曖昧な関係

 合奏の翌日から私は猛練習を始めた。ソロの練習もしたいけれど、まずは曲全体についていけないと話にならない。


 私のクラリネットの腕前は、現役時代には完全に戻ったと思う。ここからはさらに上を目指すだけだ。


 コットンにはまだ技術力では敵わない。それならば、努力で補うのみだ!


 オズ楽器店のお客さんがいない時を狙ってとにかく練習を繰り返す。できない部分をできるまで、何度でも。地味な作業だけれど、何度でもやれば必ずできると信じて。


 合奏でのコットンの音は覚えていた。一人で練習していた時に比べれば、見本があるのは練習の助けになる。コットンの音を思い出しながら、まずはそれと同じように演奏できるよう、反復練習を繰り返す。


 こんなに必死に何かに打ち込んだのはいつぶりだろうか。仕事でもこんなに必死になったことはなかった。


 高校生の時のオーディション前などは、これくらいは練習していた。朝早く起きて朝練、授業中も譜面をこっそり見て指だけで練習、早弁して昼休みは丸々練習。そのくらい必死でやらないと、コンクールには出られなかった。


 そう思えば、私がこうしていつも必死になるのは吹奏楽に対してだけだ。好きだからこそ頑張れるところもあると思う。前世の私も、無理だと思う前にプロになるために挑戦すればよかったのに。


 そうして一人で練習していると、仕事の合間にアルフレッドも練習に付き合ってくれる。アルフレッドの指摘も、オズ楽器店で働き始めた頃は厳しいものだと思ったけれど、今ではただただありがたい。わからないところを質問すれば的確に返してくれるアルフレッドには感謝だ。


 それだけじゃなくて、アルフレッドも時々トランペットを練習する姿も見られた。普段は自主練しているところはほとんど見ないのに、もしかして私に触発されていたりするだろうか。


 二人で練習しているとオズ楽器店は私達の音に包まれる。時々、お客さんが来ても気が付かないことがあるくらいだ。それについては、職務放棄になりかねないので本当に申し訳ないと思う。


 その日も閉店後にも少し練習をさせてもらってから、またアルフレッドに家まで送ってもらっている。


「あー、ほっぺが痛いー」


 練習のしすぎで口の周りが痛い。そうやって喚いていると、どれどれ、と言いながらアルフレッドが私の頬をぐりぐりと押してきた。


「あー痛いー! でも、気持ちいいー!」

「変態みたいな発言すんな」


 アルフレッドはそう笑いながら、私の頬を押し続ける。アルフレッドへの想いを意識してから余計に、こうやって触れられるとドキドキしてしまう。頬が赤くなってしまっていると思うのだけど、それはマッサージで血行がよくなったから、ということにしておきたい。


 それに、アルフレッドは最近ますます私に触れる頻度が増えてきた気がする。聖夜祭のあのキスがきっかけなのだろうか。


 思い出すとますます身体が熱くなってくる。アルフレッドの気持ちを直接聞いたわけではないけれど、自惚れてもいいんだよね?


「……何だよ」


 いつの間にかじっと見つめていたらしい。アルフレッドは照れたような顔をしている。


 いっその事「私はアルフレッドのことが好きなんだけど、アルフレッドはどう思ってる?」って聞いてみた方がいいんだろうか? でも、それってやっぱり勇気がいる。


「えいっ」


 私は思い切ってアルフレッドの腕に抱きついてみた。これが私の今の精一杯の勇気だ。


 「やめろよ!」って言われるかと思ったけれど、特に反応はない。ん? と思って見上げると、私を見ていたアルフレッドと目が合った。


 自分で抱きついておきながら、なんだかすごく恥ずかしい。だけど、離れたくはないんだよね……。


 下を向くと、アルフレッドが足を止めて反対側の手で私の顎に触れた。そのままクイッと上を向かされると、すぐ間近にアルフレッドの顔がある。


 あ──


 初めての時は驚きすぎて目を閉じることも忘れてしまったけれど、今回はアルフレッドの顔が近づいてくるのに合わせて目を閉じた。


 柔らかな唇が私の唇と合わさって、何度か角度を変えて口づけられる。痺れるような感覚で頭にモヤがかかってくるみたい。アルフレッドの腕にしがみついていなかったら、倒れてしまっていたかもしれないくらいだ。


 何度かのキスの後、アルフレッドが私から離れる。間近で目が合って、今度はガシガシと乱暴に頭を撫でられた。


「行くぞ」

「……うん」


 気がつけば道の真ん中でキスをしていたんだ。誰もいなかったから良かったけれど、恥ずかしい。


 心臓がドキドキして苦しいくらいだ。だけど、同じくらい嬉しくて、私はアルフレッドの腕に手を絡めたまま家まで帰ったのだった。




 それから数日後。オズ楽器店で店番の合間にソロの練習をしていると、カミーユがお店に顔を出した。


「こんにちは」

「こんにちは、カミーユ。でも、ごめんなさい、今アルフレッドは出かけているの」


 アルフレッドはちょうど休憩でお昼を食べに行ってしまったところだ。


「近所の食堂にいると思うけど」

「ああ、いいよ。頼んでいた譜面を取りに来ただけだから」

「譜面ね。ちょっと待ってて」


 私は店の奥からカミーユが頼んでいた譜面を取って戻ってくる。


「お待たせ。これだよね?」

「……うん、ありがとう」


 カミーユは長い指で譜面をめくって確認してから笑顔を見せた。


「さっきの、ソロの練習?」

「ああ……もしかして聴こえた?」

「まあね」


 別に恥ずかしいことではないのだけれど、カミーユに聴かれていたかと思うと少し照れる。


「挑戦するんだ?」

「そのつもり」

「そうか」


 カミーユは椅子に座って微笑む。


「僕は贔屓はしない。公平に判断する」

「わかってる」

「でも、頑張って」

「……ありがとう」


 楽団を率いる指揮者からの言葉はとても嬉しい。私はそれを素直に受け取る。


「クラリネットのソロはトランペットソロの直後だもんね」

「? ええ、そうだけど……」

「アルフレッドから引き継ぐソロなんて、最高だよね」


 カミーユは目を細めて眩しそうに笑う。


「……上手いものね」

「もちろんまだトランペットのソロがアルフレッドに決まったわけじゃないけど」


 そうは言うけれど、トランペットの中でアルフレッドの技術は群を抜いている。きっとアルフレッドがソロを吹くことになるだろうと思う。


「そういえば、聖夜祭はどうだったの?」


 カミーユはしばらくお店に居座るつもりなのか、カウンターに身を預けてニコニコと尋ねてきた。


「あー、えーっと」


 ここでキスをされたことを思い出すと顔が熱くなってきてしまう。それで何かを察したのか「へー、そっか。良かったね」などと、ニヤニヤと笑われてしまう。非常に恥ずかしい状況だ。


「じゃあ二人は晴れて付き合い始めたってことだね」

「うーん、それは……」


 この前も帰り道にキスをされたし、両想いだということはたぶん間違いないのだと思う。だけど、正式に「付き合おう」って言われたわけではないので、彼女と名乗っていいのか自信はなかった。


「何、もしかしてはっきりと言われてはないの?」


 付き合いの長いカミーユだからこそ悟ったのだろう。珍しく眉を寄せて聞かれた。嘘も付けなくて、


「うん」


 と、肯定したら、


「まったく、アルフレッドは」


 と、カミーユはため息をついた。


「アルフレッドが自分から好意を寄せたのはシエラが初めてだから、そういうところダメだなぁ」

「……自分から?」


 カミーユが何気なく零した一言が気になる。それを聞き返してみると、カミーユはしまった、と言ったように口を塞いだ。だけど、もう遅い。


「アルフレッドって誰かから告白されたことあるの?」


 アルフレッドは格好いいのだから、そういうことがあっても当たり前だと思う。とは言っても、やっぱり心がざわつくのは仕方のないことだ。


 カミーユは「あー、これアルフレッドに怒られるわ……」と、悩んでいる様子だったが、気になってしまったからには私は知りたい。「教えて!」と、目で訴えると観念したように話してくれた。


「実は、昔アルフレッドはメアリーと付き合っていたことがあったんだ」

「メアリーさんと!?」


 メアリーと言えばオーボエ吹きで木管リーダーでもある美女だ。二人が並んでいるところはまるで美しい絵画を見ているかのように完璧な美男美女でつい見とれてしまう。その二人が──


「もう二年くらい前のことになるかな。しばらく付き合っていたけど結局アルフレッドがメアリーを振ったっていう話だ。僕も詳しくは聞いていないけど」


 そういえばカミーユは長年メアリーに片想いをしていると言っていた。


「じゃあ、メアリーさんがカミーユからの聖夜祭の誘いを断っているのって……」

「それが関係しているだろうね」


 カミーユは眉尻を下げて少し寂しそうに笑う。アルフレッドから振ったということは、もしかしなくてもメアリーはまだ好きだったりするのだろうか。


 自分とメアリーの容姿では雲泥の差があると思う。と、いうか、メアリーは美女で私は可愛い系だ。性格だってメアリーは落ち着いているし私は真逆にいると思う。


 私でいいんだろうか──


 そう思いかけた私に、


「アルフレッドはもう何とも思っていないし、あまり気にしないで」


 と、心を読んだかのようにカミーユはフォローを入れてくれた。




 カミーユが帰ってから程なくしてアルフレッドが戻ってきた。顔を見るとどうしてもさっきの話を思い出す。アルフレッドに直接メアリーとのことを聞きたいけれど、何処で聞いたのか説明もできないし、そもそも聞いていいのかもわからない。


 私がアルフレッドの彼女だと自信が持てたなら聞けるかもしれないけれど、関係性は曖昧だ。もし、アルフレッドが私と付き合っているつもりがなかったなら、そこまで立ち入って聞いていいのかわからない。


「……何だよお前」


 声をかけられて我に返ると、アルフレッドがすぐ側にいた。


「何って……」

「さっきまで何ともなかったのに、何で突然そんな暗い顔してんだ」

「え……」


 顔に出していただろうか。ペタペタと自分の顔を触っていると、


「わかりやすいんだよ、お前」


 と、言われてしまう。


「で? 何があった?」

「えっと……」


 なんて聞こう? アルフレッドを見上げる。言葉は乱暴だけど優しいまなざしのアルフレッドなら、尋ねたら答えてくれるだろうとは思う。だけど──


「アルフレッドって……」


 私のこと好き?


 そう尋ねようとして言葉に詰まる。もし「好きじゃない」って言われたら……。そう思っただけで胸がズキズキと痛む。脳裏にお似合いな美男美女アルフレッドとメアリーが並んで立っているところが浮かんだ。


「……ちょっとソロが上手くいかなくて」


 誤魔化せたどうかはわからないけれど、それだけ言って目線を逸した。


「ふーん?」


 アルフレッドはしばらく間を空けてから、


「一度一緒に合わせてみるか?」


 と、聞いてくれた。ドカッと椅子に座ったアルフレッドは私を見上げる。アルフレッドは返事を待つことなく、


「ほら、さっさと準備しろ」


 と、言った。


「うん!」


 アルフレッドとソロを合わせるのは初めてだ。メアリーとのことも気になるけれど、それよりも合わせてみたい気持ちの方が上回る。私もすぐにアルフレッドの前に座った。


「よし、行くぞ」


 目の前のアルフレッドが背筋を伸ばして楽器を構える。そして、ソロを吹き始めた。


 改めて目の前で聴くとすごい衝撃だ──


 音が私に向けて襲ってくる。出だしははっきりと、だんだんと音が小さく優しくなってきてトランペットのソロは終わった。そのトランペット最後の音がクラリネットソロの出だしの合図だ。


 アルフレッドから優しく受け渡された音を損なわないように、私も優しくメロディを奏でる。優しい中にも強弱をつけて、歌うように演奏した。


 こうやって通して演奏すると、その切ないメロディはまるで愛を歌うよう。アルフレッドに向けて、私の──


 ソロが終わって目の前のアルフレッドを見ると、アルフレッドは心なしか驚いた顔をしていた。


「? 何か変だった?」


 不安になってそう尋ねると、


「あ? いや……」


 と、言いながら、アルフレッドは何度か瞬きをしている。


「うん、問題ねえんじゃないか?」

「?」


 アルフレッドには何度も練習を見てもらってきたけれど、いつも「音が汚い」「リズムが合ってない」などとダメ出しをされるのが普通だ。だから、てっきり今回も何か指摘が来ると思ったんだけど──


「良かった、ってこと?」

「ん? あー、まぁ、特に問題は見当たらなかったな」


 とってもわかりにくいけど、ダメ出しはされないみたい。と、いうことは、褒めてる?


「これなら別に悩む必要もないだろ」

「そうかな?」


 アルフレッドにそこまで言われると嬉しい。私は少し気持ちを軽くして微笑むことができた。

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