親友(と呼んで欲しい)の孝志と千章の二人。

「祐介、オッス。」

「おはよう、司くん。」

「おはよう。」

 3人とも昨日の別れ際の話題はもうどこ吹く風のように忘れている。なんの後腐れもなく今日の友情が始まるのだ。

「ねえ、昨日のテレビ、二人とも見たかい?」

「あの芸人の沢山出てたやつ?」

「そうそう、おっもしろかったよね。」

「うーん、俺はイマイチだったかな。あれなら俺と千章で漫才やっったほうが面白いぜ。なあ、祐介。」

「え?う、うん。そうかもね。」

 子供にありがちな、本職より面白いこと、優秀なことができるとの思い込みである。未来の可能性はともかく現在ではクラス会で盛り上がる程度の出来であることは疑いないが、見せる側も見る側も肥えた目を持ち合わせていないだけに判定は甘い。

「ニュースは見た?選挙するみたいだね。」

「あ、パス。俺興味ないから。」

「ぼ~くも。」

「もう、子供なんだから。」

「あー、まさか祐介には言われたくないぜ。」

「そうそう、この中で一番子供は祐介なんだから。」

「そんなことないよっ!」

 威勢というより、論拠に乏しい虚勢を張った。

「ほー、ほー、ほー、そうですか、先生。」

 孝志のいやらしい視線が祐介を捉えた。

「な、何?」

「いんや、別に~、千章、行こうぜ。」

 言うと孝志は千章と共に駆けていく。祐介も負けじとすぐさま後を追うが前の二人は追う側より足が速かった。

「待ってよ、何だよー!?」

 これが毎度の登校風景であった。日々の生活に孤独感はあれども友誼の結びようは少ないながらもしっかりしている。だのに祐介の盲目ぶりと負の思考への思い込みはなかなかなものがある。

 今日も今日とて眠気と格闘しつつ授業を完遂し帰路に着く、不真面目なほうではないが夏の陽と食後の時間帯は脳の活動を著しく停滞させるのは少なくとも人としては当然な生体反応である。魅惑に囚われた孝志などは教師に頭を小突かれて午睡の虜囚たりえるを振り払ったが、放課後の職員室という違った惨劇の虜囚たるを強いられた。また、千章は掃除当番なので図らずも一人での下校となった。

「じゃあね、司くん。」

 校門を出ようかというところでふいに追い抜かされざま声をかけられた。横を向けば、美幸がにこやかに、足早に下校していった。祐介は慌てて、

「さ、さよなら、篠原さん!」

 去りゆく相手に聞こえるようにと声を張ったのだが、どうも相手とは聞こえる感覚が違ったようで一旦祐介の方を向き返り、

「もう、そんなに大声出さなくてもちゃんと聞こえてるよ、じゃあね。」

 と窘めて帰って行った。祐介は気恥ずかしくなりつつ、ぼうっと彼女の去りゆく様を傍観していた。内向的な人間は、社交辞令程度でも相手から一歩踏み込まれることへの心の同様は大きい。ましてや好意がなくはない異性からとあっては尚のこと。どぎまぎしつつ感じた心臓の鼓動はいくばくか疾いように思えた。

 悪い気はしないな、思考はそんな感じであったが、彼に尻尾が付いていたならば間違いなく振り回していたであろうと本能的にはかなりの喜びを禁じないでいた。実に単純で安上がりな事であるが、彼にはそこまで打算的な考えは芽生えてはいなかった。嬉しいから嬉しい、それ以上でなければそれ以下でもないというだけの事である、上機嫌で一人帰路を征く祐介の足取りは軽かった。


 軽いままの足取りで家にまで帰り着いた祐介はポストを覗くと、何やら見慣れぬ封書を目にした。宛名は自分宛てだがそもそも自分に郵便が届くこと自体から珍しいので祐介は訝しげな表情をする。取り敢えずいつもと同じ動作で自室に入った、唯一異なったことといえば手にその封書を持って上がっていたのみである。

 机に向かって早速封書を開けてみれば、どうも何らかの懸賞の当選通知のようだった。中に入っていた紙を開いたら一番上にワードアートのようなデザインで「おめでとうございます」と銘打ってあり、祐介はこの時点で疑念を深めた、なにせ懸賞というものにこの数年間応募したという記憶がないからだ。

 疑念の払拭が成ったのは通知を読み進めた時であった。そこには祖父が応募して祐介への贈り物に、という旨の記載があった。どうも子や孫へのプレゼントで旅に、という企画という風が文面から読み取れる。書類を次の一枚へと進めると、企画の説明となった。

「列車で行くミステリーツアー?ふうん。」

 興味半分という体であった。まだ飛行機等ならともかく電車の類に特段興味のあるでもない祐介にとって列車企画は微妙な存在である、祖父も何故この企画に応募を?とは思ったが今となっては本人に確認する術はない。それでも祖父の名は祐介にある種の安心感を与えるには十分であった。

「まあいいや。」

 どうでもいいとばかりに裕介は机の引き出しの中へ無造作に封筒を投げ置いた。やがて色々な思い出を反芻しながら寝息を立て、夕方頃に目覚めた頃には封筒のことなど迷惑メールの一通と同じレベルでさっぱり忘れてしまっていた。


 開けて翌日、彼らはいつも通りの登校風景を描く、ことは能わなかった。些細な行き違いで裕介と孝志の間に亀裂が走った。ケンカの原因は些細すぎた、昼休みには何故だったか当事者達も忘却している程に些細であった。でも今回、お互いに引くという選択肢には思いも寄らないくらいつむじを曲げていたので、いつも一緒に弁当を食べる仲の三人が、千章も含めて三者三様の位置で食事しているのは、クラス中にも何かあったと伝わるに十分な空気を発していた。

 昼からの一限が終わると、まだ陽の高い内から下校時間となった。帰り道でも顔を合わせたくないお互いは、先に孝志が帰る体制に入ったので、裕介は手持ち無沙汰の状態で机で頃合いを見計らう。千章はというと、先に出て行った孝志を説得しようと、こちらは手持ち無沙汰ではない片付けが終わるか終わらないかの勢いで鞄に物を詰め込んで、慌てて彼の後を追って行った。

「ま、待ってよ伊東君!」

 千章の必死の叫びも、呼出し先に聞こえない風で足を緩めずに帰っていった。

「司くん、こっちは僕に任せといて、君もちゃんと反省するんだよ。」

 そう言い残して、千章は慌てて孝志の後を追った。性格的には両極端だが、内心に曲げない我を持つ二人なので時折こうなると調整役に徹さざるをえない千章の苦労は飛躍的に増大する。

「う、うん・・・」

 裕介のもそもそとした口の動きで発せられた声は千章には確実に届いていなかった。声も小さいながら、何と言うか悩んだ末の陳腐なつぶやきが出たのは千章が教室を駆け出していった後なのだから。

「じゃあね。」

「明日は遅刻するなよ。」

「またね。」

 続々とクラスメイトが帰宅する中、裕介は最後の一人になるまで残っていた。途中、掃除当番の女子に邪魔者扱いされて一旦離れた以外は自分の机にじっと固まり、解決策を講じるでもなく時がすぎるのを待っていた。

 やがて一時間は経った頃、机にうつ伏していた裕介は何者かが教室に入ってきた気配を感じた。気配はだんだんとこちらに寄ってくるようだった。

「裕介ったら、何情けない事してるのよ。」

 顔は上げないが声でわかった、香だ。だいいち自分につっかかるような口調で物申してくるような生徒は香だけなのだから例え鼻声、風邪声であっても確信できたであろう。

「なんだよ。」

 顔も上げず、適当な言葉を返してくる裕介のうつむき加減が気に触ったか、香の猛攻が始まる。

「なにさ、どうせ下らないウソ付いてたのがバレたとか、細かいモノをどっちが貸していたか分からなくなったとか子供みたいな理由でケンカしたんでしょ。小さいわね、ほんっとに小さい。中学二年生にもなって何さ、子供よね。呆れちゃうわよ。」

 普段の彼らの仲ならこのまま対等の口喧嘩という筋書きに沿っていたのだろう。だがこの時、非常に神経質になっていた裕介の心は陳腐なストーリーに陥るのを拒んだ。

「うるさいな!そんな事言われなくたって分かってるんだよ!」

 言い放つだけで相手の反応を見る暇も持たず裕介は駆け足で教室を出て行った。香から微かに見えた彼の目には決壊を迎えつつある液体の光が見えた。

 彼が去った後の教室に香は一人取り残される。

「何よ、まるでわたしが悪者みたいじゃない。」

 悪びれる意識はなかったが、心に蟠りのようなものが溜まるのを香は感じた。

 友人とは些細な行き違いで仲を違え、幼馴染には一方的に糾弾され、胸に背中に針鼠のように矢が刺さった面持ちで裕介は駆けて行った。その間幾人かの呼びかける声も聞こえたが、決壊を許した己の情けない顔を晒したくないがために無視して家まで走り抜く事に辛くも成功した。

 鍵を開ける、当然のごとく家には誰もいる気配がなかった。靴も脱ぎ散らかし、だんだんと音を立てて階段を駆け上がり、真ん中で一段踏み外しながらも二階まで上がった足はそのまま自室へと滑りこんで、身体をベッドに預けた。

 大の字を書いてベッドから天井を見上げる裕介。汗と涙で顔はぼろぼろな上、息も絶え絶えでまず呼吸を整えることから帰宅の作業は始まった。呼吸が整うとともに、麻の如く乱れていた精神も一定の落ち着きを取り戻し、何が問題であったのか考え直そうとした。とにかく自分も悪いが相手も悪い、相手にも非があると思うと自分が折れようとしたくないのが自分の為人だ、と思いつつ、家まで泣き濡らしながら走り抜けた疲れが惰眠を誘発し、考えもまとまらない内に裕介の意識は時間軸を離れていった。

 意識が再度自身を意識したのは誰かが玄関のドアを開けた音が聞こえた時だった。どちらの親にしても帰りの遅い両親の帰宅時間まで寝入っていたのかと慌てて時計に目をやると、まだ19時を指していた。訝しく思いベッドを飛び起きて階下へと歩む。すると玄関に今まさに靴を置いた母親の姿を見ることができた。

「母さん?今日は早いの?」

「そうなのよ、取引先が間違った物を送ってきちゃってね。今日は仕事にならないからみんな早上がりよ。」

「そうなんだ・・・」

 とはいえ裕介は母の、いや両親の仕事を詳しく知らなかった。よって取引先が何の取引をしているかなど検討も付いていない。なのに今問いただそうという興味も沸かないのだ、親のことにすら実に淡白な思考を有している。

「夕飯まだ?今夜は一緒に食べよっか。」

「う、うん。」

 素直に嬉しかった、平日の夕飯を家族で過ごすのは記憶を弄っても今年度では初くらいの話であったから。なにせ嫌なことだらけの日だっただけに、ここで母親に愚痴の一つも聞いてもらいたい気持ちでもあった。

 夕飯は既に作られてあるから、母が電子レンジを通過させるだけですぐに用意された、その間に未だ制服だった裕介は部屋着に着替えてきている。

「いただきます。」

「いただきます。」

 父の帰りを待たずして母子の夕げが催された。裕介は愚痴を切り出すタイミングを図りつつ食を進め、ここかと言う時に食べる口を一旦休めて話す口を起動させた。

「母さん、あの、」

「ああ、そうそう。こないだのテスト結果見たわよ。今回もちゃんと良い点取ってきてくれて母さんも鼻が高いわ。この調子でいい高校、いい大学、一流企業に進んで母さんを楽させてね。」

「う、うん・・」

 先制攻撃は相手からのカウンターで消滅させられた。裕介は右を出そうと左から食らった攻撃に意気を消沈させる羽目になる。

「大勢とはあまり打ち解けないけど、仲のいい子とはちゃんとしてるって先生も言ってたんだし。手がかからなくて母さんも仕事に専念できて嬉しいわ。ね?」

 更に機先を制された、良いように言われてしまっては当該の項目で愚痴るわけにもいかない。母に対しては期待を裏切ることになるし、そして自分に対しては期待の反面で大いに叱られることが嫌だった。

「裕介、あなたも何か言いたいことがあったのかしら?」

「う、ううん。なんでもないよ。」

 そうとだけ言って裕介は一旦停止のスイッチを押しておいた食べる口を再び動かしだした。

「ごちそうさま。じゃ、僕は勉強があるから。」

「あらそう?頑張ってね。」

「う、うん。」

 皿だけを洗い場に片付けて裕介は二階に戻って行った。こんな筈じゃなかったと、悶々とした心は更に深みを増す。別に親の老後のために勉強してるわけじゃない、けどただのペーパーテストの点しか褒めてもらえる事もない、そして大したことのない努力で褒めてもらえるなら安いものだという程度に裕介は机上の勉学には頭は回った。ただ机上から一歩はみ出るとその早い頭の回転が全く活かしきれていない。その結果が親にも、友人にも対する立ち居振る舞いに顕著に現れている。

 両親が共に仕事人間で、多感な時期に相手にされないでいるのも裕介には辛かった。今だってせっかくの団欒も仕事が第一に聞こえる会話で裕介の心は更に揺らいでいた。などなどと思っているとまた涙が零れてくる。両親も誰も、自分のことなんてどうでもいいんだ、理解なんてしてくれないんだと、心もまた誰もいないし誰も入れさせない内面の自室へと向かっていた。

 目頭を拭きつつ自室のドアを開けると、何かが上から降ってきた。それはひらひらと重力に抗うように彼の目の前を左右に揺れ、床へと着地した。拾い上げてみると、確か引き出しの奥底に適当に仕舞いこんだ、と本人はそのように思っていたミステリーツアーなるものの当選通知であった。

 部屋に入った所の位置で暫し呆然と何かを考えるでもなく焦点すら曖昧に封筒を見やる裕介。やがてまたベッドの上に転がって封筒の中身を取り出して旅行の要項を確認してみた。

「終業式の日の夜に、そこの駅に集合か・・・よし!」

 夏休みと共に開始、近くの最寄り駅に集合という低いハードルの条件に、やんわりと裕介は決意した。

 形としては祖父が遺してくれたものとなる、初盆はともかく、夏休みに祖父宅に遊びに行くことはもはや無いだけに長い休みを無為に過ごす可能性という未来予想図も影響していた。

 その日から裕介はこっそり旅支度を整えていく。仕事にかまけて子供の部屋に立ち入るという事のない両親というのはこの場合は好都合であった。家出、といえば聞こえは悪いが、いい子ぶるのに辟易し、夏休み前にして友人達ともぎくしゃくしている辛さを払拭したいがため、彼の細やかな反乱計画は形を成して行った。ついに彼のレールは平凡という名の一本道にポイントを設けて違う路線に入り込まんとする。


 そして終業式の日の夜、祐介は手紙に指定された場所に指定時間の十分前にやって来た。時刻は既に二十三時過ぎ、着いた先である最寄り駅、改札前には人っ子一人いない。解せないわけではなかった、なにせこの駅の終電はもう二十分は前に出てしまっているのだ。夜中、星を見た帰りに線路脇の道路をこの時間帯に通ることもあるが、昼日中には人で溢れているホームに誰ひとりとして見えない姿は些か不気味にすら感じられるものであった。

 だからといってミステリーツアーの乗客が自分一人なのか?との思いが祐介を不安に陥れる。更に5分前となってもそれらしい人影は一人として現れなかった。やがて彼独りのまま時間となる。

「えーっ、ミステリーツアーご乗車のお客様はこちらへどうぞ。」

と、改札口のほうから呼び込む声がする、見れば改札脇のボックスから駅員が自分の方を見て呼び寄せていた。

「あっ、はいっ。」

 呼び寄せられるがまま祐介は改札に向かった、と言うか祐介のみが改札に向かった。結局集まったのは祐介のみである。当選通知を示し、駅員が確認している間に祐介は彼に質してみた。

「あのう、この旅行って行くのは僕だけなんでしょうか。」

「いや、ここからは君だけみたいだけど違う駅からも乗ってくるはずだよ。行ってらっしゃい。」

 駅員の気さくな笑顔と返答に安堵して祐介は駅の構内へと歩を進めた。駅員が残っていたこともあってか構内はまだ煌々とした電気が灯されており、孤独感の払拭に一役買っている。やがて階段を降り、列車が発車すると思われる一番ホームへと辿り着いた。ホームから辺りを見ると街の灯りもやけに暗く、夜のホームのいつも通りの明るさが一層際立つようだった。それにしても外は暗かった、実際駅外の灯りは殆ど見えないといって問題ないくらいである。身一つの不安感も思い出して祐介はまるで駅のみが暗い宇宙にぽつんと浮いているかのような、恐怖にも似た感情を覚えるに至った。

 心が途端に折れるところがあるのが一歩を踏み出す勇気のない人間にはありがちらしい。急に臆病風の猛威に晒された祐介は一度階段を上がって、改札まで引き返そうとする。改札には先刻の駅員がいる、取り敢えず心を落ち着かせるには誰かいてくれる方が安心するから。

 やにわに踵を返した時、祐介の遥か後方より警笛の音が聞こえてきた。むしろビクリと驚きの方の感情を刺激された祐介は心は恐る恐る、しかし体は俊敏に警笛の方に振り返った。見れば、にわかには信じ難い光景が祐介の眼前で織り成されるところであった。

 遥か上空から降下しつつ且つ、近づきつつある流れ星のような光の線が徐々に、徐々にと近づくに連れ光の度合いを増して行き、やがて一条の筋は光源の姿をはっきりさせて行く。少し離れた線路に降り立ち、線路の上を真っ直ぐ駅に向かって進入してくるのは新幹線の形をしていた。まばゆい輝きを全体から放つ以外は普通の、いや祐介の知るような新幹線の形よりもずんぐりと丸まった形をしており、多少スタイリッシュさに物足りないような感じに祐介からは見えた。

 その様は世に言う「0形新幹線」のフォルムであった。若くそれを見たこともない、しかも鉄道にさほど詳しくもない祐介にはそれに付けられていた名前を脳内で判定させる事はできなかった。更に言うなら在来線と新幹線はレール幅から違うのでこのような光景は本来なら在り得ない。しかしその事も祐介の知識の引き出しをどこを漁っても入っていなかったので訝しげる事はできなかった。

 0形はホームに入り、ゆっくりと速度を落とし、やがて祐介の前に丁度扉が来るように停車した。祐介は心の動揺を抑えるかのように、実際は為す術も分からず立ちすくんでいた。

「な、なんなんだ、これ?」

 およそ十四の子供の、いやさ大人であっても人の理解を越えた物語が祐介の目の前で進められていた。かかる事態において何をなすべきかなど誰からも教わってはいないし教わることすらできないであろう。そんな祐介を導くかのように、目の前のドアがガタッと音を立てて開け放たれた。その奥には車掌の格好をした女性がにこやかな笑顔で佇立していた。

「司祐介くんですね。」

「え、あ、あ!は、はい。」

 見知らぬ女性に名指しされ祐介の動揺もいよいよ極まれるかというところだった。

「ミステリーツアーへようこそ。間もなく発車いたしますので、ご乗車下さい。」

 が、眼前の女性は屈託ない笑顔と明るく響き良い声で祐介を車内へと招き入れようとする。髪先で結ばれた、たわわに揺れる長髪にぱっちりとした瞳が裕介の心に籠絡感を与える。謎の物体が見えた時はガードを固めようという思いで心が満たされていたが、車内から同じ人間、それも優しそうな女性が見えたので心に多少の融解を齎すものではあったが、まだこの怪しげな「何か」に足跡を記そうというほどまでに安堵感の高まりは生じていない。それを見越しているかのように女性は次の言を発する。

「怖がることはありませんよ、さあご乗車下さい。楽しい旅が待ってますよ。」

 論理的ではないが、心から嬉しげな表情を浮かべる女性の言葉は祐介の心をどんどん揺り動かしている。むしろその笑顔に引き寄せられるような不思議な感覚で、祐介の足は一歩、また一歩と車両へと引き寄せられて行った。

「毎度ご乗車ありがとうございます。」

 祐介の通路を確保するため、車両中央の通路まで退避していた女性の声で祐介の意識が我に返った。既に彼の地歩は謎の列車の通路に橋頭堡を構えるに至っていたのだ。

 ついに乗車を果たした祐介は普通の優等列車の風な内装の車内を確認した、それに外面こそ煌々と輝いていはいたが、いざ車内に入ってしまうとそのような光を出すような物体も存在しておらず至って普通の特急、新幹線と変化するところはなかった。

 辺りをきょろきょろと見回す祐介に、おもむろに女性が声をかける。

「では、切符を拝見いたします。」

 祐介もおもむろに封筒を取り出し、同封されていた切符を彼女に提示した。

「ありがとうございます、お席は・・・こちらですね。」

 女性は祐介を先導し客車のドアを開けた、丁度乗ったドアの車両に祐介の座席があった。そして女性に座席まで案内されるが、よくよく見ればこの車両には誰も座っていなかった。ここまで来てまだ他の参加者が一人も見えない事でまた不安を増す。

「あ、あのっ、」

「どうかいたしましたか?」

 にこやかな笑顔を絶やさない女性に向き直るが、この笑顔を見てしまうと二の句が告げられなくなってしまう。

「い、いえ、なんでもないです。」

「そうですか、お困りのことがあったら何でもお尋ねくださいね。」

「は、はい・・・」

 結局不安より女性への気恥ずかしさが勝ってしまい、自己不安の払拭を優先させることができなかった。異性とあっては同級生に対してもフランクな扱いができないのに、ましてや初対面の年上と来ては、祐介に打つ手はなかった。

 仕方なしに大人しく指定された座席に腰を落ち着かせた、幸いにして暇をつぶすアイテムは多少用意してきてある。携帯音楽プレーヤーは耳を塞いで情報を遮断してしまう恐れから漫画の単行本に目をやりつつ周りの状況もちらちらと確認する手に出た。

 何も変化がないまま、やがて体を後ろに引かれる感覚と共にゆっくりと列車は前に動き始めた。先程まで立っていたホームがだんだん後ろに遠ざかって行く。そのような状況の中、広い車内で祐介は一人考えを巡らせる。不安が前に出ている時はどんなに考えを巡らせたとて面白いと思えるアイデアが出てくるわけもなかった。図らずも得意技となっているマイナス思考が不安だけを増長させるような暗い考えばかりを浮かばせてしまい、自分が手に持っている大好きなギャグ漫画の内容も頭に入ってこずに満足に笑うことができないでいた。

「失礼いたします。」

 前のドアが開いて、先刻とは違う女性車掌が車両に入ってきた。先ほどの女性は可憐な可愛さのある女性だったが、今度は清楚で長い黒髪を後頭部付近で束ねてるのだろうか帽子の後ろから垂らせつつ、車掌の制服を着こなせているスタイリッシュな女性で祐介は心の何処かで当たりくじを引いた思いに駆られた。彼女はというと、空席にも目をやって確認しているので定例の巡回をしているものであったが、なにせこの車両には乗客は祐介一人、また不安という不要の友が、自分に何かの不備があってその事を注意にでも来たのかと思わせる。

 漫画に目を落としている振りをしつつも周囲にまで目を配ってる下手な刑事のような所作は周囲から彼を確認する者からすれば案外筒抜けである。車掌の彼女も気付いていたであろう、気付いた上でくすりとほくそ笑んだのかもしれない。そしていよいよ祐介の席の列まで彼女はやってきた。

「すみません。」

「は、はい!!」

 祐介の声は裏返っていた。注意されに来るのかと思っていても実際に自分に声をかけられてくるとドキリとする、実に面倒くさい性分である。

「切符を拝見します。」

 結果、ただの改札という陳腐な話だった。陳腐でも当人には至って大真面目なので笑ってる余裕もなく、どこに仕舞ったかと慌てて鞄を弄り体を弄り、胸ポケットに入れておいた切符をようやく見つけて差し出した。女性は祐介の顔を眺め、朗らかに微笑んで差し出された切符を確認する。

「はい問題ありません、素敵な旅を。」

 今度こそ、今度こそ、とこの時祐介は決意を新たにしていた。別に愛を伝えようというわけでもないのにどうしても気を張り過ぎてしまう。

「あ、あの!」

 気を張り過ぎた結果は即座に発声に表れた。また彼我の距離に比してやけに大声を出してしまったようで、彼女が笑顔を萎めて身を仰け反らせた。

「あ、す、すみません。」

「いえ、大丈夫ですよ、ちょっとびっくりしちゃいました。」

 祐介はやるせなさに赤面した、自分の人付き合いの苦手ぶりがほとほと嫌になる。どうしてこうなんだと思う、思うのに今までそれを解決しようという行動性には欠けているのも理解はしてるのだが、「できなかった時」を必要以上に恐れるために行動に移せない堂々巡りを繰り返すのだった。

「あのぅ・・・」

「はい、なんですか?」

「御用があったのでは、ないですか?」

 そうだった、呼び止めたのは自分のほうだったのに祐介はまた自分の殻に篭もろうとしていたところをこの女性はすんでのところで呼び戻してくれた、勿論職務に励んでいるだけの彼女にその気はなかったし祐介の思い込みだけである。でもこの恩には報いねばという祐介の健気な頑張りがようやく口部を再起動させた。

「あの、この電車はどこに向かうんですか?」

「ああ・・・ごめんなさい、それはまだ言えないんです。今言っちゃうとミステリーツアーでなくなっちゃうでしょ?」

 尤もである、聞き分けだけはいい、裏を返せば人の言うことに唯々諾々として従う楽、と思い込んでいる方に逃げている彼としてはこれ以上同じ話題を引っ張ることはしなかった。

「な、なら、このツアーって、僕一人だけなんですか?」

「そんな事はございませんよ。まだこれからご乗車されるお客様もいらっしゃいますし、怖がらなくても大丈夫ですよ。」

 この言葉は祐介の不安を少しながら払拭した。実は怖がってるのも見え見えなのだが、その事に彼は気付かなかった。

「あっ、桜ずるーい!」

 今度は後ろのドアが開いて突然、さっきの可愛いと形容できる方の女性が入ってきて今祐介の目の前にいる女性につっかかってきた。

「この子は恵梨香のお客様なんだからね、桜はあっちの車両の担当でしょ。」

「あら、ごめんなさい。恵梨香さんがいなかったしこの子が怖がっていたから、つい。」

 桜と呼ばれた車掌は悪びれなく、恵梨香をあしらうように微笑んだ。悪気は全く感じられない、本人も悪気はないのだろう。

「もー、怖がっていたからって駄目ですからね。こっちからの車両はあたしの担当なんですから。」

 恵梨香は腕を振って自身から後ろの車両を指し示して自分の領域を宣言する。どうやら担当分けがあったらしい。

「桜さんってどうしていつもあたしのお客様にちょっかい出すんですか。」

「ええ、それは、貴女の慌てっぷりが見てられなくて。」

「そんなことないですよ、あたしはいつもきちんと、」

「ふふ、ほらっ。」

 と、桜は恵梨香の胸バッジに手をかけて百八十度回転させた。見事に上下逆さまにバッジを付けていたらしい。

「あっ・・・あ、ありがとうございます。」

 先ほどの威勢はどこへやら、痛いところを突かれて恵梨香は閉口してしまった。

「うふふ、いいのよ。でもほら、お客様の前よ。」

 桜に視線を合わされた祐介はむしろ反応に窮した。恵梨香を最初に目にした時はきちんとしてそうな印象もあったのだが、制服による三割増しの心象だったのだろうか。

「あ、とんだ所をお見せしちゃって、ご、ごめんなさい!」

「い、いえ、別に。」

 恵梨香は力いっぱい急角度の礼をした。絵に描いたような基本的な慌てん坊の女性を前にして、こんな人が本当にいたんだと、祐介も思わずにこやかな笑顔を見せていた。

「お客さまひどーい、人の失敗を笑うなんてー。」

「あ、す、すいません。」

 今度は祐介が平謝りした、ちょっと調子に乗ってしまったかと反省する。

「えへ、冗談ですよ。楽しんで頂けたようで何よりです。」

「そうね、恵梨香のおかげでお客様にも笑って頂けたし。旅は笑顔で行きましょう、ね。」

「あ、ありがとうございます。これって、もしかしてわざと・・・?」

 自分が不安に満ちた表情を浮かべていたからこの二人がひと芝居打ってくれたのか?と祐介は察した。だがこの問いに返って来たのは明確な返答ではなく、二人の可憐な微笑みであった。祐介も普通の健全な男子、これで返されてはもはやこれ以上議論できる余地は残されてはいなかった。

 車掌達は互いに前後、逆のドアへと去っていく。祐介から見て前方のドアに去る桜は去り際、振り返って祐介に手を降って挨拶した。車掌という職としてはフランクに過ぎるが祐介には非常に嬉しかった。故にか無意識に笑って手を振り返していた。

(なにさ、鼻の下伸ばしちゃって。)

 心が香の声を聞いた、そんな気がした。なんだってそんな声を聞いたような気になるのか、せっかくの気分が台無しになった気分になった。脳裏にこびり着いたものを払いのけようと頭をぶんぶんと左右に振り、気分を新たにする。


 列車は暗闇の中をひた走る。窓側の席を与えられたと言っても外は漆黒の闇、黒い絵の具を窓全面に吹き付けられたかのような単一色の景色は見る者にあまり多様な情緒を浮かび上がらせはしなかった。

 にわかに車内放送が入り、次の停車駅が告げられた。普段なら地元から5つ先の筈だが乗車してから最初の停車駅がそこであるので、特急扱いの列車なのが感じられた。

 徐々に速度が落とされ、体が前面に引っ張られる感覚が続く。窓の外にようやく黒以外の色が落とされ、その輪郭がはっきりしていき駅の姿が顕になる。誰か乗ってくるのかと、裕介は目をきょろきょろさせて駅のホームを眺め回した。が、裕介の席の位置からでは通り過ぎた分のホームに人の姿は確認できなかった。残念がっている裕介の感情とは関係なく前方のドアが開き桜が現れた。見ると後ろに年長の、年の頃二十歳前後の様を受ける男性を連れていた。この駅からの乗客であろう、という仲間がいた事で裕介に安堵の色が増した。

「それでは、こちらのお席ですね。」

 桜が彼を案内したのはまさかの裕介の隣の席であった。この車両は他の席が完全に全て開いているにも関わらずである。偶然なのか必然なのか、裕介には理解が及ばなかった。

「どうもありがとう。」

 青年はにっと微笑んで桜に礼を言い、それを合図とばかりに桜は下がって行った。

「隣みたいだね、よろしく。」

 青年は桜に向けたと同じ微笑みを裕介にも向けて席に掛けた。

「よ、よろしくお願いします。」

 初対面の人物に対しての裕介が持つ社交性は微細な砂粒よりましと言った程度の存在感であった。そこを知ってか知らずか、青年は隣席に座ったこともあり、フランクにそれでいて優しげに語りかけてくる。

「君は、この旅は初めてなのかい?」

「はい・・・祖父が応募したみたいで詳しいことは何も。」

「なら丁度いい、僕は経験者だから分からないことがあれば教えてあげるよ。勿論、僕の分かる範囲でだけどね。」

「あ、ありがとうございます。」

 裕介の返事は余り元気のある声ではなかった。徒手空拳で戦いに挑むがごとく、予備知識もろくに持たないまま無鉄砲の謗りを受けそうなレベルでこの列車にある身としては経験者のサポートは何よりありがたいのは分かるのだが、いかんせん車内に二人、相手は知識も膂力も圧倒的に上であるのは明らかな状況が、裕介の心の扉を大きく開けさせようとはしなかった。

「大丈夫だよ、何もしないから。そんなに固くならなくて、ほらっ。」

 裕介を見透かしたように青年は裕介の肩をぽんぽんと叩いた。

「は、はい・・・」

 裕介の防御姿勢もなかなかに頑なである。如実にガードを感じている青年は諦めずに言い放つ。

「まあいいか、旅は長いんだし。いずれ打ち解ける時も来るさ。」

 彼は裕介とは対照的に実に前向きな発想ができる男のようである。自分にはない長所を示されると人は憧れか妬みの感情が生まれる。人の行為は素直に憧れるが、それに反する自分の短所を凝視する癖のある裕介には両方の感情が生まれた。ただ後者は妬みというよりは自分にはできないと思い込む内向的反省の色が強い。

「ところで名前も聞いてなかったね。なんて言うんだい?」

「あ、あっと、ええと・・・」

 心を開いていない裕介は自分の個人情報をひけらかせる事に戸惑いを覚え口篭った。

「ああそうか。こういう時は聞いた方しかも年上の僕から名乗らないとね。僕は『司馬雅志』、よろしく。」

 年長者にここまでの譲歩を強いらせた責任、というと大仰だが相手が歩み寄りを見せると自分もその分くらいは寄らないといけないような義務感に駆られた裕介も譲歩した。

「ぼ、僕は司裕介っていいます。」

「司くんか、裕介っていい名前だね。じゃ、よろしくっ。」

 そう言いつつ雅志は右手を差し出してきた。握手を躊躇うように右手を微妙に上げてうつむき加減で己の利き腕をぼんやり見つめた裕介の手を半ば強引に引っ張りだして雅志は裕介と固い握手を交わした。

「よ、よろしく・・・お願いします。」

 呆気にとられはしたが、雅志の屈託のない笑顔を見ると、悪い人間には思えないので裕介は徐々に心への彼の進行を許可しつつある。そして列車は再び闇の中を疾駆すべく車輪を回し始めた。


「あの・・・司馬さん?」

「雅志でいいよ、祐介君。で、なんだい?」

 列車が歩みを一マイル進める毎に二人の心の距離も一ミリずつ近づくかのようであった。年上の雅志が裕介に寛大な心で接してくるため、裕介も雅志を信じる気持ちが高まっていっている。彼に兄弟はいなかったが、兄がいればこういうものなのだろうかと妄想まで過ぎる。そんな兄のような雅志に向かい、裕介は改めて問う。

「雅志さん、この列車はどこに向かって走ってるんですか?」

「ん?走る・・・ふふ、そうだね。この列車の行き先は旅毎に変わるんだ、今度はどこへ行くのか僕にも分からないなあ。でも、もうすぐ面白いものが見られるよ。」

 含みを持たせた笑みと物言いに裕介は疑問を抱く。

「面白いもの?それって、」

「まあまあ、答えは窓の外をずっと見ててごらん。それで分かるから。」

 雅志はそれだけしか答えてくれなかった。しぶしぶ窓の方に振り向くが、相変わらず一面真っ黒の景色が裕介と雅志の顔を窓によく写り込ませているだけで、他には何も珍しい物が見えるわけでもなかった。

「あっ。」

 少しだけ、ぷちぷちとした光点が窓の外に見えた。街の灯りだろうか、あまりに小さい点だらけで何者の放つ光なのかまるで分からない。が、徐々に光点が多くなっていくとそれが街の灯りなどというものではないことがはっきりした。

「うわっ、星だらけ!」

 星の海が窓いっぱいに広がったのだった。

「どういうことなんですか?」

 興味深い光景に胸躍らせる裕介の様を喜ばしげに眺めていた雅志はぽつりとだけ呟いた。

「実はね・・・この列車は飛んでるんだよ。」

「えっ?」

 裕介は雅志の発言を瞬時には理解できなかった。勿体つけて発言した雅志にすると裕介の鈍い反応にも動じていなかった、彼の反応も織り込み済みであったということだろうか。

「ほら。」

「うわっ!」

 雅志が窓の下を指差すのではめ殺し窓にへばりつく位に接近して下方を眺めた裕介の目には、雲間から今度こそ街の灯りが眺められた。それはどんどんと縮尺を大きくしていきやがて日本列島の形にまで成った。

 そして不思議な事に超高速で上昇をし続けているのに彼らの身体を下方へ押し付けようという力はまるで働いていなかった。

「すごい、すごいや!こんなの初めて見るよ。日本がどんどん縮んでいく!」

 雅志の顔に苦笑の色が浮かんだ、そうそう以前に経験のあるような光景ではなかったであろう。裕介は言い知れぬ体験への恐怖感よりも興味が優っていた、年齢を経た大人であれば、このようなあり得ない事態に面してはパニックを起こすか、恐怖に打ちのめされていたかもしれない。

 列車は手綱を緩めず尚も上昇を続け、窓は光点の描く世界地図を醸し出した。さながら虚空の水面に石を投げ入れ舞い上がった水滴が薄い光を反射して広がるかのようだ。

 いよいよもって日本が景色のほんの一部と化して後、裕介の目は窓全体に広がった。そこには自分の生活圏がいかにもちっぽけであることを確証させるだけに足る大きな大きな物体、地球の存在があった。

「これが地球・・・」

「そうだよ、これが僕らの住む星。見てごらん日本を、僕らの国なんて地球からすればあんなちっぽけなんだ。」

 言っている側から日本の存在はどんどんと景色の一部と化して行く。自分が今まで歩いてきた範囲なんてもう一ミリメートルにもならないかもしれない。

「ほんとだ。」

「こうして宇宙から見ると人一人の動ける範囲なんてたかが知れてるだろ。それなのに人は犯罪や戦争を繰り返す、実に愚かな話じゃないか。もっと大きな心で多くのものを見つめてこそ人も大きくなれるんだ。」

 雅志は急に詩人の息吹を放った。だがそれは真理である、そう裕介には思えた。面白可笑しければ事実や真実など二の次なテレビ、注目されたいだけで平気でデマ、嘘が蔓延するSNSなどあまりに器の小さい話である、天空の高みから神の様な視点で人の営みの光を見下ろしたことでまだ十四の裕介にも真理の何たるかが見えたように感じた。

 すーっと二人が見つめる窓の上を何かがかすめて行った。それは凄いスピードで列車の上を右から左、地球の方角で言えば西方向から東方向へ駆け抜けて行く。

「あっ、これがISSなんだ。」

「よく知ってるね。これが人類の英知、とでも言うのかな。今も何人もの宇宙飛行士があの中で、無重力の宇宙でしかできない実験を行ってるんだ。」

「凄いなあぁ、僕もここに来られれば毎日星も見放題なんだよなぁ。」

 実際の乗員が聞けば呑気だなと笑い飛ばすような感想を裕介は述べた。何も四六時中天体観測をするために彼らも辛い訓練を乗り越えて宇宙ステーションくんだりまで上ったわけではないのだから。

「星?星が見たいのなら、ほら、こっちだよ。」

 地球の方ばかり眺めていた裕介を導く雅志の声が列車の進行方向を指し示す。二人しか乗客のいない車両のほぼ真ん中にある席からは、前方に見える左右両側の窓がくまなく見渡せる、そこには今までに見たこともない、田舎の山であっても拝んだことのない鮮やかな星の海が瞬いており、彼の心は輝きの中をたゆたうかのように星の虜になっていた。

「なんて綺麗なんだ、こんなの見たことないよ。」

「地球にいる限り、大気がある以上こんなに澄んだ星空はまず見えないんだよ。」

 列車の走る先には両翼に直径十万光年になんなんとする長大な天の川が広がっている。その中心を目指して列車は走っているようにも見え、また目の前に横たわる光の帯が彼らを呼び寄せているようでもあった。

 無限の漆黒の中を列車はひた走る。その最中、裕介は雅志との会話を弾ませていた、もっぱら自分に欠落していたこの旅の知識を雅志によって補完してもらう聞き役という役回りではあったが。

 彼によると(あくまで前回の知識という前置詞が付くのだが)このツアーは毎回異なる惑星への旅になるという。怪獣や恐竜の溢れる冒険心と生命をかけたスリルをくすぐる星、一面氷や雪に覆われ地球では味わえないような長大なゲレンデ、広範なリンクで思いっきりウインタースポーツを楽しめる星、近未来の様相を呈するハイテク惑星で漫画の中だけの存在であった電子機器に実際に触れる旅、はたまた深い深い海の底に潜って深海ツアーを楽しめるものもあれば、遠大なテーブルの端から端まで並べられた熱帯から寒帯の山海の食物を食べ尽くすものもあったという。さすがに命の危険を犯すような旅は謹んで辞退したいところだが、地球という一惑星の概念を越えた旅には大いに興味の湧くところである。

 毎回の行き先は乗客の希望を抽選により決められるらしい。ただここで裕介は希望を聞かれていなかった、多分応募した者、つまり祖父が希望を伝えたのであろうが、それは逆に自分に伝わっていないので少々残念な気分にはなった。

「僕もそうだったけど、きっとこの旅が終わる頃には君もきっと一回りも二回りも成長していることだと思うよ。それだけこの度は乗客にとってセンセーショナルで、更に忘れ難い大きな経験になるんだ。」

「そんなすごい経験ができるんですか?」

「ああ、凄いよ。でも凄い経験になるかどうか、実になるかどうかは君次第さ。」

「僕次第、ですか。それってどういう・・・」

 裕介の探究心を遮るかのように、

「失礼します。消灯の時間になりましたので、これから毛布をお配りします。」

 やにわに恵梨香が入室してきた、腕時計に目を落とすと丁度午前零時を示したところであった。列車に乗ってから一時間と経たないうちに既にあまりに多くの初体験が押し寄せている、裕介は今後への更なる期待感を膨らませた。

 毛布を配ると言われても、車両には裕介と雅志の二人だけ。恵梨香は毛布を二枚だけ手にして一目散に二人の所まで向かってきた。

「はい、毛布をどうぞ。車内は空調が効いてますから冷え過ぎには注意してくださいね。」

「ありがとう。」

「ありがとうございます。」

 二人の礼を確認して恵梨香は元来たドアへと去っていった。直後、車内の照明が睡眠の邪魔になり得ない明るさまですうっと暗くなった。

「じゃあ寝ようか、積もる話はまた明日でもできるし。」

「はい・・・おやすみなさい。」

「おやすみ。」

 やがて裕介は深い眠りに誘われた。一日のゴール手前で色んな体験が奔流のように押し寄せたおかげで心身共に疲労もぐっと押し寄せていたのだろう、そのまま朝まで熟睡の極であった。


 腕時計は七時前を指していた。目を覚ました裕介は周りを確認する、眼前の席で読書を洒落こんでいる雅志、相変わらず星の海が流れる窓の外。眠りに誘われる前と何も変化がない様子であった。ただ自分の頭は昨夜雅志のいた席に転がるように寝入っていた。

「お、おはようございます。わざわざ避けてくれていたんですね、ありがとうございます。」

 雅志が睡眠の妨げにならないよう、一つ前の座席を回してボックス席化してそちらに移動してくれていた事は寝ぼけ眼の裕介にも軽く理解の届くところであった。

「どういたしまして。僕も僕でこっちで広くして寝ていられたからね。」

 手を伸ばして窓側と通路側の手すりを触ってジェスチャを送ってきた。

「でも、そこの席の人は?いつ人が来るかも分からないのに。」

「いや、もう誰も来ないよ。」

「えっ?」

 雅志の発言が理解できなかったのは寝ぼけ眼のせいだけではなかったろう。

「だって、このツアーは出発地の地球からだけ乗ってくるんだけど、もう地球を離れただろ。もうこれ以上乗客は乗ってないってことさ。」

「そうですよ。おはようございます、お早い目覚めですね。」

 見れば恵梨香が巡回に来ていた。

「じゃあ、この車両はこんなに広いのに乗客は僕らだけ、なんですか?」

「うーんと、そういうことになりますね。」

 特に問題もないという顔で恵梨香は答えた。

「じゃ、じゃあ大赤字じゃないですか。」

「えっ?あははははははははっ。」

「ぷっ、ぷぅふふふふふふふ。」

 裕介の眼前の二人は彼の突拍子もない心配に、示し合わせたかのように同時に笑った。

「そんなこと、裕介さんが心配するようなことじゃないですよ。」

「そうそう、だいたい君も僕も代金を払って乗ってるわけじゃないだろ。」

 言われてみれば、応募が当たったというだけで裕介には1銭たりと払った覚えはない。当選通知は直接自分の所に送られてきたし、時系列的にも祖父が何かしら払い込んでいたとも思えにくい。

「そんなとりこし苦労より、お腹空いてません?」

 まだ起きてぼうっとした感覚が頭を支配しているが、育ち盛りの第二次性徴期真っ盛りな裕介の身体は絶えず養分を欲している。恵梨香の問いかけが胃腸のロックを解き放ったかのように空腹感が脳髄に信号を発信してきた。

「そうですね、言われてみれば。」

「恥ずかしがることなんてないですよ、お腹が空くのは生きてる証拠ですからっ。」

 恥ずかしがったという訳ではなかったのだが、もぞもぞ呟く様が年上の女性に空腹感を悟られるのを恥じらう年頃の少年の心境に取られたのだろうか。

「よろしければ、食堂車にご案内しますよ。」

「食堂車?」

 聞き慣れない単語に裕介は理解に苦しんだ。ファミレスでも列車に繋げているのだろうか、とさえ思えた。

「ああ、裕介君は食堂車ってものを知らないんだね。無理もないか、最近そんなのはあまり見なくなってるからね。」

「じゃあ、あたしから説明しますね。食堂車っていうのは、なんと!この列車にファミリーレストランがくっついてるんですよ。」

「ええっ?」

 自分の突拍子もない想像が的を得ていたことに裕介は驚嘆の色を隠せないでいた。だが、それは次の雅志の発言で打ち消される。

「子供をからかわないで下さい。祐介君、あれは冗談だよ。」

 目を丸くして詐欺に遭いかけていた可哀想な子羊を哀れんでか、悪乗りするでもなく雅志は嘘をかき消した。

「えへっ、バレちゃいました。」

「バレるも何も。」

 雅志も苦笑した、この恵梨香という女性には雅志でも手に余らせるようだ、ましては裕介では何をか言わんや。

「で、食堂車ってのはね、」

「あ、ですからそれはあたしから。」

「嘘はもう駄目ですよ。」

「分かってます。食堂車っていうのはですね、一両まるまるレストランみたいな食堂になってる車両なんですよ。」

 驚嘆の色こそ先の冗談のおかげで鳴りを潜めてしまっているが、興味は尽きていない。

「行ってみたいなあ。」

 裕介の発言で話は決まった。

「では、食堂車までご案内しま~す。」

「よし、行こうか。」

「はいっ。」

 一行は自席を立ち一路食堂車へと向かう。昨夜この列車に乗ってから他の車両に移るのは初めてだから、他の乗客の顔を拝むのは初めてである。

 道すがら、乗客の顔を拝むことは確かにできた。仲良く談笑をしながら旅先の話題をする小学校低学年頃の姉妹、まだ夢の世界とのランデブーに涎を垂らしながら酔いしれている食いしん坊そうな小学校高学年の頃の少年、客席でも教科書片手に何やら難しい数式との格闘に励む高校生と思われる若者、人それぞれの風ではあるがここまでで基本大人に会っていない。最年長と思われるのは今目の前を歩いている雅志くらいになろう。

 そして三人は食堂車へと辿り着いた。先客が朝からどんぶり飯で定食を食らっているのが目に付く、年の頃は裕介と同じくらいであろうか。ただ相撲部員のような体格をしているのが食べっぷりに妙に似つかわしい。派手な食べっぷりを見ているとやがて視線に気づいたのか向こうもこちらに視線を送る。どきっとして内心だけ慌てる裕介と対照的に雅志が手を振って彼に応えると、向こうも丼を置いて手を振り返してきた。

「スキンシップはこんな程度のところから始まるんだよ。」

 反応の取れなかった裕介に雅志はそう言った。

「は、はい。ごめんなさい。」

「違うなあ~。」

「はいっ?」

「『ごめんなさい』や『すみません』、だとそこで終わっちゃうだろ?重要なのはそこから繰り返さない事なんだ。だから『もうしません』とか『次は気を付けます』って続けるのが大事なんだ。」

「す、すいません。」

「すいません?」

「つ・・・次は気を付けます。」

「オーケー。」

 雅志は親指を突き立てて、裕介にGoodのサインを送った。これには裕介も安堵して顔が綻んだ。

「裕介さんよくできました~、褒めてつかわす。よしよし。」

 他方、恵梨香は裕介の頭を弟を扱うかのように撫でてきた。

「や、やめて下さい。子供じゃないんだから。」

「あれ~、子供じゃないんですか?」

「子供扱いされて怒ってる辺り、まだ子供だよ。」

「雅志さんまで、酷いよ。」

「ごめんごめん、ちょっと真理が出ちゃっただけだよ。さあさ、朝飯にしようか。」

 多分にはぐらかされつつ、二人は恵梨香に示された席に着席する。

「では、あたしは他の仕事がありますからこれで。ウェイトレスさーん、注文お願いしますねー。」

「はーい、少々お待ちください。」

 ウェイトレスに彼らを引き継ぎ、恵梨香は来た元のドアを潜って行った。代わりにそそくさとウェイトレスが彼らの元にやって来る。

「お待たせいたしました。」

 と、お冷を配された。恵梨香と違って幼顔でこぢんまりとした体躯から、年の頃はそう離れていない感じを受けるウェイトレスには少し親近感を持った裕介である。

「ご注文はお決まりですか?」

「あ、ああ、ええと、」

 まだメニューも手にしてなかった裕介は急ぎメニューを手に取る。定食だけでも8つほど並んでいて、なかなかいっぱしの食堂の度量が感じられる。が、これは裕介にとっては選択肢の多さによる優柔不断ぶりを披露するだけの障害であった。

「ええと、ええと、」

「じゃあこのアジフライ定食で。裕介君も同じでいいかい?」

「は、はい。」

 迷いに迷っていた裕介は好物のアジフライがメニューに載っていることも視覚が受け入れられていなかった。雅志の渡りに船具合は昨日から実に裕介の背中の痒い所を的確に捉えている。まるで昔から自分を知る兄のような存在という思いをまた募らせてきていた。

「アジフライ定食二つですね、畏まりました。」

 注文を取り終えるとウェイトレスはそそくさと厨房に戻っていった。見れば厨房は一畳二畳ほどのスペースに機材も多少配置されている程度の、朝メニューからして八種も作る能力があるのかどうか疑わしい程にこじんまりとした設備であった。

「またありがとうございます、雅志さん。」

「気にすることはないよ。別に悪いことをしてるわけじゃないんだから、落ち着いて。」

「でも、相手の人を待たせたら悪いから。」

「相手も多少待つことくらい織り込み済みさ、君はもう少し自分の権利も主張した方がいいと思うなあ。」

 人にどう思われるかを気にし過ぎるきらいがある裕介は、とかく他人の顔色や機嫌も気にしすぎるきらいがあった。そのために自分の権利を多少削るのは厭わないとは思ってはいるのだが、現実結果としてその思いが相手に伝わることはあまりに少なかった。

「は、はい・・・」

 そして生返事に終止してしまい、今後の伸長に活かしきれていないのだ。

「お待たせしました、アジフライ定食でございます。」

 やがて運ばれてきた定食は、省スペースな厨房の何処で作ったのかと思えるくらいに温かな御飯と味噌汁、彩り豊かなサラダと香の物が付いていた。

「いただきます。」

「いただきます。」

 二人の箸が同時に動き出す。味もまた申し分なかった、一人前の料理人の手によるような鯵の揚げ加減に羽釜で炊いたようなご飯のふっくらした炊き方と甘み。一流フレンチに通う常連なら「シェフを呼んでくれないか、一言礼を言いたい」とでも口走りたくなるような感銘を受けていた。ここの場合はちらちらと厨房で腕を奮っている好々爺が見え隠れしてはいたが。

「美味しいですね。」

「そうだろ?このツアーは食事もいいんだよ。豊富なメニューが揃っていてそのどれもがすごく美味しくてね。」

 もりもりと頬張りながらの会話なので八割方の聞き取りで裕介は雅志の言葉を解釈している。残り二割は自分も食べている膳の美味さで十二分に賄えているのであるから。

「これなら、さっきの人も丼でかきこんでた理由も分かりますよ。」

「だろ、美味しい食べ物は嘘付かんもんだよ。」

 と、発言したのは雅志ではなかった。裕介はふいに後ろから声をかけられ背中をぽんぽんと叩かれた、勢いは弱かったがタイミングと叩きどころが悪かったためか美食を喉に詰まらせてしまい咽びだした。

「あ、ご、ごめんよ。」

 声の主は今話題にした相撲部員とおぼしき少年であった。どうも食事を終えて席を立った所にタイミングよく自分の話題を聞き及び気を良くしたらしい。気管側に異物が入りこんだことで咳き込み、更に咳に乗って異物が鼻腔にまで逆流してくる状況に裕介の苦悶は真っ赤になった顔がどんどんテーブルに沈み込もうと降下して行く事で他人にも至極伝わってくる。コップに手を伸ばしぐいぐいと水を喉に通す裕介に、雅志は合図を送りウェイトレスに水差しを運ばせてきた。少年も裕介の背をさすって必死の援護を見せる。

 水差しからの補給も手伝い、3杯めの水を飲み干した時、ようやく裕介は生きた心地がした。

「ああ~っ。」

 深く息を吐いて、現世に呼び戻された人心地を周囲にようやく知らしめることができた。

「ほんとにごめんよ、こんなつもりじゃなかったんだ。」

 小太りの自分より体積の大きな相手がしおらしく謝ってくるのを頭ごなしに怒鳴り散らす気持ちなど毛頭なかった。

「いや、気にしないでください。不可抗力ってやつでしょ。」

「う、うん、でも悪いことしちゃったから。」

「大丈夫ですって。」

「いやいや、でもさあ、」

「ふえぇ~ん。」

 裕介と少年の謙譲の応酬は、突如ウェイトレスの少女の涙で文字通り水入りとなった。

「ど、どうしたんだい?」

 さしもの雅志も第三者の少女が突然泣き出したことには周章狼狽の色を隠せずにいた。

「ふえっ、えっ、だって、だってぇ、この子が生き返ってくれて、えっく、良かったから。え~ん。」

「いや、死んでないし。」

 確かに死線を彷徨った雰囲気はあったがどうも感情を包み隠さないタイプの少女だったらしく、少年を加えた三人の男子は一人の少女の世話に舵を切ることとなった。といっても裕介と少年は狼狽の極みでこんな時どうすべきかというマニュアルに持ち合わせがなかった。

「よしよし、そんなにこの子の事を思ってくれてありがとう。」

 雅志は少女の頭を、やはり子供をあやすように宥め撫でた。恵梨香が裕介にしたことをそのまま置き換えたようでもあった。

「や、やめて下さい。ひっく、子供じゃないんですから。」

 驚いたことに彼女の反応も裕介のそれを置き換えただけのようであった、これには雅志も苦笑せざるを得ない。そして裕介と少年には何の苦笑なのか分かってはいなかった。

「あ、いやいや、ごめんよ。年下だからさ、こんな感じかなって思って。」

「わたし、これでも18歳なんですから。」

「いいっ?」

 三人は異口同音に驚いた。およそ裕介と同年代の中学生辺りと見たい外見であったが予想は大きく覆された。

「わ、わたし、これで失礼しますね。」

 泣いたと思ったら臍を曲げたように彼女は足取りを返す。歩む先には一連のやり取りをにこやかに眺める、ただ眺めていただけの好々爺の姿があった。

「ま、まあ、いい子だったね。」

「そうなんですか?」

「そりゃそうさ、見ず知らずの君のために泣いてくれるような子だよ、そうそういないさ。」

 言われてみれば、今出会ったばかりの女性に泣いてもらえるなんて裕介のまだ短い人生の歩みではまずなかった。転じて自分は他人の言動にそこまで心を揺り動かすことなど全くないので彼女の心情がはっきり掴めないでいる。

「まあ良かったよ。それじゃ僕はこれで、ほんとにごめんよ。」

「ああ、もう大丈夫だから気にしなくていいよ。」

 雅志の送り出しに、少年も気持ちを軽くして食堂車を去っていった。一瞬の喧騒の後に残された裕介と雅志は、まだ残っていた朝食を片付けにかかる。

「でも、いいものじゃないかい、こうやって他人と触れ合うのも。」

「え?ええ、どうなんでしょう。」

 この問いに関して裕介は明確な回答を出せなかった。いや、否定的な見解を出す事はできたのだろうが、相手が肯定的な見解を求めている口ぶりだったので相反する意見を口にするのを躊躇っていた。

「あ、また僕に遠慮してるね。」

「そ、そんなことは。」

 都度都度見透かされているというのに、まだ言葉を繕おうと抵抗を見せてしまうのは雅志に対しても心をあまり許していない現れである。

「ふぅん、急かしはしないからゆっくり打ち解けよう。」

「は、はい・・・」

 その後は会話もなく食を進めた。会話以外で口を動かせるのはいい言い訳になる、と彼は思っていた。思いつつも、ちょっと冷めた口調で急かしはしないと言ってきた雅志の気持ちを思うと、さっきまで美味しい美味しいと食べていた食事の味が途端に分からなくなっていた。

「ありがとうございました。」

 先般のウェイトレスに見送られて二人は食堂車を出ようとする、雅志はさっさとドアを通り過ぎて行ったが、裕介には疑問が残っている。

「あ、あの、代金は?」

「いりませんよ。」

「どういう事ですか?」

「このツアー、食事もタダだよ。さっきの子みたいにたらふく食べても、ミルク一杯で済ませても一緒さ。」

 裕介の疑問に答えたのは雅志の方だった。

「そうなんですよ、だからもっといっぱい食べてくださってもいいんですよ、育ち盛りなんですから。」

(君こそ食べたほうが・・・)

 と裕介は心の中で独語した。ともすれば年下にも見える子に食事摂取量の心配をされるのはなんだかやるせないような気分になるのだが、また泣かれては堪らないという思いが、喉仏まで来ていた言葉を既の所で逆流させられた。

 「朝食は七時から九時、昼食は十一時三十分から十四時、夕食は十八時から二十時で停車中も開店していますから、よろしくお願いしますね。」

 ウェイトレスは二人を見送った。それにしても旅費は無料、実質食べ放題とはこの世知辛い世の中にしてはやけに主催者のきっぷの良い旅である。裕介は窓の外の星星の大海に向かって祖父の思わぬ置き土産に感謝していた。


 二人は食堂車を後にして元の客席へと引き上げた。ボックス席状になっているままだったので向き合って座る二人にしばらく会話はなかった。雅志はすぐさま読書の続きを開始したが、裕介は食堂車での雅志の「ゆっくり打ち解けよう」という、ちょっと距離を保とうというように捉えた言葉をまだ気にかけており、自ら会話の口火を切ることにためらいを覚えている。

 沈黙は時の流れを遅くさせる。昨夜いつしか放置しておいた携帯音楽プレーヤーで耳を塞ぎ自己の殻に入ったというアピールをしているものの、都度都度腕時計に目をやっては一分刻みの時の流れを確認していた。気まずい、と裕介だけは思い込んでいる空気が周囲を包む。一方雅志はというと、落ち着き払ったような表情で面白いとも感動するともなく書物に没頭していて心情を推し量るに至れない。

 やがて辛い、裕介にとっては辛かった時間は雅志の読了とともに一旦の区切りを迎える。

「ああ、面白かった。」

「良かったですね。」

「ありがとう。」

 表情からは何をか興味深かったのか、更にカバーを掛けられていて表紙の情報すら入ってこぬでは裕介に的を得た解は導き出せなかった。

「読書好きなんですか?」

「ああ、そうだね。本はまだ知らない知識をカバーしてくれる。自分がまだ経験していなかったり経験できない事を教えてくれるんだ。家の本棚は自慢にもならないけど本が溢れてるよ。」

「そうなんですね、雅志さんの家の本棚にはどんな本が並んでるんですか?」

「ははっ、まだ君には刺激的かもね。」

「えっ?」

 想像の翼は一定方向に働いた。健全な男子と言ってしまえばそれまでだが、まずその方向がひらめいた羞恥心が頬を赤らめる。

「冗談だよ、冗談。」

 笑って雅志は前言を撤回する。そういう物がないとは言い切らなかったが、漫画はもとより天文学に始まって経済や法律に語学や史学の専門書に小説や各種辞書の類までが部屋の四辺の内二辺を床から天井近くまでを支配しているそうだ。

「見てみたいなあ。」

「おっ、もしかして初めて僕に興味を持った?」

 眼前の少年がぼそりと呟いた言葉を雅志はちゃんと掬い上げた、むしろ裕介のほうが自分の発言に鈍感だった。

「そ、そうでしょうか。」

「ようやく心が開いてきたのかな。そういやこんな言葉もあったよ。『旅は道連れ世は情け』、ってね。」

「どういう意味ですか?」

「今みたいに旅をしてる時は道連れ、つまり仲間がいると心強いだろ。それと同じように人生って旅もまた人と仲良くしていくってことが重要だってことさ。」

「へえ~、昔の人の言葉ですか?」

「諺だね。誰が言ったか知らないけれど、昔の人がその通りだと口ずさんでは今に伝わる、真理ってことかな。」

 この言葉は裕介の十四年の生活の中で触れる機会が無かったらしい、また十四年の人生の中でその一文を履行するように生きてきた気はしなかった。人と交わることは希薄で感情を露わにするというと一人に対してくらいで情けというものはかけた気がしない。が、逆にかけられたことは多分にあると思う。この時点でギブ&テイクの要素も欠けているな、と過去の自分への反省に立った。

「で、雅志さんの本棚なんですけど。このツアーが終わったら見に行ってもいいですか?」

「構わないさ、そういえば祐介君はまだ見たことがなかったね。」

 昨日今日初めて顔を合わせたというのに「まだ」見てないとは変な物言いだと裕介は感じる。

「あの、『まだ』って、」

 裕介の言を封じるかのように都合よく車内にチャイムが鳴り渡る。

「長らくのご乗車ありがとうございます。間もなく目的地、『姿見の星』です。」

「姿見の星?ああ・・・」

 雅志は放送による目的地を耳にすると軽く頷いた。

「僕には興味のない星だな。列車の中で次の本でも読んでよう。」

「どんな星なんですか、それって。」

「どんな星、かあ。一言では言い表せないな。僕には必要でもないけど、君にはきっと実になる経験ができる星だから降りてみるといいよ。『百聞は一見にしかず』とも言うしね。ほら、見えてきた。」

 進行方向に一際大きな惑星が見えた。水と思われる青が多く、陸地や雲も見えるおよそ一見では地球かと見まごう事もできる。ただ、よく見ると世界地図は地球のそれとは大きく異なるのが分かる。姿見の星と呼ばれたそれはどんどんと大きく、つまり彼我の距離がだんだんと狭まり行きつつあり、列車は星に吸い込まれるように降下していった。

 地球を発つ時もそうだったが、重力の影響も大気圏のなんたるかも乗客には感じられないし、シートベルトのような物も一切付けていなかった。もとよりそのような装備が車内には施されていなかったのだから。列車の端から端までが人智を超えた技術で塗り固められていると思われるのだがそれを理解するには裕介は早すぎた。

 摩擦による赤い嵐を突き抜け、眼下に臨んだ雲を数瞬で頭上に頂き、列車は惑星上での高度をどんどん下げていく。徐々に見えてくる地上の構造物には線路があった。街中を真っ直ぐに突き抜ける長い長い線路の上に、列車は全く衝撃を感じることなく着陸し、そのまま線路上を駆け抜ける。外宇宙航行速度、というわけにはいかないにしても線路脇に存在する構造物や木々が猛スピードで後ろに去っていくので視覚的な速度は星空の中を駆けているより実感できた。

 そして列車はこの星の駅に着した。

「ご乗車ありがとうございました、『姿見の星』です。お降りになる方は手をお挙げ下さいー。」

 列車がホームに到着した刹那、恵梨香が勢い良く車内に進入してきた。

「手を挙げろってさ、ほらほらっ。」

「は、はい・・・」

 雅志が急かすままに裕介は自らの決めかねてる意志を蔑ろにして挙手を行った。

「裕介さんがお降りですね、毎度ありがとうございます。」

 何に対するありがとうなのか理解に苦しんだが、裕介の行為は恵梨香へと正確に伝わっていた。

「では裕介さんには、この星での携行品をお渡ししますね。まずははい、お財布です。」

 ぽんと手渡された財布の中には当然、これがなければ消費生活は始まらないここでの通貨が入っていた。その様式を見るにつけ、さすがに裕介も違和感を持たざるを得なかった。

「一万円札、ですか?」

「そうですよ、無駄遣いしないでくださいね。」

 財布の中には現在発行されている一万円の日本銀行券が数枚、折り目なく入っていた。側面のポケットにも持った感じ何枚かの硬貨が入っているようである。無駄遣いの有無は断言できないが、地球をも離れた地で日本円というのは流石におかしいと思う、それでも恵梨香も雅志も、別に裕介を嵌めようなどと言う邪念の笑みでもなさげでにやにやしてるだけである。

「それから、これは地図ですね。泊まるホテルには印が入ってますから迷いはしませんよ。あとは、この付近のガイドブックですね。携帯電話は全く使えませんから重要ですよー。」

 日本円は使えるのに携帯電話は使えないなど、結構歪な曰くの星の気配はする。だが確かに裕介の携帯電話は圏外と表示されていた。

「あの、ホテルとかって、この列車っていつまでこの駅に停車してるんですか?」

「いつまでもですよ。」

「えっ?」

「降りられたお客様方が皆さん満足されて駅まで帰ってこられるまで、この列車はずーっと、ずーっと、ずーーっとお待ちしてますよ。」

「そんないい加減な話って?!」

「そうだよね、常識で考えればいい加減だよね。だけどこのツアーではこれが当たり前なんだ。みんなが満足したら次の星に旅立つ、そんな超のんびりなツアーなのさ。」

「雅志さんの言うとおりです。あ、ホテルも十七時までチェックインできませんから、だから今日から今から思いっきり楽しんできちゃってくださいね。」

「は、はあ・・・」

「「レッツトライ!」」

 急に息のあった二人に見送られつつ狐につままれた面持ちで裕介は列車を降り、ホームに立った。周りを眺めるとターミナル駅というわけではないがちょっと大きめの駅舎に広めのホームと、特急が停車するくらいには整った体裁の駅というところであった。

「裕介さん、下車されるんですか?」

「はい?あ、桜さん。」

 名前を呼ばれて振り返ると桜の姿が列車の扉前にあった。こちらも恵梨香と同様、裕介に注意事項を伝えてくる。さながら校外学習の先生役だ。

「私か恵梨香が駅の事務室に詰めてますから、お帰りになられたらチェックしますので一言声をかけてくださいね。」

「わかりました。」

「あと、恵梨香さんからは携行品を貰いました?」

「はい。財布と地図と、これだけです。」

 指折り数えて読み上げた内容に桜は不満の色を露わにした。

「ああっ、恵梨香さんったらまた忘れてる。じゃああたしのこれを、はい。」

 桜がポーチから取り出したのは、所謂ガラケーのような形をした物体であった。

「でも、ここでは携帯は使えないって。」

「ええ、だからこれはツアーのクルーと直接繋がる専用無線機なのよ。何か困った事があったらいつでもわたしに連絡してくださいね。」

「そうなんだ。あ、ありがとうございます。」

 裕介は頬を赤らめながら桜の手ずから無線機を受け取る、その際にちらと触れた桜の手の温もりと柔らかさが記憶にしかと貼り付いてくる。反面、それをよこしていない恵梨香への不安感が増したことは言うまでもない。

「あれあれぇ~。ああっ、桜さんたらまたあたしのお客様にちょっかい出してるんですか!」

 噂をすれば影とは言うが、心に思っただけで現れるとはなかなかに鋭い恵梨香である。

「ちょっかいって失礼ですね。恵梨香さんがこの子に無線機を渡し忘れたからわたしのを差し上げていただけですよ。」

 桜は気分を害したか、じろりという目で恵梨香を睨んだ。

「あ、いっけなーい。忘れてました、てへっ。」

「てへっ、じゃないですよ恵梨香さん。もしこの子に何かあったら恵梨香さんの責任になってるんですよ。」

「ううっ、ごめんなさーい。じゃあ今からお渡ししますので、無くさないようにお持ちくださいね。」

「もういいです、裕介さんにはわたしの無線をお渡ししておきましたから、それは片付けて下さい。」

 半ベソでわたわたとポーチから無線を取り出そうとする恵梨香を桜が制す。

「えー、でもこの子はあたしのお客様ですから、あたしのを持たせないと。」

「恵梨香さんはいつも無責任だから信用できない、と言ってるんです。いつも問題ばかり起こして、大事にならないでいたのは運が良かっただけなんですよ。」

「えへっ、褒められちゃいました。」

「褒めてません!」

 永遠に暖簾を押すような問答に終止符を打ったのは、居たたまれなくなった外野の裕介であった。

「じゃ、じゃあ恵梨香さんの無線ももらえますか?お二人のを一緒に使いますから。」

「あ、あら、そうですか?」

「ほらー、この子もこう言ってくれてるじゃないですか。はい、お渡ししますね。」

 裕介は恵梨香からも無線機を受け取った。彼女は運がいいというよりは、傍で見てはいられないと表現するほうが正確だった。恵梨香の過去の問題とやらも近傍の人間がそんな気持ちになったために事を荒げるに至らなかったかもしれない。

「あとそれから『その子』、『この子』呼ばわりは止めてくれませんか。子供じゃないんで。」

「あら、お気に障りました?すみません。」

「えー、子供じゃないですか。」

「恵梨香さんっ!」

「うぅ、ごめんなさい裕介さん。」

 桜に一喝され恵梨香は非をすぐに認めた。

「なにか困ったことがあったらすぐにあたしに連絡くださいね、どーんと何でもお答えしちゃいますよ。」

 恵梨香は胸を張って威張った。これまでの言動からして、性格的には彼女を額面通りに信じることは難しい。だが少なくともこの星の社会規範に関しては自分より知識が豊かではあると思われる。そこまで考えて、裕介は黙って頷いた。

「裕介さ~ん、困ったことがあれば私の方に連絡してくださいね。」

 ちょっと怖い笑みを浮かべて桜は言う、信頼感で恵梨香の後塵を拝したくはないのだろう、気持ちは分かるがひくついた笑みでこっちを見ないで欲しい、と裕介は心で叫んでいた。

「ええ~、あたしに連絡してくださいね。いいですよね?」

「恵梨香さん、ちょっと黙っててくれませんか。」

 桜は必死で感情を抑えていた、さきまでの可憐さは日が昇るに連れての朝顔のようにしおしおと鳴りを潜めていく。いかに普段から彼女に困らされていたのかが窺い知れるがそれは取り敢えず裕介には関係のないことで、決して二人の美女から取り合われるのを愉しめるような状態ではなかった。

 もはや二人の争う様を見ていられなくなった裕介は、早々にこの場を離れる決意を固めた。

「それじゃ、い、行ってきます。」

「「行ってらっしゃいー。」」

 少なくとも一方は角突き合わせていた戦乱は彼を見送ることで休戦のやむなきに達した。何はともあれ可憐な乗務員達に見送られて裕介は駅外へ駆けて行く、車窓の内から手を振る雅志もそれを見送っていたのを確認して裕介は軽く頭を垂れて応える。


 駅舎を飛び出した裕介の目に飛び込んできたのは、日本のどこかと思える町並みであった。

 どこか古めかしいが重厚な造りを思わせる三、四階建てのビル群。

 ビルの合間合間に芳醇に木の香りとレトロさを嗅ぐわせる木造平屋。

 アスファルトではなく敷き詰められた石畳みと無舗装の土道がコントラストを成す道路。

 旧式な型を思わせる車とすれ違う路面電車。

 着物姿もちらほら混じる、見た感じ日本人な行き交う人々の多さ。

 見渡す限り、日本語で書かれている広告の数々。

 日本の何処かという印象は大いに受けるが、裕介には一から十まで見聞したこともない雰囲気を醸し出す街の空気。言うなれば歴史の教科書に載っていた、百年近く以前の昭和の雰囲気がこれであったろうか。それにしても街の雰囲気もそうだが、更に何か大きな違和感を感じる空気があった。

 違和感を敏感に感じ取る、というよりいつもの日常と違うものに関して感じる不安感を勝手に増長して危険性をくすぐる悪癖が彼の足を駅舎の出入口で駅前の雑踏を眺めさせつつ歩みを掣肘させていた。年上とはいえ、つい今しがた女性に行ってくると言ってきたところなので踵を返すという選択肢は考えなかったまでは、男としての矜持は一応有しているらしい。

 とはいえ、現状はせいぜい一メートル四方の囲みの内をただただ逡巡するだけであり無駄に時間を浪費していた。足が動かないだけ首を動かして見てみると、自分の来た同じ方向から駅を出て行く一グループがあった。わいわいと楽しそうに、至って普通に駅舎を出て真っ直ぐ外を目指し、彼らはやがて街の人混みの中に消えていく。自分の乗ってきた列車の乗客かどうかまでは分からなかったが、彼らの恐怖のなんたるかもない風に、見えない何者にまた怯えてる己に気付かされた。

「よ、よし。」

 裕介は決意を固めて『姿見の星』と呼ばれる何も分からない土地に一歩を踏み出した。落とし穴があるわけでもなければ地面が開いて妖怪が自分を丸呑みするでもなく、やはり普通に足が地面を踏んでいた。一歩進んだことで二歩目は一歩目より軽い足となり、三歩目は更に軽くなった。やがて十歩と歩けば普段の歩様を取り戻し、裕介もまた街の人混みへとその身を没して行った。

 身を人混みに入れたおかげで違和感の正体に裕介は気付いた。この雑踏には言葉がまるでなかったのだ。急ぐ者にもゆっくり歩く者にも口を動かすことはなく、無表情に単調に歩く、若しくは走るという動作を淡々と行っている人形のようにも見えた。

「あ、あの、」

 裕介は観光客ぽく、この辺りの名所名産でも聞いてみようかと、冷たくなさそうな初老の女性を選んで話しかけてみた。が、彼女は微かにぎょっとしたような顔をして足早に遠ざかっていった。直後、心なしか周囲の人の流れも彼を避けるようにして流れるようになったかもしれない。しかし投げかけられる冷たい視線は確かに感じられるようになった。人の顔色を伺ってばかりの裕介は過敏に視線を感じられる。

 十メートル程先で女の子が転んだ、裕介はそれを確認したが助け起こしに行こうともしない。年端も行かない童女といっても見知らぬ人との関わりを嫌う裕介には日常の風景である。しかもその上に、裕介はじめ誰ひとりとして彼女を助けようという者は現れなかった。童女の泣き叫びが、声に限って静寂を貫いていた街の一角に響く。それでも尚彼女は無視され続けられる。周囲の大人達はまるで汚らしい物を避けるかのように、川の流れが中途の岩が割って流れるかのように、彼女の四方に空間を開けて通過してゆく。少し離れた傍観者足りえる場所から眺めていた裕介にはそれがよく分かった。とするとつまり、先刻から自分の周りにも同じ症状が発生したと考えられる。

 やがて童女は叫ぶ無駄を幼子心に悟ったか、喉だけが疲れるのに参ったか、必死に自ら立ち上がり、そのまま何事もなかったかのように駆けて行った。

(ここの人達は、全員冷たいの?)

 自分に起こったこと、目の前で起こったことから、異常に人と人の交わりの希薄感を感じずにはいられなかった。そして更に希薄感を決定付けたのは・・・

「ひったくりー!」

 再び周囲の空気をつんざいて女性の叫びが走る。見れば童女が転んだ方へさらに三倍の距離の向こうで地に膝を付き、走り去る男を指して声高に叫んでいた。

「誰か、誰かその男を捕まえてっ!」

 しかし周囲の反応は相変わらずである、犯罪者が人混みの中をかき分け走っているにもかかわらず、何事も見えぬ聞こえぬ風で自分の進む方向に全員が邁進を続けていた。さすがに犯人の進行方向にある者は突き飛ばされて進路の転換も余儀なくされてはいたが、それでもこの男に正義の鉄槌を下そうという者は全くいない。そして犯人の男は裕介の方角へとどんどん差し迫っていた。もはや傍観という位置でもなく、

「邪魔だ、どけっ!」

 裕介も突き飛ばされ、尻餅をつく羽目になった。しかもこの星に来て初めて自分に向けられた言葉が人でなしからの発声だったから酷いものである。裕介はそのまま地面にへたり込んでしばらく動けなかった。そして人の波は相変わらず他人に不干渉の流れを変えず、裕介などを避けてうごめいていた。


 いかほど地面にへたり込んでいたのだろう。着いていきなりの結構な治安の悪さも味わった事も手伝い、やっぱりそら恐ろしさを感じるようになった裕介は膝にぐっと力を入れて起き上がり、すぐ側の建物と建物の間にある細い路地に身を寄せ、早々に無線機を取り出した。無線機の相手になる者はまだ目に入れることのできる至近の位置にある駅にいるわけだが、裕介としては一刻も早く、優しく接してくれる相手からこの星のなんたるかを具に質しておきたかった。

 幸いにして無線機はON・OFFスイッチと音量の大小があるだけの簡素なインターフェイスで操作に支障はなかった。地獄に仏を望むつもりで裕介は無線のスイッチを入れる。数度のコールで相手は呼出しに応じた。

「はい、桜です。」

「さ、桜さん?僕です、裕介です。」

 裕介が選んだのは桜であった。別に意思を持って2つあった無線機のどちらを選択したわけではないが、安心感は逆の選択より絶対的に大きかった。

「あら、裕介さん。つい先程出ていらしたのに忘れ物ですか?」

 先ほどと変わらず、しかも落ち着きを取り戻していた桜の声を聞いてようやく心臓の鼓動が落ち着きを取り戻してくる。

「あ、あの、桜さん!この星って何か変じゃないですか?」

「変?うーん、そうでしょうか。わたしも色んな星を見てきましたけど、この星なんか地球とさほど変わらない程度ですよ?」

「で、でも何か違うんですよ。僕のいた街と何かが。」

「あはっ、それはそうですよ。」

「え、どういうことですか?」

「裕介さんのいた街のルールの全部が全部、日本全国で通じるわけじゃないじゃないですか、それと同じですよ。裕介さんの今までの生活と違う生活を送ってる人たちですから、何か違うと感じるほうがむしろ正解なんですよ。」

 桜の言は正しかった。だが裕介は今正しいとか間違ってるとかという論理の解釈で物事を口走っているわけではなかった、つまるところ桜に甘えたいような子供の心境で言葉を吐露していたに過ぎない。

「そうじゃないんですよ、あのっ、なんだか怖いんですよ。人も街も全部気持ち悪いんです。」

「あのぅ裕介さん、ここはですね、貴方の思いで訪れた街なんですよ。」

 桜の言葉には耳を疑う余地が大いにあった。

「え、どういうことですか?」

 十秒前に吐いたのと一言半句変わらぬ言葉を吐いていた。

「ここは、貴方が望んで着いた星なんですよ。」

「でも、僕こんな星に来たいなんて言ってないし、だいいち宇宙に行くなんて知らなかったのに。何の希望も言ってませんよ。」

「それでも、ここは貴方の心が望んだ星。人と関わりあうことができるだけ無いようにと望んだのがここの星ですよ。だから貴方の姿を映して見せる、ここは『姿見の星』なんです。」

「なんなんですか、それって!?」

 自分が選んだという話も理解し得ないまま、この星の本質という新たな理解不能の案件が裕介の脳に舞い込んだ。

「この星の人達は、他人にまるで介入しないんです。何故だか分かりませんが、もう何十年もそんな社会が続いてるっていう話ですよ。」

 そんな社会が成り立つわけがない、もはや社会と呼べる代物ですらない。そのくらい裕介にも分かる。

「でも裕介さん、貴方自身は人となるべく関り合いになりたくないって思ってるんですよね。社会全体がそう思ってるのが此処ということなんですよ。」

「分かりませんよ、そんなこと!」

 裕介は混乱の中にいた。ここは地球ではない、だから自分の考えの及ばない文化、風習、社会、自然諸々があってもいいだろうとは思う。さりとて嫌な思いはしたくないし、桜と禅問答を繰り返す気もない。更に、混乱が何故自分の気持ちを桜が理解しているのかという疑問を持たせることを喪失していた。

「僕、もうそっちに帰ります。この星にはいたくないですから。列車に乗せて下さい。」

「あれ、申してませんでしたか?一度お降りになったお客様は最低三日はその星で暮らしていただくんですよ。」

 桜の唐突な宣告は裕介の心を更に三段深い所に貶めた。心も黙って落ち行くわけでもなく、何の咎もないはずの桜に吠えかかった。

「そ、そんなの聞いてないですよ!いつまでもいられるとは聞いたけど、三日もどうやって暮らすんですか!?。」

「また恵梨香さんたら大事なことを言わなかったんですね、申し訳ありません。でも決まりですので。」

「決まりって、決まりでも嫌です。駅に帰ります、入れて下さい。」

「困りましたね、でも駅はもう閉鎖されてて3日後まで開かないんですよ。」

「えっ?」

 裕介は慌てて路地から駅が見える道にまで飛び出し、ほんの少し前に自分のいた駅舎の方を見回した。いつの間にやら出入口も窓にまでシャッターが下ろされ、中の動きが一切外に伝わらないようになっていた。駅舎二階部分にあるホームから進入しようにも見渡す限りの高架が両側に延々と続いており、地上に接する部分まで探し歩く気力はポケットのどこにも持ち合わせていなかった。

「ほんとだ・・・あのシャッターは、三日後まで開かないんですか?」

「はい、申し訳ございません。何かと整備等ございまして。」

 桜の申し訳無さそうな声が、裕介に反撃の意欲をどんどん失わせる。それでなくとも物理的にすら自分ではどう足掻いても戻ることはできないでいる。

「分かりました・・・三日したらまた、お願いします。」

「はい、良い旅を祈ってますよ。」

 張りを失った声で桜に訴え、裕介は無線機を切った。最後に桜がなんと言ったかも聞き取れるような心持ちでもなく、すっかり途方に暮れていた。最初から向こうは、悪く言えば閉め出すためにあれこれと物を持たせてくれたのかと思うと合点も行った。だからといって実際に閉めだされる立場というのは合点が行っても納得はできないものである。

 取り敢えず路銀は貰っている、現代的な消費生活である限り資金というものは何をするにしても第一に必要なものであるから、今すぐこの街で朽ち果てるということはないであろう。このどう見ても日本円である硬貨や紙幣がきちんと使用できるか、一応確認はしてみたいところである。ふと見れば今しがたの路地の横には軒先に小さく華やかな菓子類が並べられている店屋である。三日、三日間をどうにか乗り切れば一応の安全と安心を享受できる列車に戻ることができる、家族の待つ家のように、かの列車を想ってみる裕介であった。今はこの位置に置かれた自分をどうにかする、したい、せねばという思いで菓子店に入ってみる。

 そこは所謂十円二十円払えば何かしら購入できるデフレの第一人者のような駄菓子店であった。店先のみならず店内には手前から奥まで、壁掛けどころか果ては天井から吊るしてまで所狭しと安価な菓子類が敷き詰められている、小学校低学年の楽園。そこを店舗兼住宅として店舗と住宅の境目の太ももくらいの高さにある敷居に腰掛け、日陰で日向ぼっこを嗜むようにして微笑んでる老婆が主人らしく店の戸口を眺めて客の入りを確かめているようだ。

 戸を潜ってきた裕介は駄菓子屋というものは初体験である。菓子はスーパーやコンビニの台頭で、そこに、そこだけにあるもののような錯覚を持っており、菓子だけで1つの店舗がまるまる埋められてる光景は記憶にないのだ。1コーナーのラックだけに押しとどめられているより菓子からのインパクトは絶大に感じられる。初めて入る者などにはちょっとしたワンダーランドといった印象もあろう。

 先客として数名の子ども達もあった。別々に来店していたのがたまたま一緒に見えただけであろうか、彼らもまたお互いに仲良く話をしてる素振りもなく、淡々と駄菓子の品定めに夢中となっている。やおらさっさと気にいったのであろう商品を数個手に取り、老婆に見せては代金をその手に乗せ、順々に出ていってしまった。この間子供にも老婆にも会話というものは存在しなかった。裕介もまたそれに倣った、というわけではないが美味しそうに見えたガムやラムネ、煎餅といった「いかにも」な商品を手に取った。これもやはり日本語で商品名やら製造社名が記載されているが、少なくとも彼には初耳の会社や商品ばかりである。日本でありそうで日本でないのだから当然なのだろう。

「あの・・・」

 手に取った商品に購入意欲があることを、目の前にやってきた少年から老婆は感じ取ると、表情も一つと変えずに頷いた。老婆の様を見て、戸惑いもありつつ裕介は各商品の記載を確認して合計額の百円玉二枚を支払った。目の前の彼女は油の足りないような機械的動作で硬貨を受け取り、レジに仕舞いこんだら再び同じ格好に戻り、動作を止めてしまった。

 日本円は無事に使えることに一定の安堵感は得られた。相変わらず対話も会話も存在しなかった事は気がかりであったが、老婆をそれ以上詮索することも躊躇われたので、彼は駄菓子屋を後にした。

 店を背にした裕介は、購入した駄菓子を手に取りじっと眺める。会話こそないけれどそれは普段の自分と何ら変わらないだけで、後は今までの生活と同じ行動を取ることができそうだ、それは裕介の心に一つの安心を与えていた。そして安心感は途端に身体に健康的な要素を思い起こさせる。

「お腹空いたな。」

 起き抜けに定食でたらふく腹を満たしたのももはや今は昔、いつしか昼前を指す時刻になっており、健康体14歳男子であるのは間違いない裕介の胃袋には順調に昼がやって来た。

 駅前という立地上、腹を満たす店舗はいくつもあると思われる。裕介はぐるりと周囲を見回してみた。自分の知る名前のファストフード店や牛丼店の面影を目の当たりにすることはできないにしても、相変わらず無関心の度が強い人の波を越えて、表にメニューが貼ってあるような個人経営の食堂が数店舗見受けられる。

 裕介は何に目を光らせたわけでもないが、駄菓子屋の向かいにある食堂が気になった。佇まいも周りに比して特徴が強かったわけでもないが、ただ目の前に建っていたから、そんな程度かと本人も思う理由でこの食堂に入ることにした、店先にはでかでかと、「うどん、そば」の文字が掲げてある。

 がらがらと音を立てて戸を開けると、そこは近所の常連が賑やかしたり、一仕事上がった作業員らが昼から冷たい麦酒を腹の奥底に染み渡らせている、という騒々しさとはやはり無縁であった。よく来ていそうな近所の会社の昼休みといった風のグループ、汚れ具合から仕事にすでに着手している様で騒々しさにかけては定評があると思われる土方の一団が席にいることはいるが、皆黙々と飲食のみに顎の筋肉を酷使している状態であった。これなら祖父の葬儀の後の会食のほうが周りはよく話をしていたものだとの印象を受ける。

 裕介も席に案内されるでもなく、暫く戸口でまごまごしていると、後ろから更に数名の来客があったため、押し出される形で開いているテーブル席への鎮座にありついた。

 取るものも取らない内に食堂の女将らしき母親くらいの年と思われる女性がお冷を置いてきた。裕介が急いでメニューを取り一瞥して彼女の方へと向き直り

「あの、」

 と声を出そうとすると、女将は即座に口に人差し指を当て、無言で「黙って」の指示を出した。更にメニューを指で触って、指で指定するようにとの身振りを示す。裕介は倣って、食べたいメニューを指で抑える。

 女将は理解した顔を頷かせ伝票に何かしら書き込み、厨房の方に去っていった。

 料理が来るまでの間、裕介はテーブルの上を眺め、店の壁から内装を眺め回した。町並みと同じく前時代的なレトロさを醸す板張りになっている壁に並べられた品書き、メニューの他には醤油や一味の一式が置かれただけのテーブル。古めかしさ以外は地球の、日本の、自分の街のどこにでもある食堂と変わらぬ風景が広がっている。ただやはり、聴覚だけは活躍の場を求めて遠い旅路に出たがるような、しんとした黙々さが食堂を包み込み5、6脚のテーブル程度の食堂のスペースが倍はあろうかという広さを演出している。先ほど声を上げようとしたのが触ったのか、こちらの視線に気付いた男が冷たい視線を送り返す場合もあった。すぐに食事へと戻り視線は外されたが、裕介の脳裏には投げかけられた冷ややかさが跡を残した。

 やがて先ほどの女将が裕介の注文を持ってきた。ここでも当然のように「お待たせしました」だの「どうぞ」だのと自分の街では当たり前のように聞いていた科白もなく、ただ注文を乗せた盆がテーブルの上に置かれたに過ぎなかった。

 盆の上には讃岐うどんと思しき生醤油うどんにかやくご飯と、注文と違わぬ物が乗せられていた。指差しとはいえ向こうはこの方法に関して熟練したもののようで、間違えなどはしなかったと見える。さしもしらじな、運ばれてきたうどんの艶の見事さ。だが色気より食い気が勝ること万倍の年頃の者にとっては麺の艶がいかにの艶やかであろうと文字通り「艶なんか食べられない!」であったのだろう。迷わず麺をすすりだした。

(うわ、すごい美味しい!!!)

 心の中で感嘆符を三連呼するような感動を覚えた。生醤油うどんにかやくご飯の相性は若干十四歳でも覚えていたつもりだったが、うどんのコシに生醤油の絡み具合、かやくご飯の味付けと炊き具合、何処を取っても祐介の今までに食したことのないレベルの味わい、最長不倒を叩きだした。だが食べ進める内にこんなに美味しい、美味しいというのにどうもいまいち感動が体現の域まで押し寄せてこなくなっていく。それはやはり何人も犇めいているのに会話がない上に冷たい視線まで投げかけられたことで精神が落ち着きを失っていることで心の散漫が大きくなっていき、味覚に集中できないでいることに他ならない。心の容積が小さく脆いために副交感神経の活性化を阻害するのは実に勿体無い。そして裕介はそれを当然のように受け止めている節があるので更に勿体無いことである。

 結局最後の方は味も分からなくなるほど不安感が増大して店を後にしていた、結局その男が何かしてくるということもなかったのでとんだ取り越し苦労と言わざるをえない。が、それでも裕介はこの後彼は追ってくるのかなどと勝手に不安を増長させて、駅前を後にして足早に且つ適当に街の中に姿を没して行った。

 数分後、件の男は満足気な顔をして同僚と店を出、何事もなかった顔をして三軒隣の事務所にて仕事に戻っていった。


 外からの刺激にまるで無反応な人混みに紛れること数百メートル、次はこの人混みが何かしてくるかもしれないという不安のスパイラルから、裕介は裏路地の方へと足を向けて人混みからも離れた、もはや一人では駅まで帰ることはできないであろうくらいに何度も角を曲がる付加要素も付いている。物陰に潜む形で恵梨香から貰っていた地図をここに来てようやく広げる。

 恵梨香の心遣いだろうか、泊まるホテルはじめ、遊園地だの、美味しい食堂だのに可愛い文字で付箋が付いている。だが今はそれも不要のものにしか思えない。人に見えるがやはり地球人ではないのだからいつ取って食われるかもしれないとか論拠に乏しく想像に寄る不安が増す一方の裕介は恵梨香による付箋が多い、繁華街と思われる地域から逆の、人の姿のなさ気な閑静な方向を目指して歩くことに決めた。

 せめて万事に経験の深い、少なくとも自分より物事の見えている雅志が一緒に降りていてくれればこの歩様の趣も全く違ったものになっていたのに、などと他人の要素を期待して現状の不幸を嘆いていた。

「そうだよ、雅志さんが降りろと言わなければ僕だってこんな訳のわからない星に降りてこなかったんだ。恵梨香さんや桜さんがしっかり僕のことを見ていてくれればこんあことにはならなかったんだ・・・どうしたらいいんだよ、三日も。」

 心の重さが足取りに作用して、靴に鉛が仕込まれていくかのように足までが重くなる。足取りの重くなる分だけ周囲の人影が疎らになっていくのが今はそれだけを救いに感じている。店屋が軒を連ねる通りを後にし、やがて風景はだんだんと家々が立ち並ぶ様子へと変質していき、住宅街へと足を踏み入れていた。木造で平屋建が主にあり、家々や道路との境目は大人でも目の高さにある竹垣で仕切られている。門から視認できるのみが各住宅が外面に晒している全てであるが、中には竹なり木製なりの門扉を固く閉ざす所もあり、そのようなものは外から家の様子を伺い知ることはできなかった。

 そこは裕介の祈りが天に通じたのか閑静の一言で、微かに聞こえるまな板の上を行き来する包丁の音や、遮蔽物で目に届かない近くを走る原付バイクの駆動音だけが人々の営みを感じさせる。どこの家も囲われている事によって裕介は人を殆ど見なくて済むし、また人に自分を見られている気分からも解放された。

「ここで、時間を潰せるかな・・・」

 旅先に来て、やはり古めかしさだけは感じるとはいえ何の変哲もない他人の住まう住宅地を彷徨うという話は聞いたことがない。だが彼はそれをやってのけている、といえば聞こえはいいのかもしれないがただ色々な物を見もせずゴミ箱に投じてる姿と変わらないかもしれない。

 竹垣が途切れ公園、いや設備や手入れの度合いからして原っぱと呼ぶに相応しい広場へと辿り着いた。体感で初夏程度の気候とはいえ、歩きづめのところに来る日差しに多少参りつつあった裕介は手頃な木陰を見つけて腰を下ろし、鞄から水筒を取り出した。家から持ってきたものではあるが、列車内では出番の無かったそれが今は獅子奮迅の活躍で裕介の喉に茶を注ぎ込んでいる。

 ぷはっと息着いた裕介は、ようやくこの星に降り立ってからの出来事を反芻した。とにかく人と関わることが極端にないというのは分かった。危機的状況では叫ぶし、意見を通したい時はそれを他人に向けもしたから、関わることができないのではなくしないだけなのは子供でも分かる。しかしこちらからアプローチを求めることは藪蛇になりかねない、が裕介には元から危ない橋は渡らないという自発的行動に対する熱意の低さがある。座右の銘は『君子危うきに近寄らず』、宣言したことはないが行動理念はこの言葉に則っていた。もっとも、近寄らないレベルが並々ならないのは言うまでもない。よって能動的な解決の可能性は低かった。桜が言っていたことは実体験で身体で理解できた。

 とにかく自分の生まれ育った環境とは違う文化があるのは間違いない、こういう時裕介の取る方策は『触らぬ神に祟りなし』に行き着く。そうだ、そうしよう。いつもそうしてきたんだから、と彼は考えを新たに固める。

 心を決めた直後、耳に微かな声が聞こえた。ふと原っぱを見渡せば、工事用の角材をピラミッド状に積み上げでいる山に腰掛けて少女が俯いていた。声はすすり泣くような細い音とも聞こえるような小ささ、且つ俯いているだけに表情は確認することができない、しかし彼女から発せられている声であるのは、方向といい周りに他の人影が見えないことで明らかである。しかも暑い中、日差しをもろに受ける原っぱの真ん真ん中にで悲しんでいるような様は見かけた者に不自然さと同情性を感じさせずにはいられない。

 今決めたところだぞ、もう何とも関わらないって。裕介は自分にそう言い聞かせたのかもしれない。でも心が葛藤する、男としての矜持に更に人としての感情が『男らしくないなあ、人としてどうなんだ』と自分に問いかけてくる。これがまた人混みの中なら赤の他人に責任を擦り付けることもできるのに、とも思う。自ら人のいない所にやって来たのに実に身勝手な話をする。内向的な性格と正しい行いをしたいという欲求がせめぎ合った結果、裕介は重く重く腰を上げた。どうやら徳俵1つの差で勝敗が決したらしい。

「どうかしたの?」

 少女の元に歩み寄ってきた裕介は普通に声をかけた。次の瞬間、少女が彼の存在に気付いて顔を上げた時にあげた声は、あまり普通とは言い難かった。

「あっ・・・香。」

 少女は佐藤香だった。いや、ここは違う街、違う星。正確には香そっくりの別人の筈だが顔は、しかも立ち上がった容姿全体もほぼ彼女と言って遜色ない程に似ていた。裕介は驚きと共に後悔の念に攻められた。

「香?それって誰かしら?私は由美よ。」

 右手で涙を拭きつつ自己紹介をする声を聞いて更に裕介は引いた。名前は違うが、これがまた声まで香そっくりだったからだ。もはやクローンか生き写しか、はたまたコピーロボットか、一気に疑念が増大した。

「何?私の顔に何か付いてるの?」

「い、いや、別に。」

「あっ、変なとこ見られちゃってたわね。別に泣いていたわけじゃないんだ。」

 泣いていたよな、とは思えど追求はできないでいた。

「これよ。」

 香、いや由美は左腕に抱えていた物体を裕介に示した。そこには香とは別の意思で小さく動く存在があった。

「猫・・・子猫?」

「ええ、近所でこの子が一人で彷徨いていたんだけど、可哀想で、お母さんにうちで飼えないかって持って行ったら『捨てて来なさい』って、すごく怒られて。それで、」

「泣いてたんだ。」

「泣いてたんじゃないよ!」

 つい事実を述べたデリカシーの無さが気に触ったらしい。デリカシーの有無というか裕介にはこの顔を見るとパブロフの犬よろしく戦闘モードのスイッチが入るようになっているらしい。幸か不幸か本能だけにこの感情は自分では御し得ない。

「なんだよ、じゃなかった。えと・・・ごめん。」

 目の前の女性は自分の知る香ではない、香ではない、と心の中で自分に言い聞かせて裕介はやっと香の幻想を打ち払えられた。

「うん、ありがと。それでどうしょうかと思ってここで座り込んでいたら、涙が出てきちゃって。」

 やはり泣いてたんじゃないか、とはもう言わなかった。

「そうなんだ、それは可哀想だね・・・」

 途端に行間に『自分には何も出来ないから』と後ずさりを模索する含みを持たせる。裕介の対人行動は実に極端に過ぎた。

「そうだ、君も一緒にこの子の面倒を見てくれない?」

「ええっ?」

 裕介の正直すぎた露骨に嫌そうな顔は、由美に不快感を与えた。

「そ、そんなに嫌がらなくてもいいじゃない!」

 由美は悲しくもあったが怒りの感情が勝っていた。ところが瞼の内に留まっていた先程の涙が語気を荒げた瞬間に堤防を破り、頬に一筋の河川を浮き上がらせた。自分の発言で初めて会った女性を傷付けた、と思い込んだ、思い込まされてしまった裕介に反撃の機会は無かった。

「あ、あの・・・分かったよ。でも面倒を見ることはできないよ。」

「君の所も両親がうるさいの?」

「うるさいのはうるさいけど・・・僕はここの人じゃないから。」

「旅行者なのね、あんまり見ない顔だとは思ったけど。」

「うん・・・まあ、そんなところかな。」

 言っても信じてもらえないであろうという思いが、洗い浚いを口に乗せはしなかった。無論、心を許していない相手という理由もあったのだが。

「じゃあ、どうしようかな?もらってくれる人もいないし。」

「近所の人に聞いてみれば?」

「ダメよ、そんなことしたらまた怒られちゃう。」

「どうして?」

「君、そんなことも知らないのにこの街に来ちゃったの?」

 由美は怪訝そうに、また驚嘆した顔で裕介を見つめた。まだ潤んでる瞳がじっと自分を凝視する様に裕介は頬を赤らめ、目を背ける。

「い、いや、連れてこられて、それで、あの・・・ほっぽり出されたというか。」

 しどろもどろっぷりも増してしまうが、必死で心理を悟られまいと繕う裕介だったが、由美には彼の心情の方には興味は薄かった。

「なんだか複雑な事情がありそうね。でも今はそれはいいの、まずこの子のことよ。」

 自己を低く扱われたことにも感情が湧かないでもなかったが、裕介も目の前の小さな命を優先すべきことは理解できる。湧いてきた感情を埋め直して由美に向き直る。

「うん、改めて聞くけど、近所の人も怖いの?この街に来てから何時間も経つけど今の今まで君に会うまで誰もまともに口を聞いてくれないんだ。大人がみんな怖い人なのかな?」

「ええ、それは、」

 由美が語ろうとした時、二人の横から会話に混じる影が現れた。

「こらこら、こんな所で立ち話してちゃ駄目じゃないか。君達、どこの子だい?」

 横を向いてみれば、国家権力という外套を纏う制服の男がいつの間にか立っていた。威圧的ではない町のお巡りさんと言った風ではあるが、最初から自分たちをあくどい相談でもしているかのように決めてかかってくる様な物言いに裕介は心に引っかかるものを感じていた。

「こっち!」

「えっ!?」

「こ、こら、どこへ行くんだ!」

 警官の静止する声も聞こえるか聞こえないかの内に由美は左腕に子猫を抱えたまま右手は裕介の左腕をわしと掴んで走りだして行った。手帳を取ろうと焦点を自分の体に合わせていた警官は初動で大きく彼女達に立ち遅れた。これがまた少女だてらに足がなかなか早いものだから十歩程度で警官は同条件での追跡を諦め、原っぱまでに足を委ねていた自転車を取りに転進した。その間に二人は彼との距離を肥大させていく。

「ちょ、ちょっと。」

「黙って走って!」

 ただただ自分の指示に従うよう短い命令を下しただけで由美は裕介に反論を許さなかった。原っぱを抜け、民家の連なる道路への進入を果たした付近で後ろからベルを鳴らして二人を呼び止めようというのか、はっきりは聞き取れないが警官が脚力を車輪に誇示させたいが如く必死になって原っぱを縦断してきた。速度は明らかに追う側が早い、このままでは間を置かず彼女達は再度彼の聴取を受ける羽目になっていただろう。しかし逃走劇は算数の問題ではない、単純な速度比較で終止するには至らなかった。

「こっちよ。」

 由美は路地に入った。指図されたとはいえ、腕を握られたままの裕介も自然に彼女に続き路地へと曲がる。数瞬遅れて追っていた警官も自転車を路地の前に停めて自らを路地に投じる。狭い道とはいえ大の大人にも余裕のある空間を有する、もう少しだ!と思ったことであろうが逃亡者はまだ上手だった。竹垣に空いていた穴から見知らぬ家の庭に入り込み、庭を通り抜けては逆側の穴からまた抜けてあちら側の路地へと逃げ行く。大の大人であった警官はいかに鍛えていようと体躯そのものが枷となり、子供サイズでしかなかった竹垣の穴は狭すぎ、服を引っ掛けると同時に垣を構成する竹の何本かも引きちぎる体たらくを示した。それでも路地に抜けた際に逃亡者をなんとか視界から外さないでいたのは流石というべきか。だがそんな警官の努力も無に帰すが如く、由美は更なる秘策を持って彼を振り切りにかかる。

「しつっこいわね。でももう終わりよ。」

 向こうもしつこいのが商売だからしつこいのは当然である。今度は路地を埋め尽くして存在を示す小さめの土管の中を潜りだした。ようやく掴まれていた腕を離してもらえた裕介も、捕まるなど御免とばかりに彼女の動作を真似て後に続く。土管の上には不要物とも作業物とも判定しづらい木箱や板などが無造作に積み重ねられており、逆方向に抜けるには土管の中を通過する以外に手はない。そしてこの土管の内径たるや、由美や裕介の身体が高姿勢匍匐、所謂ハイハイの姿勢で通り抜けるのがやっとで、彼らより偉丈夫を誇った警官は、ここでもやはり入口で引っ掛かりさすがに土管を壊して突き進む膂力に持ち合わせはなく、追跡が完全に頓挫した。

「このぉっ、待ちなさーい!」

 という追跡者の遠吠えが土管内に虚しく響き渡った。

「さ、行くわよ。」

「行くってどこへ?うわっ!」

 裕介の言葉はまたも無視され、聞く耳を持たなかった由美は彼の手を再度握りしめて今までよりは速度を緩め、でも足速に彼を誘導して何処かに向けて走りだした。

 かくて小さな捕物劇は逃亡者達の逃げ切り勝ちで幕を下ろした。


 三十分後、二人の足跡は見知らぬ山の中にまで伸びていた。山道の少し開けた場所でようやく由美の足は立ち止まった。

「ここまでくればもう大丈夫ね。君、怪我はない?」

「怪我はしてないけど・・・ぜい、はあ・・・ここまでずっと・・・はあっ、はあっ、走り詰めで、息が・・・はあ、はあ。」

「男なのにだらしないわね、私はまだまだ走れるわよ。」

 息が上がりきっている裕介とは対照的に由美の息はまだ整っていた。男の方が極端に身体能力が悪いわけではない、体育の授業でも可もなく不可もない程度には体力があったはずである。しかし原っぱで追われて以来、青々と木々の茂った山の中まで休みなくおよそ7割の道程を、舗装もされていなければ天を衝く樹木の太い根っこが右から左から押し寄せているような悪路を走り続けるほどには鍛えられていなかった。これはむしろ由美の身体能力の高さを素直に讃えるべきであった。なにせ裕介が四苦八苦して越えていく山道を、猿か獣を思わせる軽い足取りで越えていくのだから大したものである。

 自分に比して著しく鈍重に山道を行く裕介を待ちわびるシーンもあったれば、彼女一人なら半分の時間で現在地に着いていたかもしれない。

「で、さあ・・・こんな山の中まで逃げちゃって・・・どうするの?」

「まあいいから、まずはその息どうにかしなさい。」

 裕介は再び鞄から水筒を取り出し、残っていた水分を一気に取り込んだ。潤した喉を行き来する風を徐々に整頓し、数分を要した後、やがて荒さを消し去った呼吸で由美に向き直った。

「息、整ったよ。」

「うん、なんだか変なことに巻き込むようになっちゃったね、ごめん。」

「いや、由美・・・さんが謝ることでもない気がするんだ。」

「由美でいいわよ、えっと・・・名前、まだ聞いてなかったわね。なんて言うの?」

「裕介、司裕介。じゃあ僕も裕介でいいよ。」

「よろしくね、裕介。」

 フランクな呼び名を求められ、自分も同様の呼び名を求め返した。別人ではあれども、普段からざっくばらんな態度を取り合ってる相手と寸分違わぬ容姿だと異性でも喋りやすかった。むしろ裕介にとって香が異性である意識がない相手であったが故の反応である。「でさあ、あの警察の人は僕らの何を咎めてきたんだい?」

「そうね、その辺について教えないといけないわね・・・いい所に案内するわ、ついて来て。」

 由美は踵を返して森の奥へと緩やかな坂をまた上がりだし、裕介を手招きした。呼応する形で裕介も同じ坂を上りだす。

 ある地点で由美は切り開かれた感のある道を外れ、木々の密集する下り坂に身を寄せ歩き出す。

「ど、どうしたの?」

「こっちよ、ついて来て。」

 出会いからこっち、とにかく彼女について行くばかりである。だからといって山中の鬱蒼とした森の一角にぽつねんと取り残されても、それこそ不味い事態であるので、裕介の選ぶ道は決まっていた。

 道無き道を勝手知ったる様に枝を掴んで坂を下り、木の根が埋め尽くした凸凹道を通り抜け、小川を跨いで丸太を二本架けただけの簡素な橋を渡り、難度Aのアスレチックを突き進むようにして山中を進むと、目の前にやや草臥れたような趣きのある山小屋が見えてきた。

「あそこよ、あれが私たちの隠れ家。」

「隠れ家?」

 異様な響きに裕介は疑問を持った。

 そして小屋の前ではまた自分と同年代と思える少年が薪を割っていた。斧を持ち慣れたように振り下ろして薪を真っ二つにする様子は、実物の斧など見たことすらない裕介の目には奇異と羨望の両者が溢れている。

「あ、由美。お帰り。けっこう遅かったじゃないか。」

「ごめん、ちょっと拾い物をしてたから。」

「拾い物って、後ろのそいつ?」

 少年は裕介を指して奇異の目を放つ。

「それもあるけど、この子よ。」

 由美はずっと片手が抱きかかえていた子猫を示した。由美が散々走り回っていたというのにずっと小脇に抱えられたまま大人しくしていたのか、怖がって動くこともできなかったのか。

「うわぁ可愛いなー。どこの子?」

「ううん、家の近所で拾ったんだ。お母さんに話したら案の定捨てて来なさいって言われたからどうしようと思ってたら、この子と会ってさ。」

 こちらで言う『この子』として裕介が指された。

「は、はじめまして、裕介って言います。」

「おうっ、はじめまして。俺は福山悟。このグループのリーダーみたいなもんだ、よろしくっ。」

 悟はさっと勢いよく裕介に握手を求めてきた。由美といい、かなり砕けた性格の集まりのようにも見える。ちょっと躊躇を感じたが、裕介もそっと右手を差し出し、はじめましての挨拶が締結された。

「見ない顔だけど、君も俺達の仲間に入りたいのかい?」

「仲間・・・?」

「あっ、悟。その辺はまだ何も言ってないの。この子、旅行者らしくてこの街の事も何も知らないんだって。」

「そうなのか?何も知らずにこんな街に来るなんて物好きだなー。」

 悟は目を丸くさせた。彼には何も知らない外部の人間が訪れるような魅力がないのか、訪れてはならないような理由があるのか、いずれかに心あたりがあるようだ。

「なんだなんだ、新しい仲間なのかい?」

「うん・・・仲間?」

 表の騒ぎを聞きつけたようで、小屋の中から男子が更に二人顔を覗かせた。快活そうな面持ちを受ける方は料理用のおたまを手に出てきており、せっかちそうな印象を合わせて醸している。またもう一人は重そうに見える縁の眼鏡のレンズ間にある山に指を当ててそろりと外を覗く大人しい風で、裕介は後者に自分と同じ匂いを嗅ぎ付けたのかもしれない。

「浩之も茂も、丁度いいや。こっち来なよ、挨拶しなよ。」

 微かなリーダー風を吹かせた悟の言に従って、二人は小屋の戸から全身を現した。

「オイラは桜井浩之って言うんだ。よろしく。」

 おたまを持った方は浩之と名乗った。スタイルや顔の造作はかなり良い方に思え、二月十四日ともなれば登校してくるなり甘いチョコ攻めの集中砲火を喰らう位には見える。

「僕は・・・、」

「ほらしっかり声出して!ごめんよ、こいつ知らない人に人見知りする質なんだ。」

 細すぎて発する言葉を解読できるか怪しいラインの声量を悟が咎める。益々自分に似た空気を感じずにはいられない彼は息を吸い直して改める。

「僕、五十嵐茂って言います。」

 今度は普通、より少々大きめの声で姓名がはっきりと聞き取られた。そしてまた眼鏡の山に指を当てる。

「この子はさあ、勉強ばかりするから眼鏡がないと人の顔も分からないくらい目が悪いのよ。傑作でしょ?」

「傑作とか言うなよ、由美ぃ。」

「ごめんごめん、で、わたしは苗字が坂井。坂井由美よ。改めてよろしくね。」

「裕介、司裕介です。よろしくお願いします。」

 由美の改まっての挨拶に差し出された右手を、裕介はゆっくり右手を伸ばして握手して答えた。ほんの少し前までずっと握られていた手だというのに、気持ちが入ると途端に動作が固くなる。茂の方もそんな裕介に同じ匂いを感じ取っていたかもしれない。

「ちなみに何歳なんだい?」

「じゅ、十四歳です。」

「なんだ、同い年じゃないか。ここの全員が同級生の十四だよ、敬語はなしにしよう、裕介。」

「は、はい。」

「じゃないって。」

「う、うん。」

「まあいいか。これからよろしくな。」

 落第点からぎりぎりの及第点に上がった劣等生を見るような話し方で浩之が答える。

「よ、よろしく。」

「じゃあ、立ち話も何だから家に入ってから説明しようか。さあさあ、上がった上がった。」

 悟が導くままに一行は山小屋の中に姿を消し去った。

 外の草臥れようと見事な比例をなし、キッチン一体の一部屋という間取りの山小屋内には中央に山小屋とセットで設けられたような、削った木を簡素に組み合わせただけの大きな長方形のテーブルがあり、その周囲に五十センチほどに切られた丸太製の、これまた簡素な椅子がテーブルの長辺に二脚ずつ、短辺に一脚ずつが並んでいる。広さに比して意外と物が多くごちゃついており、五人位が寝る空間と玄関やキッチンへの動線は確保されているが後は役に立つか立たないか、必要なのかそうでないのか不明な物で満ちている。

 手拭いを何枚か重ねた上に子猫をそっと置いてから、五人は各々に椅子を1脚ずつ占領してテーブルを囲んで話をし合う体制を整えた。

「さーて、じゃあ何から話したらいいのかなー?」

 悟が裕介に促すように問題提起を始めた、その心に気付きまではしなかったが、解を求めているのは自分なのだから、進んで発言の機会を求めた。

「あのっ、まず、どうしてこの星、あ、街はみんな黙ってるんですか、いや、黙ってるの?」

 地球から来たことは黙っておいたほうがいいだの、今しがた初対面を果たしたばかりの複数の相手達にいきなりざっくばらんな話し方を心がけようだのと、注意点が多くて言葉がしどろもどろになる裕介。周りはそこを特に意に介すでもなく、彼の質問の趣旨に特化して返答を返す、まず浩之が口を開いた。

「それはねえ、話せば長くなるんだが、」

「まあなるべく短く行こうよ。」

 すかさず茂が一言物申した。初対面の人間には人見知りするということは裏を返せば、、心を許す相手には物怖じしていないということになる。彼はそうなのかもしれない。心を許す相手にも壁を作る裕介とはそこに違いがある。そもそも裕介のそれは心を許しているのかも分からないが。

「ああ、そうだね・・・ええっと、ここの人達が表で口を一切利かないのは昔からなんだ、少なくともオイラ達が物心付く頃からはそうだったよ。」

「それは何故なの?」

「オイラ達が教えられてきたのは、昔戦争に巻き込まれて隣近所が敵のスパイになって、敵に近所の告げ口するのが当たり前って時代があったんだ。ここまでは歴史の教科書にも載ってるから本当だけど、その名残りで表で人と口を利かないようになった、って言うんだ。」

 謎が解けてしまえば原理は簡単だった。ましてや生理学、生物学的的な問題でもない。ただ、戦争というものが実体として認識できない裕介にはこのもっともらしい理由の根深さまでは測ることはできないでいた。

「そういう事でみんな黙ってたの?」

「らしいよ。まあ本当かどうかなんて分からないし・・・だいいち喋ってるのが見つかったら警察に連れて行かれるんだもん。」

「ああっ。」

 茂の補足には身に覚えがあった。由美と出会った時、日本人の感覚とはいえ法や道義を犯している覚えはないのに警官がやって来たのはそういうためだったのかとようやく得心が行った。由美も声なく『うん』と首を縦に振っていた。

「身に覚えがあったんだね。」

「うん、そういうことだったんだ。変な風習だね。」

「だろ、他所から見れば変な風習なんだよ。で、俺達も変だ変だと思ってたんだ。」

 やおら悟が立ち上がって熱弁を振るいかけた、ところへ茂が手を伸ばして待ったをかける。

「悟は熱くなると話が長くなるから駄目。」

「えーっ、俺にも演説させろよー。」

「演説じゃないの。」

「そうよ、ちょっと黙って。」

 反論の嵐で悟は矛を収めて腰も下ろした、浩之が更に話を進める。

「で、そんな息苦しい変な風習に嫌気がさしたオイラ達は集まって、夏休みに集団家出しようってことにしたんだ。それが此処に集まった奴らさ。」

「家出?」

 自らも家出中の裕介は既視感に目を丸くした、状況も何もかも違うが同じ行動を取っている同年代に心の垣根が一気に半減した。

「僕もだよ。僕も家出してきてここに行き着いたんだよ。」

「君もなのか!偶然というのか、奇遇っていうのか、こりゃ益々オイラ達の仲間になるためにここに来たって感じだね。」

「ああ、ああ!家出する不良少年同士、此処で一緒に家で生活と行かないかい?」

「少女もいるんですけど。」

 笑って由美は訂正を求めた。悟もすっかり目を爛々とさせている。選択を求められはしたが、彼らは裕介が去ることを望んではいなかったし、またそちら方向への思いも寄らせていなかった。純真そのものの目つきで裕介を見つめる4対の目が、裕介にも心地悪くは思えないでいる。ましてや山を降りた所で待っているのは謎の風習に満たされた世知辛く息の詰まる大人達の世界とあっては、此処で同年代の彼らと過ごす方がよほど気は楽にできるのは疑いようもなかろう。

 そして彼もまた笑いながら、彼らの提案に首肯した。

「やったあ!新しい仲間だあっ。」

「よろしくな、裕介。」

「改めてよろしくね。」

「・・・よろしく。」

「うん。みんな、よろしく。」

 茂も含めて四人の歓迎ムードに裕介は心地よさを感じずにはいられなかった。今この時より五人と一匹の数奇な共同生活が始まったのだ。


 新たな仲間を向かえて湧き上がる小屋の外に人の気配がした。

「まだ他に仲間がいるの?」

「いや、あの音は木田さんだよ。」

「木田さん?」

「僕らのことを理解してくれている珍しい大人だよ。なあ、悟。」

「ああ。」

 悟が立ち上がり、玄関に近づいてその戸を開く。外に立っていたのは中年に差し掛かった付近と思われる一組の男女であった。そしてその姿を確認した時、裕介には女性の方には見覚えがあった。

「やあやあ、元気してるかい悪ガキ君たち。」

「あれ?食堂の・・・」

「おや、今日は見ない顔がいるのね。ていうかさっき見た顔じゃない、悟君、この子は?」

「ああ、他所から来たんだって、祐介君って言うんだ。」

「ゆ、裕介です。さっきはありがとうございます。」

 その『さっき』は全く口も開かなかった木田という女性が此処に来ては砕けた口調でおおっぴらに口を開いている様子は裕介を当惑させる。

「やっぱりここら辺りの人間じゃなかったのね。さっきはごめんね、食堂でも表で口を利く訳にはいかなくてね。」

「今、聞きました。なんでも昔の戦争のせいとか。」

「みたいなのよね。私が生まれた時にはこうだったのよ。」

 同じ科白も十四の浩之から聞くよりれっきとした大人から聞くと年季が増す。

「おばさんは、ずっとこの街に住んでるんですか?」

 返事はなかった。木田女史は再び口を噤んでいた。にやにやとはしてるようだが視線が裕介に合わされ、眼力だけで何か訴えようとしているのだが、何を伝えたいのかまるで見当もつかない。

「おばさん?どうかしたんですか、おばさん?」

 眼力が更に増してくる、訴えたい事があるなら今の今まで動かせていた口を動かせばいいものを、眼力の圧は反論を一切求めず、己の訴えていることを無言の内に理解せよとのプレッシャーを与えてくる。

「おばさん・・・?」

 見るに見かねたか由美が何やら耳打ちしてくる、それに裕介ははっとさせられた。という事で裕介は前言を訂正した。

「お姉さん、お姉さんはずっとこの街に住んでるんですか?」

「そうよ~、うふっ。生まれた時からこの街に住んで三十五年、木田真理子です。えへっ。」

 瞬間、眼力が雲散霧消してにこやかな微笑みで若作った科白が飛び出してきた。

「じゃあ、少なくても三十五年はこんな重い空気の街なんですね。」

 渾身の挨拶にまるで反応がなかった真理子は再度角度が付いた御機嫌を強引に引き戻し、何くわぬ顔になる。

「そうよ、重苦しいでしょ。でも大抵お家では家族と話してるし、学校などでも仲の良い人同士は隠れて喋り倒してたものよ。みんなもそうでしょ?」

 この街の子らが全員頷いた。

「おーい、もういいかい?」

 玄関から男の声がする、見ればがっしりした細マッチョというべき若者と中年の境目付近の男性が手一杯の荷物を抱えて突っ立っていた。

「ああ、ごめんごめん。話に夢中ですっかり忘れてたわ。」

「そりゃあないよ、まったく。」

「はは、ごめんごめん。」

 仲睦まじく笑ってやり取りする大人達。年は年だが、微笑ましさすら感じさせるのは此処に来て初めて見る光景である。

「あの男の人は?」

「真理子さんの旦那さんの泰さん。普段は周りの大人と同じように何にも喋らないけど、話してみると面白い人なんだ。」

「ふぅん。」

 浩之の返答に裕介は最低限の返事で返した。浩之は彼の返事を待つか待たないかのタイミングで泰の元に駆け寄り悟と共に重そうな大きな荷物を受け取った。

「重いぞ、大丈夫か?」

「平気、平気・・・!」

「え、ええ!」

 泰の心配もよそに二人の強がりは周囲の人間全てに伝播するくらい分りやすかった。

「そこの見ない子。ちょっと助けてあげなさい。」

 泰は取り敢えず視界に入った初対面の裕介に対して助力を求めた。初めて会う大人を二人目の前にしてまごまごしている裕介の尻を誰かがぱしっと叩いて彼を送り出した。

「しゃんとしなさいって。」

 声の主は由美であった。まったくこの顔にはいいようにあしらわれる運命なのかと思うような表情で彼女を振り返りつつ、一歩押された足は自然二歩三歩と歩行を追加して、苦しい顔の二人に加勢した。とはいえこの援軍は大した戦果を上げるにまで至らず、ただ苦悶の表情を浮かべる男子が三人に増えたのみであった。結局、茂も手を貸して四人で何とかテーブルの上まで運ぶことに成功した。

「やっぱりすごいですね、僕ら四人がかりでようやく運べる荷物をずっと一人で持っていたなんて。」

「鍛え方が違うさ。ほらっ、浩之君の倍はあるだろ。」

 袖を捲くってみせた泰の二の腕は浩之に悟のそれを足して尚及ばない存在感を示している。少年四人は驚嘆の視線と憧憬の眼差しを同時に彼へと向けた。

「で、これは何ですか?」

「食料さ、あって困るもんじゃないだろ。貰っておきなさい。」

 裕介の問いに泰はあっけらかんと答えた。

「え?でもあの食堂の物じゃないんですか?」

「いいからいいから、もうこの話はこの子らと付けてあるんだから。」

 裕介以外の四人はうんうんと頷いていた。

「俺もね、若い頃は大人に反発したもんだよ。この子らの心意気に自分が重なってしまって、何か手助けがしたくてね。」

「恩に着ます、木田さん。」

 綺麗に九十度の角度を成す礼で悟は泰達の形ある温情に応える。

「何改まってるんだよ、悟君。子供は大人を食い物にして大きくなるもんだよ。」

 悟はこれまでの友人達に対するに比して、泰に対しては恐縮していた。およそ浅からぬ縁があるものであろうか。

「ところで聞いてたより人が多いようだけど?」

「ああ、こっちはついさっき由美が一人連れてきたんです。」

「あの、はじめまして・・・司裕介って言います。」

 この短時間に何度目の自己紹介であったろう、これだけ名乗ったのは小さい頃祖父に連れられた自治会の寄合の場でずっと年上の男女に名乗って以来であろうかと裕介は顧みる。

「ほうほう・・・裕介君か、ちょっと、ちょっといいかい?」

「はい?」

 泰は親指を立てて玄関のドアを指した、外で二人だけで話がしたいという合図をしている。これには裕介は慄いた、今見た顔に二人で話をしようなんて流石に怖すぎる。身じろぎが目に止まったのか、呼び出した当人はあっけらかんに言う。

「大丈夫大丈夫、何も取って食べるなんて言ってるわけでもないし。安心してくれよ。」

「そうそう、この人に限って悪どいこと考えてるわけないから。」

 悟はそう言うが、裕介は泰の何を知っている訳ではないから安心はできない。なのに悟が肩を押して裕介を戸外まで送り届けるものだから泰について行かないわけにもいかない状況となった。

 泰は先導して、小屋の裏手に回った。裕介も後には続くが、いつでも反転できるよう距離を保って進んだ。

「まあ、ここに腰掛けなさい。」

 小屋の裏手には小屋の中のテーブル周りと同じような丸太が何本か立てられ、簡易的な休憩スペースのように誂えられてあった。腰を下ろせば距離も保てなくなるのは必定、とはいえこのまま引き返しても待つのはよくて皆の冷淡な視線と思うと、彼の言うとおりにするしかなさそうというのが裕介の結論だった。かくて裕介は指示された丸太に大人しく腰を下ろす。

「君、さっきうちの食堂に来てたんだって?」

「え、奥さんが料理を運んできた・・・」

「ああ、俺は厨房に張り付きっぱなしだからね、お客さんの顔は殆ど見られないんだ、ごめんよ。そこで顔を合わせていればこんなに怖がられずに済んだのに。」

「い、いえ・・・」

 多分そうではない。一度ちらっと顔を合わせていただけではやはり恐れてなかなか近づこうともしないのは何も変わっていなかったろうと自分を分析する。

 泰の声が少し真面目さを帯びた。

「君、何処かは分からないけど遠い遠い、考えもできないくらい遠い所から悩みを抱えて来たんだろ?」

「ど、どうしてそう思うんですか?」

 当たるか当たらずか、遠いと言われても人の感覚によって距離感は変わるので裕介は真相を口にはせずにいる。宙翔けて来たと言って信じてくれるのかどうか?

「分かるんだよ、駅前で飲食店なんてやってると旅行者も珍しくないけど、君達みたいなのはなんとなくただの旅行者とも違う・・匂いとでも言うのかな?感じるんだよ。」

 君達、という複数形はきっと今までにこの星に降り立った自分と同じ地球人なのかな、と直感した。

「今までにも僕みたいな人が来ていたんですか。」

「ああ、そしてみんな何か一様に悩みを抱えていたようだね、内に篭もる悩みを。」

 そうなんです、と裕介は口外に出したかった。でも口を突いてまで言葉を発せなかった。やはりまだよく知れない人には警戒心を解かれない。

「黙っててもいい、みんなそうだったさ。けどね祐介君。いつまでここにいるのかは分からないけど、彼らとはきっと上手いこと行くよ。そして君に必要な何かをきっと掴める、きっと。」

「どうして、どうして言い切れるんですか?人事なのに。」

「だって、みんなそうだったからさ。みんな最後にはうちの食堂に来てお礼の一言も言って帰っていったから、君もまたうちに来る時を楽しみにしてるよ。」

「は、はあ・・・」

「話は終わった、みんなの所に帰ろう。」

 泰は裕介の両肩を後ろから押して、元の小屋に引き返した。

「あなた、話はもういいの?」

 帰り支度を済ませておいた真理子が夫を気遣った。

「ああ、もう終わったよ。じゃあ俺達はお暇しようかな。」

「ありがとうございました!」

 威勢のいい送り出しの声を背に木田夫妻は街に帰っていった。残されたのは五人と、夫妻の提供してくれた食料と、そして裕介の心に残った彼の言葉だった。


「さあ、まずは新しい仲間の歓迎会から行こうか!」

 悟がまた声を上げた、浩之や由美が賛意を示す。茂は無反応であったが、別に反対するような行動は取らなかった、彼にしてみればこれで賛意を示しているものなのだと悟は言う。

 誰が言うともなく、手際よくテーブルの上に置かれたさっきの重量級の荷物を解き出す。中からわらわらと現れたのは立派な野菜たちと、泰の手による数々の調理済み料理であった。

「やったあ!これだけあれば今すぐパーティーできるじゃん。」

「待ちなさい、まだ早いわよ。」

 窓を見れば日はまだ差し込むような時間帯であった。年頃の男子の胃袋は誰のそれを見渡しても臨戦態勢は整っているようだが、由美の目はそこを制して余りある抑止力を放つ。

「準備することは多いでしょ。悟は薪割ってたでしょ、あの続き。浩之は川まで水!茂は外の準備。はいはいはい、さっさとやる。」

 ぱんぱんと手を叩いて男衆を鼓舞する由美の指図で3人がめいめいに動きだした。ぞろぞろと玄関を出ていき持ち場に向かう所、裕介が取り残された。

「あの、僕は?」

「うーん、君は貧弱だからね。」

「貧弱って・・・」

 女から貧弱などと言われるのは男にとって心外である、男の端くれには違いない裕介もそれは例外ではない。ただ、彼女との身体能力の差は既に味わっているので二の句は出せずにいた。

「貧弱でもまあいいわ、猫の手よりは役に立つでしょ?浩之についてって水汲みを手伝って。よろしくね貧弱クン。」

 由美は、にた~っとした嫌な笑みを裕介に向けた。こっ恥ずかしいながらも、これだけは言っておかないとと、声を大にする。

「貧弱じゃない!せめて裕介って呼んでよ!!」

「ふふん、分かったわよ。じゃあよろしくね祐介。」

 むくれた頬を残しつつ、まあいいかという手合で裕介も戸外へと出て行った。浩之の姿を探し求め、見つけた方へ駆け出していく。

「おおぃ、桜井くん。」

 自らを呼び止める声に振り向いた浩之は足を止めて振り返る、お互いが相手の存在を確認した。

「なんだい、祐介君?」

「うん、僕も桜井くんの手伝いで水を汲みに行けって。」

「ああ、由美に尻叩かれたんだね。」

「えっ、まあ・・・うん。」

「ははっ、恥ずかしがることないよ。オイラ達みーんな同じだからね。あの通りの女だろ?由美には逆らえないんだよ。」

「そうなんだね。あ、バケツ片方持つよ。」

 裕介にもなんとなく理解できた。素直な感情を出すし、口さがない。また一番しっかりしてるようでもあるから。なんといっても男友達三人を相手にしてまるで物怖じしていないのだから、豪胆さは裕介を含めて四人の比ではないのだろう。容姿と根性だけは香に通じるものがある、と裕介には思った。そして二人は小屋から百メートル程にある小川に降りて行く。

「あのくらいまともに喋ってくれたらなあ・・・」

 川にバケツを横たわらせつつ、ぼそりと呟いた発言を浩之は目ざとく拾った。

「おやセンセイ?どなたの事を仰ってますのやら?」

「えっ?あっ!」

 裕介は発声してから自分の発した言葉の意味を解釈した。時々でも香のことを思い出すのは自分でも嫌だった、嫌なのに思い出す自分の思考を好きになれないでいた。

「ううん、なんでもないよ。ただ坂井さんに似た子が近所にいてね。それがすっごい嫌な奴なんだよ。」

「そうなの?」

「そうなんだよ、顔合わせたらつっかかってくるし、悪口ばかり言うし、僕の端から端までああだこうだってつっこんでくるし、ウザいんだよ。」

「ふう~ん。」

 浩之は顔をにやつかせた。なにかにピンときたようだ。

「端から端まで見てくれる女の子がいてくれるんじゃん、そこって素直に嬉しがるところじゃないの?」

「そんなんじゃないからさあ。」

 自分の恋慕の情は美幸に向いていると思い込んでいる所もあるので真っ向から否定する、とはいえ彼女への憧憬が恋慕と呼べるものかなど本人にも分かってはいないままであるが。

「じゃ、行くか。」

「突然だね。」

「当たり前だよ、ここまで何周もするからね。」

「そうなんだ。」

「だから君が来てくれて半分で済む計算になるんだよ、ありがとう。」

「そんな・・・桜井くん。」

 ちょっとうれしくもあり恥ずかしそうに裕介は照れた、「ありがとう」という一語には慣れが少ない。基本的に感謝の言葉には縁遠い人付き合いをしているのだからさもありなん。

「『桜井くん』、は慣れないなあ。浩之って呼んでよ。オイラも裕介って呼ぶからさ。」

「うん、分かったよ浩之・・・君。」

「浩之『君』かぁ・・・まあいいや、じゃあ戻ろう、裕介。」

「うん。」

 浩之は早速帰り道で先刻の感謝の言葉を一部取り消しにしたい衝動に駆られた。自分は平気で上がっていく小屋への坂を裕介は倍の時間をかけゆっくりと上がる有様に少しだけやきもきさせられたのだ。

「ご、ごめん。先に行ってくれていいから。」

「あ、ああ。ゆっくりでいいから零さずに持ってきてよ。」

 浩之は先に上がっていった。裕介が小屋に到着するまでに彼は即席麺を二度は待つ無為の時を与えられた。

「お、お待たせ。」

「おかえり、じゃあこのドラム缶に水を入れてくれる?」

「うん、分かった。」

 小屋の裏、先ほど泰に連れられた所には浩之と茂が待っていた。泰との話の時にはなかったドラム缶が三本立てられてあったのは茂の作業の結果である。肩までバケツを持ち上げてドラム缶の中に中身を吸い込ませる。軽くなったバケツに幸福感を得る裕介だが、現実はすぐに次の作業を用意する。

「さあ、また行こう。茂、ここの後は頼むな。」

 言うが早いか、浩之はもう川に向かって歩き出していた。裕介も折角重力を憎まないようになったバケツを見やり、彼の跡を再度追う。

「い、行ってらっしゃい。」

 茂に送り出されて二人は再度坂を下りてバケツいっぱいに清水を頬張らせる。坂を下りてここまでの速度は同じだが、水を運び坂を上る速度が二人の間で段違いであった。最終的にドラム缶が全て満たされるまでに浩之は裕介の一.五倍以上の往復を為していた。

「ごめんよ、浩之君・・・」

「何を謝ってるんだい?手伝ってくれたんだからこっちがお礼をいうくらいだよ?」

「だってさ、僕は君の半分ほどしか往復してないから全然役に立てなくて。」

 裕介の弁を聞いていた浩之は茂と目を合わせて揃って苦笑した。

「どうしてそういう物の考え方になるのかなあ?いいかい、君が水運びを手伝ってくれなかったら君のこれまで運んだ回数がそのままオイラに上乗せされてたんだよ。」

 裕介と浩之の計算の仕方は出発点からして異なっていた。楽観論と悲観論のいずれかがベースにあるためである。二人の運動量の差も、正確に言えば半分ではなく七割といったところなのに裕介は半分と控えめに言う辺り、いかに悲観論ベースでものを考えているのかが露出する。だが、

「ん?そうか、そうとも言えるのかな?」

「そうだよ。」

 はっと気付いた、なんだか素直に彼の弁を受け入れることができたのだ。基本的に自分の絶対量という物差しだけで事物を測る質なのが裕介の性質だったが、彼我の相対論や相手の絶対量という新たな物差しに気付きだす。自分の尺度と人の尺度、一本の定規が二本となることにより、二本の関連性も含めて幅広い視野を持てるという事に裕介は気付いた。

 裕介の腕の感覚を置いてけぼりにして、三人は小屋へ戻った。そこには既に悟も戻ってきており由美に指図を受けて調理後の洗い物と苦手な格闘を余儀なくされていた。

「力任せは得意なんだけど、こういうのはなあ~。」

「無駄口は叩かないの。それと水は節約ね、浩之達がせっせと汲んできてるんだから。」

「それなら今終わったよ。」

「あらおかえり、今日は早かったね。」

「ああ。裕介が手伝ってくれたからさ。サンキュ。」

 浩之は裕介と、彼をよこした由美の双方に礼を言った。

「裕介もありがとう。」

「いや、そんな。」

 慣れない礼に裕介は照れて下を向いた。悪い気はしない、控えめに言ってそのような心境である。

「僕のほうも、裏は片付けたよ。」

 茂も自己任務の達成を告げた。こうなると残るは薪割りを早く終えたが次の戦いには薪割りほどの楽観視が通じないでいる悟だけになった。

「みんな早いなあ、こっち手伝ってくれよ。」

「皿洗いくらいでぼやかない。みんなはテーブルにお皿を持って行って。」

 見ればキッチン周りには泰の料理とは別に見覚えのない物も存在した。由美の手料理ということであろう。ちなみに先んじて食事にありついている小さい影が付近にあった。

「ああ、その子には由美ちゃん特製スープを作ったから。」

 得てして、自分にちゃん付けした枕詞を付けた物というのはその者が自信を持って勧める逸品であることが多い。今回のそれも多分に漏れない側であった。

「原料と製法は内緒よ、バラしちゃうと君達がこの子の分まで飲んじゃうからね。」

 そっと猫のほうに足を一歩伸ばし、手も伸ばしかけていた浩之は由美の発言と視線でぴたりと行動を止めた。彼らの分かりやすい悪ガキ行動は由美によって逐一掣肘させられる。

 茂のほっとした笑みも自分は一歩遅れててよかった、という風であった。そんな中でも小さい方の新たな仲間は我関せずとスープの満たされた皿を全身全霊を乗せた舌が舐め回していた。ところへ一同はテーブルへと料理を運び乗せ、和洋中と種類に富んだ豪華な食事がテーブル所狭しと並べられ、大なる方も含めた新たな仲間の歓迎会の様相が整った。

「よし、これで準備はできたな。」

「ええ、じゃあ改めて!」

「新しい仲間に、乾杯っ!」

「あ、ありがとう。」

 喜んで迎え入れられたこと、歓迎してもらったこと、パーティまでしてもらえる両手を上げた歓迎ぶりに裕介は不覚にも瞳の感動を感じた。くるりと後ろを向いて腕でさっと顔を一拭きして向き直った時、皆は同じ表情を浮かべていたので彼も安堵して飲めや食べろの大騒ぎに興じられていた、基本的な熱量差は存在したにせよ。


 朝の柔らかな陽が小屋の中に入り込んでくる。いつしか時は移ろい、月の出番は一旦終了して大空は太陽という大俳優が主演を務める舞台がもう始まっていた。昨夜は全員で大騒ぎして、そのまま全員床に突っ伏して寝息を立てていたようだ、月の出番が三割ほど進んだところで昼間の疲労が睡魔を新装開店の遊戯施設が行う客引きのような必死さで招き入れたような記憶はぼんやりあったがそこからはまるで覚えていない、およそその時点で『寝落ち』したのだろう、と裕介の寝ぼけ眼は推察した。

 意識を取り戻し、視界を開くことに成功した裕介は、眼前の景色に心臓をえぐられるような衝撃を覚えた。由美も自分と同じくして床に伏しており、且つまだ寝息を立てている、そのような状態に彼の血管は寝起きの状態で全力運転を強いられた。

(な、なんで?)

 言葉に乗せたか乗せないかのようなレベルで裕介は独語する。そういえば確か昨夜は由美が隣の椅子にいた・・・筈だが、そのまま彼女も睡魔の誘惑に一切の身を委ねた、ということであろうか。とにもかくにも現実はすややかな女子の寝顔が自分の眼前に横たわっているということだ。しかも・・・

(よく見ると、可愛いんだな。)

 香に瓜二つの彼女、由美は彼の価値基準では可愛かった。等式を用いることによって香も可愛いと思っている、むしろ裕介は今、由美の顔をして香を思って可愛いと表現していた。いつも顔を合わせれば喧嘩して、ろくに容姿の判断もしていなかった、ためにここは天佑の機会であった。対象に穴が開かんばかりに彼女を観察する、目は開いていないが短髪のよく似合う目鼻立ちで寝顔故の無垢さが伝わってくる。どんなに凶暴でも寝顔にそれは現れないらしい、もっともここに在る由美は凶暴という表現は似合わない快活性を有する女性であるが。

 まじまじと、異性の好意を持てる顔を見ているといよいよ気持ちが高ぶってくる。彼は徐々に、また静々と、顔を由美の顔へと持っていくように動作を開始していた。興奮する中を静かに動作するという難題を亀の歩みで回答し、視界の中に彼女の顔が占領地を増やしていく。

 あと二十センチ・・・

 あと十センチ・・・

 あと五センチ・・・

「うう・・・ん。」

 裕介の願いが天に届くか悪魔が叶えるかにあと正しく目と鼻の距離を残すところで由美に変化が訪れた。彼には悲しいかな、彼女が大胆な睡眠からの解放なったのだ。

「あれ、わたし寝ちゃてたんだ。」

 起き上がった彼女が辺りを見回すと、男衆は誰しもがいまだ怠惰な睡眠を貪り食っている最中だった。隣には向こうを向いて寝静まってる裕介もいる、彼は由美が目覚める直前に体を返して難を逃れることに辛くも成功していた。由美に代わって茂の足が視線の先にはあった、一分前とは大違いの光景を見つつ、成し得なかった残念な気持ちと、自分の行った大それた行動を戒めたい気持ちと、喧嘩ばかりしてる相手の顔にときめいた事への背徳感が一挙に押し寄せてくる複雑な感情に押し流されていた。

「みんなー、朝だよ。起きなさーい。」

 由美の目覚まし代わりの声が小屋内に響き渡る。狸寝入り状態の裕介以外はその声で初めて目覚め、互いに寝落ちの状態を苦笑しあっていた。

 朝というが、太陽は既にかなり高い。悟が時計を見れば、既に9時も回るくらいで普段なら授業も始まっている頃であった。

 取り敢えずは顔を洗って、しゃんと起きてから一同は昨日の騒ぎの跡を片付けてテーブルを囲んで集合した。

「さて、朝礼を始めます。今日は何をしようか?」

 悟の言は朝礼と言いつつもどう遊ぼうかという嬉々とした輝きを放つ目に彩られていた。

「えー、その前にまず重大な発表をします。」

 由美がやおら発言権を求めた、こほんと一つ咳払いをしてから彼女は話しだす。

「はいー、坂井くん。」

 何処ぞの議会を真似た悟が由美の発言に許可を与えた。

「食料がありません。」

「えっ?」

「だって昨日いっぱい木田さんが。」

「その昨日に調子に乗って食べ過ぎたんです!」

「えーっ!残りは?」

「あれだけよ。」

 由美が指差した方向には米袋が三袋と、調理時間がかかるので置いておいた分の木田夫妻から頂戴した食材、およそ昨日見た荷物の三分の一程度になった山だった。想定より一人増えたとはいえ、食べ盛りの子供の胃袋を満たすには泰も計算が及ばなかったのだろうか。どだい一日で食糧問題を起こすというのは食べた本人たちの無計画性が最大の問題である。

「あれだけ?」

「そう、あれだけ。」

「だって、あるから食べただけだよ。用意したのは由美だし。」

「ちょ、ちょっと作りすぎたかもしれないわね。でも置いておけば今日明日は十分にもってたわよ。」

 浩之の指摘に由美も赤面混じりで答えた。

「あっ、裕介にいい所見せようとちょっと調子に乗ったとか?」

「僕?」

 先程の自分の大胆行為から裕介は由美を直視できないでいたが、由美の話題で自分の話が乗ってくることで赤面してしまった。

「なんで二人して赤くなってんのさ?」

「そ、そういうんじゃないわよ。とにかくみんな、朝食が終わったらこれから食べる物の調達に向かってください。いいわね。」

 浩之の指摘からの由美には反論を許しそうになかったが、何より今後の食料がないのだから反対しようにもそれは自らの首を絞めるのと同義なのは理解できる、よってしぶしぶという注釈付きながら反論は起きなかった。

「じゃあ俺は・・・木田さんの知り合いのところまで山を下りて何か分けてもらってこよう。」

 真っ先に表のリーダーである筈の悟が立ち上がった。とかく膂力もあれば行動力も誇るので対外交渉などは彼におんぶにだっこの形である。

「僕は、山の奥に行って食べられる物を探すよ。」

 茂も続いた、三人の中では一番インドア的な面持ちで山の奥に分け入るには難がありそうな雰囲気を裕介は感じたが、自分より彼を知るであろう他の面々に心配の声はなかった。ために裕介も此処は口を噤んだ。

「ならオイラは、川に行ってくるかな。裕介、今日もオイラに付き合ってよ。」

「うん、いいよ。」

 山の中で食料調達と言われても裕介にはアウトドア生活に関する知識すらない。手持ち無沙汰になりかねないところを彼の誘いは渡りに船、すぐに応じた。

「じゃあ決まりね。今ある食料での仕込みと小屋の片付けは」わたしがやっておくからみんよろしくね。」

「じゃあ、解散!朝飯だー!」

 昨日の残り物という名の朝食を食らいつつ、個々に昼食用にと残り物の残り物を包みだす。それを傍観していた裕介も茂に促される。

「ほら祐介君、君も用意しないと昼ごはんなくなっちゃうよ。」

「う、うん。」

 裕介を促しつつも手が詰め込み作業を止めない茂を見倣って裕介も残り物を適当な包みに乗せだした。それなりに詰め込んだところで、およそ全ての皿から食せる物体が姿を消していた、食べ物を残さないのは讃えるべきところだが、この場合は若干の意地汚さも混合されていた。

「いってらっしゃいー。」

 戸口で大きく手を振って送り出す由美に全員が応えつつ、悟が山を下りていき、茂は野道に入り込んでいき、浩之と裕介は小屋にあった木の枝と細糸、それに針金を曲げた釣り針というハンドメイド感の溢れ出す簡素な釣り道具を持って昨日は何度となく往復した川へ下りて行った。

「浩之君、こんなので本当に魚が釣れるの?」

 木刀で魔王に挑むかのような装備の貧弱さに不安を覚えた裕介は道すがら尋ねてみた。

「こんなの?ああこの釣り竿かい?大丈夫大丈夫、見てくれは貧相だけどこれで十分さ。要はこっちだよ、こっち。」

 と、浩之は自分の右腕を叩いてみせた。重要なのは道具より技量だというのだ。その表情は実に明るく自信に満ちており、裕介にも勝算が伝染してくるようである。そして彼らは昨日往復した道を進み、途中で浩之はあらぬ方向の道に舵を切った。

「どこへ行くの?」

「へへっ、こっちに釣れるポイントってのがあるんだよ。」

 浩之の案内で二人は昨日の水汲み位置より更に二百メートルばかり上流にある渓流まで訪れていた。水を組んでいた場所には川原と呼べる川岸があったが、この辺りは岩の間をさらさらと清水が流れて川の上流ぽい様子が顕著に現れている。その澄んだ水の間を縫うようにして何匹もの川魚が泳いでいるのがはっきりと目に映っていた。

「うわ、凄いよ。これなら手づかみでも穫れるんじゃないの?」

「そこまで魚もバカじゃないよ。この方が確実だね。」

 と、浩之は持ってきた竿を用意しだした。その辺の川中の岩に付いている小虫をタオルで岩を撫でることでさっと捕まえて針に取り付ける。さっと竿を振ると綺麗な軌道を描いて針が入水を果たす。一連の流れがあまりに堂に入っていたもので、浩之を見る裕介の目はこの時憧れの目になっていた。

「綺麗に入ったね、いつもやってるの?」

「ああ、子供の頃に父ちゃんに連れられてね。それ以来一番の趣味がこれさ。」

 『好きこそ物の上手なれ』と『継続は力なり』を同時に満たすのが彼なのであろう。そういえば自分も祖父に連れられてから少しは天文学をかじっているので同じようなものなのかとも思えた。ただ裕介はその趣味を他人に披露する場にまだ巡りあえていないのが大きく違っていた。

「僕もやってみるよ。ええと、餌はこの辺りのなのかな?」

 浩之の近辺の岩を見繕い、そこにいる小虫を指差してみた。

「そうそう、ヒラタっていうんだ。タオルみたいなのはある?ああ、あるんだ。それで岩を撫でたら引っ付いてくるよ。」

「うん、分かった。」

 首に掛けていた汗ふき用のタオルを取り外して岩を撫でるとヒラタが何匹か取れた。これを針に付けるのだが、竿を岩の間に挿し置いて浩之が俊敏に手を出してきた。

「やったことないだろ、ヒラタをこう針に刺すんだ、見てて。」

「う、うん。」

 すると浩之はやはり慣れた手つきでヒラタを針に突き刺した。針を指したがヒラタにはまだ息があるようにぴくぴくと動いている。

「こうやって尻の方に針を刺して生きてるように刺すのがポイントなのさ、さあ魚のいそうな辺りに投げ込んでみて。」

「オッケイ。」

 裕介も軌道を描いて針を水中に落とした。浩之のように綺麗な弧を描いたわけではないが、狙い通りのポイントに着水した。浩之も竿を再度手に持ち治す直す。

「初めて?いい感じだよ。」

「そうかな?えへっ、実は釣り竿を握るのも初めてなんだけどね。」

「そうなんだ、まあここまでの筋はいいけど問題はここからさ。いかに釣れるか、釣りの成果はそれが全てだからね。おっ!」

 功徳の不明な説法をしている間に浩之に当たりが来た。くっと軽く竿を持ち上げると早速彼の針には生きのいい魚がかかっていた。

「うわっ、もう釣れたんだ。凄いや、浩之君。」

「へへっ、まだまだ序の口だよ。で・・・こいつはなんて魚か知ってるかい?」

「ううん。教えてよ。」

 釣り竿も満足に振れていなかったので裕介の釣り経験を見切った浩之はここで人に自分のよく知る物を教えたい欲に駆られた。

「オホン、これはイワナだね。基本肉食だからヒラタなんかによく引っかかるんだ。塩焼きや唐揚げにしたら旨いよ~。後、大人達は骨を焦がしてお酒に漬けて飲んでるんだけど、あれは不味いね。口から火を吐くかと思ったよ。」

「飲んだんだ・・・」

 生真面目で『お酒は二十歳から』という原則に縛られ、勿論酒類の摂取など未経験の裕介には浩之の行為が想像に難かった。そしてまだ若干十四の浩之には骨酒はおろかただの熱燗の味すら理解できるほどの味覚の成長には更なる時を必要としていた。

「お、裕介。君の竿!」

「あ、引いてる、引いてる!」

 裕介の人生初の『アタリ』がやって来た。すうっと竿を持ち上げると、彼の針にもイワナがかかっていた。

「やった!やったよ、浩之君。」

「やったじゃん、初心者なんだよね。いきなりこんな早く釣り上げるなんてラッキーだよ。」

「うん、ついてるね。ついてる!」

 初成果にテンションの高まりを抑えきれない裕介と彼を見る浩之は暫し喜びの舞を舞っていた。横に由美でもいたら冷たい視線を投げかけられ、一気に羞恥心の谷底の深淵部にまで転げ落ちていたことだろう。そんな他人の視線など気にするものもなく一通り舞きった所で我へと帰り、彼らは次の弾丸を針へと装填していた。なにせ自分達は5人いるのだ、最低でもあと三匹は確保しないと話にならない。彼らの戦いは今始まったばかりだ。

 しかしてこれがまた、今日は大当たりで針を落とせば面白いようにイワナが食いついてきた。浩之が釣れれば彼が次の餌を用意している間に裕介の竿が引かれ、裕介が竿を上げれば浩之にアタリが来ると、仕舞に面白みも枯渇するような位に入れ食いしていく。が面白みが枯渇する前に持ってきたバケツの容積が枯渇してしまった。文字通り入りきらないくらいの漁獲量を上げたのだ。

「ああ、こりゃあちょっと釣り過ぎたかな・・・」

「持って帰る内に飛び跳ねて落ちそうだね。」

 一仕事終えた二人の目には、まさかと思える位に満々とバケツを満たす川魚の群れが、満員電車で必死になって自分の場所を確保したいかのように狭く狭く泳いでいた。

「裕介も入れ食いしたしな。こりゃラッキーってわけじゃない。裕介、素質あるんだよ。」

「僕に、釣りの素質・・・?」

 考えたこともなかった、むしろ釣りなどする機会すら伺わずに自分の関心が向かない無縁の物という印象がさっきまで蔓延っていたのに目の前の結果とそこへの賞賛が彼の思考に一定のベクトルを加える。何事もやってみるものなのだなあ、との精神が心を満たす。

「じゃあ折角だ、もう昼も過ぎてる頃だろうから昼飯にしようか。もちろんコレで。」

 と、バケツから徐ろに魚を1匹つかみ出し裕介に提示した。

「え、ここで?」

「ああ、獲れたての塩焼きは抜群だからな。」

 浩之は今まで以上に嬉々とした表情になる。

「どうやるの、包丁とかいるんでしょ?何も持ってきてないよ。」

「えへへへへ~。」

 浩之が「その言葉、待ってました」と言わんばかりに鞄を弄る。と取り出した布の塊の中から包丁が、更にはライターまで出してくるではないか。

「包丁ならまだ分かるとしてライターまで、用意良すぎだよ。」

「あははははっ、こんな事もあろうかと親父のを拝借してきといたんだ。」

 裕介は彼の用意のよさ、むしろどのみち釣ったその場で即座に食そうと考えていた上での一連の行動に舌を巻いた。

「それじゃ、あの岩がいいかな。あそこの上に、その辺りの落ち葉や枝を積んでくれる?」

「う、うん。分かった。」

 川岸でも特に大きめで平らという、おあつらえ向きの岩の上に彼らは天然の可燃物を敷き詰め、火を起こした。自然物だけで火を起こす作業はなかなか大変と浩之は実体験で苦労したらしいのでこのライター持参という用意の良さは大変助かり、何の苦労もなく燃料に火が入った。そして浩之は起きた火に包丁を翳し滅菌したところで成果物の腹に包丁を当て臓物を引き抜くと、すぐさま口からやはり現地調達した竹の串を手際よく通して串刺し状にする。裕介は串を受け取っては火の周りに準備した石と土の堤防の隙間に差し込み、浩之に指図され魚が遠火に当たるよう堤防を修正する。

「おっと、肝心なのを忘れてた。」

 更に浩之が鞄をまさぐり取り出した白い粉を魚達にまぶしかけた。

「へへ、塩を忘れちゃ話になんないよな。」

「危ない、塩焼きだと言われたのに僕もそんなの忘れてたよ。」

 既の所で味気ない無味焼き魚となるを回避した魚が数匹、焚き火の煙に燻され焼き上がるを二人の少年はじっくり待って、もいられず。二人して鞄をまさぐり、朝に詰めた昼食を取り出した。残り物は残り物だが旨さは昨夜に体験済である。更に朝の出発直前に由美が亜光速で握り全員に一つずつ持たせてくれた塩むすびもあったので、けっこうなラインナップと言えよう。

「「いただきまーす。」」

 魚が焼けるのも待ちきれずに二人は食べる口を動かした。まず塩むすびを大きく一口がぶり。

「お、美味しいー。なんだこのおにぎり?」

 ただの塩むすびである、生産者本人がそう言って持たせてくれたのでまず間違いはないはずだが、ただの塩むすびにしては旨い、旨すぎたのだ。

「へー、それは愛だろ、愛。」

「えっ?・・・えっ、えっっ、ええっ??」

 浩之の言葉を途中で理解できた裕介は急転して頬を紅潮させ、慌てふためく。

「何言ってんのさ浩之君。僕らって昨日今日会ったばかりだから、愛とか愛って、何だよそれ?だよ。」

「あははははははははははははっ。じょ、冗談なのに、美味しい理由はちゃんとあるのに、もう最っ高。あっははははははははは!」

 裕介の反応を見た浩之は腹の底から今日一の大笑いを放出した。

「どうしてそんなに笑うんだよ。」

「だって、だってさ、反応が面白くてしかも予想通りで可笑しくってさ。」

 腹は抱え目からうっすら涙を覗かせるくらいに本気の大笑いが浩之を包み込んだ。こうなると人は暫く笑い袋なるものを有した小賢しい悪魔に身を委ねざるを得なくなる。

「はは、は、はあはあ・・・ああ、落ち着いたよ。」

 ようやく腹の顔踊りが落ち着いて川の水をぐいぐいと飲んで落ち着いた浩之は裕介を見つめる。見つめるとはいってもその目は真摯や真剣という類の眼差しとは縁遠い、愉快さに満ちた視線である。

「落ち着いたの?」

「ああ、でさあ裕介。君、今朝、由美にキスしようとしてただろ?」

「えっ!?」

「起きたらテーブルの向こう側で君が変な動きをしてるのが見えたんだ。で、由美が目を覚ましたら急いで反転してさ、あの時はさすがに笑うに笑えなかったから、我慢するのが大変だったよ。」

 何を言うかと思えば、今朝の過ち、過ちと言うには可愛いというか、そもそも未遂なのだから過ちには当たらない、などと脳裏に浮かぶ語彙力を逐一反芻して二の句を告げようとするのだが、こんな時どういった言葉を吐けばいいのか全く正解に辿りつけず、口は脳からの反応を思いの外長時間待たされる羽目になった。

「あ、あ、ああ、あああ、あ、あああ・・・」

 小脳から本能的に、動揺を隠し切れないでいる声だけが口から放たれ、頬どころか耳まで今が紅葉の見頃とばかりに咲き誇っている。その分かりやすすぎる様を見ていると浩之はまた笑い神の囁きに耳を傾けかねない、ところを尻をつねって必死に己を保っていた。

「本当ーに分かりやすいんだな、君は。」

「え、違う、違うんだよ!」

「いいからいいから、この事は黙っておくって。人間誰でも一回や二回の間違いはあるって。後の二人は寝起き悪いから気付いてないしね、多分。」

「多分って・・・いや、そうじゃなくて、間違いとかでもなくって、ホントに違うんだよ!」

 力を入れて否定はしようものの、見られた事実は動かしようがない。事実の前に詭弁はいつだって説得力を持ち得ないでいる。

「しっかし物好きだなー。あんな男女の仕切り屋の何処がいいんだ?」

「いや、何がいいも悪いもじゃなくてさ・・・だって、あ、そうだ。君達だって坂井さんと一緒に家出してるんだから、あの子の事好きなんじゃないの?」

 とっさに思いついたがなかなかいい反撃になるかと自画自賛の反論を裕介は放つ。

「あ、それはないから。」

 浩之の反応はにべもなかった。

「あいつとはみんな長い付き合いだからね、ほっとけなかっただけさ。それは好きとか惚れてるとかってレベルじゃないよ。」

「どういう事?」

「おっと、そんな事よりイワナ焼けたぽいじゃん。さあさあ食べよう食べよう。」

 有耶無耶にされた感はあるが、食べる前から旨いと何度も言われ続けられた塩焼きを前にして、圧倒的劣勢の立場に置かれていた裕介は矛を収めた。所詮は色気より食い気の年頃か。

「じゃ、じゃあいただきます。」

「オイラもー、いただきます。」

 焼き魚に同時にかぶりついた二人は、同時に恍惚の表情を醸し出す。正に絶品であった、野性味溢れる環境で物を食すバーベキューの効果もあったのかもしれないが、今そこ、目の前で泳いでいた新鮮そのものの魚を塩だけで食す、それだけの事なのに舌鼓をロックバンドのドラムと間違うように乱打する様は信じがたいものがあった。

「おっいしいー!なんなのこれ?」

「イワナだよ。」

 そういうことを言ってるんじゃない、とか平時なら言っていたのだろうが今の裕介の大脳は味覚の支配率が大幅に高かった。ともすれば浩之の発言など耳に入っていなかったかもしれないし、先刻の接吻未遂事変など既に忘却の土俵際に追いやられている。

「これがこの川の恵みさ。塩だけでここまで美味しいなんてなかなかないよ。」

「ふむ、ほうはね。」

 口の中いっぱいに白身を頬張りまるで何を言っているのか分からない。浩之もここは呆れて、彼の咀嚼が一旦完了するまで自分の食を進めた。

「ああー、美味しい。あ、そうだ。美味しいで思い出したけど、この塩むすびはどうして美味しいのか聞いてなかったね。」

「あ、忘れてた。そんなことも言ったっけ。」

 浩之としては当然且つ既知の事項であったためにすっかり忘却の果てであった。

「じゃあ種明かし。おにぎり握ってくれた由美ってば、実は割烹屋の一人娘で小さい頃から和食を仕込まれまくってるからただのおにぎりも美味しいんだよ。オイラ達には分からない何かを入れてるのかコツでもあるんだろうね。」

 蛇の道は蛇ということであろうか。余人には計り知れない何か一手間が加えられると塩むすびが何かの星を取ってもおかしくない味に昇華してしまう。

「そうなんだ。あ、だからあの子猫のスープも取らないようにって言われたんだ。」

「分かってんじゃん。まあ一口だけでも頂きたかったんだけどねぇ。」

「駄目だよ、子猫の分なんだから。」

「わかってる、わかってるって。冗談冗談。」

 あまり冗談にも聞こえ切らない表現に裕介は軽い疑いの眼差しを向ける。浩之は視線を消し去るために、彼の気を引きそうな由美の身の上話を継続した。

「で、あそこの親父さんが頑固!を絵に描いたような人でさ、一子相伝だ!誰にも教えるんじゃないぞ!って怖い顔でキツーく言われてるって言ってたなあ。あんな由美も親父さんには真っ向から逆らえなくてね。」

「そりゃあ怖いんだろうなあ。」

 本人がいないからといって人の家庭や親のことを好き勝手に想像で固める二人を当人が見ていたら雷の一発や二発は当然の結果であったろう。

「で、ついこないだなんだけど、そんな怖い親父に我慢できなくって家出って手に逃げたんだと。」

「あれ?昨日原っぱで子猫を抱いて、母さんに飼っていいか聞いてたって言ってたけど?」

「ん・・・?あれだよ、母ちゃんとは別居してるんだってさ。複雑な家庭事情らしいよ、オイラもそのくらいまでしか分かんないけど。」

「そうなんだ・・・」

 美味しいおにぎりの理由という当初の目的は果たしたので、立ち入った話は聞くのを止めた。

「まあそんなこんなだから、オイラ達三人はあいつがほっとけなくってね。その辺も集団家出の理由になってるんだよ。まあオイラも息の詰まりそうな風習に不満はあったんだだけど家出まで考えるほどじゃあなくってね。由美に比べればうちは普通の家庭で家の中に問題ってのはないもんだから。」

「みんな、優しいね。」

「よ、よせよー。そんな柄じゃないって」

 今度は浩之が赤面した、互いにあまり褒められる事に慣れていないのだ。

 思えば自分も家出息子だが一家は一応一つ屋根の下に暮らす位には家庭環境を維持している。それだけでも恵まれてる方なのかと思えるようになってきた。ともすれば自分が世界で一番不幸な存在などと身勝手な嘆きは理論的に考えればまずあり得ないのだから。

「自分の釣ったのをすぐ食べるって、凄いご馳走だね。」

 重くなった空気をやんわりと方向転換するような話術に持ち合わせのない裕介は強引に話題を戻した。

「ああ、裕介も分かるじゃん。そうだよ、ご馳走だよ。堪らないよなー。」

 自分の成果もあって極上の野生料理を食める幸せを裕介は魚と一緒に噛みしめる、これは至上の調味料であった。途中硬軟入り混じった積もる話になった部分もあったが、結局美食を腹一杯に満たしたことで裕介も浩之も晴れた顔で戦果を意気揚々と掲げて我らの城へと凱旋したのだった。

 勿論、バケツ一杯になる戦利品は大いに喜ばれ、全員の腹を満足させていた。


 明くる日、昨日ならまだ寝ていた時間に裕介は悟と共に山を下る道を歩んでいた。何故こうなったかというのは、昨日の夕刻に全員が帰ってきた際まで遡る。

 手に手を戦果を見せつけ合う浩之達と茂の元へ最も遅い帰宅を果たした。手持ちが何もなかったのを不自然に見る向きもあったが、彼らは快く出迎えた。

「おかえり、悟。どうだった?」

「悟のことだし、持ちきれないくらい抱え込んできたんじゃないの?」

 などという明るい迎えの言葉を耳にも入れないで彼は両手を地に着けて伏した。

「ごめん!何ももらえなかたったんだ。」

 額も地に着けてあまりに申し訳なさそうにする悟の姿を見て裕介がどん引きする。むしろ彼の引き具合を見かねた浩之と茂が立ち上がって彼の腕を引っ張り起き上げた。

「落ち着けよ悟。裕介の顔見てみろって、何だこいつ?って目になってるじゃん。」

「そうそう、君はいつもオーバーすぎるんだよ。」

 二人の慣れた感じに戸惑いつつ、裕介は由美の耳にそっと呟いた。

「悟君って、いつもあんな感じなの?」

「うん、人に謝る時とお礼をいう時は大抵あんな感じよ。」

 由美もしれっと答えた、裕介以外の誰一人として帰還即土下座のコンボに動揺の色を持った者はおらず、これが常とは言わずとも彼らにとっては日常のワンシーン級の話でしかないらしい。

「裕介、びっくりした?まあ慣れて、としか言いようがないかな。」

「う、うん・・・」

「大丈夫だよ、僕も山から色々持って帰ってきたし、浩之が大漁だったから今夜はイワナ尽くしだよ。」

「うん、美味しかったよ。」

「あれ?裕介もう食べたの?」

「あ、ああ、あれ?」

 もしかして不味いこと言ってしまったかと、先に立たない後悔が裕介を襲った。助けを求めようと浩之を見ると、彼は意図的に裕介とのアイコンタクトを謝絶するように明後日の方向を向いていた。

「そっか、つまみ食いかぁ・・・仕方ないわね、罰はちゃんと受けてもらわないと。」

 意味ありげな由美の言葉が裕介の心に秋風を吹き抜けさせた。

「そうだな。」

「うん。」

 悟の支えを取りやめた浩之と茂が、その悟を従える形でにじり寄ってくる。一歩、また一歩と歩を進めて来る謎の集団に対して孤立の彼は半歩ほど後ずさりする形をとったが、すぐに由美が肩を抑え、逃げる体制を崩され彼らの毒牙に全身を晒す格好となった。

「諦めなさい、やったことにはそれ相応の報いがあるものなのよ。」

「な、何の話なんだよ?僕はただイワナ食べただけだよっ。」

「おっ白状した、俺たちの間でつまみ食いはご法度なんだよ。」

「そういうこと。知らないことと言っても刑には服してもらうよ。」

「け、刑って?」

「こういうこと、さあやっちゃえ!」

「おーっ!」

 悟の合図で浩之と茂が裕介に跳びかかり、首だの脇だのをくすぐり出した。後ろからも由美が背中から体をまさぐり三人の六本の手が裕介の各所に指を這わせて笑わせる。

「あっはははははははははは!何、これ、ははははは、止めてよ、ああああっはは。」

「駄目だよ、僕らの間でつまみ食いはこうやってくすぐりの刑に処せられるんだ。」

「そんなっ、ちょっ、ははは、駄目、もうダメ、あっははは、あはははははっ!!」

 悟の合図で三人の腕が止まり、限界の執着点を迎えるにあと0.0一センチといったところの裕介はその場で倒れこんだ。痛みを伴わないながらこの刑罰は見た目以上に被告に対してのダメージが大きい。裕介は涙も目が厭わないくらいに流れ落ち息も絶え絶えで手足に力を入れられず立つこともできなかった。

「さて、と。」

 一言発して、悟が浩之の両肩にがしっと手を置いた。くるりと反転させて彼の正面を由美と茂に向けた時、彼らが裕介に向けていた獲物を狙う獣の視線は自分に向いていたことを浩之は瞬間的に悟った。

「えっ?何、何何?」

「とぼけちゃいかんよ真犯人さん。裕介が一人でつまみ食いするわけない、誰かの巻き添えに決まってるだろ。」

「ええ、そして今日彼を連れ回していたのはどちら様だったかしら?」

 由美の怖い笑みが浩之に向けられた。浩之は抗弁することもできずに先程は自らも手を貸していた攻められる手が今己が身体に向かっているのだ、後悔の念は激しかった。

「や、やめてくれー!」

 その夜、二つ目の生ける屍が床に転がった。薄れる意識の中で、罰と言いながらもふざけあっているこの者達の仲の良さを再認識していた。


 などと子供じみた刑罰が行われた後で、悟から本日の手ぶらという成果についての説明があった。

「、ということでさ。俺が着いた頃にはもう今日の分の収穫は終わって全部市場に持って行ったってことだったんだ。」

「うーん、それなら仕方ないな。土下座なんてする必要なかったんじゃないかい。」

「いやー、俺一応リーダーだしね。リーダーが手ぶらってそれは申し訳ないじゃん。」

「だからって程があるよ。いつもの事とはいっても、裕介君の引いた目も見たでしょ?」

 茂が裕介のほうを指して悟に反省を説いた。昨日今日会ったばかりの人間が目の前で土下座とは、さすがに耐性のある人間の方が少なかろう。

「でさあ、明日はいっぱい用意しておくからもう一人二人ほど連れて来いって言ってくれたんだ。」

「なんだ、そういう事か。ますます謝る必要なんてなかったんじゃない。」

「そ、そうかなあ?」

「そう!」

 浩之や由美の強い押しに悟も屈した、リーダーを自称する割には実に腰が弱かった。

「う、うう・・・とにかく明日また行ってくるからもう一人、荷物持ちに来てくれるかな?」

 悟が皆の顔をぺろっと軽く舐める程度に見渡した。どうするのが最善かと自分のできる事と荷物持ちを天秤に掛けてより有益な方を選ばんと考える。この時、導き出す解に最も近い位置からスタートできたのは、

「じゃあ、僕、ついて行ってもいいかな?」

裕介であった。彼は川への道と釣りの技量だけはこの地で役立つことはできたがそれも浩之あってのこと、釣りなどは浩之に任せられるのだから自分が荷物持ちになることがグループの最有益になると判定できた。それにもう少し彼らの間の取り決めも学ばないとまた刑罰を受けるのも歓迎すべき事態ではないから。

「そうか?じゃあ裕介に来てもらおうかな。人数もいないことだし、明日の朝一で行ってくるよ。じゃあメシにしようぜ。」

「はいはい、ちょっと待ってね、今から作るから。」

「えーっ!」

 悟の帰還から思わぬ長考が入ったため、食事はその煽りを食ってしまった。作る者をも長考の参加を強いられたのだからさもありなん。だがそこまで考えた上で発言しなかった少年達は調理担当の『誰が作ると思ってんのよ!』という正論の雷をまともに浴び、食事が更に遅れることとなった。


 そして翌朝、昨日よりずっと早い時間に出発した悟は裕介を連れ、悟は昨日も往復した、裕介は二日前に上ってきた山道を下山して行っていた。昨日は計算の上で気楽に荷物持ちを志願したのだが、行き帰りの険しい、十四の少年にとっては険しい山道の存在までは計算の内に入れていなかった。しかも未だ未経験の下りの道である。一昨日の道と真逆に見えるためにほぼ初見の景色、また上る時とはまた違う筋肉の使い所を求められる動作に裕介は悪戦苦闘する。同じ十四であるという悟はといえば、由美が上ったのと同じように険路を険路とも思わぬ機敏さで山をすいすい下りて行っては百メートル毎に裕介を待ちわびる余裕を見せる。

 この星の人間は人間に見えて中身は超人か何かなのかと思わせられる体力差である。運動に関して自信があるわけではないがまた自信がないわけでもない裕介は自信の無さの方に芽生えつつあった。

「だらしないぞ、裕介。帰りは重い荷物を持っての山上りなんだからここでへこたれてるんじゃないぞ。」

「あ、う、うん。」

 帰りのことはまた帰りに考えるしかなく、今は悟に食らいついて山を下るので精一杯であった。お陰でろくな会話も交わせない内に、木田夫妻の知人という老夫婦が農家を営む家の玄関までやって来た。山を下りた側に建つ此処はやはり人気は少なげで視界の中に人は見えないが、他人の目がないとは言い切れない。

「あの、ここの人とは口を聞いてもいいの?」

「ああ、外じゃあ誰かに聞こえるとまずいけど、家の中なら大丈夫さ。」

 裕介は頷く、誰と話していいかの確認が必要などとは本当に息が詰まる。彼に従って玄関前に立ち、悟が戸を叩いて中の住人を呼び出すと、叩く音に反応して足音が聞こえてきた。やがて引戸を開けて手招きするのは背筋もしっかり伸び体つきも立派な部類の太さを見せる老人であった。

 招き入れる手に応じて家の中まで二人が入ってきたところで老人は口を開けた。

「やあ、今日もよう来なすった。しかも早いねえ。」

「はい、昨日みたいに全部持って行かれてたら一大事ですから、今日は早く、ちゃんと人手も連れて来ましたから。」

「おや、昨日言わんかったかいのう・・・君らの分はちゃんと残しておくからゆっくり来いと。」

「あれ、そうでしたっけ?」

「全く、おっちょこちょいじゃのう。」

 老人は孫を見るかの目で悟に笑いかけた。二人の様が自分と祖父の姿に重なり合って裕介は亡き祖父を思い出し、少しセンチメンタルな気分になる。

「まあ上がりなさい。今君らの取り分を奥で分けとるとこじゃ、悟君と、あれ?知らん顔じゃな。」

「はじめまして・・・裕介っていいます。」

「新しい友達かの?」

「はい、こないだ友達になりました。」

「おやおや、こないだなったばかりの友達も引き込んでの家出騒ぎとはいよいよ悟君も悪くなったもんじゃな。」

「えへへ、いいんですよ。」

 悟の立場で何に対していいのか理解に苦しむが、反論に足る言葉も無いので裕介は黙っていた。

「じゃあ悟君と裕介君よ、お上がりなさい。」

「はい、失礼します。」

「お邪魔します。」

 廊下をてくてくと歩く悟を見て、年上に礼儀がなっててはきはきと喋る、できた人間だと認識をした。特に年上や目上の人間に対しては、人の目を見ずに声も小さく話すことの多い裕介にとっては羨ましく思える対人能力である。ドジは多いしぽくない自称リーダーという印象を受けていたが、人との対話はきちんと行えるという、まとめ役に必要な素養は持ち合わせているのだ。

「母さん、悟君が来たよ。」

「あらあらいらっしゃい。今日は早かったんだね。それと、そちらは新しいお友達かい?」

 母さんと呼ばれた、老人の配偶者であることは疑う余地のない老婆が、老人と同じ表現を少年達に告げた。

「おはようございます。こっちは裕介って言います。僕の新しい友達です。」

「まあまあ、友達になった途端に家出に巻き込むなんてとんだ悪ガキに育っちゃったねえ。」

 語彙が違うだけで同じ表現を続けるとは、長年連れ添った夫婦は思考も似てくるものなのだろうか。所詮悪ガキと評される世代の少年達には理解が及ぶところでもなく、ただ同じことを聞かれたことに対しての笑いだけが彼らの赤心を物語っていた。

「さあ、分け終わったよ。これが悟君等にあげる分さ。」

 老婆が指した先には背負籠に満杯、色とりどりに詰め込まれた野菜が置かれていた。

「い、いいんですか、こんなに?」

 声を上げたのは裕介だ、知人の知人か何か知らないが、気前が良すぎるのではと老夫婦の人の良さを心配した。

「いいんだよいいんだよ、ほらよく見てみい。茎が折れ曲がってたり大根が途中で折れとったりしとるじゃろ。こんな傷物は市場にも出せんし二人で食べるにもこの量じゃろ。畑の肥やしにでもするしかないんじゃ、だから貰ってくれれば儂等も野菜も嬉しいってもんなんじゃよ。」

 言われてみれば裕介もスーパーや八百屋ではまともに大根なら大根、玉葱なら玉葱とサイズの大小はあれども、どれも同じように立派に見える見てくれの野菜のみが並んでいる様子しか見たことがなかった。

「勿論食べるには何の問題もありゃせん、形に囚われるのも悪くないがなんとももったいない話じゃろ。」

「ええ・・・」

 裕介は心の中で反省した。選抜と選別を潜り抜けて店先に並んだ選ばれし民、いや選ばれし野菜でありながら母の用意した皿で肉類はほぼ平らげるのに野菜は付け合せ、二軍のような扱いで適当に食べて後は生ゴミ行きにしている日頃の自分を思ったのだ。

「ありがとうございます、野菜のためにも全部大事に食べさせてもらいます。」

 はっきりした声で悟が老夫婦に礼を述べた。立ちっぱなしだったこともあり、二日前に木田夫妻に示したような腰がきっかり九十度曲がる礼をした。裕介も急いで礼を追うが、彼の角度はせいぜいその半分であった。

「まあまあ、悟君はいつも丁寧だねえ。ありがとう。」

 老婆の言葉に裕介も角度をやや深めた。

「よしっ、裕介はそっちの籠を頼むな。こんなに沢山、みんな目を丸くするぜ。じゃあ帰ります、おじさん、おばさん、ありがとうございます。」

「ああ、足りなくなったらまたおいで。また用意させてもらうからの。」

「じゃあ遠慮無くまたきます。」

「はっはっは、子供はその位がめつい方が子供らしくていいわ。うちの旨い野菜をどんと食べて大きくなれよ。」

 山と盛られた籠を背負って、二人は元来た道を引き返した。水々しい野菜が籠一杯に詰め込まれているので質量はそれなりのはずだがリュックが入れた物の割に軽く感じるように背負い籠も見た目ほどの重量感を感じない、よくできたものである。

 いよいよ山中に潜り人の姿も見えず、もう大丈夫だろうという所で裕介は口を開いた。

「木田さんにしても今のおじいちゃんおばあちゃんにしても、みんな家出なのに理解してくれてるね。何故だろ?」

 普通なら家出など止めさせるか、然るべき機関に通報されるのがオチなのが裕介の社会での通例である、この四人の物分りの良さには合点がいかなかった。

「ああ、みんな理解があっていいだろ。」

「そうじゃなくって、信じちゃっていいの?」

「ああ、大丈夫だよ。木田さんが元々、山菜採りで山の中に入ってた時に家出準備であの小屋にいた俺達を見つけて話を聞いてくれたことから始まったんだ。」

「そうなんだ。」

「で、あの人も昔似たことをやったって言ってたんだ。それで『できることがあれば何でも言ってくれ』って、俺達に言ってくれてから色々と助けてくれてさ。」

「へえ・・・」

 小屋に来て早々、自分を引っ張って話をしてくれたことといい、首を突っ込みたがる性分は間違いないが、当時の話を蘇らせて悟の話と結合させると、りっぱなで頼れる兄貴像が浮かび上がってくる。

「そんな人達だから、悟君はあんなに深いお辞儀をしてるの?」

「ん?ああ、別に。俺は誰にでもお礼をするときはああしてるよ。」

「そうなんだ、礼儀正しいけどやりすぎとか言われない?ほら、昨日みんなに土下座までしたりとか。」

「言われることは・・・たまにあるかなあ。でもいいじゃないか。頭下げるべき時に下げる、今だって大事に育てた野菜を分けてもらったんだからあのくらいは当然だろ。何よりこの方が相手によく伝わるからさ、やったのに伝わらないよりよっぽどいいじゃんか。」

 やったのに相手はやったと理解してくれない、そんな事は裕介にも背負ってる籠でも溢れるくらいに覚えがある。確かにその全てはコッソリし過ぎ、声が小さ過ぎという自分の控えめ過ぎる態度が原因の一端である事は否めない。その割には『自分はやった』という強い拘りが自分の主体性原因を認めたがらない。

「俺はな、自分のしたことで人が喜んでくれるのが大好きなんだよ。」

「・・・もし、それで自分のしたことで人が悲しんだら?」

「それこそ謝るよ。その時はお詫びの礼をするまで、さっきのお礼の礼とはまた違うけどな。」

 眼前の同級生はどうか、自分のような考え方とは無縁の態度を習得している。あまつさえ相手に届いていなければ自らが謝罪の用意も厭わないことは明白。

 両極端と言えなくもないが、どちらのほうが気分よく人と接することができるかは、自らの過去の行いを省みても裕介には明白であった。

「俺はもう将来決めてるからさ、この位の心意気でないとあいつも安心できないだろうし。」

「あいつ?」

「あっ。」

 この帰り道、初めて悟がまずいな、という顔をした。やたらと周囲を見渡し人の有無を探索し、気配すら全くない事を確認した上でさっきまでとは全く違った真剣な表情で裕介に対した。

「んん・・・まあ裕介ならいいか。あのな、これから俺がする話は山小屋のあいつらにも絶対、絶対、絶ーっ対に内緒にしてくれよ。なら話す。」

「あ、ああ・・うん、言わない。」

 無理なら聞く気はなかった、だが悟の真剣な表情を見ると無下にあしらうこともできず彼の言いたいようにさせる道を取った。

「あのな・・・あっ!」

 言いかける所で悟は赤面してうつむいた。第三者が見れば裕介が取るような行動を、と思われるところだったが幸い第三者はここに存在しない、ばかりか第二者にしても自分みたいだという意識は、自分がそのような行動を取っている場合があるという自覚がなかったのであった。

 百八十度反対を向いて深呼吸し、落ち着きを取り戻した悟は再度裕介に向き直り、今度こその決意で話を切り出した。

「あのな・・・俺、実は、将来由美と結婚するんだ。」

「え?」

 唐突な話に裕介の理解がついて行かれなかった。結婚、ろくに意識した事もない言葉が同い年から発せられたことから順序良く理解し積んでいこうとしたが、積み木が理解の線状に達する前に悟が次の句を告げてくる。

「か、勘違いするなよ!まだ誰にも、由美にも言ってない、俺の、俺のただの希望なんだからな。」

「希望?」

 理解のラインが急に下がったようで、どうも小学生の女子が将来誰々のお嫁さんになるの!と夢を語るのと同列の種類に思えてきた、その途端軽く吹き出すものが出た。

「あ、笑ったな、笑ったな!」

「ご、ごめん。」

「いいか、誰にも言ってないけど俺は本気なんだ。あいつの家は親父とお袋が別居しててよ、」

「ああ、それは昨日浩之君も言ってた。」

「何、浩之が?も、もしかしてあいつも由美が!?」

「い、いや、そんなことないとも言ってたから。」

 思わず裕介の胸ぐらを両手で掴み真相を問い質す悟の力の入れように、改めて彼の本気を感じた。

「そ、そうか。乱暴してごめんよ。ついカッとなっちまった。」

 すぐさま理性を取り戻した悟はすっと彼の胸ぐらから手を離した。

「いいよ、大丈夫だから。」

 ここは土下座じゃないんだ、と言いたげになった小さな邪心を裕介は押し留めた。

「それで、あいつはいつもあんな強がってるけど内心は結構傷ついてるんだ、と俺は思う、思ってる。」

 真剣なのに多分に自分の想像による補正が入っているのが滑稽だが、今度は胸ぐらを掴まれるだけでは済みそうにないと思う裕介には黙って彼の演説の唯一の聴衆たるを選ばざるを得なかった。

「だから誰かがあいつを支えてやらないといけないんだ、それは俺だろ!と思って、俺、中学を卒業したらあいつの割烹に弟子入りするつもりなんだ。まだ包丁一つまともに使えないけど、すぐに親父さんに認めてもらう、絶対!」

「へえ・・・」

「そしてお袋さんも説得して家に帰ってきてもらって、あいつが心から笑って暮らせる家庭ってやつを作るんだ。いつもあいつの側にいてやりたい、そのためには何でもするさ。」

 大きな虫食いだらけの人生設計だったが、彼の弁への熱の込めようだけは本気を感じさせていた。暴力への恐怖からではなく、聞くほどに本気で笑う話ではない真摯さを感じていく。

 裕介はこういう話を聞くと自分に投影してしまう、自分は一番話す女性、というと香だが彼女とは子供のように喧嘩三昧の毎日、好意がある、のかもしれない美幸とは恥ずかしさのあまりまともに会話することもできない体たらく。ついさっきは悟のことを子供のようだと評したが、結婚どころか将来のことすら考えたこともなく子供のような、いや間違いなく子供のような行動なのはむしろ己ではないかと思うと熱弁を振るった悟に対して恥ずかしくなった。

「そうか、そうだよね。悟君。立派だよ、応援するよ!」

「おおっ、そうか、分かってくれるか。分かってくれたのか裕介!」

 二人は互いの肩に手を置き合い打ち解け合った。

「でもどうして、僕にそんな大事な話を打ち明けたの?」

「うーん、どうしてだろうな?なんかお前って嘘は付きそうにないし、黙っててくれそうだったから、かな?」

「ええっ?・・・そうなのかな?」

 あまり言われたことのない自分評に戸惑いを隠しきれなかった。自分への先入観がない者からの人物評なので信じるか信じないかは人それぞれであろう、裕介はどちらかと言うと信じる側に針が少し傾斜するにあった、そう見られてるのかな?という程度で。

「俺も打ち明けたんだし、裕介も好きな女の話とか聞きたいなぁ。」

「喧嘩ばっかりする女の話ならあるよ。」

「あんまり面白そうじゃないなあ、パース。」

「あっ、ひどいなあ。」

「いいじゃんいいじゃん、あっはは。」

 行きの下りより四倍の時間をかけ、ゆっくり話を膨らませつつ、彼らは待ち人の在る小屋へと帰って行く。悟がドジなところはありながら真剣な考えを持ち、人のことを慮れる思慮も同包するところは裕介には好意的に思えた。が、

「あの、いいな。アレは誰にも言わないでくれよ。」

 戸を開ける直前小屋の前で改めて念押しするところなどは、まだ子供っぽいなと思わせられるところだった。

 帰ってみると由美は丁度子猫の世話で件の特製スープを与えていた。子猫を見る由美の目は心の底から優しげで、彼女を見つめる悟の目がいつにも増した柔和感を携えているように見えたのは錯覚だあったろうか。

「・・・惚れるなよ。」

「えっ?」

 悟の耳打ちに裕介は、自分でもよく分からない感覚でどきりとした。少なくとも、昨日の『若気の至り』に至らんかとする行動を見られたのが彼でなくて安堵したのは確実であった。


 そして、この共同生活三回目の朝がやって来た。新参者もそろそろ毎日の行動を決める朝礼にも慣れたようで、今日は希望を伝えてくる。

「今日は、茂君と仕事に出たいな。」

「おっ、裕介も言うようになってきたんだ。いいねいいね。」

「そろそろ貧弱くんの卒業なのかしら?」

「だから、貧弱くんじゃないって!」

「あ、あの・・・僕は別に構わないんだけど。」

 先の裕介の声よりもか細い声で茂はOKを出した。裕介としては浩之、悟と打ち解けて来たからには次は茂の番であることは順序的には自明の理であるし、また茂の方からしても次は自分だという意識が脳裏になくはなかった筈である。

 といっても、茂に内向的な面があるのは裕介にも分かる。口調がどもったり声が比較的小さくなることがあるのはいい証左である。時折、例えば二日前に刑を受けた時のように調子に乗ると箍を外すところを含めて、裕介としてはそこが自分に似ていることで確信を得られていた。

 需要と供給が一致したことで、今日は裕介と茂が二人で出かけることになった。今日も茂は山に分け入っていく。

「僕は、そんなに体力があるわけじゃないから、あまり遠くにも行かないし、力仕事にもならないから、安心してよ。」

「・・・うん、ありがとう。僕、アウトドアって言うのかな、そんなの全然経験がないからさ。」

 数日前の水汲みで裕介の体力の絶対値を見定めていた茂はひと声かけた。といっても先導して歩いてる進行方向を見ながらのことで、目を合わせようとはしない。言葉の区切りが多く、どこで発言が終わるのか分からないので返事の場所に裕介は多少窮する。

「あのさあ・・・君って内気な方なんだよね。」

「えっ?うん・・・まあ、そうといえば、そうなんだけど。」

「その割には、家出なんて大それた事やってるんだね。」

「うん・・・まああの連中は特別だからさ。」

「特別?」

「こんな僕でも、喜んで仲間に入れてくれたからさ。最初は・・・悟と浩之と由美が仲良し三人組だったんだけど、いつも一人でいた僕が気になってたって、仲間に引っ張ってくれたんだ。」

「そうなんだ・・・」

 裕介はここも自分に照らし合わせた。自分も今の友人グループには小さい頃に、孝志と仲良くなって彼が香を紹介してくれた流れがあったことを思い出す。また千章もまず彼が仲良くなってから引きあわせてもらっていた。大事な友人を増やしてくれたのは孝志だあった、のに今何故理由も思い出せない喧嘩をしたのだろうかと、人の話で己の身を悔やんでいた。

「だからみんなは、特別なんだ。悟に家出するから付き合えよ、って言われた時も、本当は怖かった、けどみんなといると楽しいんだ。だから断らなかった・・・家でくすぶってるより楽しそうだったんだ。ごめんよ、君は壁、感じてるんだろ?」

「い、いや、そうじゃなくってさ。僕も似たような奴なんで気になるんだ。」

「え?」

「僕も、君と同じような性格であまり楽しくない生活してるって感じだからさ。」

「そうなの・・・?」

 ここでようやく茂は裕介の方を振り返った。

「うん。だから君とはなんだか仲良くできそうだと思うんだ。」

「あのさ・・」

「何?」

「今更だけどさ、改めて友達に、なってもらえる、かな?悟も浩之もいい奴なんだけど、僕ずっと・・・自分と同じような性格の友達が欲しいと思ってたんだ。」

 この三日ほどの共同生活を経験してからようやくの友人契約の依頼も時を逸してる気がするが、裕介は喜んで右手を差し出した。今までの友人と喧嘩で絶縁の様相を呈している最中で、新たな友人を求めていた代替衝動が働いたのかもしれない。

「もちろん、よろしく。」

「よ、よろしく。」

 茂も右手を出して彼に応える。これで三人の男子全員と裕介は契約書なき修好条約を締結できたことになる。

「さあ、じゃあ行こうか祐介君。」

「うん、茂君。」

 二人になってから初めて二人は名前を呼び合って更に草木を掻き分けて山の奥へと進み行く。

「で、茂君?」

「何?」

「こんな道もない山の中で何をするの?」

「うーん、例えば、これかな。」

 茂は手に近い所から自生している草を一本ちぎってみせた。

「草?」

「そう、僕の仕事は山菜やキノコを採ることさ。」

 確かに今までより力が必要ではなさそうで、(相対的に)体力がないと自認している茂でもできそうな話ではある。

「でも、どれが食べられる山菜でキノコなんだろ?」

「そこは、僕に任せて。」

 明るく、自信を持った声を出した茂がやがて平らな場所に出た。山の中腹に広がる平坦地といったところか。

「ここら辺りで採ろう。祐介君は、取り敢えず、なんでもいいからそれっぽい山菜やキノコを取ってきて。」

「な、なんでもいいの?」

「うん、頼んだよ。」

 雑草と山菜の違いもまるで不明瞭なんだが・・・と思いつつも茂が自分の作業とばかりに草摘みに入ったので、裕介も仕方なく彼の真似をしてそれらしいものを摘み取ることにした。

「全然わかんないよ、これ・・・」

 花も実も付けていない雑草ならいざしらず、一面樹木と草花が敷き詰められた中から食べられそうな物を見つけろと言われても、木を隠すには森の中とはよく言ったようにまるで見当も付けられなかった。なにせ隠された木の特徴すら分からないのだから。

「ええいっ。」

 とにかくそれっぽいであろうという自己判断で手当たり次第に草などを集めだした。樹の根元などを見るとキノコも多く自生していたので、三十分と経たない内に抱えきれず鞄にも入りきらない程の量をかき集めることには成功した。

「これだけあれば、少しは食べられる物もあるかな?」

 少し離れた所で収集に没頭していた茂の横にはうず高く積まれた山菜等の山があった。頂上はむこうずねの中間辺りにまで標高を誇っている。見た感じでは自分の取ってきた分の7割も食用なら追いつける量に思われた。裕介は微小な期待を抱く。

「茂君、取ってきたよ。」

「ああ、ありがとう。じゃあ仕分けしてみるから全部出してくれるかな?」

 言われた通りに裕介は抱えてきた分と鞄に入れ込んだ山の恵みを洗い浚い茂の前に出しきった。これ自体の山は茂の成果物より一回り大きいくらいの存在感を示している。茂は山からさっと草を1つずつ取り出してみる。

「ええと・・」

 口数も少なに茂は山から草をどんどん取り出してはうっちゃるように投げていく。

「え、これもこれも、全部駄目なの?」

「うん、残念だけど食べられるものじゃないんだ。」

 本当に残念に思う裕介の思いは思考の外に茂の仕分けはずんずん進んでいく。何とも比較せず、草やキノコを自分の目で見ただけで瞬時に判定してはほぼ打ち捨てていく様はどんな機械も顔負けするかのような強烈な印象を裕介に与える。

「あ、ナズナ・・・・・・・これはイワタバコ・・・・・・・ヒラタケ・・・」

二十、三十と捨て去られる中に固有名詞を発して取り込まれる山の幸が一つ二つくらいあった。最終的に選択されたのは贔屓目に見て、くるぶしの辺りまでがやっとの山、というか束程度の塊であった。

「あれだけ採ったけど、こんなものなんだね。」

「ごめんね、でもここは厳格に分けないと食べられない物どころか食べたらいけない物も山にはいっぱいあるから。」

「いや、茂くんが謝ることじゃないよ。残った食べられる物をよく見て、この辺りと同じものを次から採ってくるよ。」

「ありがとう。じゃあまたお願いするね。でも最後は僕が見て判断するから。特にキノコは難しいんだ。例えばこのヒラタケってね。」

 茂は裕介の採ってきた山から一枚の貝殻にも見えるキノコを取り出して言った。

「さっきその辺に投げちゃったんだけど、ツキヨタケって毒キノコに似てるから間違えると大変なことになるんだよ。」

「大変なこと?」

「最悪、死んじゃうんだよ。」

 茂はしれっと重大な発言をした。

「いいっ!?」

「だから、採ってきたものは僕に見せてね。大体の毒の食べ物はわかるから。」

「どうしてそんなに詳しいの?」

「うん、子供の頃から草やキノコに興味があってさ。図鑑ばかり見てる毎日だったんだ。だから気味悪がられたのかな?表では話もできないにしても隠れて話をしに来るクラスメイトもいなくてね。悟はよく話しかけてくれたと自分でも思うんだ。」

 茂は遠い目をして、過去を懐かしむのか省みるのか分からない表情を浮かべた。

「でさあ、そのうち実際にこんな山に入って図鑑と照らしあわせて本物で草花を見るようになってね。今では図鑑なしでも大丈夫になったよ。」

「間違えたりはしなかったの?」

「しょっちゅう間違えてはお腹が痛くなってたね。今から思えばバカな子供だったよ、えへへっ。」

「それは・・・腹痛だけですんでよかったんじゃ?」

 洒落に聞こえない茂の発言に裕介は生唾を飲み込みつつ返答していた。

「まったくだよね。」

 茂が他人より体力がないというのは、力が生命力に集中してるせいじゃないかと思えた、やはり此処の少年少女達は今まで自分のあった中でも一癖も二癖もある連中だと確信を新たにするのだった。


 自分の採れた量は大したことがなかったが茂の分と合わせて風呂敷一杯に採取できたところで二人は採取場から引き上げた。他にも戦利品を得ようという貪欲さで行きとは違う道を辿りながら全方位に気を配り目も配っていたところ、やがて五メートル強はありそうな木の上に木の実があるのを見つけた。

「ここからじゃあ何か分からないなあ・・・上に行けたらいいんだけど、僕、木登りはできないんだよなあ。」

 諦めて去ろうとする茂だったが、それを呼び止める者がいた。

「待って。このくらいなら大丈夫、僕が行ってくるよ。」

「祐介君?だって君アウトドアなんて全然、ね、ねえ?」

 茂の話に殆ど耳を貸さずに裕介はするするっと太い幹を煙が高いところを目指すように登っていく、枝や窪みを的確に手に取っている様子は煙というよりは猿か。あっという間に望みの実を手にしてしまった。

「固いから、落としても大丈夫かなー?」

「大丈夫だと思うー、落としてみてー。」

 茂の声に報い、裕介は採れた実を自由落下させた。上手く柔らかい土の上に落ちた実を茂が拾い上げて確認している間に、裕介はまたするすると何事もない顔で木を降り立った。

「凄いね祐介君、何もできないとか言って木登りができるじゃない。」

「うん、そういえばこれだけは出来るんだったよ。ずっと昔におじいちゃんが登り方を教えてくれてさ。」

「どうして隠してたの?」

「隠していたわけじゃないんだけど・・・母さんの前でいい所見せようと思ってやったら、危ないからやめなさい!って怒られて、そのまま登る機会もなくなって、ずっと忘れてたんだ。」

「ふぅん。でもこうなると、まだ何かできることが隠されてるんじゃないの?」

「だといいんだけどね。」

 もうないよ、という風で裕介は苦笑した。あれば越したことはないだろうが、自分にできることなど限られてると思い続けていた脳から『自分にできること』というカテゴリーを取り出すには十分な思考時間を要するようだった。

「で、この実はどうなの?」

「残念だけど熟してなかったから固いし、中身も食べられたものじゃあないだろうね。」

「なんだよそりゃ。」

 裕介は笑った、無駄な労力を使わせたからとて怒る気などさらさらなかった。その程度のことは笑って済ませられる位の心の余裕と相手との友愛関係が彼らには成立していた。


 その夜は静かだった。蚊取り線香も炊いている小屋の中には蚊蜻蛉も迷い込まず鼾を立てる者も皆無、硬い木の床である以外は安眠には適した環境だった。事実、昨日まで熟睡していたのだから問題はないはずであった。それが今夜に限って裕介だけは寝付けないでいた。

(いつまでもいていい、って恵梨香さんも言ってたっけ。いっその事、この星で暮らしちゃおうかな。)

 今ある幸せな時間が永遠に続くと錯覚を覚えていた裕介は、先週までの生活を捨ててしまいたい気分に満たされていた。楽しいと声高に言えたわけでもない学校生活、自分をどう思ってるのか分からない、むしろいなくても何も思いそうにないと自分では思ってる両親、他界してしまった祖父、喧嘩しかしないガールフレンド、フレンド?いや女悪友、友?いや、表現などもはやどうでもいいアイツ、急な喧嘩で絶縁になっている親友、最近の地球での嫌な思い出が蘇るごとに此処に住みたい衝動がふつふつと沸き起こるのだ。

 この生活では此処のみんなに色んな事を教えてもらうことができた。釣りをすることで、実は釣りが得意らしいこと、ひいては全く未経験な事でもやってみると案外できたり楽しかったりするということ。人の気持ちをきちんと考えて相手を尊重すること、土下座とかはやり過ぎだけど。知識に終わらず経験で幅を広げること、誰にだって得手不得手などあること。サバイバル生活どころか実生活で十分に役立つことばかりだ。だから今から人生のリスタートをかけたっていいんじゃないかな?裕介の想像は、身寄りもないこの星での生活に傾斜していく、していけば行くほどどのような生活をすべきかなどと脳への血の巡りが捗り、眠りへの落下が起こらないでいた。

 にわかに眠るのを諦めた裕介はそっと小屋の外へと夜風を求めに出た。

 手持ちランプを丸太椅子の上に置き、自分は地べたに腰を下ろす。夏場の山は気温的に最適だった。純度百%の自然の中を風がそよぎ、昼にも増して静寂に包まれた耳には近くの川のせせらぎも届くような気がした。森の動物達も今は惰眠に溺れているようで、今裕介の周囲で起きているのは誰もいないのかという感覚が彼を支配した。

「静かだなあ・・・でもいい感じに静かだ。」

 静寂なら一人でいることの多い自宅でいくらでも経験がある。だがそれは心苦しさを伴う静けさであり、今感じるものとはまるで性質が違う。

 裕介は寝転んで空を見上げる、降るような満天の星空がそこにある。彼は星座を探す努力を試みる、が徒労であった。ここにあったのはいつも自分の見上げていた星々の地図とはまるで違う配置を持った地図だったのだから。どの方向に何光年、何十光年離れた星なのかは理解の外であるが、不変と思い込んでいた星々に大いなる変化が見つけられた時、この星に骨まで埋めかねなかった彼の思いに若干の変調が見られるようになった。

「どうしたの、眠れないの?」

 ふいに彼の耳に声が聞こえた。むくりと起き上がり声の主を確かめると、由美が立っていた。

「うんちょっと、なんだかね。坂井さんは?」

「わたしも同じ、かな?」

 彼女は嘘を付いた。彼が起きだした際に目を覚まし、外へ出て行くのを感じたのを追ってみたのが真相である。

「綺麗ね・・・星を見ていたの?」

「うん。茂君は、図鑑を見てて実際に山菜などを手にとって知識を深めてたって言うけど、それと同じように僕も星が好きで図鑑の中の写真から、望遠鏡で眺めてるくらいには造詣を深めてる、つもりなんだ。」

 そしてまた彼は星を見上げた。

「そうなんだ。」

 彼女は彼の横に来て、同じく地べたに座り込んだ。そのままじっと彼の顔に視線を合わせる。星のシャワーを一点に見ていた彼がやがて彼女の視線に気づくまで数分、二人はそのままの姿勢を保っていた。

「な、何?」

 ようやく彼女の視線に気付いた彼が戸惑いつつ彼女に問う。

「別に。でもちょっとの間にいい顔になったなって。」

「どういうこと?」

 微量の赤面を呈ししつつ、彼は彼女に問うた。

「だってさあ、最初会った時はその年で人生に疲れたような絶望したような酷い顔だったのよ。」

「えっ、そんな・・・酷い顔してたんだ。」

「してたしてた、あははは。」

 彼は気まずい感じの恥ずかしさに襲われた。初対面で情けない顔を晒していたと今更のように告げられるばつの悪さは、少年とはいえ彼の男の体面に少なからぬ衝撃を与えていた。ばつの悪さに彼はまた上を見上げる。それに倣い彼女もまた天空を見上げた。

「月も綺麗だ・・・」

 この星にも月はあった、漱石の知識も文学的表現も持ち合わせていない彼にとってこの文句は他意のある発言ではなかった。

「うん、綺麗。」

 漱石を知っているかも定かではない彼女にも他意のある発言とはいかなかった。

「ねえ、裕介。君、どこから来たの?」

「ええと、遠い遠い所だよ。」

「そっか・・・で、いつ帰るの?」

「帰る、かあ。実は帰りたいのか帰りたくないのか分かんないんだ。」

「どうして?」

「帰っても嫌なことばかりなんだ。親は何考えてるのか分かんないし、学校へ行っても仲のいい奴もいないし。」

「そうなんだ。なんだかわたし達の社会と変わらないわね。」

「でも、街は人の話で賑わってるよ。何も会話もせずにどんよりした、なんて言うのかな?疑心暗鬼?みたいなそんなムードじゃないんだ。」

「それだけでもいいんじゃないの?」

「そうかもしれない・・・でも、僕はそのムードに乗れないんだ。」

「ふうん、やっぱり地元でも引っ込み思案な貧弱くんなんだ。」

 彼は膨れたが、正確な表現の前に反論のしようがなかった。

「でも、長くて一ヶ月もすればそこに帰るんじゃない?」

「どうして?」

「わたし達も学校が始まれば嫌でもまた元の生活に戻らされるわ。あの三人はずっと家出してるつもりかもしれないけど、少なくともわたしはそんなの無理だって分かってる。いずれここだって見つけられて連れ戻されるのが『おち』よ。」

 決心が付いているためか、そう話す彼女の目は悲しさを感じさせない。むしろ明るく前を見据えて、彼に話しかけていると同時に改めて自分自身に宣告している向きさえある。

「だからわたしはそれまでのひと夏の思い出作り、くらいの気分で家出したの。」

 彼を見て、彼女は微笑んだ。言い切ったぞ!そのような晴れがましい笑顔であった。彼は彼女の笑顔に形容しにくい温かい感情が芽生えつつあるようだ。

「そうなんだ、でも僕だけここに残って君達がいつでもまた来られるようにしておけば。」

「無理無理、三日もすれば音を上げるわよ。」

「そんなの分かんないよ。」

「分かるわよ、君一人でわたし達四人で分担していた作業ができる?」

 彼はそれだけでぐうの音も出なかった。よしんばこの後一ヶ月、四人に教えを請うたところでその後一人だけで四、五倍の仕事量をもって今の環境を維持できるかというと答えは自ずから明らかだった。

「ね、だから君もいずれ帰ることになるの。」

「でも、嫌だ・・・何も変わらない今までの生活に戻るのも嫌なんだよ。」

 あと数ミリで泣き言になる台詞を吐いた彼に彼女は言う。

「駄目よ!帰るの。」

 彼女の声はここに来て急に熱を帯びた。眉間に一本の皺を表して更に続ける。

「何を考えてるか分からないなら分かる努力すればいいの、仲が悪いならよくすればいいの。自分からは何もせずにそのままの状態でいるのが嫌なんて馬鹿げてるわ。」

「だ、だって・・・」

 尤もな意見の前に彼の意見は封じられた。しょんぼりとうつむいて彼女から目を逸らす彼。自分が主体となって自分の環境を変化させようという、した事のない事への恐れはまだ取り払われたわけではなかった。しょげかえって自分の無為無策ぶりとそれを黙認してる無能さに自己嫌悪感が増大した。

「仕方ないわね。自分を変える魔法を授けてあげる。」

 泣きべそをかかんとする彼を見かねたのか、彼女はそう言った。

「何それ?」

「いいから、いい?背筋を伸ばしてシャキッとして。それからわたしがいいって言うまで目を瞑りなさい。」

「ど、どうして?」

「いいから!魔法が欲しくないの?」

「わ、わかったよ。」

 ここに来るまで散々魔法じみた思いはしてきたが、改めて魔法の勧誘を受けるとなると勘ぐる感情が起こる。さりとて目の前の彼女の強弁さが彼を言下に従わせる脅迫力を十分に有していた。彼は大人しく彼女の命じるまま目を閉じる。

「いいわね、いくわよ。」

 彼女の声から少し後に彼は顔の前に気配を感じ、更に唇に柔らかい感触を認めた。今まで感じたことのない感覚のため、魔法の正体を突き止めたい好奇心が約束を守らんとする義務感を上回った。そして好奇心が瞼を持ち上げる。

 次の瞬間、彼は目の前に彼女の顔の存在を確認した。額と額、鼻と鼻が触れ合わんばかりの至近距離に、いや、この時既にお互いの唇同士は密接に触れ合っていた。自分が何をされたのか理解できた瞬間、彼の血流は五体を駆け巡り体温の急激な上昇をもたらすと同時に筋肉の硬直も呼び寄せた。彼の変化を唇から如実に感じ取る彼女は、上唇は彼のそれに付けたままで器用に口を動かす。

「嘘付き。ちゃんと目を閉じなさい。」

「ごめん・・・」

 彼は目を閉じ、再び二人の上下の唇が交わった。その瞬間は緊張と硬直が継続したが、徐々に両者は萎みゆき、脳内が洗われるように落ち着きを取り戻してきた。思い出せないでいた何かを今、脳裏から読み出すことに成功した。

 そもそもどうして帰りたくない気持ちになっていたのか。孝志とやりあった、その原因・・・


 あの日の朝、裕介はいつも通り最後に家を出る者として鍵をかけ、いつもの様に登校していった。いつもと同じく途中で孝志、千章と合流して学校へ向かっていた時、いつもとは違う事象が起こった。普段は意識的にずらしていた裕介と香の登校がぶつかり、朝っぱらから二人の戦争が始まるものだと孝志と千章は恐れおののき裕介もその通り臨戦態勢に入った、のだが、香は彼らを一瞥しただけでそのまま学校にいそいそと向かって行った。

 一瞥であろうとお互いを確認すれば開戦のやむなきに至るのが常であったから、梯子を外された裕介は一度入れられた火のやりどころに窮したと同時に、急に無視された寂寥感がぽっと渦巻いた。。

「おやおや先生、本日は寂しいことですね、フラれましたか?」

 千章が毎度のように茶化してきたが、孝志の言は対象がやや異なっていた。

「なんだよあの女狐、今日はなしか。いつからあんなつまんない女になったんだよ。」

 この言葉が、入れられた火の後始末に困窮していた裕介の心の中に油を零した。

「つまんないってなんだよ、女狐ってなんだよ。」

「えっ?」

 孝志が裕介の怒気に勘付いた。

「何が女狐だよ、アイツをバカにすんなよ!」

「お、おい裕介。お前何言ってるんだ?普段からブスだのって馬鹿にしてるのはお前だろ?」

「そんなことはどうでもいいんだ!お前がどうしてアイツをバカにするんだ!」

「ふざけるなよ、バカにしてるのはお前じゃないか!」

 自分のことを棚に上げた、虫の居所が悪かっただけの完全な八つ当たりだ、と気付いた孝志も売り言葉に買い言葉で裕介を罵倒しだした。千章が間に入って宥めるも二人してまるで聞かず、そのまま別々に登校して喧嘩が始まった。

 虫の居所の原因は分からない、鬱積していたものを香に吐き出そうとして失敗したところに孝志が投げ込んだ油に引火しただけ、理由も分からないし下らないボタンの掛け違いではないか。

 しかしどうして香を論った孝志に対して怒りが芽生えたのだろう。そうか、孝志であっても香を論られるのが許せなかったのだ。裕介は答えを探し当てた。導かれた解からは新たに自分でも気付いていなかった想いを見つけるにまで至った。そうか、そういうことなのか、やはり喧嘩の主たる原因は自分にあることは悟り得た。思い返せば自分でも下らなさに嘆息する理由ではないか。

「謝らなきゃ・・・」

 結論は出た。


「にゃー」

 何かの声で二人の影は一つから二つにはっと分かれた。相手を凝視できない二人は互いに背中を向き合わせて自分の心音が鼓膜を支配するような中、おそるおそる声の主の方を振り返ると、そこに二人が確認できたのは、二人が出会った時に一緒にいた子猫だった。

「もう、この子ったら。脅かしっこなしよ。」

 由美は子猫を抱き上げて頬ずりする。ようやく彼女の方を向くことができた裕介は視点が唇に合わさっていた、思い返すだけでまた心臓がギアを上げてくる。猫を愛撫する微笑ましい姿に裕介はまた喧嘩友達の面影を重ねて思考が停滞する。

「ねえ、魔法はかかった?」

「う、うん。かかったよ。」

 由美の声ではっと我に返ると、考えはすっかりまとまっていた。

「そう、それならいいの。じゃあ戻りましょう。」

 裕介は首を振るだけで反応し、子猫と共に二人は小屋に戻った。彼には結論を明日、皆に伝える使命が課せられていた。


「えーっ、帰る!?」

 朝礼で手を挙げた裕介の開口一番に少年三人は驚かされた、昨夜のことは誰も知らないようで驚きに真剣さと新鮮さが見受けられる。裕介と由美はそこの逆に安堵の色を見せる。

「急にどうしたのさ、もっと一緒に遊んで楽しもうよ。」

「浩之の言う通りだよ、まだ出会って五日目だよ。」

「ごめん、決めたんだ。僕は急いで帰ってやらなくちゃいけないことがあるんだ。」

 裕介は決意の目を皆に見せた。だが聞き分けのない浩之や茂は彼の決意をよそに折角構築できた友情を瓦解させんがための防衛に奔走するのである。

「まだまだ一緒に遊んで、教えたい山遊びの楽しさはいっぱいあるんだよ。釣りは負けそうだけど、オイラの他の特技も沢山あるんだし。」

「うん、僕だって木登り教えてもらいたいんだし、もっとここにいてよ。」

「二人とも、落ち着いて。裕介がこう言ってるんだし。」

「由美、お前は裕介が出て行っていいのかよ。」

「そうだよ、みんな仲間だろ?」

「そ、そうなんだけど・・・」

 さしもの裏番的存在の由美も二人の必死の剣幕に押され気味でいつもの力関係の話にならず当惑の色を隠せない。

「ご、ごめんよ。でもさ、」

「でもじゃないよ、」

「おい、ちょっと黙れ。」

 今まで沈黙を貫いてきた悟が開口一番、黙れと言ってきた。

「悟、」

「黙ってろ、って言ったよな。」

 ここまで見たことのない悟の鋭い眼光が浩之と茂に向けられる。二人は眼光の奥に潜むものをよく知ってるのかぴたりと黙りこくってしまった。

「裕介。お前、帰ってやらなくちゃいけないことがあるって言ったよな。」

「う、うん。」

 裕介も彼の迫力に平生の地平から蹴落とされそうになったが、決意という名の突っ張り棒が辛くも落下を阻止した。

「それは、俺達との友情よりも大事なものか?」

「うん・・・どっちが大事なのかは分からない。だけど、僕にとっては君達との友情も大事だけど、それと同じくらい大事な事なんだ。」

「そうか。」

 とだけ言って暫し悟は目を瞑り腕を組んで黙りこんだ。やがて己の全てを納得させたのか、目を開けた。

「分かった、帰れ。」

「悟、いいのか?」

「ああ、男がどうしてもって言うんだ。快く送り出してやるのが友達ってもんじゃないか?」

「そうともいうけど、急すぎて納得できないよ。」

 茂がまだ未練を追うが如くしがみつこうとする。

「別に死に別れるわけじゃないんだ。また会えるさ、なあ裕介?」

「うん、また絶対みんなに会いに来る、絶対に!」

 保証は何もなかった、だが何処かに頼み込みでもすればまたこうして彼らに会いに来られるんじゃないかという希望が心に湧きたって仕方がなかった。たった五日の関係ではあったが、彼らの存在は裕介の中では忘れえぬ友ばかりとなっていたのだ。

「どうだ、裕介もこう言ってるんだし納得できないか?」

「うん、納得・・するよ。」

 茂はどうにか自分を奮い立たせ、鼻の詰まった声で嗚咽混じりの声で首を縦に振った。

「ごめんよ、茂君。みんな、勝手ばかり言ってごめん。」

「何言ってるんだよ、裕介が来てくれて面白い日だったよ。今度は本気で釣り勝負しような、負けないけどね。」

 一足先に納得を付けていた浩之が茂と好対照にはっきりした物言いで告げてくる。

「うん、他の特技ってのも教えてもらいたいからね。」

「まかしといてよ。」

「きっと・・・また来てよ、野草の採り方をもっと詳しく教えるから、僕には木登りを教えて欲しいんだ。」

「うん、約束するよ。人に物を教えたことないから、厳しいかもしれないけど。」

「望む、ところだよ。」

 茂は片手は目頭を抑えつつ、もう片腕では親指を立て裕介へとサインを送った。

「元気でね、貧弱くん。」

「最後まで貧弱って、まあいいか。ありがとう、坂井さん。」

 由美は黙って頷いた。二人は視線を見つめ交わしていたが、視線に訝しげに視線を割りこませるように悟が両者の顔を代わる代わる覗き込んだ。

「おや、おや?おやおやおやっ?」

 悟の勘付きが変な確信へと変容する前に由美は平手を振りかぶって、悟の脳天直上にまっしぐらに落とし、その中心部へ命中させた。

「何考えてんのよ、このスケベ!」

「いてて、いや俺はただ由美に変な虫が付かないようにって。」

「変な虫?今まで熱弁奮ってかっこよく見送ろうとしてる友達を虫呼ばわり?呆れちゃう、見直して損しちゃったわ。」

 これには全員が笑わずにはいられなかった。彼の真摯な思いを知った裕介も、将来の夫婦漫才の可能性を秘めた二人のやり取りを複雑な思いを抱えながらも本気で笑っていた。

「それはそうと悟君もありがとう。」

「ああ、そうだ。最後に一つだけ言う事を聞いてくれないか?」

「いいよ、何でも言ってよ。」

「それじゃあ。最後にな、俺のことを「悟」って呼び捨てで呼んでくれよ。最後まで君付けじゃあどうも落ち着かなくってさ。」

「え?別にいいじゃない、それでも。」

「お前がよくっても、俺の気持ちが落ち着かないんだ。後生だと思ってさ、頼む!」

 後生とはなかなか大きく出た言葉だと思う裕介だった。

「まあこういう融通の利かない所もあるけど、これでもやっぱりオイラ達のリーダーなんだ、最後の頼みと思って聞いてやってよ。」

「浩之君まで・・・わ、分かった。言うよ、ありがとう、さ、悟。」

「おうっ、ありがとう。これで俺とお前は本当の仲間だ!」

 悟は喜びに飛び跳ねる。固いところもあればドジも踏む。だけどいざというときはどんと構えて泰然自若することも出来て周囲が信頼している、口先だけでない本当にリーダーという事にようやく得心が行った裕介だった。

「最後の最後で、ごめんね、裕介。」

「い、いいよこのくらい。茂君達は・・・いいの?」

「ああ、僕らは、別に呼び方にそんなに拘ってないから。」

「そうだよ、オイラ達はとっくに仲間だろ?」

「う、うん。」

 二人のさばさばした発言にも裕介は感じるものがあった。拘る者いれば拘らない者もいる、ただそれだけの話だ。

「よし、じゃあ裕介を送っていこうぜ。」

「おおー!」

 悟の提案に皆が大賛成の雄叫びを上げる。山を降りるとなれば騒ぎ立てて彼を送り出せる場もなくなるから、この場が実質的なお別れ会となるのだ。

「で、どこへ行くんだ?」

「取り敢えずは・・・駅かな。」

 充てがわれた宿泊施設も完全に袖にして一切連絡も取っていなかったツアーの列車が、あれから三日どころか四日を経過していた。もう駅に入ることはできよう。そして誰かに伝えなければいけない、自分はここで途中下車して地球に戻ってやる事があるのだと。

「よし、じゃあ駅まで送っていこうぜ。」

「あ、でも留守番がいるぞ。この子もいるし。」

 浩之の指摘の先には子猫がいた、連れて来る時は必死だったから仕方がなかったがこの子を連れて行ってまたこの場まで引き返すにはさすがに憚られるものがある。

「じゃあ・・・僕、ここに残るよ。」

「いいの?この子はわたしが連れてきたんだからわたしが世話しておくわよ。」

「いいんだ、駅前で泣いちゃいでもしたら、面倒でしょ?」

 確かにこの歪な社会の真ん中でおいおい泣き喚いたら面倒を起こしかねないのは全員の首肯が一致することである。裕介としても面倒になるのは辛いが、それだけ自分に友愛の念を抱いてくれているのは嬉しい事でもあり複雑な心境である。

「じゃあ、仕方ないけど茂、俺達が帰ってくるまでの事は頼むぜ。」

「うん、任せて。その代わり僕の分までちゃんと見送りしておいてよ。」

「大丈夫よ、わたし達に任せておいてね。」

 茂は安堵したが、すでにまた泣きそうな顔をしていた。そんな彼の右手を裕介は両手でがっちりと握りしめた。

「本当にありがとう、茂君。君とはもっと仲良くできると思うんだ。」

 茂は話しつつ、浮いていた左手を裕介の手に重ね、二人とも両手でしっかりと互いの手を握りしめた。

「僕もだよ、だから、またね。」

「うん、またね。」

「水臭いな、俺達も入れろよ。」

 話の区切りを見つけるにつけ悟が、浩之が、由美が彼らのスクラムした手の上に自分の両手を重ねていく。そして五人の十本の手が一つとなり手の塊が雌蕊となり、手が花弁となる友情の花を咲かせた。

「俺達は、いつも一緒だ!」

「ああ!」

「うん!」

「うん!」

「ええ!」

 五人の手は一つとなっていたが、心もまた一つになっていた。裕介も他の四人も、この日この時は一生忘れないでいるであろう。

「せーのっ、それぇ!!」

 そして全員で万歳をして大輪の花を散らせた。

「あ!いいこと思い付いたわ。」

 急にはっと開眼した由美が全員の注目を浴びる。

「どうしたのさ?」

「この子、この子ね。」

 由美はその辺りに転がって人の盛り上がりを我関せずとうたた寝を決め込んでいた子猫を抱き寄せた。

「この子、まだ名前がなかったじゃない。だから『ゆうすけ』って付けるのはどうかしら?」

「おお、それいいじゃん。賛成するよ。」

「僕も僕も。」

「俺も反対する理由なんてないぜ、裕介も別にいいだろ。」

「うん、むしろ歓迎だよ。よろしくね、ゆうすけ。」

 『ゆうすけ』の鼻を裕介がくすぐった。可愛がっている動物に名を付けてもらえるのは裕介にも嬉しかった。自分のいない間は身代わりというか、この子が彼らのそばにいると思えば、自分もまたいつでもこの子を介してここに来られるのかもしれないとも思える。

「じゃあ、一度帰るね。」

「よし、行こうぜ。」

 茂と彼の腕の中から『ゆうすけ』が見送る形で四人の下山が始まった。少なくとも暫くはこの風景とも見納めかと思うと、数日間に渡って悩まされた山道にも愛おしさが目覚めてくるものなのか、不思議と足取りが重くなかった。

 苦労し続けた山道を抜け平坦な道路に出た、この間下りてきた農家の付近とはまた違う場所に出たのだが、ここはここで落ち着いて景色を眺めれば、青々とした木々に彩られた山、平地に広がる畑の中に点在する農家の茅葺き屋根、きっとこの一軒一軒で美食家の舌もうならせる野菜が作られていることだろう。また、底すら見えた清流から下ってきたであろう川の流れに多種多様な草花生い茂った一帯と、祖父の家の周囲で見たくらい、ともすればそれ以上に風光明媚という単語が合致する風景である。素晴らしき自然の寵愛。

 山から麓へ、麓から農地へ、そして農地から住宅地へと、彼らの歩みが進むごとに造物主が周囲の塗り絵から緑色だけを枯渇させたかのように萎んでいく。緑色と反比例して人の営みの痕跡は増加していく、相変わらず人の気配はするのに人そのものがなかなか有視界の中に見えてこない奇妙な社会であった。

 麓付近まで大いに騒いでいたこの集団もいざ人家を確認できる位置まで下りて来ると途端に口を紡ぐのはこれもまたなんとも奇妙なことである。そんな奇妙な帰り道に裕介は貧乏くじと出会うこととなった。住宅地の通りを歩いていると、前方から数日前に逃亡劇を企てた相手の警官が自転車に乗ってこちらへと向かってくるではないか。なんとまあ神の悪戯か悪魔の児戯か、隣の道を歩いていたら出くわさなかった、もう一分遅く歩いていればやり過ごせたというのに、高速で走る車の開いているサイドウインドウにボールを投げ込めたようなタイミングに裕介は何者かを呪った。周りの少年達から大いに学べど、まだ目に見えない何かに支配されているという損な錯覚から完全に脱却できたわけではなかったらしい。

(落ち着いて、知らん顔して通り過ぎるわよ。)

(ああ、どうせ俺たちも所詮家出の身だから見つかると厄介だもんな。)

 少年達は小声で指針を了解しあう。平然としてればいいんだ、平然と、と思えば思う程どうしてかしら平然とできなくなる、少なくとも裕介はそういう方向の性分であった。

(落ち着けよ。)

 悟が裕介の方に手を置いた。この行為で裕介の緊張は八割がたすっと解消される。

(どうにかなるよ、ならなきゃならなかった時だ。俺の合図でみんな一斉に走りだすぞ。)

(うん)

 公権力に対してびくついて密かな行動を取らんと、気分だけは一丁前のギャングスターにでもなったつもりで四人は彼との邂逅を素通りする心構えを作った。彼我の距離が縮むに連れて相手もこちらを認識できている筈だが、見覚えがあるという素振りも見せずに尚もゆったりと自転車を漕ぎつつ周囲を舐める程度に見渡し、予め『異常なし』という報告書を机の上に用意して後は提出するのみ、という風にも見えた。

 これなら案外容易に突破できる関門かもしれない、四人に安心感が芽生えた。一歩、また一歩と相対的に自分の一歩が大きく踏み出しているかのように相手はぐんぐん近付いてくる。そして互いが道の真ん中ですれ違う、その時何も起こらなかった。よし、やり過ごせた!誰もがそう思った時、彼等の後方で自転車のブレーキ音が聞こえた。

「あれ?君、どこかで見かけたような・・・」

「走れっ!」

 警官が数日前に取り逃がした顔を思い出すのに苦慮している隙に悟の号令一下、四人は全力疾走に移った。

「こ、こら、待ちなさい!」

 相変わらず子供相手だからという油断から解放されていなかったのか、警官は今日も年端も行かぬ小僧達に出し抜かれることとなった。やはり子供だからという勝手な理屈で先日の失態も気にすらかけていなかったのであろう。油断していた大人と十分に警戒していた少年達との差がそこにあった。油断していては猫も窮鼠にしてやられるのだ。

 更に舗装もない田舎道で自転車を百八十度向きを変える手間すら加算され、逃亡犯に更に距離を稼がれていた。一方、そのような天佑も手伝い大幅なアドバンテージを得られたギャングスターもどきの集団は人参を目の前にぶら下げられた馬車馬が如く家々の間を疾走した。

「茂が来なくてよかったな、あいつ足は遅いから。」

「そうだな、それだけは救いかな。」

 野山を駆け巡って息も切らさないような悟や浩之が言ったところでどれほど遅いのかは疑問の残るところであるが、この際そこに気を裂く余裕はなかった。この中で明らかに最も体力に劣るのは山野を走る経験など児戯レベルの裕介に外ならないのだから。

「待ちなさいー!」

 せっかくのリードを切り崩す声が近付いてきた、やはり障害のないところでは少年の脚力が大人の自転車に対する優位性など無きに等しい。しかし、ならば障害を用意すればいいだけのこと。

「おい裕介、お前は由美とそこの角を曲がって細い路地に入れ。俺と浩之でこのまま真っ直ぐ行けば相手は自転車だ、太い道を真っ直ぐ追いかけてくるに決まってる。」

「でもそうすると。」

「ああ、オイラ達もここでお別れかな。まあいいよ、また来てくれるんだろ?」

「うん・・・」

 また会いに来る決意は確かにあった、しかし不確定要素を伴う事は言えないしまた急にここでさようならと言われても心の準備は追いついてきてくれない。そう思うと次は裕介が茂から遠く伝染したかのように目に液を湛えてきた。

「僕・・・僕は、」

「泣くなって、こんな相手は茂だけで十分なんだからよ。」

「うん、うん・・・」

「じゃあな、元気でな!」

 走りながら悟と浩之は拳骨を裕介の方に差し出してきた、裕介もそこに同じく拳骨を出して所謂「Fist Bump」(グータッチ)を形作った。拳に懸けて彼等と再会しよう、その意思表示であった。別に彼等は武道家でも何でもない、だが男と男の約束は何においても違えてはいけない。その位の男意気は女に貧弱呼ばわりされる裕介とて持ち合わせていた。

「じゃあね、きっとまた。」

「ああ、またな!」

「また!」

 裕介は由美と共に路地へと転進した。しかして追手はというと子供の予想通り、自転車はそのまま太い道を真っ直ぐに悟達を追うように走り去って行った。これで裕介達は時が稼げよう、安堵のもとで先導の由美が広い道へと再び顔を出した時、横から軽トラックが近付いた。

「きゃあっ!」

「さ、坂井さん!大丈夫?」

 遅れて道へと顔を覗かせた裕介が急いで彼女の上半身を起こした。すんでの所でトラックは急停車しており、由美は尻餅をついた程度だった。

「うん。大丈夫、平気よ。」

「だ、大丈夫ですか?!」

 慌てて運転席から下りてきた男を見て裕介と由美、そして男は全員が互いを見つめ合って驚きを重ねた。

「き、木田さん?」

「なんだ、君達か。こんな所でどうしたんだい?他のみんなは?家出はどうした?」

「丁度よかったわ、泰さん。車に乗せて!追われてるの。」

 追われてる、我が子の様にも思っている節のある、いたいけな少年少女を追い回すとは太い奴がいたものだと、泰はその気になった。

「よしわかった、荷台に乗りなさい。」

「ありがとう。さあ裕介も乗って。」

「分かった。木田さん、ありがとうございます。」

 トラックの荷台にはシートが掛けられていた。泰は手際よく一部の留め具を外し、彼等をシートの中へと誘導し、留め具を付け直したら一目散にその場を後にトラックを走らせた。彼は誰に追われてるかを聞いては来ない。裕介のややこしい立ち位置にも一定の理解があるから追われる可能性は誰からでもあるだろう。敢えて聞くと野暮になると思っているのかもしれない。

 シートの内側、荷台の上は食材が賑々しく積まれていた。由美がリアウインドウ越しに運転席の泰と話す。

「泰さん、食材の調達帰りなの?」

「ああ、後は食堂まで持って帰るだけさ。」

「すごいナイスタイミングよ、泰さん、今から裕介が駅まで戻るの。だからこのまま乗せて行ってください。」

「お、そうか。裕介君ついに帰っちゃうのか。そうか、悩みは解決したんだね。」

「はい。」

 裕介の返事は高らかだった。

「いい声だ、男はそうでなくっちゃな。」

「裕介、泰さんと何かあったの?」

 二人の交わした事情を聞いていない由美には彼等の立ち入った話が今ひとつ見えていなかった。

「いや、別に。そ、そう、男と男の約束ってやつだよ。ね、木田さん。」

「ああ、まあそうだな、そんなところだよ。あっははは。」

 二人にはぐらかされている様な気分を受ける由美だった。現実はぐらかされているのだが相手に泰までいるとあっては彼女の追及の手は及ぶべくもなかった。

 捨てる神あれば拾う神あり、警官とかち合った時は天か何かを恨んだ裕介も今、泰と巡りあった事は天に感謝せざるを得ない。後はもう一つ、あの二人が警官の追撃を振りきってギャングごっこの完遂を願って止まなかった。

「あの二人は大丈夫かな?」

「大丈夫よ、あの二人はそんじょそこらの悪ガキとはレベルの違う「わんぱく」だからね、むしろあの二人を一人で追うなんて警察官の人が無事でいられるか、わたしはそっちの方が心配ね。」

「そ、そうなんだ・・・」

 いったい彼等は何をしでかせるというのか、由美の発言に今更ながら仲間の奥深さを学ばざるを得なかった。

「痛っ。」

 不意に由美が声を上げる。痛覚の発生源を視認すると肘に擦り傷があった。

「さっき転んだ時に擦りむいちゃったのね。」

 そう言うと、まるで無かったことのように傷を放置する素振りを由美は見せる。

「駄目だよ、ちゃんと処置しておかないと。」

 鞄をまさぐると裕介は用意のいいことに絆創膏を取り出した。由美の肘を舐めて土を取り除いたところにそれを慣れた手つきで貼り付ける。

「あ、ありがと。なんだ、裕介も・・・案外、大胆じゃない。」

 頬を赤らめた由美が俯き上目遣いで裕介を凝視しながら言った。彼女の言葉に自分の今行った作業を思い出してみる裕介、由美に遅れること数秒、やはり頬の紅潮が彼をも飲み込んだ。

 小さい頃に自分の横でいつも活発だった香の擦り傷、切り傷は裕介が応急手当をしていた。その時も傷口を舐めて絆創膏を貼り付けていたので思わずその流れが今にフィードバックしたらしい、なにせ目の前の存在がそっくりなだけに自然とそのような行動に移られたのだろう。何度も確認するが目の前の存在は由美であって香ではない。悟の恋路を応援すると本人に宣言している手前、ばつの悪さも手伝い沈黙が裕介の時を止めた。

「おーい、そろそろ着くぞ。」

 時を動かしてくれたのは二人の状況を知ってか知らずか泰であった。彼の方を振り返ると笑みを浮かべていたのは知ってて声をかけてくれたのかと思えるが、泰はいつも笑っている印象が強かったのでそうと言えないとも思える。まさか面と向かって聞くなど藪蛇甚だしいのでその選択肢はなかった、結局答えは得られぬまま、車は駅前で停車した。

 荷台から下りる前に、二人は泰に向かった。

「泰さん、ありがとう。」

「木田さん、ありがとうございます。お陰で助かりました。」

「おっ、やっぱり言ったね。」

 木田は普段の笑みにも勝る満面の笑みを浮かべた。裕介は彼と初めて会った時の『みんな最後にはうちの食堂に来てお礼の一言も言って帰っていったから・・・』という言葉を思い出した。

「その通りになりましたね。」

「だろ?不思議とそうなるんだよ。じゃあな、向こうでも元気でね。」

「何のことなの?」

「こ、こっちのことだよ。ねえ、木田さん。」

「ああ、こっちのこと、こっちのこと。」

 相変わらずの体で、蚊帳の外を感じる由美は少し悔しげでもあった。

 最後は泰の掌で踊らされていた気が強くあった、結局彼も何をどこまで知っていたのだろう?まず聞いても素気無く交わされるだけであったろうし、そんなことはこの際別にどちらでもよかった。己の本意を遂げた前では他人が何をどこまで知ってようと大きな意味を持たないのだから。

 荷台から下り、辺りをざっと見回してみた。駅を出た時と同じく、人の声だけが欠乏した奇妙な雑踏が繰り返される風景がそこにはあった。


 いよいよ駅へと戻ってきた裕介。最後に駅を視界に入れた時に下りていたシャッターも今は開け放たれ、中との往来は自由にできるようだった。

 駅の構内に一歩足を踏み入れた時、由美が言った。

「いよいよお別れだね。」

「う、うん・・・でも、絶対また来るよ。みんなとも約束したんだし。」

 裕介の決意は固かった。五日、一日目は昼以降、この五日目はまだ午前中、そこをよく言ってもたった五日で別れるには惜しい友人達である。

「絶対よ、絶対だからね。わたしとも約束したんだし。」

「約束?えっ!」

 つい裕介は昨夜の出来事を思い出してまた赤面した。

「バカ!スケベ!何考えてるのよ、今朝みんなで手を組んだでしょ、あれよ、あれ。」

 裕介の表情より何を思い出したかを瞬時に悟った由美はやはり赤くなりつつも必死で訂正を求めた。

「あ、ああ、そっちか。」

 残念なようなほっとしたような、表現に難い感情が裕介に湧いた。

「もう・・・バカっ、バカァ!」

 一体何度バカ呼ばわりされたのだろう、ここに来るまでの香相手ならその都度都度でこちらも槍持て刃を交えていたろうに、慣れたというと語弊があるが不思議と殺伐とした怒りの感情は起こらずにいた。

「謝りなさい、これからわたしの言う事を聞いて詫びを入れなさい。」

「なんだか怖いよ、坂井さん・・・」

「いいから!」

 由美の怒気は裕介の意見を必要とはしなかった。

「わたしの事も、最後に『由美』って呼びなさい。そうしたら許してあげるわ。」

「いいっ!?そ、それは、嫌だよ。女の子の名前を呼び捨てにするなんて、できないよ。」

「どうして?」

「だ、だって、可哀想だから。」

「可哀想?わたしが呼べって言ってるのにわたしが可哀想な筈ないでしょ。それは君の勝手な思い込み。恥ずかしいんでしょ、女を呼び捨てにするのが恥ずかしいだけなんでしょ、貧弱くん。」

「あっ、また言った!」

 バカ呼ばわりには怒りはまるでこみ上げなかったが貧弱と呼ばれるには相手の悪意を感じつつ自らも男子たるの矜持を傷付けられた感覚を受けて黙ってはいられずにいた。

「じゃあ言ってみなさいよ。呼んでみなさい。」

 安い挑発ではあったが、裕介にはかなり効果があった。だが裕介の異性への壁はもう一手二手の押しが必要な程執拗な建築を誇っていた。

「何よ、帰ったらそっちには呼び捨てにしてる女の子いるんでしょ。」

「ど、どうして分かるの?」

 由美は笑いたかった、がここは堪えて上からの目線を崩さぬように耐え忍んだ。鎌をかけたつもりであったがこっちの壁はあっけなさ過ぎる崩壊を見たのがおかし過ぎた。

「ほらやっぱり。」

 気を持ち直した由美は強意の姿勢を崩さずにいた。

「ならわたしの事も呼べるわね、いい?」

 進退窮まった裕介に残された道は、彼女の軍門に降ることしか残されてはいなかった。

「分かったよ・・・由美。」

 蚊の鳴くような声でようやく彼は言葉を絞り出した。しかし由美の耳にはまるで届いていなかった。当然由美は主張する。

「何?聞こえないわよ。男でしょ、もっとはっきり言いなさい。」

「うん、由美・・・さん。」

 次の声は由美にもなんとか届いたが、羞恥心の欠片が語尾に付属していた。

「いらないものが付いてるわよ!呼び捨てって何?国語の教科書が欲しいの?」

 一歩も退く姿勢を見せない由美にいよいよ崖っぷちに追い込まれた裕介は、もはやこれまでと真ん中から彼女に突貫をかけた。

「五月蝿いんだよ、由美は!」

 今度は十分に聞こえる声で言い放った。裕介としては香を相手にする気分で言い放つ事で羞恥心の壁を内側から粉砕することができた。

「やればできるじゃない、うん、よろしい。」

 由美は笑顔で彼の戦果に報いた。

「もう行ってもいいわよ、その代わり絶対帰ってきなさいね。」

「勿論だよ、由美。」

 調子に乗っったか今度はしれっと呼び捨てにしている裕介の言があった。

「何よ、ちゃんと言ってるじゃない、バカー!」

 由美の罵声を背中に浴びて裕介は駆け足で乗ってきた列車の停まるホームへと向かって行く。彼の姿が由美の視界から消えた頃、さすがに息を切らせた悟と浩之が駅へと辿り着いた。

「ぜいっ、ぜい・・・由美!裕介の奴は・・・どうした?」

「ちょっと遅かったわね、行っちゃったわ。」

「そ、そうなんだ・・・惜しかったかな?あの警官、思ったよりしつこくてさ・・・巻くのにすごく・・・苦労したよ。」

「よーしよし、頑張った、頑張った。」

 へたり込む二人に由美は左手で悟の、右手で浩之の頭を撫でてやった。二人にはこれが何よりの褒美となった。

 二人が駆け込んできたことは伝わらず、裕介は前だけを見て列車へと真っ直ぐ向かっていた。

「おーい、裕介さーん。」

 不意に彼を呼び止める声が横から沸き起こった。振り向くと、駅の事務室から恵梨香が飛び出してくるではないか。

「あれ、恵梨香さん?」

「はいー、みんなの恵梨香さんですよ。それでそれで、裕介さん、さっきのあの子って彼女さんですか?」

 不味いところを見られたな、と反応した裕介は否定も肯定もできなかった。こういうノリの女性は遠慮なしに根掘り葉掘り何でも聞いてきそうな予感がするから。

「彼女さんですよね~?なんでしたっけ、『由美って呼びなさい』だとか、『由美は五月蝿い』だとか、いやー青春、青春。」

「って、何処から聞いてたんですか?!」

「何処からって、裕介さんが彼女さんを連れて駅に入ってきた所からですよ。声をかけようとしたんですけど、彼女さんとのお別れを邪魔しちゃあこの恵梨香さんの名が廃るってもんですから、じーっと事務室の中から一部始終を見ちゃってました。それがなにか?」

 無邪気と無遠慮の結合体が産み落とした無垢な顔で裕介の成長を傍観していたを宣言する恵梨香には、裕介の予想は大きく斜め上に裏切られた。これまでに何度も赤面はしてきたが今度の事は勝手が違う、穴があれば飛び降りて入口に大きな封印をかけて閉じこもりたいような気恥ずかしさが彼を襲った。

「若いっていいですねー。奥手な顔してやることやっちゃてるんですね。もうー、隅にも置けないんですから、このこのっ。」

「恵梨香さんも若いくせに・・・」

 心の息が絶え絶えになっている裕介としてはこれが必死の反撃の一矢である。だが恵梨香は矢を矢とも解さずにいるようであった。

「若いだなんて、もうー、このおませさん。さあさあ、みんなお待ちですよ。裕介さんが最後の一人だったんで、まもなく発車いたしますからね。」

「そうなんだ、じゃなくて。由美とは別になんでも、」

「あら、由美ちゃんって言うんですね。名前で呼ぶなんて深い仲なんですねー。その辺のこともお姉さんはじっくり聞いてあげますよー。」

 裕介は恵梨香の頭に細い角を、背中に申し訳のような黒い羽、臀部に先がスペードの形をした長い尻尾が見えたかも知れなかった。誰も語りたいとも言っていないのに彼女は拝聴の態勢を完全に整えている、本当に悪魔だったら祓えばいいことだが残念なことに相手はただの人であり、純度百%の興味のみが全面に押し出される始末に終えないタイプであった。

 結局何も言えないまま恵梨香に手を引っ張られて列車まで連れてこられる形となった。彼のある視点からすれば首に縄をかけられて引きずられてきた罪人の心境でもある。とはいえ真面目な話は恵梨香より桜などのほうが聞き分けてくれるのは間違いないという思いが裕介の歩みを止めさせていなかった。

「桜さーん、裕介さんが帰ってきましたよー!」

 列車に進入して開口一番、恵梨香は大声で桜を呼びつけた。大声過ぎたのか、桜が駆けつけると同時に雅志も彼の元へと駆け寄ってきた。

「祐介君!帰ってきたのか。」

「裕介さん!まったくどこへ行ってたんですか。連絡もぷっつりですし、ホテルにも顔を見せないで、無線機も繋がらないですし。みんな心配してたんですよ!」

「ご、ごめんなさい。ちょっと山奥に。」

 そういえば無線機など持たされていたのを今はっと思い出す。とはいえ鬱蒼とした山の中にいたためにそのような物は通じていなかったのだろう。

「山奥?」

「は、はい。ごめんなさい・・・」

 彼は、自分は早晩こうやってもう一度周りを心配させたことを自宅で糾弾されるんだろうなと思った。でもこの糾弾は自分が気にかけてもらえてる何よりの証拠だと思うと、今までほど苦にはならない思いである。

「まあ、無事に帰ってきてくれたんですし、良かったじゃないですか。」

 雅志が桜を窘めてくれる。

「それはそうなんですけど。万一の事があればって思うと、えっく。」

 桜は突然両手で目頭を押さえて顔を伏せた。これには裕介の罪悪感が大いに揺り動かされる。

「あ、あの・・・桜さん、ごめんなさい!」

 彼は深々と頭を垂れた。悟が行っていたのを過剰反応と評した、腰の角度が九十度になんなんとする深さである。悟の行為もあながち過ぎたものではなかったことが証明された。

「裕介さん、顔を上げてください・・・」

 桜の声に耳を傾け、彼は面を上げた。そこへ桜は、

「ばあーっ。」

 にわかに桜が裕介の前に笑顔を晒した、嘘泣きだ!裕介はころっと騙されていたようだ。

「酷いですよ、桜さん。僕、本当に申し訳ないって思ったのに。」

「ふふふ、ごめんなさい。でもこれでよく分かりましたよね。人を心配させちゃ駄目ですよ。」

 してやられたわけだった、桜は裕介より一枚も二枚も上手であった。

「ところで、僕、皆さんに言いたいことがあるんです。」

 裕介は表情に真剣さを取り入れて桜、恵梨香、それに雅志を前にして襟を正した。

「お願いします!僕を今すぐ元の街に帰して下さい!」

「いきなりどうしちゃったんですか、裕介さん。忘れ物?」

 恵梨香の単純過ぎる確認が入る。

「違うんです、恵梨香さん。僕、僕・・・帰ってすぐやらないといけないことができたんです、いや分かったんです。」

 三人を見つめる少年の目は真剣であり本気であり真摯でもあった。

「そうか、今やっておかないとならないことを見つけたんだね。」

 そう言う雅志の目は優しかった。この目はいつか何処かで自分を見てくれたような記憶を感じる。

「そうですか・・・分かりました。短い間でしたがご乗車ありがとうございます。またのご乗車をお待ちしてますね。」

 桜が右手をこめかみに当て、彼を送り出す敬礼の形を取った。

「えー、もうお別れなんですか?あたしもっとこの子と旅がしたかったですぅ。」

「恵・梨・香・さん。」

「はあーい。」

 桜に諭され、恵梨香も彼に対して敬礼をした途端、彼の視界は眩くも柔らかい光に包まれ、瞼がどんどんと重くなっていくのを感じた。視界の中の三人が光と共に徐々に遠ざかって行く。

「どうだ、裕介。いい経験になっただろ?」

 雅志の声であったように思う、だがやけに水気を無くした声として裕介の耳には届いた。遠ざかる三人の姿の中で雅志の顔がだんだん老い、自分の見知った顔になってく。

「おじい・・・ちゃん?」

 裕介がつぶやいた時、彼等の姿と柔らかな光はぱっと一瞬大きく輝いたかと思うとふっと消え去り、彼の瞼も完全に閉じた。


 次の瞬間裕介が目を開けた時、視界に入ったのは天井であった。しかもほぼ毎日必ず見ているほど目新しさに欠けるそれ、つまりは自室の天井だった。そして彼はベッドの中に寝巻姿でいた自分に気付く。

「夢?今のって・・全部夢だったの?」

 それは夢にしてもいつになく長い、長い夢でありまたアンリアルな話ながらリアルに情景や人物を思い描いていたものだった。彼は暫く夢と現実の間の現にあり、先程まで自分の意識があった世界のことをよくよく思い出していく。唇にも指を当てる、経験したことのない行為なのに、そこに残った感触ははっきりと覚えていた。

「あれだけ色々あったのに結局そこなのか。」

 裕介は笑った。夢と思われる中でさんざスケベと言われていたが、第一に思い出すのが唇の記憶では仕方ない、むしろ当然だという結論に至ったから。

 それにしても最後に見えたのは確かに祖父の顔だった。夢だったのかもしれないが、夢ならそれは祖父が見せてくれたラストメッセージ?やはり非科学的、非現実的な話に変わりはない。でもそれならそれでもいいかもしれない、正しいと思った方を思えばいいんだからと裕介は前向きに考えられていた。少なくともこの思考パターンの変化は夢ではない、そして彼はそっとつぶやく。

「ありがとう、おじいちゃん・・・」

 はっと裕介はまず自分が行うべき事を思い出す。彼の所に行かねば!とまず今が何月何日何時何分なのかを確認したく、携帯を持って居間へと下りて行った。既に家の中に人の気配はない、多分平日で午前中だと予想して居間のテレビを付けると朝のワイドショーなどを放送していた。画面内のセットに仕込まれたカレンダーを見るとまだ夏休み初日であることが確認できた。どこからが現実でどこからが夢なのか夢でないのかまるで分らなかったが、やるべきことが今すぐできるであろうとは認識した。彼は着替えてすぐ取るものも取りあえずに家を後にした。

 目的地に着くまでずっと走っていた裕介は、目的の家の前で息を整えていた。山道で息を切らせた思い出が克明に残ってはいるが、舗装された道路を10分ほど走るでもやはり息は切らせている。

 よくあのような山道を走ることができたものだと改めて思う、夢なのかもしれないがその時の体力消費は実際に走ったように体に染みていた。

 汗を拭い、息をある程度まで整えられた裕介は息を一つ深く吸い込み、吐き出した後に家のチャイムを押した。

「司でーす!」

 チャイムの後に、家の中へ聞こえる様に名乗りを上げた。すぐにどたどたと急いた聞こえ方をする足音がやって来る。そしてドアが開いた。

「裕介!」

 ドアを開けた主は孝志であった、ここは彼の家である。

「司くん。」

 更に家の中には先客がいた、千章であった。他の誰でもない、彼にもこの一件では二人の間に立ってくれて気を揉んでもらった恩がある。共に並んでいてくれたほうが都合がいいかもしれない、意を決して裕介は頭を下に振った。

「ごめんね、二人とも!」

「すまなかった!」

 最初の謝罪は裕介からであった。やはり悟から学んだ角度九十度を誇る礼で深々と頭を下げて謝罪の念を現したのだが、間髪を置かずに彼の前からも謝罪の言葉が聞こえてきた。孝志もまた同様に頭を下げていたのだ、裕介のそれよりは浅い角度で。

 孝志の声に気付いた裕介は顔を上げて、彼もまた頭を下げている状態であることを目視できた。

「な、なんだよ伊東君。」

「いやなあ、俺もちょっと言い過ぎたと思っててさあ、いつか謝ろう謝ろうとは思ってたんだけど、いよいよお前が家まで押しかけてきたから、いい機会だし先に謝っとけって思ったら、お前先に謝るんだもんなあ。」

「だって、下らないことで腹を立てたのは僕だから、謝るなら僕の方だよ。」

「いや、俺も。」

「僕だって。」

「まあまあまあまあまあ。またここで喧嘩する気かい?とにかくまず家に入った入った。」

「おいおい千章、ここは俺ん家だぞ。」

 間に割って入った千章に水を入れられ一旦心を座らせられた二人。

「そうだっけ、まあ細かいことは後々。」

 千章が案内する形で孝志と裕介は玄関を上がっていった。三人ともそれぞれの家に何度となく上がり込んでいるだけに勝手知ったるものではある。

 孝志の部屋にて膝を向けて座りあった三人、まずは中立という立場上、千章が開会の宣言を行う。

「で、裕介は謝りに来たんだよな。」

「うん、伊東君には下らないことで八つ当たりしちゃったし。千章くんにもその後で僕らの間に狭まって嫌な思いをさせちゃったからね、ごめん。」

 畳に手をついて、改めて裕介は二人に詫びを入れた。少なくとも裕介本人はこれで肩の荷を下ろして気が晴れていた。

「じゃ、そういう事でいいね。な、伊東君。まあ君も売り言葉を買ったんだから、ついでに謝ってるのも買えばいいじゃないか。」

「ま、まあそういうこと・・・なのかな。」

 一方的に謝られるのも腰が落ち着かない気分ではあるが、これで八方丸く収まる話ならそれでいいと、孝志も素直に応じることにした。

「はいはい、よかったよかった、。これでまたみんな元の鞘だね。」

「うん、また遊んでよ。」

「当然っ。」

 やおら立ち上がって片膝付いて眼鏡に手をかけ、千章はポーズを決めつつそう言った。二人は彼の決めポーズがおかしくて笑いを零し、これで先日までの険悪さは手打ちとされた。

「さて、と。じゃあ司くん、どうしてあの日の朝、佐藤さんが君を無視したか教えてあげようか?」

「どうして山本君、そんなこと知ってるの?」

「それはまあ、今日の日の最終兵器というかね。」

「ああコイツな、俺と裕介が仲直りできなかったらその理由を教える代わりに仲直りさせるつもりで佐藤に聞きに行ってくれてさ。」

「策士だな、でもそこまでしてくれてありがとう。」

 いい友を持ったと裕介は思う、友のために無償で苦手な人に接してくれるなどとは莫逆の友故の為せる技だ。

「せっかくだし、このままじゃあ二学期にも香と会いにくいし教えてくれる?」

「いいよ、百万円な。」

「ケチっ。」

 三人はまた笑っていた。

「それは冗談として、聞いて驚け。実はね・・・」

 千章は数秒の沈黙を頂いた後、再び口を動かした。

「日直だったけど家出るのが遅くて慌ててただけだってさ。」

「えー!!」

 孝志も裕介も、その場で綺麗に後ろにひっくり返った。事実を知れば知るほど、何を怒って何故ずっと悶々たる思いを抱えていたのかほとほと呆れてしまう。

「な、だから君達が喧嘩する意味なんてなかったんだよ。」

「ホントだな、バカバカしいったりゃありゃしない。」

「お恥ずかしいったらありゃしないよ、ははは。」

「でもなあ、僕が聞きに行った時、佐藤さん変だったんだよな。」

「何が?」

 数日前の自分の愚かさにひっくり返ったまま、裕介達は耳だけを千章に向ける失礼な態度で聞き返した。

「やたらと素直だったんだよなあ。聞きたいことは全部ちゃんと言ってくれたし。」

「あの佐藤が?珍しいなあ。」

 男子に接する態度が冷淡なことこの上ない香のいつにない態度は三人が疑問符を持つだけの興味に満ち足りた話題となった。

「他に何か言ってたの?」

「他?ああ、そうだ。あいつらには絶対言っておいてって言ってたっけ。」

「あいつらって、伊東君と僕かな?」

「そうだね、それ以外には考えられないはずだし。誤解されたままじゃ寝覚めが悪かったのかな?」

「香のせいで僕らが喧嘩してるのが嫌だったってことかな。まだ良い所あるのかも?」

「おやおや先生、今日は佐藤さんの肩を持ちますか?」

 千章がまた眼鏡の奥の瞳が見えない角度でにやけだした。裕介が真っ赤になって必死の反論を繰り広げるのが面白くて期待する顔だ。だが裕介の反応は千章の期待の対極に向かった。

「まあね。」

 祐介の薄い反応に千章は拍子が抜けた。代わって孝志がそこに切り込む。

「今日は反応薄いなあ、どうした?みゆきちから佐藤に鞍替えしたのか?」

「鞍替えって人聞き悪いなあ。うーん、しいて言うなら両方と要領良く仲良くしたい、とかかな?」

 数日前までは男女の機微に子供のような反応しかできなかった裕介の口から飛び出た、冗談とも半分本気とも思える発言は二人を呆気に取らせた。次の瞬間、二人は体が本能に任され動く。孝志が裕介の首にヘッドロックをかけ、千章が両のこめかみを拳でぐりぐりと詰っていた。

「裕介のくせに何言ってんだ、生意気だぞ。一人くらい分けろって。」

「そうそう、何があったか知らないけど調子に乗りすぎ。」

「痛たたたたた、ギブギブ!」

 すっかりいつもの三人の調子に戻ったようで、かけた方もかけられた方も笑いながら暴れていた。ただ、丁度この時を見計らったかのようにお茶菓子を持ってきた孝志の母親が息子の暴力沙汰を目の当たりにしたと大いに勘違いし、かけられた方も含めてお説教の時間に変わったのは全くの計算外であった。


 夏休み初日の淡かったり苦かったりする日もカレンダーの向こうに過ぎ去った8月のある日曜、朝から旅支度で家を出る裕介の姿があった。そして玄関には彼を見送る両親がいた。今日は珍しく二人とも休みであった、親子の団欒をと誰かが思っていたのかもしれないが息子には先約があったためにその思いは陽の目を浴びることは今日はなかった。

「行ってきまーす!」

「行ってらっしゃい、車に気を付けるのよ。」

「わかってるって。」

「たっぷり楽しんでこい。」

「勿論だよ、父さんこそゆっくりしといてよ。じゃ!」

 裕介は元気の有り余る鉄砲玉のように飛び出して行った。そして息子を見送る夫婦には安心感が先行していた。

「元気になったわね、あの子。」

「ああ、何があったのか分からんが憑き物が取れたように見違えたな。」

「あら、そういう事は父親のあなたがしっかり見てあげないといけないんじゃなくて?」

「だってなあ、あの年頃の男はどう接していいんだか分らなくて。」

「言い訳はよろしい。あの年頃って言いますけど、ずっと腫れ物に触るようにしてて、もう何年もろくに遊びに連れて行ってもあげてないのはどこのどちら様?」

「うっ・・・反省します。」

 父親の方は母親に簡単に言いくるめられてぐうの音も上げられなかった。

「よろしい。にしてもあの子、本当に何があったのかしら?」

「親父が亡くなった時は本当にどうしたらいいのか分からないくらい落ち込んでいたからなあ。あいつは親父に本当に懐いていただけに。立ち直ってくれて何よりだ。」

「だから父親のあなたがそこは、」

「ハイ!しっかりいたしますです。」

 父親としては息子に見られたくない力関係であった。立ち直ってくれたこと以上にこの場に裕介がもういない事は彼にとって救いとなっている。

「まあ、あの年頃の男がけろっと明るくなるといえば・・・彼女でもできたか?」

「まあっ、あの子に?」

 嬉しく思いつつ、こないだまで世の中の不幸は全部自分に襲いかかると思い込んでいたような息子に女を口説く甲斐性も、言い寄ってくる物好きも期待していなかった母親は内心否定の面持があった。息子も母をしてこのような思われ方をしてると知るのは悲しい物があろう。

「ああ、俺の昔を思い出すと、そのくらいしか思いつかんな。んっ?」

 一言二言喋り過ぎた父親は自爆している事に気付かず、妻の興味に満ち満ちた視線を受けている事に気付いた。

「へえ~、じゃあ今日はあなたの若き日の甘酸っぱい思い出についてたーっぷり語ってもらいましょうか。」

「え?俺はこの後また寝るんだけど・・・おい、ちょっと、こら、待てって!」

 夫は自己主張を一切聞いてもらえず、妻に居間へと引きずり込まれていく。この後真っ赤な顔で妻に昔の恋話を逐一語らされる辺り、この父にしてあの息子があったと言えなくもない。

 当の息子はというと、父の辱めも聞こえぬ所まで孝志、千章とアウトドアハイキングを楽しみに来ていた。そこでは渓流釣りや木登りで二人が目を剥く様な大活躍で彼の新たな一面を見せていた。

「凄いな裕介。まさか十年付き合ってて今更こんな特技で驚かされるとは思わなかったよ。」

「そ、そう?えへへ。」

「そうだよ、一人でバケツ一杯も釣ってるなんてもう異常。」

「異常はないだろ、異常は~。」

 口ではおちゃらけつつも自らのできる事で注目される快楽を存分に浴び有頂天と言ってもいい状態になっていた。しかし好事魔多し、調子に乗っていると思いも寄らぬ伏兵に足元をすくわれるものである。

 一旦釣りの仕掛けを川面から引き上げた時、足がもつれて仕掛けの先を踏んづけてしまった。大いにバランスを崩した裕介はそのまま、自らが川面にダイブをぶちかました。あまりに大きな水しぶきと音に全員が振り返った時は既に遅し。

「お、おい裕介!」

「大丈夫?!」

「ガボッ!だ、大丈夫、みたい。」

 川からひょっこりと顔を上げた裕介は無事ではあったが、頭の天辺からつま先まで水滴を纏っていた。無事と分かるや、調子に乗っていた報いとばかりに心配で集まってきたはずの全員から笑いが零れた。そして皆が笑ってる顔を見ていると、裕介までもがおかしくなってきて、ずぶ濡れの顔のまま大笑いをしでかしていた。

 こんな時、昔なら拗ねていじけているような裕介をよく知る孝志と千章は大笑いしつつも、いい方に人が変わった裕介を見ては成長を見続けてきた親の気分を疑似体験するのだった。


 そして時は流れ、二学期が訪れた---


 今日もいつもの登校と同じく最後に家を出た裕介は、いつも通りに途中で孝志、千章と連れ立って投稿する。そこで級友たちにこれまでとは違う彼の像を見せつけていた。

「おはようっ。」

 裕介は通学途上に前方に見かけたクラスメイトに歩速を上げてまで挨拶をしに向かった。

「おはよう・・・えっ、司くん?」

「司くん、今俺等に挨拶したの?えーっ!今日、世界滅亡?」

 驚いたのはクラスメイト達だった。一学期までの彼ときたら自発的には挨拶しない、挨拶されれば気の抜けた生返事を返してくるという絵に描いたような暗さが彼の常だった、だった筈。そんな彼から駆け寄られてまで挨拶されてくるとは、天変地異の前触れを感じずにはいられない級友達であった。

「失礼だなー、僕が話しかけたくらいで地球が終わったら、今まで一億回は地球爆発してるよ。」

「だってさあ・・・夏休みに人が変わるやつっているらしいけど、目の前でまるで変わったやつを見るのはなかなかないって。」

「そうかな?そんなに変わった?」

 クラスメイト達は頭をぶんぶんと縦に振りまくった。本人としては変わった意識はあるのは間違いないのだが、周囲の認識は自分の思う意識より相当の上積みを乗せて返却してくれるのだ、それは夏休み明けのだらけた脳だから計る事ができないでいるというわけでもない。

「そうだなあ、三日坊主にならなきゃいいね。」

「四日坊主までは頑張るよ。」

 休み中もよく顔を合わせていたことで免疫が十分に形成されていた孝志と千章は後ろからゆっくりと歩いており、裕介の変わりように驚く級友たちを眺めて楽しむという阿漕な愉しみに身を委ねていた。

「やれやれ、挨拶されたくらいであの驚かれようじゃ、今日一日で何人びっくりさせることになるんだろうね。」

「さあ?教室の全員と今日授業のある先生全員は固いんじゃねえの。」

 そんな二人には美味しい餌が目に止まった。裕介の歩む先に香が女友達と共に登校する姿があった。それは当然裕介もすぐに知るところとなり、二人の期待が吸い寄せるように裕介が香の元へと駆け寄る。

「おーいっ、香っ。」

 自分を後ろから駆け足で呼び止めてくる声はすぐに誰だか判別できた。しかし彼がぽんと肩を叩いてくる積極性までは判別の内にはなく、香は少し虚を突かれた。

「な、何よ。二学期初登校早々やるって言うの?」

 虚は突かれながらも戦闘体制まですぐに立て直したの即応性は軍人でも舌を巻いたであろう。一緒にいた女友達はすわ開戦!の匂いを敏感に嗅ぎ分けてすすすっと二人から距離を保つようにした。一方、相手の武器が自分を捉えているのを承知しながらも裕介は続ける。

「ううん、山本君から一学期の最後の方の日直こと聞いたよ。わざわざありがとう。」

 狙いを定めていた砲門が発射のタイミングを逃し、空しく得物を下げる音が聞こえたようだった。

「別に、そんなこと大したことじゃないわよ。変な誤解されてたら寝覚めが悪いでしょ、それだけのことよ。」

 夏休み初日に裕介が適当に予想した内容と同じ発言が香の口から繰り返された。

「それでも、ありがとう!」

 憎たらしい口を聞いたつもりなのにそれでも明るい笑顔を返してくる裕介に香は戸惑う。結局一学期の別れ際が、香を一人教室に残された状態にして裕介が逃げ出した時になってしまったので香はほんの少しだけながら心配の念を抱いていたが、彼の様子を見るにつけ杞憂であったことを確認した。

(調子狂うわね・・・)

 などと言いたげなのだが、彼女にしてもこの間までの彼より今、眼の前にいる彼の方が人間的に好意的になれる雰囲気を出しているためそのような台詞が言い出せずにいた。

「じゃあまた後で、また美味しいご飯も作ってよ。」

 言い残して裕介は女友達の方にも「じゃあ」と手を上げ、孝志と千章の方に戻って行った。

 この時、裕介には香と由美の混同が見られた様である。裕介としても美味しいご飯を作ってくれたのは由美であると理解していたが、つい口走った上に混同には気付かずにいた。片や彼の事情を推すにも情報が不足しがちの香には何の事だか分らずにいた。記憶層を数瞬であちこち弄った結果、しいて言うなら小さい頃の『ままごと』で夫役の裕介に泥団子を出した、という程度がようやく掘り下げられたに過ぎない。

 ここで香の希望的観測という名の深読みがなされた。小さい頃の思い出を語って、また一緒に仲良くして欲しいと彼は巧みでもない比喩を用いて和解を求めているのかもしれない、きっとそうなのだろう、間違いない。一瞬で予測は願望を追い抜いて確定へと昇華された。そう思うと自然に口元が緩んでくる。

「あれれれれ?佐藤ちゃん、なんだか嬉しがってるみたいね?」

 開戦ならずと見て安心して戻ってきた女友達が敏感にも彼女の表情の変化に気づいた。

「ち、違うわよ。これは、ええ、調子を狂わされたから変なところがこそばゆくなった、そう、そうなの。」

 まるで自分に言い聞かせるように女友達に抗弁する香。

「ふぅん。でも司くん、明るくなったわね。」

「うん、それは認める。どうしたのかしら?まあ根暗よりはいいんだけね。」

 彼に何があったかは知らなくても、子供の頃のように自分と打ち解けて話をしてくれることは素直に嬉しく、そう思うとやはり口元が自然と綻んでくる。

「あれ?やっぱり笑ってるじゃない、ひょっとして佐藤ちゃんって、やっぱり・・・」

 女友達は何かを悟ったような目で香を見つめてきた、瞳の奥からは興味という名の魔物がいつでも飛びかからんとしているのを香ははっきりと感じる。魔物を飼っていると評された側は、もしかしたら本気で嫌っていたかも?という風で介入し難かったかつての交戦状態が一転、雪解けを見たことで新たに面白み溢れる話の種を入手した喜びを拾った。

「何よ?ほら、ねえ、さっさと学校行くわよ、遅刻しちゃうじゃない。」

 香は足を早めた。遅刻どころか後ろにも登校する生徒が大勢おり十分に時間内に到着するというのに急いだことで、いよいよ女友達の悪戯心に火が付いた。

「もー佐藤ちゃんったら、図星突いちゃったなら謝るわよー。」

「図星じゃないっ!もうっ、バカァ!」

 振り返りざまに女友達へと表面上は強気に出る香もまた、頬は桃くらいに赤らめていた。すると振り返った先、ついさっき自分が歩んでいた所を、友の所に戻ろうとしていた裕介と学校への歩みを進めていた美幸が鉢合わせる場面が目に入る。

 運命の女神が女友達のように悪戯心にか弱い火を灯らせたのだろうか。彼の前方からは親友の好奇の視線が二対、後方からは悪友の興味とも猜疑とも付かない視線を一対、計6つの眼から行動を凝視されていた。

「おはよう、みゆきちさん。」

 渾名で呼びたかった筈が、今までが苗字にさん付けという距離感をいきなり急接近させるのも未だくすぶる気恥ずかしさが大事な所でつい露出してしまった結果、渾名にさん付けという独特で歪つな呼び方になってしまった。

「は、はい。おはよう、司くん・・・どうかしたの?」

 呼ばれたことのない呼び名と、今までろくにまともな会話を交わしたことのない相手に呼ばれた事実の双方に戸惑いを見せる美幸。

「うん、別に用があるわけじゃないんだけど。」

「ええ・・・」

「二学期もよろしくね。それだけ、じゃ、また。」

「え、ええ。またね。」

 前後からの圧力に屈したわけではないが、呆気無いほど簡潔に二人の会話は終わった。裕介は後方で特等席よろしく彼の行く末を楽しんでいた親友達の元へと戻り、また首を絞められていた。

「なんだよ、あれで終わりかよ。どっちとも付き合いたいなんて大口叩いてたのはどうしたんだ、『みゆきちさん』なんてどこの誰だっての。」

「痛たた、声大きいよ伊東君。仲良くしたいとは言ったけど付き合いたいってまでは言ってないって。」

「似たようなものじゃないか、もう少し僕らを楽しませてくれると思ったんだけどなあ、期待しすぎたかな?まだ前の裕介っぽいところが残ってて安心したくもなるけど。」

「別に君達の期待でやってるわけじゃ、痛た。」

「言い訳はいいんだよ、このこのっ。」

 三人の馬鹿な騒ぎようを目で追っていた香も美幸も笑みを浮かべていた。何も変わらない周囲だが、自分が変わった事で全員が笑顔になっているのは首の締められように苦しみ藻掻く裕介にも気持ちが良かった。

 学校の方へと向いて歩みを再開せんとした美幸の前に香が足を戻していた。

「おはよう、美幸。」

「おはよう、佐藤さん。今日は朝から楽しい物が見られたね。」

「ええ。あのね、美幸。一つ言っていいかしら。」

「いいわよ、何かしら?」

「わたし・・・負けないからね。」

 笑いながら自分の言いたいことだけを告げて、香は待たせていた女友達と一緒に登校を再開した。美幸には何か勝負でもしていたかと首を傾げたが、まあいいかとばかり自分も再び歩みを進めだした。

 男三人組はそのようなことになってようとは露知らずに裕介をいびることに全神経を集中させて馬鹿をやっていた。


 なんだか面白い学校生活が待っていそうだ、彼等は皆そのような思いで久しぶりの校門を潜って行く。

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星で想いを 桜庭聡 @sakuraba00

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