償い

 高層ビルの9階で業務エレベーターを降りると、カエルは足早に制作部に向かった。

 社用車の鍵をキーボックスに戻しながら、先輩の使用してるだろう車の鍵があったはずの箇所と、空いたままの先輩の席に視線を走らせる。


「まだ戻ってないか」


 もしかして分室に戻る前に先輩に話を聞けるかもというカエルのわずかな望みはあっけなく潰えた。


「いっそこのままどこかで籠城でも決めこんで……」


 だいたい制作部が出社してくるのは午前10時過ぎから。この時間ならまだ人も少ない。あ、あの小さな会議室なんかどうだろう。静かで昼寝するにはもってこいだ。

 カエルはさもいいこと思いついたとでもいうふうにピョコピョコ跳ねると会議室へ向かった。――



 常軌を逸した言動も周りが当然のように話しているとさも普通のように聞こえるものだが――例えば『財布や家の鍵など貴重品を忘れるようになったら制作として一人前』とか(注・主に過労と睡眠不足によるもの)、『床で寝るようになったら女として終わり。せめて段ボールを敷いて寝てるって先輩は言ってたけどたいして変わらないよね。だから私は椅子を3つ横に繋げて寝てる』とか(注・カエルは椅子2つまでしか繋げたことはない)――カエルが入社してから耳にしたそういった話も、きっと昔話や落語にも通ずるユーモア精神で先輩諸氏が築き上げてきた苦境を跳ね返そうとする生きていく知恵だろう程度に思っていた。どれも面白おかしく話を盛っているだけだろうと――。



「よし。誰もいない」


 小会議室Aの扉を開けながらカエルは独り呟いた。

 そのまま明かりをつけようとして手探りで2歩3歩進み、グニャリと得体の知れないものを踏んづけたカエルは思わず声を上げた。


「うわあっ。何いまの。キモチわる」


 ビックリしたとき咄嗟に「きゃあ」と言えるかどうかは多分に女子力の求められるところであるが、心底驚いたカエルにそんな演技をする余裕などあろうはずもなかった。

 慌てて明かりをつけたカエルが目にしたのは、己の想像を何歩もとび越えた光景であった。


「……くっ……先を越された……」


 歯痒さに下唇を噛みながら思わず言葉を漏らしたカエルの眼前に、横たわるのは見知った制作部の男性。

 この人昨日も一昨日も同じ服着てたな。おそらく徹夜3日目か4日目といったところか。

 カエルは水かきを顎にあて、さも探偵のように考えるそぶりをしながら、横たわる男性を見つめた。


「…………」


 なんだか急に冷めるというのはカエルの長所でもあり短所でもあり、巷ではそういう現象を蛙化現象と呼ぶらしいと後に知ったが、カエルの場合それは恋愛に限ったことではなかった。結局のところ自分自身にいつも冷めているようなものなのだから。


「………。戻りますか。分室に」


 カエルは明かりを消して扉をそっと閉めると会議室の近くにある自販機に向かった。


「でもその前に……」


 制作部の自販機は大抵いつも体に良さげなドリンク系が軒並み売り切れているのだが――おそらく徹夜続きの体を少しでも労ろうとする精一杯の選択の積み重ね――この日は朝早かったこともあり、カエルは運よくお目当てのモノをゲットできたのだった。


「あ、野菜ジュース! ラッキー」

 

 無論、優しさより遊びを求めて不人気のおしるこのボタンを押そうか最後の最後まで葛藤したことは彼には秘密だ。

 カエルは小会議室Aの扉の前で肩掛けのポーチからなにやら大きめのメモパッドを取り出すと一心不乱に書き出した。


「おつかれ……キモチわるなんて言ってゴメ……」


 ぶつぶつ呟きながら書いていた手を一旦止めると、カエルは書きかけのメモパッドを勢いよく一枚めくり、もう一度最初から書き直した。

 

 会議室の扉を開くやテーブルの上に野菜ジュースをコトッと置いて、下に横たわる男性の額に、いつもより乱雑に擬態した字で書いたメモパッドをペチッと貼り付けるカエル。


〝押忍! おつかれ。踏んづけたりしてゴメンね。良かったらテーブルの上の野菜ジュースどうぞ♡♡♡〟


 もちろん送り主の名前は書かない。そんなことしたら自分が踏んづけた犯人だと名乗り出るようなものだ。もとより女性の少ない職場で、あれだけ猛々しい字ならばまずカエルが犯人だとは思われないだろう。


「ふぅ、上出来上出来~」


 一仕事終えた気分でスッキリしたのか颯爽と会議室を後にした呑気なカエルは、思いのほか軽い足取りで分室へと向かった。――



 断言するが、いつだって自由を求めるカエルは遊びが好きである。なんと言っても遊びには自由と愛が溢れている。なかには抜き差しならない状況でふざけるなんて不謹慎だと言う人もいたけれども。それは極限まで追い詰められたことのない人の台詞であることは容易に想像がつく。

 なぜなら歯車の見えるカエルは身をもって知っていた。見えない世界には真面目一筋では絶対に越えられない絶望の壁とでもいうべきものがあって、そのほんの最後の一瞬、生きるか死ぬか、命を投げださずにすむかどうかは、その人の執念深さ、そして悲劇を喜劇に変える力が己の中にどれだけ備わっているかにかかっているということを。ユーモアなしにたった独りであの壁を越えることなど到底できない。

 クローズアップで見れば悲劇だがロングショットで見れば喜劇だと言ったあの有名なコメディアンは、きっとその一歩引いて物事を見るという大事さを誰よりも知っていたのだろうと、カエルは思わずにはいられなかった。


「さてと。 もう一仕事、頑張りますか」


 カエルは大きく深呼吸すると、件の分室の扉を押し開けた。

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