追い討ち

「あ、カエルさん! いいところに」


 あるマンションの一角。カエルが分室の扉を押し開けるなり気さくに名前を呼んだのは誰だったろう。正直なところ、この時のことはカエルもはっきりとは覚えていなかった。日に日に歯車が勢いを増していたし、何しろ混乱していたというのが一番大きい。

 ただ唯一はっきり覚えていることと言えば、いつも偉い人――どこぞの編集長とかどこぞの社長とかどこぞのクリエイターとか――が来たときは人払いをして用もないのに人を近づけさせないプロデューサーが、どうしてその日は打ち合わせ中にもかかわらずやたら気さくにカエルにも話をふってくるのだろうと不思議に思ったことぐらいだろうか。

 偶然にしては出来すぎている。なんだか今日は〝誰か〟にとって都合良すぎることばかり起きるな。そんな違和感が、カエルの胸中に渦巻いていた。


「お呼びでしょうか?」


「こちら美術監督さん。熱風吹き荒れる砂漠からしばらく出向してくださることになったから」


「あ、はじめましてカエルと申します。えっと――」


「演出助手です」


 そう言ってカエルの背中をポンと軽く叩いて代弁してくれたのは誰だったろう。プロデューサーだったのか監督だったのか。やはり頭をフル回転させているときの記憶はかなり朦朧としている。


「演出志望なんですよ彼女」


「へぇ、そうなの? あ、そうだ。いまうちのスタジオでも新作つくってるんだけど今回は若手の監督が頑張っててさ。良かったら今度来たときにでも紹介するよ」


 思慮深くてジェントルマンな美術監督さんがそう言ってくれたのは、ひとえに演出志望(仮)のカエルのいい刺激になるだろうという優しい思いやりからだったろう。

 けれどもこのときのカエルの心の内を占めていたのはそんな明るい台詞ではなかった。


『ははは、これはキツイ。さっさと白状してしまえば私独りが嘘つきになるだけで済んだものを。私が不甲斐ないばっかりに』


 懐かしい台詞がカエルの脳裏をよぎった。

 

 後にカエルは美術班の制作進行(注・スケジュール管理など)も担当することになるのだが、それはつまり、入社して早々自分の所属する会社のみならずその業界最高峰の人たちにまで軒並み嘘をつくということにほかならなかった。――



 その日の午後。カエルは打ち合わせ途中で姿を消したプロデューサーをあらためて問い詰めるつもりで本社へ向かった。

 9階のエレベーターホールに現れるや誰かがカエルを呼び止める。


「あ、カエルさん久しぶり! そうそう、ついに演出志望になったんだって?」


「え、なぜそれを……」


 カエルに気さくに声をかけてくれたのは普段から何かと気にかけてくれていた心優しい〝役者〟さんだった。


「もうプロデューサーから聞いたよ~。いまからゴマすっておかなきゃ。早くいい演出家になって仕事沢山くださいよ~」


 そう笑顔でふざけながらおどけてみせた〝役者〟さんの優しさも、醜いカエルの心には刃物のように深く突き刺さるだけだった。

 笑顔で手を振った〝役者〟さんの後ろ姿を見つめながらカエルは独り呟く。


「このまま演出家になるべきか……住めば都と言いますし。いっそ現場が本格的に動き出す前に辞めてしまおうか。いまならまだ……あ、プロデューサー!」


「あ、おつかれ~」


「プロデューサー取り急ぎお伝えしたいことが」


「あ、そうそう。今日は送迎おつかれさま。ゴメンね急な話で」


「急すぎますよ!」


「ゴメンゴメン。まえに監督と一緒に仕事したいって言ってたからなんとか映画班にと思ったんだけど。もう制作はデスクが1人いるからあとは演出助手枠しか空いてなくてさ~。あ、ゴメン電話来ちゃった。じゃあスミマセンがよろしくね~」


「あ、ちょっとプロデューサー!」


 携帯片手に走り去るプロデューサーを呆然と見つめるカエルの脳裏に、突然いつかの映像がフラッシュバックした。確かあの時も制作部のエレベーターホールで偶然すれ違って……。


『あ、おつかれさまですプロデューサー』


『おつかれ~。あ、そうだ』


『なんでしょう?』


『あの監督と一緒に仕事したい?』


『え、一緒に? はい! それはもちろんですよ。ファンなんですから。どうしたんですか急に。あ、でも私〝役者〟志望ですし。ただの新人ですし。あまり関係ないですね』


『あぁ、いや、劇場映画経験者を探しててさ』


 カエルは痛む頭を抱えて苦悩しながらエレベーターホールにしゃがみこんだ。


「あの時私が……〝はい〟って……言ったから…………?」



 人の良心を信じて疑わないカエルの足枷になったのは、まぎれもなくその良心の呵責であった。

 客観的にみれば『そんな前から計算してたの? あのプロデューサー』とでも言いたいところではあるが。何しろこの頃のカエルは責任感がありすぎるくらいの良心を疑わない自己犠牲的な新人。

 人を唆すだけ唆してちゃっかり言質を取っておくのがプロデューサーの得意技のひとつだとは、思いもしないカエルであった。

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