嘘つきのパラドックス

『演出志望で入社してきたってことにしてあるからそこだけ話合わせといてくれる?』


 とてもそんな嘘はつけないと、カエルは到着するなりプロデューサーに抗議の電話を試みたが、案の定繋がることはなかった。

 こうなったら映画班から外される覚悟で監督に正直に告白するしかないとそこまで考えて初めて、カエルは自分が逃げ場のない絶望的な状況に追い込まれてることを初めて悟ったのだった。


「言ったところで……信じてもらえるんだろうか……こんなこと……」


 監督はどっちの言葉を信じるだろう。片や一緒に仕事で苦楽を共にした信頼する仕事のパートナー。片やその日会ったばかりの社会のことなどまだろくに知らない得体の知れない新人女子。カエルは思わずハンドルを強く握り締めた。

 

「演出志望なんだって?」


 助手席に乗り込むや憧れの監督は気さくにカエルに話し掛けた。その声音は驚くほど優しい。


「あ……いえ、その……」


「どんな映画が好きなの?」


「えっと……」


「ははは、リラックスリラックス。じゃあ小さい頃はどんなアニメ観てた?」


「えっと……そうですね……子どもの頃は――」


 あれこれ考えながら喋っているうちに――むしろあれこれありすぎて考えることすらままならなかったが――歯切れの悪いカエルはついに唯一のチャンスだった〝出会ってすぐにそれは嘘なんですと告白する〟タイミングを逃してしまった。

 時間がなかったから。覚えたての道だったから。憧れの監督と初対面でトークしながら安全運転しなきゃいけなかったから。そもそも気さくな上司を疑うなんて自分の方がおかしいんじゃないか、恩知らずにもほどがある。きっと何かの間違いじゃないか。確認さえできれば……。

 言い訳はいくつも浮かんだけれど、結局どれもカエル自身を納得させることはできなかった。なぜならカエルがこのとき後悔していたのはもっと根本的なこと。周りはどうでも、結局カエル自身が自分を信じてあげられなかったということなのだから。


『私はいままで自分のことを正直で潔い人間だと思っていたけれど。ちゃんちゃらおかしい。いざとなったら何もできない腰抜けじゃないか。都会まで出てきて、憧れの監督に嘘までついて、私いったい何してるんだろ……』


 まるで小川を逆流するように走る車の運転席で、なんとかハンドルを握り続けるカエルの脳裏に何度も繰り返した台詞がよぎった。


 客観的にみれば、そもそもそんな状況で瞬時に正常な判断を下すことの方が難しいのだが、このときのカエルは何も知らずにただただ自分を責め続けてしまったのだった。

 あのときのハムレットはきっとこんな気持ちだったろうと、カエルは何度思ったかわからない。


〝周りにどう思われようが、世界中が敵に見えようが、自分だけは自分の味方でいること〟


〝一見気さくな仮面を外さない人は公の場では手を出してこられないので何が何でも二人きりにはならないこと(注・上司の場合は逃げる一択)〟


 それさえできれば、もしかしたらカエルも心を病むまで孤独と罪悪感で自身を責め続けることもなかったかもしれない。

 実際、窮地に追い込まれたカエルには気づけなかっただろうが、見渡してみればけして独りぼっちではなかったのだから。――


「背、高いなあ……」


 分室下の路肩に車を停めて監督を見送りながら、カエルは思わず呟いた。


 カエルが都会に出て驚いたことはいくつかあるけれど――たとえば空気が違うとか、基本的に土がないとか、ラジオでどこの国かわからない暗号みたいな言葉じゃなく流行りの最新の曲が普通に聴けるとか、新人同士で食事の待ち合わせをして遅れてくる人の言い訳はだいたい「ごめん職質されてた」とか――中でもピンポイントで驚いたことと言えば、だいたい鬼才と呼ばれる監督は見上げるほど背が高いか逆に背が低いことが多かったということ(注・カエル調べ)。あの憧れの監督も例外ではなかった。

 




 たとえば誰かに「あのプロデューサーは嘘をついている」と告げようとして、結局最後まで言えなかったカエルがいるとする。


 どうしてカエルは機会があったにも関わらず、そのたった一行足らずの言葉を口にできなかったのか。


 もちろんその理由の中にはカエル自身の葛藤もあっただろう。


――憧れの監督に自分が嘘つきだったとバラすことになるから。


――自分可愛さに彼らの信頼関係を傷つけて、映画が見られなくなるような事態を避けたいのは何より自分だから。


――この世に良心のない人がいる限り、不意に足元すくわれたりしないよう先回って警戒できるのは何の実力もない新人のカエルではなく、彼らの思考回路を熟知しているあのプロデューサーであることは間違いないから。


 いろいろあるけれど、カエルにとって一番大きかったのはもっと客観的な理由。



〝誰かを嘘つきというならば、まずは自分自身が嘘つきでないことが前提条件である〟



 ということ。そうでなければ、自己言及のパラドックスに陥ってたちまちその人の言葉は信頼性を失ってしまうだろう。


 ただ屁理屈を言うならば、この心理的な構造を身をもって知っているカエルだからこそ言えることもある。

 この構造を応用すればそこまで罪悪感を感じずに公の場でも自分より立場が上の人に論理的に怒りをあらわすことも可能だと。


〝仮にも部下を守り育てる立場の上司が、それでは筋が通らないじゃありませんか。(人間として恥ずかしくないんですか?)〟


 といった具合に。最後の一文は心の内で呟くだけにしても。もし孤独な戦いを強いられてる人が何処かにいるなら、これぐらい強気に自分の心を守ってみても罰はあたらないのではないか。上司も部下もたまたまその役を演じて生きているにすぎない同じ人間なのだから。

 と、地下駐車場への道すがら、神様の分身のカエルはふてぶてしく考えたのだった。

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