新生活は前途多難?
それから数日。私の身体は何ともないように思えるのに、心配症な母親によってベッドに寝かされ続けた。
シエラになったという自分の状況はわかるものの、この世界のことや出会う人物のことは何もわからない。ちんぷんかんぷんなことを言い出す私を医者は記憶喪失だと診断した。それは私にとっても好都合だった。
シエラ・ウィドウは17歳らしい。日本での私は26歳だったから、10歳近くも若返ったことになる。
この国のシステムがどうなっているかはまだわからないけれど、シエラは学校には通っていないようだ。……もしかして、ニート? まさかね。
両親にシエラのことをいろいろ尋ねたけれど、他のことはあまり詳しく教えてくれない。随分と長く眠っていたらしいので、あまりたくさんの情報を詰め込んで混乱させたくないと言う。疑問を感じながらも、両親がそう言うならしょうがないと納得する。
自分の部屋に閉じ込められた状態の私は母親の目を盗んでシエラの部屋を物色した。豪華なクローゼットの中にはきらびやかなドレスやバック、アクセサリーが所狭しと並んでいる。これだけ集めるのに相当なお金を使ったんじゃないだろうか。私だったらこんなにあってもすべてを着回すことができない気がする。
そんな女の子らしい部屋の中に不釣り合いな黒いケースを見つけたのは捜索2日目のことだった。「これだ!」と、直感的に思い、ドキドキしながらケースを開けると……予感は的中。クラリネットだ。
黒い縦長の木に銀のキーが複雑に配置されている木管楽器。日本で慣れ親しんだものと同じクラリネットがしっかりとケースに収まっていた。
私自身、クラリネットと再会するのは久しぶりのことだ。高鳴る胸を抑えてそっと楽器を持ち上げる。しかし、私はすぐにそのクラリネットの様子が芳しくないことに気がついた。
黒いはずの木は僅かにカビて白くなり、キーを押してみると上手く押すことのできないところがある。シエラは親に楽器をやめさせられたと言っていたので、しばらく放置していたのだろう。ここで吹くわけにいかないので確かめることはできないが、これは修理が必要な気がする。
修理をするには楽器屋さんに行かなくてはならない。楽器の存在する世界に楽器屋さんがないとは思えないが、家から一歩も出たことのない私にはその場所がわからなかった。親に聞けば止められるのは目に見えているし、どうにか自分で探し出すしかないだろう。
ベッドからようやく抜け出すことができたのは目覚めてから一週間程が経った頃のことだった。とにかく一人で外へ出たい私はシエラが「わがままは何でもきいてくれる両親」だと言っていたことを思い出して、早速おねだりしてみる。
「ねえ、お父様、お母様」
シエラがそう呼んでいたのを真似てみる。自分の両親をそんな風に呼ぶなんてなんだかむず痒い。だけど、きちんとした紳士と淑女の身なりをしている両親には、たしかにその呼び方が似合うとも思った。
「どうしたの、シエラ?」
「私、買い物に行きたいの!」
ニコリと笑って可愛らしくわがままを言ったつもりだったのだけど、両親は何故か私を見て固まる。あれ、私何かおかしなことを言ってしまっただろうか?
「ねえ、街に出てもいいでしょう?」
「それなら私も着いていくわ」
お母様がこわばった顔を無理やり笑顔に変えてそう提案してきた。だけど、私はそれでは困る。
「いいえ、お母様。私一人で行くわ」
「駄目よ!」
予想外にお母様から強い否定の声が出た。キツイ声を出した本人であるお母様も、そんな声を出すつもりはなかったらしい。ハッとした顔で口を手で抑えた。
「ごめんなさい、シエラ。私ったら……」
「シエラ、お母さんと一緒に行ってきたらいいじゃないか」
動揺した様子のお母様に代わってお父様が私にそう言う。何だかおかしい。この二人、何故こんなに怯えているの?
「いいえ、お父様。私は記憶喪失になってしまったし、思い出すためにも一人で街を見てきたいの」
「思い出す必要なんてないわ!」
また何か地雷を踏んでしまったらしい。お母様がヒステリックにそう叫んだ。
「まぁまぁ、ミレイ」
お父様はそうお母様を呼んで宥める。お母様の名前はミレイと言うのだと、私はそこで初めて知った。私はまだそんなことも知らないのだ。
「お父さんとお母さんはシエラのことを心配しているんだよ」
「わかっています」
二人のことを考えれば、このまま言われた通りに過ごすのが賢明なのだろう。だけど、それでは私はいつまで経ってもクラリネットを修理に出せず、シエラとの約束も守れない。
「どうか、よろしくね」シエラは最後にそう言った。寂しそうに見えたあの時のシエラの顔が私を奮い立たせる。
「だけど、私なら大丈夫です。心配しないで? 私は早く元のように元気になりたいだけなの。ずっと家の中にこもっていたら、だんだん元気がなくなっていくような気がして……」
「シエラ……」
両親の表情が陰った。本当にシエラのことを心配しているのだと思うと胸が痛い。私はもうシエラではないのだから。
「少しづつ、無理はしないから。ね、お父様、お母様。許してくださるでしょう?」
「……本当に少しづつだよ?」
「! お父様、ありがとうございます!」
どうやら本当にこの両親は私に甘いらしい。日本の私の両親なら「ダメなものはダメ!」と、何を言っても聞いてくれない気がするから。
「あまり遠くには行かないこと。そうだね、まずは外出時間は一時間だ。一時間で帰ってきてくれなかったら、もう外には出さないよ?」
「わかりました、お父様」
どこに楽器屋さんがあるかわからないので、徒歩一時間の範囲にあるのかは不明だ。だけど、ひとまず捜索範囲を片道30分圏内に絞るのは、店を探すには有効な手立てだとも思った。
「必ず約束は守ります」
私を心から心配してくれる両親に私はそう誓った。
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