シエラとの出会い

 気がつけば真っ白な世界にいた。見渡す限りの白い世界の中で、私は自分の記憶を手繰り寄せる。


 私は日本で生まれ育った、明るさだけが取り柄の26歳の社会人、独身の女だ。それがどうしてこんな場所にいるんだっけ?


 考えていると一つの映像を思い出す。そう、あれは仕事を終えて疲れて帰宅しようとしていた時。


 ぼんやりとしていた私に明るいライトが当たった。眩しい、と目を腕で覆ったと同時に身体に強い衝撃が走る。キキーッと、いうブレーキの音を頭のどこかで聞きながら私は意識を手放した。


 それが私の最後の記憶。そうか、私は死んだのかもしれない。


 自分の死を悟っても私は至って冷静だった。ああ、そっか、死んじゃったのか。こんなに早く死ぬとは思っていなかったからびっくりだ。それくらい。


 だけど、しばらく真っ白な世界で自分の人生を振り返っていると、一つの強い後悔に襲われる。死ぬ間際、どうせ照らされるなら車のライトじゃなくて別の光に照らされたかった。


 舞台の上で50人程のメンバーで一つの曲を懸命に演奏する。ライトが熱く照らす中、私は音楽の一部としてクラリネットを懸命に吹く。曲が終わった時の高揚感。


 眩い光の中心でたくさんの拍手に包まれる。あの世界にもう一度戻りたい。


 考えだしたら止まらなくなってしまった。中学、高校時代は吹奏楽をやるために生きているようなものだった。それが何故、私は楽器を辞めてしまったのだろう。仕事の忙しさにかまけて「いつかまたやりたい」くらいにしか思っていなかった。死んでこんなに後悔するのなら、生きている内にもう一度始めればよかったのに。


 ああ、神様。もしそこにいるのなら、私の願いを叶えてください。


 私にもう一度吹奏楽でクラリネットを吹かせてください。


 その願いが叶うなら、今度はクラリネットを手放したりなんてしない。今度死んだ時には「未練なんてありません!」と、胸を張れるくらい、一生吹奏楽でクラリネットを吹いて生ききってみせるから──


 真っ白な世界で私はそう何度も願った。それで気がついたら目の前に一人の女の子が立っていたのだ。


「誰……?」


 私は声を出して尋ねた。目の前の女の子は真っ白い肌に長い亜麻色の髪の毛、つり上がったルビーのように輝く瞳が印象的だ。そのお人形みたいな女の子はどう見ても日本人ではない。それなのに私は動揺していたのだろう、日本語で話しかけていた。


「私はシエラ・ウィドウ」


 ところが、不思議なことに女の子が喋った言葉を私は理解することができる。日本語でも英語でもない聞いたことのない言葉なのに、私にははっきりと伝わってくる。


「あなたも死んだのね」


 シエラは淡々とそう言った。そこには悲しみも哀れみもなく、ただ事実だけがある。


「あなたもってことは……シエラも死んだの?」

「正確には死んでいないけれど……そう思ってくれて構わないわ」


 シエラは意味深なことを言って目を伏せた。私よりも年下に見えるのに、シエラのその憂いを帯びた表情だけが見た目よりも大人っぽい。


「あなた、前世に未練があるんじゃない?」

「どうしてわかったの?」

「私は未練のある人を探していたの」


 よく通る声でそう言ったシエラはルビー色の瞳で私をしっかりと捉えた。


「あなた、私の代わりに私の人生を生きてもらえない?」

「!? どういうこと?」


 私にはシエラの言う意味がすぐに頭に入ってこない。シエラの代わりに生きるって──


「あなた、私よりも年上に見えるのに、物分りが悪いのね」


 シエラは苛立った様子で顔を歪める。


「私になって生きてみるつもりはないかって聞いてるの」

「私がシエラに憑依するってこと?」

「憑依……そうね、そういうことよ」


 腕を組んだシエラは頷く。目つきのキツさや発言、態度からなかなか良い性格をしているんじゃないかと推測された。黙っていれば儚げで可愛らしいのに。


 と、問題はそこじゃなくて。私がシエラになるって? そうしたらもう一度生きられるの?


「でも、私がシエラになったら、シエラはどうなるの?」

「私は……もういいの」


 シエラは先程見せたような影のある表情を見せる。


「私はもう死んだのよ」


 言っていることすべてが理解できるわけではないが、シエラにこれ以上尋ねても答えてもらえないような気がした。それならば、私がどう決断するか、だ。


「シエラはどこの国の人?」

「カイルベルトよ」

「かいる……ヨーロッパかどこか?」


 聞き覚えのない国名だ。私はあまり頭が良くないので、知らないだけなのかもしれない。しかし、その推測は外れる。


「たぶんあなたが住んでいた世界とは別の世界よ」

「別の……異世界ってことか」


 いっぺんにいろいろな出来事が起きている私はだんだん動じなくなってきた。死後の世界があり、お人形みたいな女の子が憑依させてくれると言う。それならば異世界だってあって不思議じゃない、と。


「あのね、シエラ。私、もし生まれ変わることができるなら、吹奏楽をやりたいの。クラリネットっていう楽器が吹きたい」

「クラリネット?」


 シエラの瞳が大きく見開かれた。


「なるほどね」


 その後、シエラは勝手に納得して頷く。


「あるわよ、クラリネットも吹奏楽も」

「! 本当に!?」


 まさか異世界に吹奏楽もクラリネットもあるなんて思ってもいなかった。シエラに憑依したら、私は再びクラリネットを吹くことができるとわかると、胸が高鳴る。


「だけど、これだけは言っておく。私の両親はクラリネットをやることに反対よ」

「え……どういうこと?」


 目の前が明るくなったと思ったのに、シエラは悪い情報を私にもたらした。


「私もクラリネットを吹いていたの」

「シエラも!?」

「ええ、楽器はちゃんと家に置いてある」

「それなのに吹くことができないの?」

「そう」


 シエラは辛そうな顔をして目を閉じる。長い睫毛が悲しげに揺れた。


「わがままは何でも聞いてくれる両親だけど、楽器だけはダメ。親は私をいい家に嫁がせるつもりだから」

「楽器をやっていたら結婚できないの?」

「できるけれど、私の世界で吹奏楽をやるためには王立吹奏楽団に入る必要があって、そこに入ったら厳しい練習が待っている。結婚して妻の仕事を完璧にこなしながら楽器を両立するのは不可能なのよ」

「そんな理由で……」


 辛そうなシエラを見ていると私まで辛くなってくる。


「もしかして、シエラもクラリネットを吹いていたかったの?」

「そう。もし、クラリネットを続けることができていれば、私が死ぬこともなかったでしょうね」


 目の前に立つシエラと私はまったく違う容姿でまったく違う境遇だけれど、これだけは同じなのだ。「もう一度吹奏楽でクラリネットを吹きたい」。その強い思いが私たちを引き合わせたんじゃないかと思った。


「私、やるわ」


 私が強く言うと、シエラが顔を上げた。


「その王立吹奏楽団? に入ればクラリネットが吹けるのよね?」

「……そうね」


 そう答えてくれたシエラの表情は固くこわばっている。


「大きなホールでだって演奏できるんでしょう? たくさんの人に演奏を聴いてもらえるんだよね?」

「ええ、そうよ」

「私の取り柄はめげないことなの。だから、シエラになって、クラリネットを吹いて生きてみせる!」


 私は力強くそう言う。シエラのこわばった表情がほぐれるといいと思いながら。


「そんなことできるかしら……。お父様とお母様は手強いわよ」

「それでも吹く! 私が二人分の未練を晴らすよ!」


 シエラの表情がふっと和らいだ。


「ありがとう。あなたが王立吹奏楽団でクラリネットを吹く姿、見守っているわ」




 ふわっと身体が持ち上がる感覚がする。シエラがどんどん遠くなっていく。


「シエラ……!」

「さようなら。どうか、よろしくね」


 そのシエラの言葉を最後に、私は意識を手放した。




 次に目が覚めると、そこは真っ白な世界ではなく、真っ白な天井が広がっていた。同じ白なのに現実味のある白だなぁ、などと変なことを考えていると、


「シエラ!?」


 と、言う甲高い声が聞こえる。声の方を見ると、亜麻色の髪の女性が呆然と私を見つめて立ち尽くしていた。


 その女性は私よりも年上のように見える。どちらかと言うと、お母さんの方が近いかな? それにしても、どこかで見たような……と、思い出そうとするのだけれど、その女性が目に涙を浮かべて私に駆け寄ってきたので、私の思考は中断を余儀なくされる。


「ああ、シエラ! 良かった……良かった!」


 シエラ? その女性が私をそう呼ぶのを聞いて、ようやく私は自分の状況を思い出した。そうだ、私はシエラになったのだ。


「気分はどう? すぐに医者を呼ぶわね!」


 この女性は恐らくシエラの母親なのだろう。取り乱した様子で慌ただしく部屋から出ていった。取り残された私はゆっくりと部屋を見渡す。


 可愛らしい家具が並ぶこの部屋は、まるで写真でしか見たことのないヨーロッパのよう。私が今寝ているベッドも、何と所謂お姫様ベッド。


「本当に私、シエラに憑依したんだ……」


 呟いた私の声も私のものではなくて、私は改めてシエラになったことを実感させられた。

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