もう一つ、乗り越えなければいけないこと
髪の毛を切ったことで心も軽くなった気がする私は、明日の謝罪に向けて気合を入れながら家に帰った。そのことで頭がいっぱいだったので、もう一つの問題については頭からすっかり抜けてしまっていた。
「ただい……」
「きゃー!!!」
家に帰った私を見てお母様が悲鳴を上げる。バランスを崩したお母様を、既に家に帰ってきていたお父様が支えた。
「シエラ……その髪の毛は」
「あ」
髪の毛は女の命。跡継ぎのために結婚するはずだった私の髪の毛が短くなってしまったことは、両親にとって重大な問題だったのだ。
「あ、あの、ごめんなさ……」
「シエラ、こっちに」
流石に厳しい顔のお父様が私をリビングへと促す。お父様は気を失いかかっているお母様を寝室に運び込んでからリビングに戻ってきた。
「シエラとは今日話をしないといけないと思っていた。だが、まさかここまでするとは」
「あ、あの……」
「今日、軍関係者から話を聞いた。シエラが王立吹奏楽団に入ったようだ、と」
「あ」
いつか話さなくてはならないと思いながら隠してきた入団。それが、軍関係者から漏れてしまっていたとは。
考えてみれば当たり前だ。ウィドウ商会はこの町で有名な会社なのだから、すぐに話しが回るだろう。そこまで考えついていなかったことを私は悔やんだ。だけど、今悔やんでももう遅い。
「ごめんなさい、お父様。私は王立吹奏楽団に入団いたしました」
「オズ楽器店で働き始めたと聞いた時からおかしいと思ってはいたんだ。シエラがクラリネットを好きだったことは知っていたが、私達がきつく言ってやめさせた。すまないとは思ったが、シエラもウィドウ家の一員として理解してくれていると、そう信じていた。本当はオズ楽器店で働くことも許したくはなかったのだが、あの事件の後だ。少しの間は自由にさせようと思った。そこまでの無茶はしないだろうと信じて。だが、それが間違いだったようだ」
「お父様……」
私がシエラになってからのお父様はいつも優しく穏やかな人だった。だけど、今の表情はまったく違う。私に向けて激しく怒っている。
「それに、その髪は何だ。王立吹奏楽団でクラリネットを吹きたいがために、シエラがそこまでするとはな」
「これは違うんです!」
「言い訳はいい」
お父様はぴしゃりと私の言葉を封じる。
「縁談も決まりかけていたのに、どうするつもりだ? これでは結婚などできない」
「どちらにしろ、私と結婚したいと考える男性なんて……」
「たくさんいるさ。ウィドウ商会を欲する人間は山ほどいる。だが、その髪の毛では……」
憎々しげに私の髪の毛を見た。短いことがそんなに悪いことなのだろうか。アルフレッドは私の髪の毛を見て「悪くない」と、言ってくれた。そういう人だっているのに。
お父様の話を聞いて、ただただ申し訳ないと思っていた私もだんだんと腹が立ってきた。優しいと思っていたお父様だったけれど、所詮は私を跡継ぎを探すための駒としか考えていなかったように思ってしまう。
シエラのクラリネットを吹きたいという想いさえ押さえつけて、そこまでして守りたいものなのだろうか。シエラはそのせいで死んでしまったというのに。
悔しくて涙が滲む。だけど、泣きたくなくて、私はぐっと目に力を込めた。
「しばらく外出禁止だ。もちろん王立吹奏楽団もやめてもらう。髪の毛はウィッグを取り寄せて、どうにか……」
「いい加減にしてよ!」
私はバンッと強く机を叩いて立ち上がる。
「自分の人生は自分で決める! 私はお父様の言いなりになったりなんてしない!」
「シエラ!」
「家を出ていきます! 跡継ぎを探したいのなら、どうか別の方を養子にでももらってください! 私を駒としか見ない家にはもういたくない!」
「!?」
お父様は驚きで目を見開いた。たぶん、私がこうして反抗するとは思ってもみなかったのだろう。シエラも、外では傍若無人な振る舞いをしながら、家で反抗したことはなかったのかもしれない。
「さようなら!」
「シエラ!」
お父様の叫び声を聞きながら、私は家を飛び出した。
飛び出したはいいものの、行くあてもない私はとぼとぼと街を彷徨っていた。怒りは時間と共に収まり、やり場のない悔しさだけが私の中に残っている。
日本での私は家のために自分のやりたいことを諦めるなんて考えられなかった。両親も私の希望を尊重して、田舎から都会に一人暮らしをすることを応援してくれた。
それなのに、シエラの父はどうだろう。自分の家を第一に考え、娘の気持ちなど二の次に思える。それが、シエラが自殺することに繋がったのだ。
ほんのひと時会っただけのシエラのことを思い出す。なんて辛い想いをしていきたのだろう。やるせなくて、涙が滲む。
と、ふと、背後の足音が気になった。涙を拭って周囲を確認すると、人の姿は見えない。ただ、一定の距離を保って後ろから足音が聞こえるだけだ。
いつの間にか辺りは暗い。私はアルフレッドが毎日家まで送ってくれていたことを思い出した。
そうだ、一人で歩いたら危ないんだ……
途端に寒気がする。もし、後ろを歩く人が悪い人で、私が狙われているのだとしたら。
怖くなって、私は思い切り走り出した。幸いにも、できる日にはランニングをしてきたので、シエラとして生まれ変わった時よりはこの身体にも体力がついたと思う。
私は必死に走る。無意識にいつもの道を走っていたのだろう、いつの間にかオズ楽器店の近くにいた。
行くあてはそこしかない。恐怖が私の足を動かす。私は街中を駆け抜けると、オズ楽器店の暗くなった戸を叩いた。
「アルフレッド! アルフレッド!」
アルフレッドはここに住んでいると聞いていたが、私の声が聞こえるかどうかはわからない。それでも、私は必死に戸を叩いた。
「お願い……」
ここでオズ楽器店に入ることができなかったら、私は──
「シエラ?」
突然背後から声がかかって、ビクリと肩を震わせながら振り返ると、そこには買い物袋を持ったアルフレッドが立っていた。
「アルフレッド!」
初めは怖いとさえ思ったその顔を見ると一気に安心する。私はこんなにもアルフレッドに会いたかったのだと自覚した。
「お前、どうし……」
「アルフレッド!」
「うわっ!」
私は思い切りアルフレッドに抱きつく。アルフレッドの温かさに涙が滲む。
「会えて良かった……アルフレッド……!」
「と、とりあえず中に入るぞ」
アルフレッドに促されて、ここが外だったことを思い出す。子供じゃないんだし、外で抱きついているのを誰かに見られたら恥ずかしい。
「ご、ごめん」
私がアルフレッドから離れようとすると、アルフレッドは空いた手で私の腰に触れて引き寄せた。そのままの状態で器用に鍵を開けると、私と一緒に店の中に雪崩れ込むように入った。
アルフレッドはそのままの状態で店を通り抜けて、私を二階へと誘う。小さな台所の奥に一部屋あり、ベッドもあることからアルフレッドがここで暮らしていることがわかった。
私はアルフレッドと並んでベッドに座り、
「それで、どうした?」
と、尋ねられた。腰が抱かれたままなので、非常に距離が近い。狭い部屋のベッドの上であることもあって、流石にどきまぎしてしまう。
だけど、アルフレッドの表情から私のことを心配してくれていることがわかって、私は頭を切り替えて今までのことを説明した。
「そうだったのか……」
話を聞くと、アルフレッドはふーっと息を吐き出した。潜められた眉から、アルフレッドも私の両親に怒ってくれていることがわかって、私の気持ちは幾分落ち着いていた。
「それでもお前は王立吹奏楽団をやめるつもりはないんだろ?」
「それはもちろんだよ! ウィドウ家と縁を切ってでも続ける!」
私がそう言い切ると、アルフレッドは目を細めて私の頭を撫でた。そんな風に優しくされると、収まっていた熱が再び戻ってくる。短くなった髪の毛が私の首筋をくすぐった。
「王立吹奏楽団は王家のもの。いくらお前の父親にだって手出しはできねえさ」
「本当? 嫌がらせとかされない?」
「大丈夫だよ」
アルフレッドの手が下りてきて私の頬を撫でる。さらにくすぐったいし、恥ずかしいしで私の頬は真っ赤になっている気がした。
「知っての通りオズ楽器店はウィドウ商会とは何の関わりもないし、楽団の公演は国からの依頼がほとんどだから減る心配もねえ。だから、お前は何も心配しなくていい」
「私をやめさせるよう、圧力をかけてくるかもしれないよ?」
「お前の父親だって、流石に王家に口を出すわけにはいかねえさ。大丈夫だから、安心しろ」
間近でアルフレッドの整った顔を見続けるのは非常に恥ずかしい。私は目を伏せて頷いた。
「ありがとう」
「だけど、住む場所はどうする? あてはあるか?」
「それは……」
そうだった。新たな問題に私は困惑する。私には友達もいないし、頼れる人など思いつかない。
「どこか、雨風しのげる公園とかないかな?」
「……は?」
私の出した答えはホームレスだった。
「お金を貯めて家を借りるまでは、外で……」
「お前はバカか」
アルフレッドに額を軽く小突かれる。
「そんなん危ねえだろうが。却下だ」
「ですよね……」
さっきみたいな怖い目に合うのも嫌だし。それなら、うーん、どうしよう。
「……狭いが、ここで良ければ」
「え?」
アルフレッドは少し躊躇うような仕草を見せてから、
「泊めてやるよ」
と、言った。何だか色っぽくすら感じる低い声に私はぞくぞくしてしまう。一つの部屋に男女が寝泊まりすることを考えるとどんどん顔が熱くなって湯気が出てしまいそうだ。
「心配しなくても俺はそこのソファで寝るから」
アルフレッドが差した場所には茶色の革張りのソファが置いてある。
「い、いやいや。家主をソファで寝かせるわけには……」
「女をソファで寝かせるわけにもいかねえだろ」
「でも……」
「こういう時はお前が折れるもんだぞ」
そう少し困った顔で言われると、これ以上断るのは悪い気がしてしまう。
「だけど、本当にいいの? お店で働かせてくれるだけじゃなく、家まで……。それに、いつまで続くかわからないのに」
「気にせず甘えときゃいいんだよ」
アルフレッドにむにっと頬を摘まれる。
「それに、俺は楽器をやりたいのにできないやつを見放したりしたくねえ。楽団員全員だと思うが、楽器を吹きたい気持ちはわかるから」
「アルフレッド……」
アルフレッドの優しい顔を見ていると心が温まってきた。私はそれでも少し迷ったが、たしかにどうしてもクラリネットを吹き続けたい。一人では限界があることは明白だった。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「ああ」
ようやく折れた私にアルフレッドは再び笑顔を向けた。その笑顔を見たら、たまらなく胸が締め付けられて、どうしようもなくなった。
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