ドキュメンタリー「地雷」

氷喰数舞

地雷について

 地雷の侵略が起きている。

 もう少し詳しく言うと、地雷の意味そのものが侵略を受けている。踏むと爆発するものがふと目を離した隙に自爆装置と化しており、埋められる場所も地中を飛び出し世界を飛び出し、人々の心の中に巣食うに飽き足らず、次元が一つ下がり平面上の存在となったりしている。


「地雷は誰の心の中にもある」と、ある経験者は語る。「地雷」撲滅キャンペーンが功を奏したか、今や地中の存在ではなくなっていると言う。誰もが肌身離さず持ち歩き、もはやペースメーカーのようでもある、とも。


「誰かが持っている、ではなくなっていて、今ではもう誰もが持っていて、大半の人々はそのことに気づいていません。自分が地雷を抱えていることに気づかない人が多いのです」


 本来、地中に埋めて地上の敵を攻撃する兵器としての意味を確立していた地雷は、今もなお肉体的苦痛をもたらす兵器としての立ち位置を獲得してはいるものの、ある地域ではそうした文化がそもそも無く、その影響か、当該地域において、地雷は精神的苦痛をもたらす「現象」として語られている。ある物事に対して不快感を抱いたり、嫌悪感を持ったりすることに気づくと、人はその物事が「地雷」であったと気づく。またそうするようになった瞬間そのものを「地雷を踏んだ」と呼び、自身の地雷を自覚するようにもなる。


「地雷を踏み抜くと人間関係に支障が生じます」と、「地雷」研究者は説明する。

「命や手足を失う、いわゆる肉体的損失と同じように、人間関係や思考などに代表される、精神的な損失を被る存在としても地雷達は猛威を振るっているのです」


「自分の中に新しく地雷が埋め込まれているのを確認しました」と、「地雷」による被害者は悲愴の表情を浮かべる。自身の身体に新たな地雷を発見したならばまだ良い方で、最悪の場合作動してようやく自身の中に地雷を確認するという場合もあるのだと言う。「私は「地雷」によって友人を失いました。……勿論「亡くした」という意味ではないんですが、人間関係としての友人はもう命を落としたと言ってもいいのでしょうね。私のほんの些細な一言が、彼女の「地雷」を作動させてしまったのだと思うと、悔やんでも悔やみきれません」。力強く語るその目には涙が浮かんでいた。


 本来の地雷は一旦爆発すると消滅する。しかし今回その定義を脅かしている「地雷」にはおよそ回数制限というものが存在せず、何度作動して爆発してもその都度、ある意味澄まし顔で悠々と爆心地に立っている。作動の仕方も多岐に渡り、自分自身で作動させてしまう人間から、心無い人間による加害的な作動まで、被害の種類もまた多い。


「地雷」は本来の意味の通り、何処に埋められているか、という情報を得ることができない。数歩歩いた先に。数行読んだ先に。数コマ見たその先に。数秒聴いたその先に。文字、絵、音、あるいは物語そのものに「地雷」が作動するスイッチが無数に点在・混在している状況である。

 基本的に「地雷」は作動スイッチとセットで埋められており、それは心の中にも、物事そのものにも存在している。最初に取り上げた撲滅キャンペーン参加者は「心の中にある」と話していた。そして物事そのものにも存在しているという見解も一方では述べられている。「地雷」がそのどちらに埋められているのか、という疑問に対してはまだ誰も明確な解答を出せていない。

 いずれにせよ、「地雷」は作動してようやく存在が明らかになるものであり、尚且つそれを公表しなければ地雷の存在を知ることは不可能である。経験則によって「地雷」及び作動スイッチの存在を予測することはできても、当人の趣味趣向がその存在を認めないこともあり、しばしば葛藤が生じる。葛藤の末に、曖昧ながらも一応は予測できていた作動スイッチの位置が更に曖昧になり、回避できずに敢え無く作動してしまうこともしばしば起こっている。


 こうした状況に対して研究学会は「地雷」の明確な定義を公式に示すべきであるとの方針を発表した。

 しかし数多ある趣味趣向のどこに作動スイッチが隠れているか、また自身に埋められた地雷の特性(「地雷」にはある程度分類し得る種類が存在している)をどの程度知ることができるのかもまた重要な課題である。

「地雷」に関する定義付けの議論は度々起こっており、しかしながらその議論が収束の一途を辿った記録は無い。上に書いた通り「人の心と物事、そのどちらに「地雷」が存在しているとするのが正しいのか?」という問題も議論されているが、これもまた同じ一途を辿っている。

 議論の度に葛藤が起こり、混乱を極める。これは毎度起きている。そしてその間にも「地雷」は本来の定義から外れるだけに留まらず、元の定義を侵略し続けている。

 また、学会の中には、物事を作り出す「作り手」にも「地雷」の責任があると主張する一派も存在している。

「物事を作るということは、同時に「地雷」を作っていることにも等しい行為である。「作る」ということが崇高な行為であることに反論はない。しかしそこには必ず「地雷」を作動させてしまい精神的苦痛を被った「受け手」も存在するし、これからそういった被害者を生み出す危険性も潜んでいる。そのことに対する、ある程度の責任を負っているのだという自覚を持ってもらいたい」と熱のこもった論を説いていた。こうした「作り手の責任」論に賛同する研究者もまた、学会には多数在籍している。

 しかし彼らもまた、「地雷」による被害者を減らしたいという気持ちは変わらない。一刻も早く、一人でも良いから「地雷」による被害を減らしたいという意志は、学会全体に共通する理念でもあるのだ。




 ここからは筆者の個人的な見解を述べることとする。

 個人的な結論としては、「この議論が終わることはまずもって無い。「地雷」が定義を侵略し尽くすまで永遠に続く」とだけ。

「地雷」はその意味の派生を今尚生み続けている。鼠算式に増えているとの見解もある。

 主流としては「物語」に棲息していたが、ここ最近ではどうやら文体においても「地雷」の存在が確認されているようだ。「物語」に棲息する「地雷」に関してはここでは省略させてもらうが、「文体」に関する分析の途中経過としては、文中の誤字、脱字、衍字、加えて単語の誤用、さらに文章としての体裁(代表して言うならば三点リーダや「?」、「!」の使用法則等)において確認されている。

 本来こうした、所謂「誤植」に対する表現には「地雷」ではなく他の言葉が適用されていた。例を挙げるならば「違和感」である。それ以外では、例えば誤植に対する所感を文章として述べるに留まっていた。例としては、不快であることを表明したりする方法である。しかし、そうした所感を文章に書き表すのは一般的には難しいこととされている。個人の語彙の問題は勿論あるだろう。しかしそれよりも、ある種の宇宙的恐怖にも似た、言葉では到底表現できないような混沌とした想いが「地雷」による被害によってもたらされるのである。そうした感情を「不快感」「違和感」という一言ではとても片付けられない人間は一定数存在している。これは「物語」に存在する「地雷」でも同じである。許容範囲を超えた感情を、そうした一言では片付けられない問題がいつも存在している。そんな問題に手を差し伸べたのが皮肉にも「地雷」という存在だったのである。感情としての「地雷」がこうして台頭していき、言葉では表現できないものが「地雷」という現象として顕現し、爆発的にその存在は広まって、半ば病原体にも似たそれは人々の心の一部を占有してしまったのだ。


「地雷」の表明は損失の回避に大いに貢献する。その表明があるからこそ、どこに地雷が埋められているのか、ある程度の予測ができる。こう書いてしまうと上記の「予測不可能」の内容と一見矛盾するように思われるかもしれないが、現代技術はやはりそれなりに進化しているもので、AIが自身の「地雷」を分析、そして予測し警告する技術も開発されているようだ。

 そして、俗に言われる「検索避け」もまた、「地雷」作動を食い止める自衛手段として成り立ってはいる。しかしこれには、ある物事に対する「地雷」を持っていない人間が、物事に辿り着けない、という課題も残されている。


「誤植」に話を戻すと、最終的には「誤植」そのものに反応して作動する「地雷」が、思考の中に存在している可能性がある、と説明できる。心とは思考の賜物である。


「地雷は誰の心の中にも存在する」という撲滅キャンペーン参加者の言葉を借りて、当記事を締めさせて頂く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドキュメンタリー「地雷」 氷喰数舞 @slsweep0775

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ